第133回 上海クーデターはなぜ?/伏線としての南京事件(1927年)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果

蒋介石北伐広東軍政府
<継承する記事>
蒋介石北伐の開始(中山艦事件~上海クーデター)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

(※前段の記事がごちゃごちゃしていて理解しにくい、という方は、前段末の『本日のテーマ』の部分より読み進めてください)
前回の記事では、「中山艦事件」を経て見事中国国民党のNo.1にのぼりつめた蒋介石が、孫文の遺志を引き継ぎ、ついに「北伐」に着手したその足跡をたどってみました。

登場人物が多すぎて、またその舞台も目まぐるしく変遷するので、全体像を把握するためには、本当に時間がかかる時代だと思います。
共産党員と国民党左派たちによって国民党を乗っ取られ、「武漢国民政府」まで樹立されてしまった蒋介石ですが、この後「上海」に攻め込み、上海にいた共産党や左派勢力を一掃してしまいます。

また一方で、北洋政府側では、張作霖相手にクーデターを仕掛けた馮玉祥が数か月で戦場から逃亡し、ソ連に渡ります。
先に述べておきますと、蒋介石と馮玉祥は後々合流します。

前回記事後段冒頭で、私は以下の様に掲載しています。

【前回記事より引用】
今回の記事を記そうとしていろいろ調べていたのですが、つくづく思い知らされたのが、「共産主義」という「思想」に感化された勢力の、その『残虐性』です。

後、過去にまでわたってそのかかわりを見ていたのですが、余りにも目まぐるしく変化する情勢に、正直脳が沸きそうでした。

例えばロシアだって、元々「共産主義」でったわけではありませんし、中国もまたそうです。
蒋介石は、薄々その危険性を感じ取っていたのでしょう。

今回テーマとする「中山艦事件」にしても「上海クーデター」にしても、いまいちその全体像、何が真実であるのかという部分が見えてきにくい事件です。

元々は蒋介石が孫文に代わって行おうとした「北伐」の全体像をこの記事で記そうとしたのですが、これはどうもそれほど容易いものではなさそうです。

蒋介石と馮玉祥との合流に関して、蒋介石がソ連に不信感を抱いた理由の一つとして、ソ連が国民党政府だけでなく、北洋政府に対しても武器の支援を行っていた、ということ。
そのきっかけを作ったのが馮玉祥であり、この時点で「赤(共産勢力)」であったはずの馮玉祥と、共産主義を毛嫌いしているはずの蒋介石が、一体なぜ合流するに至ったのか、という疑問を私はまず抱きました。

蒋と馮が合流するのは今回のテーマの一つでもある「上海クーデター」の後なのですが、Wikiを呼んでいると、以下のような件(くだり)が登場します。

【Wiki(馮玉祥のページ)より】
蒋介石が上海クーデター(四・一二事変)を起こすと、馮玉祥も蒋に与した。

6月には汪兆銘(汪精衛)、蒋介石と相次いで会談し、反共路線への道のりを固めている。

1928年(民国17年)4月からは蒋・閻錫山の軍と協力して張作霖撃破に邁進し、6月の張作霖の爆殺、12月のその子・張学良の易幟へと至って、北伐は勝利に終わった。

現時点では理解の難しい言葉もいくつか登場しますが、ここに登場する一つのキーワード「張作霖の爆殺」という言葉について。

改めて今回のシリーズを作成するに至った目的を振り返ってみたいのですが、

改めて、シリーズ第1回目の記事を見てみますと、ここに、私がシリーズを作成するに至った目的の一つが、以下のようにして掲載されています。

【私がシリーズを作成するに至った目的の一つ】
事件(※盧溝橋事件)が起きたのは1937年7月7日です。
ただ、過去に遡ってみると、「張作霖爆殺事件」で、日本政府から庇護されていた張作霖という人物が、日本の関東軍によって殺害されていたり、同じく関東軍によって鉄道が爆破される、自作自演の「柳条湖事件」が引き起こされていたり、これが「満州事変」の発端となったり・・・。

どうも動画中(※『動画』は シリーズ第1回目の記事 にてご確認ください)では「きれいごと」の様に描かれている部分に、はっきりとは記されていない部分もあるように感じられてなりません。
ちなみに「張作霖爆殺事件」が起きるのは、2.26事件によって是清が暗殺される8年ほど前の話。
1934年には日本国内では「5.15事件」と呼ばれる、暗殺未遂事件も起きています。

このあたりを整理しながら、「第二次世界大戦」に至る日本の系譜を、情報を複合的に見ながらまとめていきたいと思います。

ついにその「張作霖爆破事件」が勃発する場面に至ったわけですが、一般的に日本の「関東軍」が実行したと言われている張作霖爆破事件が、Wiki(馮玉祥のページ)では、あたかも馮と蒋が結託して張作霖爆破を仕掛け、これを実行したかのようにして記されていますね?

ここについての疑問はまだ解消されていないのですが、漸く登場した「張作霖爆破事件」。
まずはここについて、「なぜ日本の関東軍は張作霖を爆破するに至ったのか」という命題から遡ってみることにしました。

つまり、この時点で関東軍は「悪」であったのか、「正義」であったのか。
もし仮に「悪」ではなかった、仮に「悪」であったとしても、そこには何らかの伏線があったのではないか・・・という視点で歴史を遡ってみると、確かにあったのです。

これが、「尼港事件」や「南京事件」、「漢口事件」、「済南事件」等の事件です。
尼港事件に関しては、確かに中国人も加わってはいたものの、主導したのはロシアソ連であり、厳密には異なりますが、他の事件は全て中国人によって引き起こされたものです。

【本日のテーマ】

【南京市】
南京


今回の記事では、「上海クーデターの伏線」をテーマにしていますので、これらの事件のうち「南京事件」とこれに関連して「尼港事件」に関しても記事にできればと思います。

「南京事件」については、同名の事件がそれより10年後の1937年にも勃発しています。これが、中国人による「ねつ造である」と名高い「南京大虐殺」に相当します。

今回の記事はあくまでもその事件とは別の事件であり、南京大虐殺に相当する事件より10年前に勃発した最初の「南京事件」ついての記事です。


南京事件が勃発する伏線

まず、この事件が起きる背景として、いくつかの背景があります。
南京事件の翌年に起きる「済南事件」。
この舞台となった場所、「山東省」。

【山東省】
山東省

日清戦争の賠償金を肩代わりしてもらうための担保として、当時の清朝がドイツに対してその「権益」を認めた土地。
そして、あの「義和団の乱」の舞台ともなった場所です。
(詳しくは 第77回の記事 をご覧ください)

この土地で清朝の武術手段がカトリック教会を襲撃し、神父を殺害。
このことを口実にドイツは山東省を事実上植民地化してしまいます。

そして、後にイギリスより第一次世界大戦への参戦を求められた日本が、中国に代わってドイツよりこの山東省を取り返します。
日本は、第一次世界大戦の講和条約が結ばれるまで、一時的に日本の領土として保有しようとするのですが、当時の権力者である袁世凱が、「ドイツとそんな約束は交わしていない。ドイツの占領下でなくなったのなら、さっさと中国に山東省を返せ!」と言ってきます。
第106回の記事 をご参照ください)

中国に対する賠償問題となることを恐れて日本が逆に中国に対して提案したのが「21か条の要求(中国側が勝手につけた名前)でした。

ですが、袁世凱は一連の経緯をまったく無視して、今度は中国国内やドイツ本土、米国本土に対して、「日本はこんなひどい要求を突き付けてきたんだ! あいつらはひどい奴だ!」という広告活動(プロパガンダ)を行い、特に中国国内に対して『反日感情』の種を植え付けます。

結果的に21か条の要求は、日本からの「希望」の部分を除き、締結されます。しかも最終的に袁世凱は日本に懇願し、「どうか日本から最後通告が行われ、やむを得ず締結せざるを得なかったことにしてくれ」という依頼までしている始末。
またこれは、元々日本が孫文の間で交渉を行い、お互いに納得しあっていた内容でもありました。

しかしこの直後、袁世凱は日本が懇願を受諾してくれて最終的に要求が締結された、という経緯をまったく無視して「懲弁国賊条例」なるものを発令し、日本人に土地を貸しただけで中国人を処罰する、というとんでもない裏切りに出ます。

またこれに輪をかけて、袁世凱没後の中国で、日本からの支援金を受け取ることを目的として段祺瑞が第一次世界大戦への参戦を決定し、日本との間で「日支共同防敵軍事協定」なるものを締結します。

内容は、「「日本軍の中国国内における行動を無制限とし、また中国軍を日本軍の下位におく」というもので、これもまた段祺瑞側の要求に応じて決めたもの。軍閥割拠する当時の中国の状況としては仕方のないものかもしれませんが、これはさらに中国人の反日感情を焚き付けるのに十分な役割を果たしました。
第107回の記事 をご参照ください)

結果的に第一次世界大戦の講和条約にて山東省における日本の権益が認められ、中国の要求はまったく反映されなかったことから勃発したのが「五四運動」。そして、ここに登場したのがあの「マルクス主義者」たちでした。
第125回の記事 をご参照ください)

反日感情が異常に高められた五四運動の影響下で誕生したのが中国共産党。
そして、その息のかかった思想の持ち主が蒋介石率いる国民党軍に紛れ込んでいたのです。


南京事件の経緯

そう。ひょっとすると皆さまお忘れかもしれませんが、当時の中国では袁世凱の私利私欲のために流された「偏向情報」と「デマ」により、中国民衆の日本人に対する『反日感情』が極限にまで高められた状況にあったのです。

その象徴が「中国共産党員」であったともいえます。

【江蘇省】
江蘇省

事件の舞台となる場所、「南京」があるのはこちら、江蘇省です。
事件の発生する経緯が、翌年に発生した済南事件にもよく似ているので、私同じ事件かと勘違いしていたのですが、まったく別の事件ですね。

・・・
・・・
・・・

というか、絶句ですね。言葉が出ません。
「経緯」も減ったくれもないんですよ、これ。

あえて「経緯」を述べるとすれば、「北伐」を行った蒋介石軍の中に、おそらくは蒋介石の権力を失墜させたいと考える輩が紛れ込んでおり、これらの「輩」が、かなり凄惨な事件を起こした・・・というのがその経緯ですね。

蒋介石の権力を失墜させたいと考えている連中。
蒋介石の命令に従わない連中といえば、国民党の「左派」。あるいは共産党員だということになります。

第132回の記事でもお伝えした通り、北伐を行う蒋介石の軍の中には元々黄埔軍官学校で蒋介石による直接の指導を受けたわけではない部隊も含まれていましたし、蒋介石もその全体像を把握し切れていたわけではありませんでした。

当然国民党左派や共産党員も混ざっていましたし、彼らは蒋介石に対しても不満をため込んでいました。
また、事件が起きたのは1927年3月24日。国民党左派、共産党員らによって武漢に遷都が行われたのは同年1月1日。
蒋介石がその役職を軒並みはく奪されたのが3月に入ってからのことですから、この時蒋介石は限られた影響力しかもっていなかったことになります。


【3月22日】

そんな中、蒋介石は南京と同じ江蘇省にある「上海」に攻め込み、上海を占領します。

【上海】
上海

この時上海にいた北洋軍の責任者は「張宗昌」という人物。
彼は上海から退却し、南京に逃げ込みます。

俄かに危機感の増した南京に対し、日本からは、海軍陸戦隊10人を派遣しますが、張宗昌らによって武器を没収、抑留される等したため、南京に在留していた日本側では、中国人による「掠奪(りゃくだつ)」や「暴行」が発生することが予感されたため、同日婦女子を領事館に避難させます。


【3月24日】

蒋介石軍の一部で、「程潜」という人物に率いられた部隊が南京に入場します。

日本の領事館としては、蒋介石軍は規律正しいと聞いていましたし、実際にそうですから、特に警戒することもなく門を開き、軍を迎え入れます。装備は撤去していましたし、何の武器も準備していませんでした。

事件が起きるのはまさにその直後。中国軍が突如正門からなだれ込み、まずは歩哨に立っていた西原二等兵曹を銃剣で一突きし、殴りつけます。記述だけ見ると、西原兵曹に襲い掛かった中国軍は一人じゃなかったんでしょうね。

複数人で襲い掛かり、銃剣で突きまくり、顔面や東部を滅多打ちにしたとあります。
救援に駆けつけた数名の日本兵も同様の目にあい、さらに時計や財布などを掠奪された、とあります。

調べてみると、この軍を率いていたはずの程潜いう人物は、おそらくこのような暴挙を働くような人物ではないはずで、蒋介石の下で鍛えられた、「規律ある」軍人なのではないかと思います。

ですが、彼の率いる軍の中に、このような逆臣が紛れ込んでいた、ということなんでしょうね。
日本の領事館だけでなく、其の他外国の領事館も襲撃され、日本人だけでなく、イギリス人、アメリカ人、イタリア人、デンマーク人フランス人宣教師と次々に犠牲者が出ます。

Wikiによると、

『そのうち一人は頭髪からヒゲ、陰毛まで焼かれ、大腿部を切断された。また婦人も陵辱された。』

とありますから、彼らの行った仕打ちがいかに酷かったのかということを思い知らされますね。

この時、中国人が領事館外の日本人に行った所業として、Wikiには以下のように掲載されています。

領事館外での暴行

領事館への襲撃のほか、係留中の宿泊船(ハルク)の警備についていた後藤三等機関兵曹は狙撃により射殺された[6]。
また、日本人の経営する旅館寶来館を襲撃した中国人暴徒は「金を出せ」「奉天兵はいないか」「ピストルはないか」と連呼し、旅館にいた日本人から財布や骨董品を強奪していった[18]。宿の女中がつけていた指輪がとれないので、「面倒だ、指を切り落とせ」と中国人がいうので外して渡した[19]。中国人暴徒は「張作霖びいきの日本人は皆殺しだ。もう50人殺された」と喚きながら、発砲した。(東京朝日園田記者の証言、東京朝日1927年3月30日)

松崎病院院長の松崎熊士は、事件の最中に中国人が「(外国人が)虐殺されるのは当然だ。日本領事館で鼻に針金を差し込んで、一人残らず殺した」と話しているのを聞いた。

事件後の被害者の証言によれば、当時の30数名の婦女は少女にいたるまで陵辱され、ある女性が暴兵のために一室に連れて行かれようとする際、「どうぞ助けてください」と必死に叫んだが、警備兵は抵抗できず、見捨てざるを得なかったという。


この後、4月3日、同様の事件が武漢地域でも勃発しました。(漢口事件)
蒋介石は、はっきり言って日本と戦争などしたくありませんから、共産党員たちによるこれらの暴挙に激怒し、その結果行われたのが「上海クーデター」です。(4月12日)

4月18日、蒋介石は南京で改めて国民政府を樹立し、汪兆銘が主席として存在する武漢政府と対立します。

記述では、

『汪精衛率いる武漢国民政府は、ソ連から派遣されたミハイル・ボロディンが国民政府を分裂させて中国共産党に政権を奪取させることを企図していることを知った。このため武漢国民政府は共産党の言論取り締まりを決定し、「共産取締議案」を通過させ、ミハイル・ボロディン等ソ連から来た顧問を罷免した。』

とあるのですが、これは汪兆銘が蒋介石の軍力に改めて圧倒され、恐怖したことが原因ではないかと思います。
このことで、孫文によって執り行われた「第一次国共合作」は崩壊。

汪兆銘と左派グループは蒋介石に降伏。南京政府に合流することとなります。


南京事件と日本国政府の軟弱外交

南京事件が勃発した時の首相は、若槻禮次郎という人物が担っていました。
彼の下で外務大臣を務めたのが幣原喜重郎という人物。

彼は、今回の南京事件に対して、一切の「不干渉政策」を取りました。
つまり・・・何もしなかった、と。

きちんとした理由はあって、彼が不干渉政策をとった理由は、冒頭に述べた「尼港事件」にあります。


【尼港事件の経緯】

この事件は、ロシア領内、ニコラエフスク(中国名尼港)という地域で起きた事件です。

経緯まで説明していると非常に長くなってしまいますが、少なくともこの事件が勃発するまで、この地域において日本人とロシア人は非常に仲が良く、有効な関係を築いていました。

ところが、1919年11月、ロシアでコルチャーク政権が崩壊したころより、にわかに雲行きが怪しくなります。
ロシア赤軍非政府軍が正規軍を打ち破り、次々とニコラエフスク周辺地域を占領し始めます。

冬になると港や川が氷、ニコラエフスクは完全に「陸の孤島」となってしまうのですが、ここに押し寄せてきたのがロシア赤軍でした。
赤軍により、現地に居住していた人口の実に半数近くの住民が虐殺されました。

その数は6000人に上るのだそうです。
このうち日本人は判明しているだけで730余名。

理由は、占領後、赤軍がニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求してきたため、これに対して日本軍が決起したことから、まずは日本軍の殲滅、その後、住民たちに対する無差別虐殺が行われたのです。

この時、赤軍の中にはロシア人だけでなく、中国人や朝鮮人それぞれ数百名単位で所属していました。
虐殺は彼らによって行われたのです。

このことから、南京事件を受けて幣原外相は、「抵抗しなければ被害が少数で済む」と考え、「無抵抗主義」を貫きました。
なんと諸外国に対する説得まで行ったそうですよ。

義和団事変等での日本の活躍を振り返ると、なんとも情けない限りです。

【次回テーマ】
次回記事では、そんな幣原外交とは逆に、同胞の虐殺を受けて決起し、中国人たちに対する報復を決行した人物。
田中義一首相兼外務大臣のことを話題にできればと思います。



このシリーズの過去の記事
>> 第132回 蒋介石北伐の開始(中山艦事件~上海クーデター)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
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>> 第134回 田中義一内閣と山東出兵/済南事件への対応に見る若槻内閣との違い~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

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