第132回 蒋介石北伐の開始(中山艦事件~上海クーデター)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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蒋介石北伐孫文広東軍政府
<継承する記事>
第131回 孫文の後継者「蒋介石(しょうかいせき)」~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

前回の記事では、孫文の死後、「孫文の後継者」たる人物として、蒋介石がその実力の下、メキメキとその頭角を現し、他の実力者たちが政治の表舞台から姿を消す中で、ついに蒋介石を上回る実力者が唯一汪兆銘のみとなるその足跡を追いかけてみました。

また、この当時の時代背景として、第124回の記事でお示しした様に、もう一つの歴史の中心舞台である「北京」では、馮玉祥が北京政変の後、自身が平定したはずの北京政府で、張作霖に対して対してクーデターを仕掛けていた、という背景があります。

クーデターを起こしたのは馮玉祥だったのですが、彼は翌年1月には宣戦を離脱しています。
実際に張作霖らと戦ったのは馮玉祥が離脱した後の軍隊(西北陸軍)で、圧倒的に不利な自供に追い込まれながらも同年8月まで戦い抜いています。

問題なのは、離脱した後の馮玉祥がソビエト連邦を訪れており、ここで「ソ連の支援する中国国民党」への入党を宣言しており、ソ連からの支援を取り付けていた、ということ。この時点での馮玉祥は、『赤(共産系)』とみられる立場にあったわけですね。

舞台が目まぐるしく動きますので、中心となる二つの地域をあらかじめ掲載しておきます。

【北京】
565px-China_Beijing.png

【広東省】
広東省

【本日のテーマ】
本日の記事ではまず、孫文が一躍国民政府のトップに躍如するきっかけとなった「中山艦事件」とその後に敢行された「北伐」。
またさらにその後の中国国民党V.S.中国共産党の対立の発端となる「上海クーデター」。
そして最終的に蒋介石による中国統一まで話題を勧められればと考えています。


中山艦事件

さて・・・。
今回の記事を記そうとしていろいろ調べていたのですが、つくづく思い知らされたのが、「共産主義」という「思想」に感化された勢力の、その『残虐性』です。

後、過去にまでわたってそのかかわりを見ていたのですが、余りにも目まぐるしく変化する情勢に、正直脳が沸きそうでした。

例えばロシアだって、元々「共産主義」でったわけではありませんし、中国もまたそうです。
蒋介石は、薄々その危険性を感じ取っていたのでしょう。

今回テーマとする「中山艦事件」にしても「上海クーデター」にしても、いまいちその全体像、何が真実であるのかという部分が見えてきにくい事件です。

元々は蒋介石孫文に代わって行おうとした「北伐」の全体像をこの記事で記そうとしたのですが、これはどうもそれほど容易いものではなさそうです。

ですので、まずは一つずつ検証していきます。

一つ目のテーマ、「中山艦事件」なのですが、これは基本的に「蒋介石側の視点」で構成されています。

部隊となるのは「広東省」の南側に位置する「広州」。

【広州市】
広州市

事件が勃発したのは1926年3月18日。
概略からすると、蒋介石が指揮官を務めるはずの国民党海軍局が所管するはずの軍艦「中山(ちゅうざん)」が突然広州、黄埔軍官学校前沖に現れ、砲門を開き、戦闘態勢に入った・・・という事件です。

これを蒋介石は、「国民党左派と共産党員が自分を拉致しに来たのだ」と断定し、広州市内全域に戒厳令を敷き、共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、武器の没収を行います。

共産党は当然これを蒋介石の自作自演である、と主張しますが、コミンテルンの記録に、その主犯が「汪兆銘であった」と記されている、という記述もネット上では見かけることができます。(フランスの田舎から世界を見ると様サイトを参照しました)

ただ、この事件ではっきりしているのは、この軍艦を操縦していた艦長が共産党員であったということ。
そして、これが国民党左派や共産党に対する圧力をかけることとなり、危機感を覚えた汪兆銘が病気療養を名目にフランスに出国してしまったということ。

このことで、国民党内には誰も蒋介石を上回る権力者は存在しないこととなり、蒋介石自身は「国民政府軍事委員会主席」「党中央執行委員会常務委員会主席」という、軍と党の最高職を手にすることとなります。

また、この過程において蒋介石は国民党中央部長職から共産党員を一掃します。
そして、いよいよ「北伐」を敢行することとなります。

北伐」のスタート

北伐には雲南省、広西省、湖南省などの軍隊が協力しました。

【雲南省】
雲南省

【広西省】
広西省

【湖南省】
湖南省

湖南省には呉佩孚の勢力もいましたので、隣接する湖北省と共にまずはこれを撃破。

【湖北省】
湖北省

湖北省では「中華民国」発祥の地、「武漢」も制圧します。

【武漢市】
Location_of_Wuhan_Prefecture_within_Hubei_(China).png

江西省では蒋介石自ら出陣。

【江西省】
江西省

【福建省】
福建省

【陜西省】
陜西省

こんな感じで、蒋介石は次々と領土を支配下に置き、北上し続けます。
彼は民衆からも非常に支持されていて、農民・労働者・学生たちからもその支援を受けることになります。

共産主義では「プロレタリアート」とされる階層の人たちですね。


乗っ取られた国民党

1927年1月1日、国民政府は広州から武漢に『遷都』を行います。

ところが、この『遷都』を行った連中・・・。
そのほとんどが中山艦事件によってその要職をはく奪された国民党の「左派」たち。

蒋介石を含む右派たちはそのほとんどが北伐に参加しており、武漢国民政府が設立された折は「武漢」ではなく江西省の「南昌」というところで陣を張っていたのです。

策略を練ったのは「国民党」ではなく

・陳友仁(国民政府外交部長)
・徐謙(国民政府司法部長)
・孫科(孫文の長男で国民政府交通部長)

など、「国民政府」の要人たちです。

彼らはソ連から派遣されてきていた国民党顧問ボロディンと結託し、右派に先んじて武漢入りし、ここで『国民党中央と国民政府の臨時連席会議』を勝手に組織し、ここでこの会議が最高職権を行使することをまたまた勝手に宣言してしまいます。

いやいやいや・・・

確かに中国では、特に北洋政府などでよく見かけた光景ですが、「右派」である蒋介石らは中国国民の為、最前線で身を粉にして戦闘に勤しんでいるんですよ?
そこをかっさらっていったのが権力欲に取りつかれた「左派(共産主義者)」たち。

彼らは1月3日に武漢で『国民党第2期3中全会』を開催することを決議します。
3月に武漢にて開催された国民党第2期3中全会で党中央執行委員会常務委員会主席という役職を廃止し、国民革命軍総司令の権限を縮小。蒋介石からその権限を次々とはく奪していったのです。

要職の全てを国民党左派と共産党員が占め、その他の役職にも共産党が重視する分野にはすべて共産党員が就任することとなりました。
そしてフランスから汪兆銘を呼び寄せ、彼を国民政府主席、党中央執行委員会常務委員会の首席委員として復権させるのです。

蒋介石自身はそのような暴挙を認めていませんから、南昌にて第2期3中全会を開催することを決定するのですが、南昌にとどまっていた党の中央執行委員たちが左派たちの工作により武漢に移動してしまったため、結果的に第2期3中全会は武漢にて開催されることとなってしまいました。


上海クーデターの勃発

さて。このような騒動の中で勃発したのが「上海クーデター」です。

【上海】
上海

概要としては、世界史の窓 さまサイトに掲載れている内容がわかりやすいので、これを引用します。
1927年、北伐中に蔣介石が行った共産党勢力の排除した事件で、上海の労働者多数が殺害された。これによって第1次国共合作が破綻した。

 1927年4月12日、北伐途上の蔣介石が上海で行った反共産党のクーデター。四・一二事件(しいちにじけん)ともいわれる、共産党に対する大弾圧。

 上海では北伐軍が到着する前、3月、共産党の周恩来などに指導された労働者が武装蜂起、軍閥軍を撃退し臨時政府を樹立していた。共産党の力を恐れた蔣介石は上海の労働者政権の弾圧を決意、4月12日、上海のチンバン・ホンバン(上海のギャング団)が労働者団を襲撃したのをきっかけに国民革命軍を市内に突入させ、労働者・市民を虐殺した。周恩来は脱出したが、共産党は上海から排除された。

 さらに広東・北京でも共産党員に対するテロがひろがり、多数が殺害された。(李大釗もこのとき北京で張作霖軍によって逮捕され処刑された。)武漢政府はなおも共産党員が残ったが、同年7月には離脱し、第1次国共合作はこれによって瓦解した。

ここで初めて登場しますね。後の中華人民共和国初代首相となる人物、『周恩来』。
彼は、黄埔軍官学校でも蒋介石と共に「教官」として在籍していた人物です。

ただ・・・。
ここに書かれている内容だけを読むと、まるで蒋介石がただ単に共産党が嫌いで、確かに「共産党に対して危惧するもの」は存在しながらも、将来に向けた災厄を排除するためだけに共産党員の、特に労働者たちを虐殺でもしたかのような、そんな印象を受けますよね?

ですが、ここにはきちんとした「理由」があります。

【次回テーマ】
次回記事に於きましては、なぜ蒋介石がこのような共産党員を一掃するかのような『強硬手段』に臨んだのか。
蒋介石が上海クーデターを起こすに行った本当の理由。背筋がぞっとして寒気がするような『共産主義者』たちの残虐性を追いかけてみたいと思います。

今まで、特に義和団事変以来、主に中国人だけで構成されていたこのシリーズですが、次回記事ではついに日本人も登場します。

後に、「張作霖爆殺事件」にまで繋がるポイントです。
大東亜戦争(第二次世界大戦)において、なぜ日本が中国と戦争をする、という選択肢を取るようになったのか。
少しずつその姿が見え始めました。



このシリーズの過去の記事
>> 第131回 孫文の後継者「蒋介石(しょうかいせき)」~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
このシリーズの新しい記事
>> 第133回 上海クーデターはなぜ?/伏線としての南京事件(1927年)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 よりご確認ください


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