第124回 五四運動以降の中国(北洋政府)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>第122回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~辛亥革命後の中国の近代史年表~

袁世凱亡き後の中国(中華民国)は、中央の統制が失われた、「軍閥時代」と呼ばれる時代に突入する・・・。

ただでさえややこしい中国の歴史が、特にこの時代、本当にややこしい状況に陥りましたね。

まとめますと、袁世凱亡き後の中国を「大統領」として引き継いだのは「黎元江」という人物だったわけですが、同じ時代、副大統領を務めたのが「馮国璋」。国務総理を務めたのが「段祺瑞」。

軍閥時代はまず、黎元江と段祺瑞の対立からスタートします。
中華民国の「憲法」に相当する「約法」の取り扱い方と第一次世界大戦への参戦をめぐって両者は対立し、最終的には黎元江の辞任によって二人の対立は幕を閉じます。

この後、大統領の座を引き継いだのが馮国璋。段祺瑞は「国務総理」の立場で再び国政を担います。
馮政権下の段祺瑞内閣の誕生に反発して孫文が広州市に「広東軍政府」を設立。

「北洋政府」V.S.「広東軍政府」という構造が出来上がります。
ところが、同じ北洋政府内でも広東軍政府へ対処方法をめぐり、「馮国璋」V.S.「段祺瑞」という対立構造が出来上がります。
一方、広東軍政府の中でも広東軍政府を設立した孫文自身が、自分を信頼して広東軍政府の設立に協力したはずの「広西省」の派閥に対してクーデターを起こします。

広東軍政府が北洋政府に敗北した後、孫文は広東軍政府を去り、北洋政府内部でも段祺瑞が様々な策略を巡らせたあと、段・馮がともに失脚。

北洋政府は徐世昌が、広東軍政府は陳烔明がそれぞれ政権をにないます。
この時点で馮率いる直隷派と、段率いる安徽派の対立が決定的になります。(1918年10月)

下野した段祺瑞は、徐樹錚(じょじゅそう)という人物を通じて政権内に影響力を発揮し続け、第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」についても締結するように画策するのですが、結局政府はヴェルサイユ条約の締結を拒否(1919年6月)。

段・徐ら安徽派はこのことで完全に信頼を失い、これまで安徽派と協力してきた「張作霖」率いる「奉天派」は安徽派と袂を分かちます。

【前回までの振り返り】
第121回の記事では、この後、1920年8月、陳烔明が事態を平定した広東軍政府に孫文が帰還し、「中華民国の正式な政府は北洋政府ではなく、自分たち広東軍政府である。広東軍政府こそが、正式な中華民国政府である」ということを非常国会にて勝手に決議し、自身が大統領として選出されたことをお伝えしました。

その後、勢い、北洋政府に向けて攻め上がる(北伐)のですが、孫文が戻ってくるまで広東軍政府で実権を担っていた陳烔明はこのことを快く思わず、孫文に対して下野することを進言。

孫文はこれを「離反」だとして広州に帰還するのですが、陳烔明から返り討ちに会い、広州を脱出。
その後、「雲南派」「新広西派」の協力を得て陳勢力を撃破。

コミンテルンの協力を得て、広州に帰還。「広州軍政府大元帥」として返り咲きます。

翌年(1924年)、中国共産党と北洋政府に対して共同戦線を張ることを約束しするのですが、更にその翌年、彼はガンに侵され、病没。前回の記事では、ここまでお伝えしました。

晩年の孫文
【晩年の孫文:Wikiより】

【本日のテーマ】
本日は、同じ時期、今度は「北洋政府」にスポットを当て、五四運動後の北洋政府の動向、そして「中国共産党」誕生に至る流れまで記事にできればと思います。


五四運動後の北洋政府

【安直戦争】
五四運動が勃発したのが1919年5月4日。同年12月、段と対立する構造にあった馮国璋が病没します。
馮国璋亡き後の直隷派を引き継いだのが、北洋政府V.S.広東軍政府の護法戦争の時に活躍した曹錕(そうこん)と呉佩孚(ごはいふ)の両名。

1920年4月、彼らは張作霖率いる奉天派と「反段祺瑞連盟」なるものを結成します。
彼は馮国璋の後を引き継いだ時点で既に、段祺瑞ら安徽派を叩く気満々だったんですね。

曹錕と呉佩孚は同年7月、中華民国の混乱の原因は安徽派にあると主張し、大統領である徐世昌に詰め寄ります。
これを受けて徐世昌は徐樹錚を遠威将軍に任じることで、当時徐樹錚が担っていた様々な役職から彼を罷免します。

一方で段祺瑞は同様に徐世昌に詰め寄り、曹錕と呉佩孚の両名がこの時与えられた役職から、両名を罷免させます。
この時点で、直隷派の両名はすでに安徽派を討伐するための準備を整えており、7月14日、ついに安徽派と直隷派が戦闘状態に陥ります。(安直戦争)

直隷派は安徽派を打つため虎視眈々と準備を整えており、また奉天派とも連盟関係にあったことから、この戦争は直隷派が圧倒的に有利な状況にあり、たった4日で直隷派は安徽派を撃破。
これまで北洋政府(北京政府)を牛耳ってきた安徽派に変わり、直隷派・奉天派連合が北京政府を牛耳ることになります。

【奉天派と直隷派の対立】
それにしても・・・なぜ中国ではこんなに対立が次から次へと勃発するのでしょう。

この時点で、北洋政府の「大統領」は徐世昌です。
安直戦争の敗北により、段祺瑞は天津の日本領土へ、徐樹錚は日本大使館へと逃げ込みました。

安直戦争は直隷派である曹と呉が、奉天派である張作霖と連盟関係を結び、安徽派を撃破した戦いだったのですが、元々直隷派の後ろ盾となっていたのは米英であり、奉天派の後ろ盾となっていたのは日本でした。

直隷派が中心となって勃発した「安直戦争」でしたが、戦後の北京政府内で、次第に張作霖が勢力を拡大し始めます。
大統領であった徐世昌は、直隷派の勢力が政府内で拡大することをあまり好ましく思わず、奉天派と組むようになります。

1921年12月、張の後押しで親日家である「梁 士詒(りょう しい)」が国務総理となったことで直隷派と奉天派の対立は決定的となります。1922年1月、安直戦争の報酬分配が不均等であることと、親日的であることから不満が噴出し、梁内閣は崩壊。

張は直隷派に対抗するため、ひそかに広東軍政府の孫文、安徽派の段と同盟関係を結び、自身を総司令とし、4月29日、「奉直戦争」を勃発させます。

戦争はイギリスの仲介によって停戦状態となり、事実上敗北した張作霖は満州に逃げ込み、東三省(遼寧、吉林、黒竜江省)の独立を宣言します。(5月5日)
この、彼の独立を支援したのが日本だったんですね。

孫文が広東軍政府において、ソ連の協力を得て再び広東軍政府の権力を手にしたのがこのタイミングです。

徐世昌は責任を問われ、引退に追い込まれます。(6月)
後任として再び黎元江が大統領に就任。調子に乗った曹錕は、さらに自分が擁立した黎元江を辞任に追い込み、賄賂を用いて自分自身が大統領として就任します。

この事で直隷派は世論からの信頼を失い、同じ直隷派ないから、「馮玉祥(ふうぎょくしょう)」という人物が不穏な動きを見せるようになります。

このころ、満州では張作霖が日本の支援を受けて軍事力を増強し、海軍と空軍を拡張していました。

【北京政変】
奉直戦争(第一次奉直戦争)後、直隷派体制下において、直隷派が武力によって中国を統一しようと推し量ったことから、直隷派と安徽派の間で「江浙戦争」が勃発。

これに呼応して、張作霖は15万の軍隊を集結し、複数の直隷派の地盤に攻め入ります。(第二次奉直戦争)

当然直隷派もこれに応戦するのですが、この中で直隷派の支持に従わず、進軍を行わなかった人物が「馮玉祥」。
彼は事前に張作霖、段祺瑞との間で密約を結んでおり、自部隊を率いて北京総統府を包囲。総統となっていた曹錕を監禁し、呉佩孚の解任と停戦を迫ります。

広東軍の孫文に北上を求め、奉天派とは和議を結び、段祺瑞を北京に向かえ入れます。
同じく孫文も北京に入ります。彼はこの後、病没するんですね・・・。(1925年3月12日)

漸く北洋政府の歴史と広東軍政府の歴史が結びつきましたね。

【反奉戦争】
こうしてみると、この「馮玉祥」という人物。
ものすごい「英雄」に見えるのですが、この人物もやはり・・・・同じことをします。

自らが平定させた北京政府に対して、大規模なクーデターを仕掛けるんですね。
戦争を仕掛けた相手は奉天軍。張作霖を相手に戦争を仕掛けます。

1925年から約半年間続くのだそうです。
馮玉祥の裏切りを根に持っていた呉佩孚が参戦した(奉天派と直隷派が同盟した)ことにより、自体は決着を迎えるのですが、約半年間かけて、30万人もの死者を出したこの戦いは、中国大陸におけるパワーバランスを完全に崩してしまいました。

特にこの間両軍の戦力が北京に集中していたので、その他の地域はがら空き状態。
この間、孫文亡き後、蒋介石率いる広東政府軍(中国国民党)はソ連の軍事支援を受け、実に30万人もの兵力を誇る部隊へと拡大していたのです。

この後、時代はいよいよ蒋介石の時代へと移ります。

長らく続いた今回のシリーズですが、その発端は、日中戦争の発端となる「十五年戦争」。

その発端となる「満州事変」を調査することが目的の一つでした。
満州事変は日本の関東軍による鉄道爆破事件、「柳条湖事件」から始まり、その途中では「張作霖爆破事件」なる非常に物騒な出来事まで登場します。

今回の記事で、いよいよその入り口までたどり着けた様に感じます。
今回の記事は、「中国共産党」の誕生まで記事にする予定でしたが、少し長くなりますので中国共産党の誕生に関しては次回記事に譲りたいと思います。





このシリーズの過去の記事
>> 第121回 中国近代史における孫文の役割-中国共産党の誕生~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
このシリーズの新しい記事
>> 第125回 中国共産党の結成~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 よりご確認ください


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