第119回 北洋政府V.S.広東軍政府(国民政府):護法戦争~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<前回の記事 第118回 公的年金収支状況の推移~厚生年金・国民年金の収支状況を検証します~
<継承する記事 第113回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~袁世凱没後の中国(軍閥政治~第一次世界大戦参戦までの流れ)

とびとびになっておりますが、シリーズ第二次世界大戦の続きです。

前回の記事では、中国の「反日感情」の現況を生み出した袁世凱。彼の死後、中国の第一次世界大戦参戦までの流れを記事にしました。

国務総理段祺瑞と大統領である黎元洪との対立。
第一次世界大戦への参戦をめぐる流れの中で、なんと「清朝」が一瞬とはいえ復活していたという衝撃の事実。

この事件の責任を取る形で黎元洪は大統領座から失脚。
続いて大統領となったのが段祺瑞と同じ軍閥出身者である馮国璋。段と黎との対立の元凶ともなった、当時の中華民国の「憲法」にも相当する「約法」。

黎が採用した孫文の制定した臨時約法を廃止し、国会を解散したうえで新政府を樹立した段と馮。
ここに至ってついに姿を現したのが「孫文」であるというところまで前回の記事ではお示ししました。

【今回の記事】

段きすい
【段祺瑞:Wikiより】

今回の記事では、孫文が馮&段の新政府に対抗して組織した「広東軍政府」。
これへの対応をめぐって新たに勃発した馮と段の対立。

北洋政府と広東軍政府の対立、そしてその終結までの流れを記事にしたいと思います。


「孫文」という人物

今回、このシリーズ第二次世界大戦の記事を作成するにあたって、この清朝末期~中華民国設立後にかけて、たびたび名前が登場するのがこの「孫文」という人物です。

孫文
【孫文:Wikiより】

例えば、義和団の乱が勃発する過程においてもそうですし、中華民国が設立する過程においてもそうです。

中華民国が誕生したと、袁世凱に政権を譲った後においても、袁世凱の政治に対して「第二革命」や「第三革命」といった革命を仕掛けています。

ですが、その度に失敗に終わり、敗れるたびに「亡命」を繰り返します。
日本にもよく逃げ出していますね。

そもそも、中華民国において初代臨時大統領となる際も、彼は辛亥革命において、まったく活躍すらしていないのに、辛亥革命が成功しそうなタイミングになって突如「ポっ」と姿を現します。

実は私、何度か彼をテーマにして記事を作ろうとしていたのですが、そのあまりにもの情けなさに、そのたびに記事作成を断念したのです。

で、今回も、確かにその傾向はみられるのですが、孫文を記事の中心人物として据えることも一つのやり方かな・・・とも感じますので、前半はこの「孫文」という人物を中心に記事を作成してみたいと思います。
↑孫文を中心に記事を書こうとしたのですが、やっぱり北京政府の段や馮のボリュームが大きくなってしまいました。

「広東軍政府」の樹立

黎元江が失脚した後誕生した段祺瑞内閣。
ですが、段祺瑞は「すでに臨時約法は存在しない」として、自身が解散した国会を召集することはせず、これまでの法律とは別の、新しい法律に基づく国会を設立することを計画しました。

ところが、解散させられた国会に所属した議員たちはこれに反発し、孫文は、の呼びかけに応じて広東省広州に集まります。
ここで孫文は、集合した100名の国会議員と共に、広州で「国会非常会議」を開催します。

ここで、広州に「中華民国軍政府」を組織することを決定し、ここで行われた投票の結果、孫文は「大元帥」に選出されます。
「広東軍政府こそが、正当な中華民国の政権である」とうったえ

ふ~ん・・・。
北京には段祺瑞らの「北洋政府」がある中で、勝手に「中華民国軍政府(広東軍政府)」なるものを樹立できるような状況にあった、ということですね。記述によっては、「広東軍政府の独立を宣言した」なる記述も見かけることができます。

つまり、この時点で段祺瑞らによる「北洋政府」と孫文による「広東軍政府」という二つの政府が中国国内に同時に存在することとなった、ということになります。

北洋政府V.S.広東軍政府(護法戦争)

広東軍政府は「広西省」や「雲南省」などといった、当時最強勢力であった「軍閥」に支持され、広州から北進し、「湖南省」へと向かいます。

【北洋政府】
565px-China_Beijing.png

【広東省(広東軍政府)】
広東省
【広西省(広東軍)】
広西省
【雲南省(広東軍)】
雲南省

【湖南省(戦場)】
湖南省

孫文は、既に湖南省の有力な軍人・政治家たちからの支持も取り付けていました。


【段祺瑞 V.S. 馮国璋】

さて。ここにきて、これまでうまくやってきたはずの「北洋軍閥」政治家である段と馮。
中華民国からの独立を宣言し、「護法運動」を開始した孫文ら広東軍政府への対応をめぐり、ついに二人の対立が表面化します。

黎元江(れいげんこう)が大統領を務めていた時代からそうだったと思うのですが、段祺瑞のやり方は少し強引なイメージがありますよね?
黎を大統領の座から追い落とすやり方も、その後ドイツに対して宣戦布告を行う過程においてもそうです。

その結果狙っていたのが日本からの資金援助だった・・・という為体。

争いは自身が起こしておきながら、矢面に立つのは馮であった、という構図が目立ちます。
黎に対して争いを仕掛け、大統領の座から追い落としたのは自分自身でながら、あとをついて大統領となったのは馮でした

「強引だ」という感覚を覚えていたのは、おそらく馮も同様だったのでしょう。
段は、当然広東軍政府に対する全面対決を臨むわけですが、馮は違います。

北洋政府側から見る護法戦争に至る経緯を見ても、段はまず湖南省の護法派(広東軍より)である譚延闓(たんえんがい)という人物を罷免し、自身の息のかかった傅良佐(ふりょうさ)という人物を督軍に赴任させます。

段の目論見通り、譚延闓は反発してきたため、これを口実として段は「武力」による制圧を開始します。

馮はこれに反発し、また英米の後ろ盾もあって、馮は武力ではなく、和平による「北洋政府」と「広東軍政府」の統一を提唱します。
馮はひそかに自身の派閥である湖南軍正副司令を戦場から撤兵させ、傅良佐は広東軍に敗北。

この責任を取って、段は国務総理兼陸軍総長の座を降りることになります。(1917年11月16日)
護法戦争も一時停戦状態となります。

しかし、段は国務総理の座を降りた後、彼の腹心である徐樹錚という人物を使い、馮の派閥である「直隷派」の曹錕という人物をを段支持へと転向させ、直隷派の団結にひびを入れた後、自身の派閥である安徽派に反馮運動を行わせ、さらに別派閥である「奉天派」の張作霖の支持も取り付け、馮に圧力をかけます。

馮は、1918年1月、ついにこれまでの主張を撤回し、広東軍政府へ軍事行動を仕掛けることになり、同3月、段は再び国務総理へと復権。翌4月、北洋政府は広東軍政府に対して大勝利を収めることになります。

ですが、段はここで、湖南督軍として、護国戦争において全線で大活躍した直隷派の人物ではなく、安徽派より、戦功のまったくなかった張敬尭という人物を充てたため、活躍した直隷派よりの反発を受け、徐樹錚が自派へ引き入れた曹錕も含め、段は大反発を受けます。彼らは段に逆らって広東軍政府と和議を結びます。(8月13日)

8月12日、旧約法に基づかない、新しい体制下での国会(安福国会)が開催されます。
段祺瑞は多数派工作を図り、国会を自身の派閥である安徽派で固め、馮国璋を罷免し、代わりに同じ北洋軍閥出身者である徐世昌を大統領として選出します。(9月4日)

ですが、自分自身も湖南督軍任命に関するいきさつや、第一次世界大戦への参戦をめぐる日本への接近(袁世凱の時代に、中国国内では反日感情があおられまくりました)が糾弾され、彼自身も馮と同時に下野することになります。(10月10日)

11月11日、第一次世界大戦が終結。
11月23日、広東軍政府からも停戦令が発表され、護国戦争も終結します。

次回こそは・・・

さて。10月に内閣の座から失脚した段祺瑞ですが、1919年1月1日。日本から手にした支援金を手に「参戦軍」を正式に発足させます。(※『参戦軍』に関しては、第113回の記事まとめの章をご参照ください)

そう。第一次世界大戦は11月11日に集結しているのに、『参戦軍』とか・・・・。

この後、1月18日にパリ講和会議が開幕し、4月29日に山東権益が日本に譲渡されることが決まります。(詳しくは、第107回の記事をご覧ください)

この後に五四運動が起きるわけですが、どうも段祺瑞は、この後結ばれるヴェルサイユ条約に調印することを画策していたようです。
ちなみに、五四運動とパリ講和会議開幕の中間。2月20日には「南北和平会議」が上海で開かれています。
つまり、北洋政府と広東軍政府が和議を結ぼうとしていたんですね。

ところが、五四運動が勃発したその前日、5月3日にこの南北和議は決裂しています。

【次回テーマ】
「次回こそ・・・」
次回こそは、「孫文」なる人物にもう少し話題をフォーカスし、北洋政府V.S.広東軍政府の戦いを、広東軍側の視点から描き、できれば中国共産党の発足と孫文の中国国民党、ソ連(コミンテルン)との連携にまで話題を勧めればと考えています。



このシリーズの過去の記事
>> 第113回 軍閥政治とは?:袁世凱没後の中国~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
このシリーズの新しい記事
>> 第121回 中国近代史における孫文の役割-中国共産党の誕生~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 よりご確認ください


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