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第315回 生鮮食品及びエネルギーを除く総合が前年同月割れした理由(H28年度3月)

いつもであれば、前回の記事の後「教養娯楽」の費目に記事を記事を進め、更に「テレビ」や「PC」等を分析するわけですが、同じ調査を毎月行っていますし、今回も異なった結果が出ることはそれほど想像しにくいことから、今回は「教養娯楽」を深めることはせず、もう一つの調査項目、「エネルギー物価の動向」へと記事を進めてみたいと思います。


消費者物価指数「総合」の内、私が重視ししているのは新コアコアCPIともいえる新たなる指標、「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」であることから、態々「エネルギー」を調査する必用はないのではないか、という方もいらっしゃるかもしれません。

ですが、それでも政府日銀が「2%の物価上昇」の目標としているのはあくまでも「生鮮食品を除く総合(コアCPI)」であり、ここにはエネルギーが含まれているため、無視するわけにもいきません。

また、私がずっと調査し続けている「10大費目」の中には、「エネルギー」に該当する物価とそうではない物価が混在している部分もあり、このあたりをきちんと分けて調べることでより私たち日本国民の生活に寄り添った「消費者物価」が見えてくるのではないか、とも考えていますので、引き続きこの「エネルギー」も分野として抽出して記事にしたいと思います。

エネルギー


「交通・通信」の消費者物価指数の前年同月比

【「交通・通信」消費者物価指数の前年同月比】※( )内は2017年2月の前年同月比です。
交通・通信 ウェイト:1476
0.2(0.3)

 交通 ウェイト:224
 -0.3(0.0)
 自動車等関係費 ウェイト:836
 4.4(3.4)
 通信 ウェイト:416
 (-7.4)-5.4

エネルギーをみる上で、まず外すことができないのは「ガソリン」の物価です。
ガソリンが含まれるのがこちらの「交通・通信」であり、「自動車等関係費」にガソリンの物価が含まれています。

「交通・通信」の費目を見てみますと、「自動車等関係費」はプラス幅を増大させていますが、「交通」が前年同月比0.0%から-0.3%へ悪化。「通信」も前年同月比-5.4%から-7.4%へとマイナス幅を拡大させており、「交通・通信」全体の消費者物価としては0.3%から0.2%に上昇幅を縮小させていることが分かります。

この費目で「交通」に含まれるのはバス、電車、鉄道、飛行機などの公共交通機関の運賃です。
JR在来線が-0.4%から0.0%に改善、高速のバス代が0.0%から0.1%に改善した以外はほぼすべて横ばい。

にも関わらずなぜ「交通」の消費者物価が上昇幅を縮小させているのかというと、実は唯一「航空運賃」のみが前年同月比-2.3%から-5.6%へとマイナス幅を拡大させています。

これが「交通」の消費者物価の上昇幅を縮小させた原因です。
ただし、他の費目にはなりますが、「教養娯楽」中「宿泊料(国内旅行費)」及び「パック旅行費(海外旅行費)」を見てみますと、

宿泊料 ウェイト:113
前年同月比
3月 1.8%
2月 0.0%

パック旅行費 ウェイト:42
前年同月比
3月 4.3%
2月 4.8%

と、パック旅行費は「4.8」から「4.3」に「上昇幅を縮小」させているとはいえ、それでも4.3%の上昇ですし、国内旅行も前年比0%から1.8%に大幅に改善していますので、航空運賃(ウェイト:22)の下落は、消費者物価全体には良い影響を及ぼしているのではないでしょうか。


「自動車等関係費」の消費者物価指数

こちらは全体を一覧表示する形を取らず、ポイントとなる部分をピックアップしてみたいと思います。

「自動車関係費」の前年同月比の上昇幅を拡大させている最大の原因は皆さんご想像の通り、「ガソリン」の物価上昇です。
ガソリンの消費者物価は2月の15.8%から更に20.4%も上昇しており、このことが「自動車関係費」の消費者物価を引き上げる要因となっています。

では、「ガソリン」以外の「自動車関係費」の消費者物価はどのようになっているのでしょう。

【「自動車」の消費者物価指数前年同月比】※( )内は2月の前年同月比です。
自動車 ウェイト:199
-0.3(-0.3)

 軽乗用車 ウェイト:40
 -0.3(-0.3)

 小型乗用車(国産車) ウェイト:55
 0.1(0.1)

 小型乗用車(外車) ウェイト:5
 -9.7(-9.7)

 普通乗用車(国産車) ウェイト:01
 0.1(0.1)

 普通乗用車(外車) ウェイト:-9.7
 -0.6(-0.6)

ガソリンのウェイトが206ですから、「自動車」全体のウェイトは消費者物価指数全体に対して、ガソリンとほぼ同等の影響力を持っていることになります。

「自動車」の消費者物価の前年同月比はほぼ横ばいです。
全体の傾向として外車の物価が「小型」「普通」共大幅に下落しており、また「軽自動車」の物価も下落しています。

「自動車」全体の傾向として、外車を選択する人が減り、国産車も「軽」ではなく「普通車」を選択する人が増えているのではないか、との推測が成り立ちますね。燃費の問題等もあるのでしょうが、これは日本国内で考える上ではとてもよい傾向にあるのではないでしょうか。

「ガソリン」と同じ考え方で、「輸入車」もまたその利益の大部分は海外に吸収されますから、消費者物価全体で考える上では、例え一時的に自動車全体の消費者物価を引き下げることになったとしても国産車が選択される状況の方が好ましいと考えられます。

その他、「ガソリン」が含まれる「自動車等維持費」では、バッテリーやカーナビゲーションの消費者物価が前年度割れしていますが、たの項目は0~プラス成長で、上昇幅にも大きな変動は見られません。


【「通信」の消費者物価】

通信の消費者物価に関しては、第314回の記事 に掲載した日経ニュースにも掲載されていました様に、携帯電話機の物価が-15.9%から-26.6%にマイナス幅を大幅に拡大させており、これが最大の原因となっています。

ただ、日経ニュースでは

「春先の値引きキャンペーンが広がった携帯電話機は26.6%下落した」

と掲載されていましたが、であれば同じ現象が起きると考えられる2016年3月にも同じ様な物価の下落が起きていなければおかしなことになります。ですが、2016年3月の消費者物価前年同月比は8.8%と大幅に上昇しています。

だとすれば、「春先の値引きキャンペーン」以外にも別の理由がある、と考えるべきではないでしょうか。
記事としては非常に安易すぎる内容だと思います。


「光熱:水道」の消費者物価

【「光熱・水道」の消費者物価指数前年同月比】※( )内は2月の前年同月比です。
光熱・水道 ウェイト:745
-0.8(-2.1)

 電気代 ウェイト:356
 -2.0(-4.0)

 ガス代 ウェイト:181
 -5.2(-6.5)

 他の光熱 ウェイト:41
 29.9(29.8)

 上下水道料 ウェイト:167
 0.5(0.5)

「他の光熱」とは「灯油」のことです。
ガソリンの前年同月比が20%増、灯油の前年同月比が30%増とあり、原油から直接精製される「エネルギー」に関してはこれまでの消費者物価の足を引っ張り続ける状況から大きく改善されていることが解りますが、それ以外の「電気代」や「ガス代」については未だに下落し続けていることが分かります。

最大の理由は電力の自由化が行われ、ガス代も価格競争に巻き込まれている状況が考えられるわけですが(ガス代と電気代が前年度割れし始めるのはほぼ同時期です)、ただここで一つ考えると、原発事故が発生するまで政府や電力会社が訴え続けてきた「原発を停止すると電力不足に陥り、電気代が上昇する」として主張は誤りであったのではないか、とも考えられます。

安倍内閣を支持する私たちとしては眼をそむけたくなる一つの事例にはなりますけどね。
勿論原発以外の方法を用いて発電を行うということは、一部の再生可能エネルギーを除いて火力を用いることになりますから、海外の原油価格の動向によって左右される部分も大きくなると思います。

ただ、それでも電気代が政府や電力会社によって「搾取」されていた部分もあったとする一つの「証拠」にもなりますから、個人的にはこのあたりの説明は政府や電力会社がきちんと行う必要のある分野だと思います。

そしてその上で原発を利用し続ける必要があるのであれば、その理由をきちんと国民が納得できるようにするべきなのではないでしょうか?

勿論私は安倍内閣を支持していますし、街中でドラを叩きながら大騒ぎして反原発を叫ぶような「反原発派」や「脱原発派」ではありません。

大切なのはこういった事情を「政府を批判するための材料」にしてしまうのではなく、本当のところはどうなのか。
正しいことは正しい、誤っていることは誤っていると指摘しあえる環境をつくることなのではないかと思います。

勿論、それでも原発を利用し続けなければならない理由はあります。
仮に日本が原発を利用しなくなったとしても、海外では原発は利用し続けられますし、もし日本が原発の利用を止めれば、日本は海外に対して「核を監理する技術」という側面で大きな「後進国」となってしまいます。

こじつけの様に思われるかもしれませんが、国際関係を考える上で、これは一つの大きな理由です。

少し話が大きくなってしまいましたが、電気代やガス代の変化についても今後とも着目していきたいと思います。


さて。税収に関するカテゴリー に於きまして、長らく放置していました「2016年度の税収」の調査結果ですが、「消費者物価指数」でも2016年度年間の指標が公表されたように、「税収」に関してもこれをうかがえるデータが出てき始めました。

法人に関する「税収」は基本的に2か月間猶予期間があり、3月の納税額が出そろうのはこれから2カ月後、5月の納税額が公表された後になるのですが、それでも2016年度3月の納税額が公表されたことで、昨年度通年の予測を行う事が可能になったのではないかな、と思っていますので、次回記事ではこの「2016年度税収」についての記事を作成したいと思います。

確定しているわけではないので、記事にするのはドキドキです・・・。


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第314回 平成28年度(通年)及び3月度消費者物価指数が発表されました

ということで、平成28年度(2016年度)3月消費者物価指数の内、「生鮮食品エネルギーを除く総合」が前年同月割れした理由を記事にしたいと思います。

理由のうち一つは 前回の記事 でお伝えした通り、「持ち家の帰属家賃」がマイナス成長したから。これは毎月記事にしている通りです。

実際これがなければ2016年度3月の生鮮食品及びエネルギーを除く総合はプラス成長していますから、最大の理由と言っても過言ではありません。

ですが、とはいうものの、それでもその伸び率は2月度の伸び率より縮小していますから、「持家に帰属する家賃」以外にも「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」の消費者物価が伸び悩んでいる理由、というのは存在することになります。

それではいつも通り、まずは「10大費目別消費者物価指数」から検証してみます。


2016年度3月10大費目別消費者物価指数

【10大費目別消費者物価指数の前年同月比】※( )内は2017年2月の前年同月比です。
食料 ウェイト:2623
0.5(0.8)

 生鮮食品 ウェイト:414
 -0.4(1.4)
 生鮮食品を除く食料 ウェイト:2209
 0.7 (0.7)

住居 ウェイト:2087
-0.2( -0.2)

 持家の帰属家賃を除く住居 ウェイト:589
 0.2 (0.1)

光熱・水道 ウェイト:745
-0.8 (-2.1)

家具・家事用品 ウェイト:348
-0.8(0.6)

被服及び履物 ウェイト:412
0.6(1.3)

保健医療 ウェイト:430
0.5(0.6)

交通・通信 ウェイト:
0.2(0.3)

教育 ウェイト:316
1.0(1.0)

教養娯楽 ウェイト:989
0.7(0.4)

諸雑費 ウェイト:574
0.4(0.3)

今回見ようとしているのは「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」ですから、「食料」は「生鮮食品を除く総合」で見ます。
また前回の記事で記した通り、「持家に帰属する家賃」は架空の数字ですから、「住居」も「持家に帰属する家賃を除く住居」で見ます。

さて、こうしてみますと、
〇「食料(生鮮食品を除く食料)」は0.7→0.7と横ばい。

◎「住居(持家に帰属する家賃を除く住居)」は0.1→0.2と改善。

▲「光熱・水道」は-2.1→-0.8へと下落幅を縮小

×「家具・家庭用品」は0.6→-0.8と悪化。

△「被服及び履物」は1.3→0.6と上昇幅が縮小。

△「保険・医療」は0.6→0.5と上昇幅が縮小

△「交通・通信」は0.3→0.2と上昇幅が縮小

〇「教育」は0.1→0.1と横ばい

◎「教養・娯楽」は0.4→0.7と改善

◎「諸雑費」は0.3→0.4と改善。

と、こんな感じです。

改善しているのが 「住居」「教養娯楽」「諸雑費」 の4費目。
横ばいが 「食料」「教育」 の2費目。下落幅を縮小させているのが「光熱・水道」の1費目。

上昇幅が縮小しているのが 「被服及び履物」「保険医療」「交通・通信」の3費目。
悪化しているのが「家具・家庭用品」の1費目。

上が2016年度3月の物価上昇幅を拡大させる要因となっているのは 「住居」「教養娯楽」「諸雑費」 の3費目であり、逆に縮小させる要因となっているのは 「被服及び履物」「保険医療」「交通・通信」 の3費目、及び 「家具・家庭用品」だということになります。

「光熱・水道」に関しては「下落幅が縮小した」というだけで、物価そのものの足を引っ張っている要因であることに変わりありません。ただ、「エネルギー」の占める割合が多いですから、一旦調査対象から外します。ちなみにこの費目で唯一「エネルギー」ではない「水道」は0.5%の上昇で2月と比較して横ばいです。


ということは、やはり3月の消費者物価指数が伸び悩んでいる一番の原因はあいつ・・・ですよね、おそらく。そう。「家電製品」です。

これは、前回の記事 で掲載した日経ニュースでも

「春先の値引きキャンペーンが広がった携帯電話機は26.6%下落したほか、ノートパソコンも11.0%下がるなど耐久財が物価を押し下げた格好だ。」

と記されており、「耐久財が物価を押し下げた」ことが記されています。
ただ、「ノートパソコン」は「教養娯楽」分野であり、「家具・家庭用品」ではありませんけどね。

ということで、まずは「家具・家庭用品」を砕いてみます。


「家具・家庭用品」の消費者物価指数前年同月比


洗濯機

【「家具・家庭用品」消費者物価指数の前年同月比】※( )内は2017年2月の前年同月比です。
家具・家事用品 ウェイト:348
-0.8(0.6)

 家庭用耐久財 ウェイト:111
 -1.6(0.6)

 室内装備品 ウェイト:25
 -3.4(-3.1)

 寝具類 ウェイト:27
 2.2(1.1)

 家事雑貨 ウェイト:72
 1.4(3.7)

 家事用消耗品 ウェイト:86
 -2.3(-0.9)

 家事サービス ウェイト:27
 0.1(-0.1)

ということで、「家具・家庭用品」の中で、最も「ウェイト」の大きい「家庭用耐久財=家電」がやはり「消費者物価」の足を引っ張る要素となっていることが分かりました。

「室内装備品(カーテンやカーペット、電気など)」がマイナス幅を拡大していますが、この分野は平成26年4月~平成27年5月にかけて一時的に物価が上昇していた時期もありますが、それ以外では平成5年以降1カ月の途切れもなく前年同月割れをしている分野ですので、今回の対象からは外します。

この他、「家事雑貨」が上昇幅を縮小させており、「家事用消耗品」もまた下落幅を拡大させていますので、この2分類も調査してみます。


【「家庭用耐久財」消費者物価指数の前年同月比】※( )内は2017年2月の前年同月比です。
家庭用耐久財 ウェイト:111
-1.6(0.6)

  家事用耐久財
  -3.8(-2.7)

   電子レンジ
   -26.0(-19.5)

   電気炊飯器
   2.0(2.6)

   ガステーブル
   3.0(3.7)

   電気冷蔵庫
   -5.5 (-6.5)

   電気掃除機
   12.6(16.2)

   電気洗濯機(全自動洗濯機)
   -18.4(-20.2)

   電気洗濯機(洗濯乾燥機)
   -2.1(3.9)

  冷暖房用器具
  -0.4(5.1)

   ルームエアコン
   -0.7(5.9)

   温風ヒーター
   1.0(2.2)

   空気清浄機
   0.1(1.8)

さて。今回も一般社団法人日本電機工業会 より、メーカーベースでの「出荷台数」及び「合計出荷額」について調べてみます。

【2017年3月出荷状況(前年同月比)】
電子レンジ
出荷台数 117.2% 
出荷総額 112.7%

電気炊飯器
出荷台数 112.2%
出荷総額 106.7% 

電気冷蔵庫
出荷台数 107.5%
出荷総額 99.3% 

電気掃除機
出荷台数 109.7%
出荷総額 106.4%

電気洗濯機
出荷台数 121.5%
出荷総額 114.4% 

ルームエアコン
出荷台数 106.1%
出荷総額 104.6% 

と、こんな感じでしょうか。

見ての通り、唯一「電気冷蔵庫」の出荷総額が前年度割れしているものの、他は全て前年度オーバー。
ただ、どの項目も「出荷総額」を「出荷台数」が上回っていますので、「単価は下がったけれども、販売数量が増加した為、結果的に出荷総額が増えた」という状況も想定することは出来ます。

とはいえ、メーカーベースではきちんと「消費」は増えていることが分かります。
後はやはり販売店側の問題でしょうね。


この他、「一般家具」に関しては前年同月比2.9%。2月が2.7%ですから、「物価上昇率」としては非常に優秀な結果となっています。


「室内装備品」に関しては「照明器具」が-14.8%と大きく前年割れしていますが、「照明器具」に関してはデータが集計され始めて以来、ほぼすべての期間において前年度割れしており、どこか特定の内閣に於いて敢えてその影響を問題視する必要はないものと思われます。


「家事雑貨」に関しては、確かに前年同月比3.7→1.4と大きく上昇幅を縮小させてこそいますが、それでも1.4%という物価上昇率はそれほど悪い数字ではありません。

また、今回の「家事雑貨」という項目の中で、その最も大きな影響がみられるのは「台所用密閉容器」。つまり「タッパー製品」のことです。

理由はよくわかりませんが、この「台所用密閉容器」。2016年3月より2017年2月にかけての丸1年間、前年同月比70%超という物価上昇率を記録していました。これは、何かメーカー側の事情があったものとしか考えられません。

これが3月に入って前年同月比2.6%と落ち着いたため、このことが「家事雑貨」の消費者物価指数の上昇幅を大きく縮小させる結果となりました。ただこれは先月までが異常すぎたのであり、今月は「正常に戻った」と表現する方が正確だと思われます。


「家事用消耗品」は2月の下落幅0.9%から更に大きく物価が下落し、-2.3%となっています。

家事用消耗費の中で下落幅が広がっているのは「ティッシュペーパー」の-1.8%→-3.3%、台所用洗剤の1.4%→-3.6%の二つ。
共に石油精製品です。

正確な理由は分かりませんが、実際に原油が前年度を上回り始めたのは2016年11月以降の話であり、まだその影響が反映されきっていない、ということなのでしょうか。まあ、このあたりは特に付加価値が重要視されない分野ですから、それほど深く考える必要はないのかもしれません。


総括ですが、日経記事にもあった通り、「新生活応援」の影響もあったのかもしれませんが、やはり「家具・家庭用品」分野の内、「家電製品」の物価下落が「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」の伸び悩みに一つの大きな影響を与えているものと考えられます。

もう一つの家電分野、「テレビ、パソコン」に関しても同じ現象が起きているものと推察されますが、今回はこの分野に関しては深入りをせず、次回記事ではもう一つの気になる分野、「エネルギー」に関して調査を進めてみたいと思います。


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タイトルにございます通り、本日(4月28日)、平成28年(2016年)度通年の消費者物価指数が発表されました。

これは、勿論同時に平成28年(2016)度3月度の消費者物価も発表されたという事。
日経ニュースですと、こんな感じで報道されています。

【日経ニュースより】
消費者物価3月0.2%上昇 エネルギー除くとマイナス
2017/4/28 12:12

 総務省が28日発表した3月の全国消費者物価指数(CPI、2015年=100)は、値動きの激しい生鮮食品を除く総合指数が99.8となり、前年同月比0.2%上昇した。3.9%上昇したエネルギーが物価全体を押し上げた。エネルギーを除くベースでは0.1%下落し、13年7月以来3年8カ月ぶりにマイナスに転じた。

日経ニュースより(前年同月比)

 生鮮食品を除く総合指数は3カ月連続の上昇。ガソリンが20.4%と大きく伸びたほか、電気代や都市ガス代も前年比のマイナス幅を縮小した。国内外の旅行需要を反映し、宿泊料や外国パック旅行費も物価を押し上げた。

 ただ消費が力強さを欠くなか、エネルギー以外の物価は伸び悩んでいる。春先の値引きキャンペーンが広がった携帯電話機は26.6%下落したほか、ノートパソコンも11.0%下がるなど耐久財が物価を押し下げた格好だ。

 先行指標となる東京都区部の4月のCPIは、生鮮食品を除く総合指数で0.1%下落した。被服及び履物が0.1%下がった。昨年に比べて春夏物を値上げする動きが鈍かったという。4月中旬から小売り大手が日用品などの値下げに動いており、総務省は「ある程度は物価に反映されている」との見方を示した。

通年のニュースではなく、3月度の記事になります。

記事内容がだいぶん私が毎回掲載している記事に近くなってきたかな、とも感じます。
記事内容として、携帯電話や耐久消費財に焦点を当てているあたりがまさしく・・・といった感じですね。

記事で「消費者物価指数」と書いているのは、「生鮮食品を除く総合」であり、政府・日銀が「物価上昇」の目標としている数字で、「コアCPI」と呼ばれるものの事。

記事では、「3.9%上昇したエネルギーが物価全体を押し上げた。」と記されています。
消費者物価が下落している当時では、「エネルギー価格が全体を押し下げている」等とは書いていなかった様に記憶していますが、随分都合の良い話です。

で、記事中にある「エネルギーを除くベース」とは、「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」の事。
第280回の記事 でご紹介した様に、平成28年度1月より新たに消費者物価指数に加えられた数字です。

12月までは「コアコアCPI」として、「食料およびエネルギーを除く総合」という指標がこの位置に割り当てられていましたが、これが「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」へと変更された形です。理由はリンク先 でご覧ください。
 
28年度通年のニュースも報道されているんですが、ネット上ではまだ検索にかかりませんので、今回は報道を確認できる平成28年(2016年)度3月の消費者物価指数から記事にいたします。


平成28年(2016年)度3月度消費者物価指数の見方

先ずは大枠で、「消費者物価指数総合」に関連した項目から記事にします。

【消費者物価指数総合の前年同月比】※( )内は2017年2月の前年同月比です。
総合
0.2(0.3)

生鮮食品を除く総合
0.2 (0.2)

持家の帰属家賃を除く総合
0.3(0.4)

持家の帰属家賃及び生鮮食品を除く総合
0.4(0.3)

生鮮食品及びエネルギーを除く総合
-0.1 (0.1)

こちらは2017年3月の消費者物価指数(前年同月比)です。

私は、長い間「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」を見ることが大切だ、と言い続けてきたわけですが、その「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」が、遂に前年度割れしてしまいました。

ここが大切だ、と言ってきた私としては、この「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」が下落した理由を追求することが今回この「消費者物価指数」に関連した記事を作成する最大の目的となります。


「持家に帰属する家賃」の見方

住居

私の記事を読んでいる方であれば、既にご承知のことと思いますが、「消費者物価指数」をみる上で、一番気を付けなければならないのはこの「持家に帰属する家賃」の存在です。

【持家に帰属する家賃」の前年同月比】※( )内は2017年2月の前年同月比です。
持家の帰属家賃を除く総合
0.3(0.4)  ウェイト:8501

持家の帰属家賃及び生鮮食品を除く総合
0.4(0.3)  ウェイト:8087

持家の帰属家賃
-0.4( -0.4) ウェイト:1499

第281回の記事 でお伝えしていますように、「持家に帰属する家賃」とは、

 「現在居住する持家が、もし持家ではなく借家であったとすると、その家賃はいったいいくらになるのか?」

という数字であり、本来そんなものに対する「消費」は全く発生していません。
そんな数字は現実には存在しない、フィクションの数字なのです。ですから、私個人の考えではありますが、この数字は本来「消費者物価指数」そのものに加えるべきではない数字です。

ちなみに上表の「ウェイト」とは、日本国で起きる全ての「消費量」を「10000」と考えたとき、持家に帰属する家賃であれば、その消費量は一体どのくらいの数字になるのか、という数字です。

日本国内で起きるすべての「消費」には共通の単位が存在しませんから、これを「加重平均」という方法を用いて平均化したもの。
私はこれを「重要度」と表現しています。

つまり、ウェイトとは、「消費者物価」を考えるとき、そのアイテムの「重要度の割合」を示したものです。
持家に帰属する家賃のウェイトは「1499」。本来日本ではそんなものの消費は全く起きていないにも拘わらず、なぜか存在する「持家に帰属する家賃」のウェイトが、なんと消費者物価指数全体の約15%も占めているのです。これははっきり言って異常です。

「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」には、そんなフィクションの数字が含まれており、その数字を差し引いた結果、前年同月比が前年度割れした、ということになります。

ですが、例えば「持家の帰属家賃を除く総合」では「持家の帰属家賃が含まれた総合」の前年同月比が0.2であることと比較して0.1ポイント増しの0.3%。この差は大きいと思います。

また、ここから「生鮮食品」を除いた「持家の帰属家賃及び生鮮食品を除く総合」は0.4%と更に上昇幅を拡大させていることから、消費者物価指数「総合」の物価を引き下げている原因として、「生鮮食品」が影響を与えていることが分かります。

逆に上昇させている理由は「エネルギー」にあるわけですが、「持家に帰属する家賃」そのものは2月も3月も-0.4%と変化しておらず、持家に帰属する家賃を除かない「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」は0.1%から-0.1%と、その下落幅は0.2%にすぎませんから、持家に帰属する家賃を除く「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」は恐らく0.2%。

未だ前年同月比でプラス圏内にとどまっているものと考えられます。
私は思います。もし本当に正確に「消費者物価指数」を活用したいのであれば、「生鮮食品及びエネルギー」から、更に「持ち家の帰属家賃」を除いた「総合」も指標として加えるべきだと。


然し、それでも「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」が、2月から3月にかけて下落していることには変わりありませんから、次回記事ではこの「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」が下落した理由について検証してみたいと思います。


この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継続する記事>
第312回 ロシア革命に於ける二月革命/ロマノフ朝(帝政ロシア)の崩壊

前回の記事でお示ししました様に、所謂「ロシア革命」は、ユリウス暦1917年2月23日にロシアの首都ペトログラードにて発生した、食料配給を求める「デモ」が原因で勃発しました。

2月革命後、「ボリシェヴィキ」「メンシェヴィキ」「社会革命党」の3党によって「ペトログラード・ソヴィエト(労働者・兵士による評議会)」が誕生し、一つの「権力」を保有することとなるわけですが、結成はこの当時多数派であった左派社会主義政党「メンシェヴィキ」の呼びかけに応じて行われました。

ですが、第310回の記事 でもお伝えしました様に、そもそも「メンシェヴィキ」や「ボリシェヴィキ」が誕生したの最大の理由は、後の十月革命で中心的な役割を果たす「ウラジミール=レーニン」がロシア労働党機関紙であった「イスクラ」編集局から分裂し、ボリシェヴィキ中央部「多数派諸委員会ビューロー」を結成したことが原因でした。

この当時「レーニン」率いるボリシェヴィキは「多数派」であったわけですが、「ペトログラード・ソヴィエト」が結成された時点では少数派となっています。

では、「多数派諸委員会ビューロー」を結成した後、「レーニン」率いるボリシェヴィキは、一体どのような変遷をたどったのでしょうか。先ずは「レーニン」にスポットを当て、今回の記事は進めてみたいと思います。


レーニンの生い立ち


レーニン

ロシアの革命家、「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」。本名は「ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ」と言います。

第310回の記事でお伝えした様に、彼の兄の名前は「アレクサンドル・ウリヤノフ」。

当時のロシア皇帝であったアレクサンドル3世を暗殺しようとして失敗した人物です。

内容はWikiベースで進めていきます。
レーニンの兄がクーデターに失敗し、絞首刑に処せられたのが1887年。
レーニンもまた同年12月にカザン大学にて学生運動に加わり、暴動を起こして警察に拘束され、大学からも退学処分されることになりました。レーニンは兄と共に「テロリスト兄弟」の烙印を押され、以降秘密警察から監視される日々を送ることとなります。

そんなレーニンの思想に大きな影響を与えたのが「カール・マルクス」。彼が学生運動に参加したのもマルクスによる影響を受けた部分が大きい様です。

記述を読みますと、レーニンという人物は、非常に頭のいい人物であった様ですね。以下、転載です。

レーニンは監視の中で暴動を控えて「資本論」などカール・マルクスの著作を読み耽り、思想研究に没頭して理論面での活動を志し始めた。

3年後、法律学に関する理論を兄の母校サンクトペテルブルク大学の論文審査に提出、高い評価を受けて入学を許可された。国家検定試験でも134人中1位という成績を残す。

1892年、サンクトペテルブルク大学から第一法学士の称号を与えられる。

ちなみにサンクトペテルブルク大学時代にもかつての専攻であった言語に関する成績はトップクラスで、ギリシャ語・ラテン語、ドイツ語、英語、フランス語を習得した。ただフランス語は苦手だったらしく、後年にフランス語での講義を断ったというエピソードが残っている。


前回の記事 で、ロシアがたどった市民革命への道は、他のヨーロッパ各地がたどった市民革命の変遷とは異なる独特な道を進んだことをお示ししましたが、レーニン自身はどっぷりマルクス主義にはまり、所謂「社会活動家」としてもその頭角を現していきます。

・1895年     労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟を結成
・同年12月7日 逮捕・投獄
・1897年     シベリア流刑、エニセイ県ミヌシンスクの近くのシュシェンスコエ村に追放
・1898年7月   社会主義活動家ナデジダ・クルプスカヤと結婚
・1899年4月   『ロシアにおける資本主義の発達』を出版
・1900年     刑期が終了し7月にスイスへ亡命
(スイス滞在中、イタリア社会党時代のベニート・ムッソリーニと面会)
・1900年12月   政治新聞『イスクラ』を創刊
(当時、ロシア社会主義者の中で広まりつつあった「経済主義(政権打倒のための政治闘争より労働者の経済的地位の向上を目指す経済闘争を重視する考え方」を批判したもの)
・1901年12月   「レーニン」という偽名を用いるようになる

さて。その翌年、1902年に彼が記した著書、「何をなすべきか?」に関する記述の中で、少し面白い記述がありましたので、これを少しご紹介しておきます。

先ほど、ロシアがたどった市民革命の道が他のヨーロッパ諸国とは異なる異質なものであることをお伝えしました。
ただ、レーニンはそんな中でもどっぷり「マルクス主義」にはまった、ということもお伝えしたのですが、「何をなすべきか?」の中に於いて、レーニンもまたこの「マルクス主義」に対して独特の考え方を示したようです。

(何をなすべきか?とは)労働者の自然成長的な経済闘争はそれ自体としてはブルジョア・イデオロギーを超えない、と指摘し、社会主義を目指す政治闘争を主張したものである。

彼はその際に「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」というカウツキーの言葉を引用した。

この考え方は後に外部注入論と呼ばれるようになる。

ちょっとややこしいですね。


外部注入論とは?

「何をなすべきか」の中で、レーニンはそもそも何を主張しようとしていたのでしょう。
第62回の記事 でお伝えしました様に、マルクスは「ゴーダ綱領批判」において、「共産主義」の在り方について、以下の様に定義しています。

・(資本主義から共産主義に移行する)革命の過渡期において、労働者階級による権力の掌握が必要であること。
・これは、プロレタリアート(労働者階級)の独裁によってのみ実現が可能であること。
・プロレタリアには祖国はなく、プロレタリアの利害は一致していること。

加えてその実現が「暴力」によってのみ実現できる、としているわけですが、この部分はいったん頭から外します。

(※以下の内容は、私の個人的な解釈を含みますので、その点はご容赦ください。)

「社会主義」という考え方は、その後のヨーロッパの歴史の中で、様々に姿を変え、例えばマルクスが、その実現は「暴力」によってのみ実現されるとした部分も、後の社会主義者たちの解釈の中で、大きく変化します。

そしてレーニンは、そんな「社会主義」という考え方が、プロレタリアート(労働者)たちの階級闘争の中かから自然発生的に生まれるものではない、と考えたわけですね。

彼の祖国であったロシアに於いても自然発生的に「ナロードニキ」という市民運動は勃発したわけですが、これは所謂「マルクス主義」の影響を受けたものではありません。

マルクス主義は、レーニンらによって事後的にロシア国内に持ち込まれ、ロシアの革命運動に影響を与えていくことになるのです。

マルクスはこのような革命が「プロレタリアートの手によって」実現されるべきだ、と考えました。

ですがレーニンは、「社会主義はプロレタリアート革命の中から自然発生的に生まれるものではない」と主張しているわけです。
ですから、誰かがこの「社会主義」をプロレタリアートたちに教えてあげる必要がある、と考えたのですね。

そしてレーニンは、それが出来るのは知識のない労働者階級である「プロレタリアート」ではなく、資産があり、外部から「社会主義」という思想を学ぶ手段を取ることができる「知識階級」である「ブルジョワジー」だと考えたわけです。

つまり、レーニンの目指す社会主義革命は、「ブルジョワ(資産階級)」による革命。
こうなってくると、レーニンが目指した革命は間違いなく「共産革命」ではなく「社会主義革命」であったことがよくわかります。


レーニン率いるイスクラ派(政治新聞「イスクラ」を創刊したメンバー)は、1903年、1898年3月14日に結党されたものの、弾圧を受けて機能不全に陥っていたロシア社会民主労働党を再建し、第2回党大会を開催します。

ところが、再建されたばかりの同党は、イスクラ派は組織論や指導部の構成をめぐって内部分裂。「ボリシェヴィキ」と「メンシェビキ」の2派閥に分かれます。

このうち「ボリシェヴィキ」を率いたのがウラジミール=レーニンでした。


さて。この後、起きるのが「血の日曜日事件」と「ロシア第一革命」。
このあたりから段々レーニンのスタンスがややこしくなってくるので、一旦記事を分け、続きは次回に委ねることとします。


この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継続する記事>
第310回 ロシア革命勃発に至る背景/マルクス主義者の台頭

「二月革命」とは言いますが、これは当時ロシアで利用されていた暦、「ユリウス暦」に基づくもの。
私たちが慣れ親しんでいる「グレゴリオ歴」では3月に起きた革命です。

私自身、このブログを通じて「右翼」や「左翼」、「共産主義」や「社会主義」等について学んできたわけですが、今回のこの「ロシア革命」。これを理解するうえで、私が長い間調べて来た内容がどうも役に立つときが来た様です。

「右翼」と「左翼」の違い、又は「共産主義」と「社会主義」の違いについては改めてシリーズ、「「右翼」と「左翼」の違いを分かりやすく検証します。」 でも振り返っていただければ幸いです。


二月革命の経緯

では、改めて「ロシア革命」に於ける「二月革命」について記事にしてみたいと思います。

帝政ロシア=ロマノフ朝がこうもあっさりと崩壊した理由として、

1.ロシア第一革命に於けるマルクス主義者たちの台頭
2.日露戦争に於ける日本に対する敗北
3.第一次世界大戦への参戦により、外資がロシア国内から撤退したこと
4.第一次世界大戦により、本来食料の生産活動を行うための農民が兵士として戦争に駆り出されてしまった事

主にこのような理由があるようです。
1、2については既に第310回の記事 に掲載しましたね?

加えて3,4の理由によって、ロシア国内の食料が供給不足に陥り、物価が5倍、6倍と高騰してしまったんですね。

で、食料の供給を求めてユリウス暦1917年2月23日、グレゴリオ暦3月8日にロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)に於いて発生した「デモ」が「二月革命」のそもそもの発端です。

2月革命

このデモを鎮圧する様皇帝であるニコライ二世に命じられた警官隊がデモに向けて発砲。多数の市民が犠牲となります。

これを受けて一部の兵士が反乱を起こし、ニコライ二世はこれを鎮圧する様更に命令を出すわけですが、反乱を鎮圧するはずの兵士が次々と反乱軍に加わります。

この時のロシアの指示系統として、「ドゥーマ(議会)」に皇帝が指示をし、指示に従ってドゥーマが政策を実行する・・・という形がとられていたわけですが、肝心のこのドゥーマの議長であるロジャンコが皇帝の意に反して臨時委員会を設置し、政権を掌握し、皇帝に退位を迫ります。

このことによりニコライ二世は退位(1917年3月15日)。
彼の位を継承することを弟に拒否され、ロマノフ朝を継承する者が誰も存在しなくなり、ついにロマノフ朝は崩壊します。

一方で第310回の記事 でお伝えした通り、「メンシェビキ」に所属する議員の呼びかけにより、「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されます。


内容そのものは結構端折りましたが、大体こんな感じです。

この後、更に十月革命がおこり、遂に「ソビエト連邦」が誕生するわけですが・・・。


「ロシア革命」と「フランス革命」の違い

調べてみて面白いな、と感じたのは、今回記事の対象としている「ロシア革命」と、市民革命の先駆けともいえる「フランス革命」や、その後ヨーロッパ各地で起きた「市民革命」との違いです。

第50回の記事 でお伝えしましたように、そもそも「フランス革命」とは、当時のフランスに在った身分制度、「アンシャンレジーム」に於いて、「聖職者」及び「貴族」の位を持つ第1、第2身分の位に対して、一般市民で構成される「第3身分」の位の人々が起こした革命です。

また更に、マルクスらが登場した時代には、第三身分が「ブルジョワ(資産階級)」と「プロレタリアート(労働者階級)」に分かれ、マルクスはブルジョワによる革命を「社会主義」、プロレタリアートによる革命を「共産主義」と呼びました。

そしてマルクスは、共産主義社会を実現するためには、プロレタリアートの暴力による改革と、社会主義社会から共産主義に移行するまでの間、プロレタリアートによる「独裁」が必要である、と説きました。

現代では「社会主義」とは「共産主義」に移行する段階に於ける、「プロレタリアートによる独裁」が行われている状況にある、と解釈されており、「共産主義社会を目指す人々」という意味では「社会主義者」と「共産主義者」とはほぼ同等の意味を持っていると考えられます。

一方で、ではそもそも「共産主義」とはどのような社会をいうと、元々「共産主義(コミュニズム)」という言葉を生み出したフランソワ・ノイエ・バブーフによれば、土地の「相続権」や「所有権」を否定した社会のこと。

この考え方の元となったルソーによれば、「自然界において人は平等であり、土地の所有や財産の相続よって身分、階級が生まれ、不平等が発生した」とあり、バブーフは「土地の所有や財産の相続」を否定し、『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』(完全なる平等社会)の実現を目指しました。

バブーフが考えた、『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』を目指す人々のことを「アナーキスト(無政府主義者)」と言います。(第161回の記事 をご参照ください)


フランス革命後のヨーロッパは、フランス革命による市民革命の『成功例』を参考に市民革命を実現していくわけですが、ロシア革命とフランス革命以降の市民革命の違いとして一番大きいのは、元々ロシアには「ブルジョワ」だの「プロレタリアート」だのと言った身分制度に関する認識がなかった言う事。

そして、ロシア人が「マルクス主義」に触れるのは、アレクサンドル2世による「農奴解放令」が発令され、革命的秘密結社、「第一次『土地と自由』」による「一月蜂起」が勃発した後。

更に、「土地と自由」から分派した「人民の意志」が、アレクサンドル2世を暗殺した後であったということです。
つまり、「マルクス主義」の情報がロシア国内に入る以前に、「市民革命」に相当する行為を行っていた、ということになります。

そして、二月革命後に結成された「ペトログラード・ソヴィエト」で副議長を務めたアレクサンドル・ケレンスキーが所属する社会革命党は、マルクス主義に基づいて結成された政党ではなく、マルクス主義がロシアに入ってくる以前からロシア国内に存在した「人民の意志」の流れを引き継ぐ政党でした。

この様に、「ロシア革命」が勃発する様子は、どうもこれまでのヨーロッパに於ける「市民革命」とは異なる傾向がみられます。

「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されたのはユリウス暦で3月1日、グレゴリオ暦で3月14日となるわけですが、「ペトログラード・ソヴィエト」は本来少数派であったはずの右派社会主義政党「メンシェビキ」の呼びかけによって結成されました。

元々「多数派」であったはずの左派社会主義政党「ボリシェヴィキ」は、「ペトログラード・ソヴィエト」結成時においては少数派だったのですが、ユリウス暦3月12日(グレゴリオ暦3月25日)、亡命先の東シベリアよりレフ・カーメネフと、後にソビエト連邦2代目書記長となるヨシフ=スターリンが帰国。

更にユリウス暦4月3日(グレゴリオ暦4月16日)、10月革命を主導し、ソビエト連邦初代書記長となるウラジミール=レーニンが帰国します。

カーネメフ・スターリン・レーニンはそろってボリシェヴィキのメンバーでした。


さて。それでは、次回記事において、2月革命が勃発した後の経緯を追いかけながら、この3名が帰国後、どのようにして10月革命が勃発するのか。その経緯を記事にしたいと思います。


この記事のカテゴリー >>TPP


今回の記事は、中々熱い記事が出てきましたので、この記事をテーマに作成したいと思います。

先ずは引用元のニュースから。

【日本経済新聞記事より(2017/4/20)】(※まずは読み飛ばしてください)
麻生副総理、米抜きTPP「APECで5月協議」

 【ニューヨーク=大塚節雄】麻生太郎副総理・財務相は19日、ニューヨークで講演し、米国が離脱した環太平洋経済連携協定(TPP)に関し、米国を除く11カ国での発効に向けて「5月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)で話が出る」と語った。ベトナムでのAPEC貿易相会合にあわせて開くTPP参加国の閣僚会合で、議論に本格的に着手することを明らかにした。

 米国を除くTPP参加国11カ国は、5月下旬にベトナムで関係閣僚会合を開く。日本政府は、米抜きTPPの発効方法の検討を事務方に指示する共同声明の採択を目指している。麻生氏は「相手がある話だからわからない」としながら、「12カ国という数があったからあれだけのことができた」と述べ、多国間協定の利点を強調した。

 そのうえでTPPでは「たとえば日米間(の交渉)で日本が失うものがあったとしても、他国から(利益を)とる、という調整ができた。2国間ではそこまではいかない」と話し、日米自由貿易協定(FTA)などの2国間協定には慎重な姿勢を示した。

 一方、ペンス米副大統領との間で18日に初会合を開いた日米経済対話に関しては「日米でつくりあげたルールをアジア太平洋地域に広げるようなつもりでやっている」と改めて語った。米抜きTPPの協議と並行し、日米で多国間が参加できる貿易・投資ルールづくりを主導したい意向も示した。

 政府は米抜きTPPの検討を本格化させている。TPPに合意した12カ国から米国を除いた11カ国による協定発効をめざす考え。政府はこれまで慎重姿勢を崩さなかったが、米国の動きをにらみ転換した。

 菅義偉官房長官も20日午前の記者会見で、米国を抜いた形でのTPP協定の発効について「あらゆる可能性を排除しない」と意欲を示した。

 5月にベトナムで開かれるTPP閣僚会合で「TPPで合意した高レベルの貿易ルールを実現するためにどのようなことができるか議論したい」と語った。離脱を決めた米国には「粘り強く説明することは変わらない」と再加入を呼びかける考えを示した。

 米抜きTPPの実現には、米国を外す協定改正が必要となる。日本やオーストラリアは前向きな一方、ベトナムなど米国との交渉で大幅譲歩した国からは協定内容の変更を求める声があるもようで、11カ国内の温度差は残る。

 講演はコロンビア大学で開催。冒頭部分は英語で話し、質疑応答では日本語を中心に時折、英語を交えてやり取りした。麻生氏はワシントンで20日開幕する20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議に参加するため、米国を訪れた。

今回引用したい記事はもう一つあります。

【ロイター記事より】(※こちらもまずは読み飛ばしてください)
財務相:2カ国間貿易、TPPで見込まれるほどの成果は期待できない

麻生太郎2

日米経済対話、麻生財務相「FTAの話にはまずならない」


[東京 18日 ロイター] - 麻生太郎財務相は18日の閣議後会見で、同日午後に行われる日米経済対話では「個別の話に入ることはない」とした上で、「自由貿易協定(FTA)の話にはまずならない」との認識を示した。米側の事務方の陣営が整っていないことから「細かい話ができるはずがない」とも述べた。

過去の日米協議の枠組みは、通商面などの摩擦解消を目的に、米側から提案された経緯がある。

麻生財務相は、今回の経済対話が日本側から持ちかけて発足したものであることに触れ、「摩擦ではなく、協力という前提で話をする」と強調。日米間で協議する枠組みが、アジア太平洋諸国にとっての「モデルケース」になれば、と語った。

写真は、もうちょいかっこいい写真を・・・とも思ったのですが、引用元が掲載している画像がこれだけでしたので、この写真を使います。


TPPを米国抜きで行うという意味(意義)

この政策を予測する記事を私は 第215回の記事 に記しました。

引用します。

【第215回の記事より】
米国は一国で2013年における国内総生産の65%を占めていますから、米国が抜けただけで発行は事実上不可能になる・・・という考え方も一理あるかもしれません。

ですが、既に述べています通り、元々「TPP協定のガン」となるのはアメリカだったはずです。

私もまた、「民主党政権下におけるTPP交渉への参加」には反対していた人間の一人です。
ですが、TPP参加そのものへの反対をしていたわけではありません。

「日本が主導して、日本中心にルール作りを行うこと」を日本のTPP参加への条件としていました。

甘利さんを中心として、米国との間でTPP交渉が行われるようになって以降のTPPのルール作りはほぼ日米が交渉の中心となって行ったといっても過言ではありません。

そして、その中から「アメリカが離脱」するわけです。
これこそ「渡りに船」であると私は思います。

そして更に、
現行のルールで発行が無理なのならば、アメリカ抜きで発効できるようルール改正すればよいだけの話です。

とも記しました。

この時私が予測した政策がついにスタートした、ということです。
サブタイトルにある「TPPを米国抜きで行うという意味(意義)」についてですが、先ほどの 第215回の記事 や 第214回の記事 をご覧いただくと、私が何を主張したいのかということは、凡そ予測していただけると思います。

もともと、この「TPP」という考え方は、麻生さんの 自由と繁栄の回廊 という考え方に従って、アジアで米国抜きで進められている日本の外交方針に危機感を覚えた米国が、麻生さんのお株を奪う形で築いた「経済連携協定=EPA」のことです。
 (EPAについては第213回の記事 をご参照ください)

元々「アメリカ」は参加していなかったじゃないか、という意見もあるかもしれませんが、米国がTPPに参加した理由こそまさしく上記に記したような理由だと推察されるわけです。

麻生さんは、そもそも民主党内閣当時からこの「TPP」については賛成の意志を明らかにしていました。
当然と言えば当然です。「アメリカ」が入っていること以外、TPP構想はまさしく麻生さんの考える「自由と繁栄の回廊」を体現したものであったわけですから。

そして、この当時話題になっていたのは中野 剛志 氏の記した「TPP亡国論」という書籍でした。

基本的に、TPP批判を行う人たちの考え方のベースになっていたのが彼が書籍に記した内容です。
即ち民主党がTPP交渉への参加を決めた段階で、日本を除く残り11カ国の間では既にTPPの概要に対する交渉は終結しており、あとから参加した日本が交渉に参加できる余地はない、とする主張でした。

ですが、麻生さんはこれに対し、「そんなことはない」という主張を行っていました。
私も基本的に麻生さんの考え方に賛成でしたし、それ故「民主党政権下での交渉参加に反対である」という主張をこのブログでも、過去に私が作成していたブログでも掲載していました。

中野さんも同じ意見だと考えていたのですが、どうもその後配信されていた動画等を見ていると、「民主党政権であろうがなかろうが、交渉そのものに参加することはできない。日本は終わった」と考えていた様ですね。これは余談です。

実際には甘利さんの活躍もあり、交渉は米国ではなく日本にとって有利なものとなり、米国にとってうまみのないものとなってしまったので、トランプは結局「TPPからの離脱」を表明するに至ったわけです。


そして今回、ついに安倍内閣はTPP交渉について、米国抜きで行われることと相成ったわけです。
そして、更にその交渉の旗振り役を日本が行うわけですから、完全に、「米国抜き、日本主導」で行われるTPPの実現が見えてきましたね。

恐らくこういった経済交渉の中身は安倍さんではなく、麻生さん主導で進められているものと考えられます。


米国との二国間交渉の価値

さて。この度の記事で、もう一つ引用したロイターからの記事。
タイトルを

・財務相:2カ国間貿易、TPPで見込まれるほどの成果は期待できない(4月20日)
・日米経済対話、麻生財務相「FTAの話にはまずならない」(4月18日)

という二つ掲載していますが、言っている内容はほぼ同じものです。
先ほどお示しした「TPP亡国論」に於いて中野 剛志氏は、日本がTPPに参加すると大失敗する、とした理由として、韓国が米国との間で結んだ「米韓FTA」の事例があります。

もう一度 第213回の記事 をご覧いただきたいのですが、韓国が米国との間で「二国間」で締結した協定は「FTA」、つまり「自由貿易協定」です。

一方、日本をはじめとする12カ国が、米国も含めて締結した「TPP協定」は、「EPA」、つまり「経済連携協定」です。

引用先の記事に掲載していますが、「FTA」とは、ただ単に関税を撤廃し、協定を結んだ国家間で自由に貿易を行う事を取り決めるための協定です。

ですが、「EPA」とは、その貿易を行うための「ルール作り」を行う為の協定です。

韓国では、この時ほぼ米国のいいなりになって、米国にとって有利な内容の「FTA協定」を締結しました。
ですが、TPPの場合は米国にとって有利に仕上がっていた内容のTPP協定を、米国に肉薄する経済規模を持つ日本が参加することで、米国だけでなく、参加するすべての国にとってメリットのある内容に作り替えられたわけです。

この差は大きいと思います。結果、米国はこのTPP協定から離脱することを表明したわけですから。

さて。今回その「TPP協定」からの離脱を表明した米国ペンス副大統領ですが、今度は日本に対して、「二国間でのFTA協定」を結ぶことを提案してきています。

これに麻生さんは「No」と言っているわけです。理由は分かると思います。

さて。これに関して、とある人物が中々痛い発言をしていました。



上記の動画は、元財務官僚である自称経済学者「高橋洋一」氏が、自民党で幹事長代行及び東京都連代表を務める元文科大臣下村博文さんとラジオで対談をしている様子を収録したものです。

下村さんは前半で退場されるのですが、丁度後半の差し掛かりで今回テーマとなった米国抜きのTPP交渉参加が話題になります。38分10秒当りからです。

ここで、高橋洋一ですが、二か国間交渉について、私が今回の記事に記したついて、まったく逆の主張を行っています。
一応、内容として「TPPと同じ内容で」と表現こそしてはいますが、彼は日本と米国とでの二国間交渉を「行うべきだ」と言っているわけです。

勿論、結果として二国間で取り決めを行う事になるのかもしれませんが、あくまでも日本は米国に対して「TPPの枠内」で交渉を行うべきだと主張するべきだと、私はそう思います。

そうしないのであれば包括的連携協定は行わない、という姿勢を露骨に見せてもよいかもしれません。
出なければ、もし仮に最初は二国間でのFTA協定が「TPPと同じ内容」で決まったとしても、これは二国間での話ですから、将来的に「見直し」に迫られる可能性を否定することができません。

「TPP協定」も勿論同じ考え方が出来るのですが、これが「複数の国の間」で取り決めが行われている以上、どこか一つの国の利益のみを優先したような改正内容とはなりません。

仮にTPP協定が非常に魅力のあるものとなった時、再び米国が参加しようとしたときに、日本は完全に米国に対してイニシアティブを発揮することができる様になるわけです。

今後RCEP、FTAAPへと発展した時も、日本主導で進められ、「既に」運用されているモデルケースとしてTPPが参考にされることになれば、中国や韓国を含めた世界経済に対して日本が主導権を発揮することができる様になるのです。

今回の決定で本当に意味があるのはこの部分であり、米国との二国間協定など二の次、三の次。
高橋洋一は完全にその「重要度」をはき違えているわけです。

案の定・・・ではありましたが。
第128回の記事 でもお伝えしましたが、私にはなぜ彼をマスコミがここまで重用するのかということが、まったく理解できません。


少しネガティブな締めくくりをしてしまいましたが、「米国抜きで発進するTPP交渉」の意義を今一度皆さんにも考えるきっかけにしていただけると幸いです。


この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継続する記事>
第309回 サラエボ事件はなぜ第一次世界大戦へと発展したのか

第297回の記事 に於きまして、私は日露戦争当時に勃発した「ロシア第一革命」について記事にしました。

ロシア第一革命そのものは、

 「私たちの生活はこんなに苦しいのに、日本と戦争をやってるなんて何事だ!」

といった主張を労働者たちが皇帝に対して行ったところ、デモ隊が警備兵に大量に射殺されてしまった事(血の日曜日事件)が原因で、革命運動がロシア全土に広がったもので、主導者のようなものは存在しなかったのだそうですが、ここに至るまでの流れを見てみますと

1.1861年2月、皇帝アレクサンドル2世により、「農奴解放令」を公布。ロシア国民の中に改革へ向けた意識が高揚される。

2.同年末、革命的秘密結社、「第一次『土地と自由』」が結成される。

3.海外に亡命している革命家たちとも連携し、1863年1月22日、ポーランドに於いて武力蜂起が勃発するが、ロシア国内の指導者が逮捕され、1864年4月11日、鎮圧(一月蜂起)

4.1878年、一月蜂起を起こした人民主義者(ナロードニキ)たちによって「第二次『土地と自由』」が結成されるが、革命を起こす方向性で意見が分かれ、テロリズムを肯定する「人民の意志」派と、それを否定しプロパガンダを重視する「チョールヌイ・ペレジェール(全土地割替)」派とに分裂。

5.1881年3月1日「人民の意志」メンバーによりアレクサンドル2世暗殺

6.1887年3月1日、「人民の意志」メンバーである、レーニンの兄「アレクサンドル・ウリヤノフ」によってアレクサンドル3世の暗殺が計画されるが失敗し、「人民の意志」は壊滅。この頃から、西欧に移住したロシア人たちが「マルクス主義」に触れ、ロシア人の「マルクス主義団体」が結成されるようになる。

7.1898年、キエフのマルクス主義団体が中心となり、「ロシア社会民主党」が結成される。結党宣言を行ったシュトルーベにより、「ロシア社会民主労働党」と党名が改められる。

8.1901年、ナロードニキの流れを組む革命政党、「社会革命党」が結成される。

9.ロシア労働党機関紙「イスクラ」編集局を中心とするグループ「イスクラ派」が分裂し、

 『多数派であるボリシェヴィキ』

  と

 『少数派であるメンシェヴィキ』

に分裂する。

「イスクラ」は多数派であるメンシェヴィキの機関紙となるが、ボリシェヴィキの代表で会ったレーニンは1904年末、ボリシェヴィキ中央部「多数派諸委員会ビューロー」を創設する。

10.1905年1月9日、「血の日曜日」によりロシア第一革命が勃発する

と、この様な流れになります。

そう。ついに登場しましたね。ロシア革命の立役者、「ウラジーミル・レーニン」の名が。

レーニン

まあ、悪名高きソ連を生み出したわけですから、「立役者」との表現はあまり適切ではないかもしれませんが。

ちなみに元々は「ボリシェヴィキ」が「多数派」、「メンシェヴィキ」が「少数派」を意味するのですが、ボリシェヴィキもメンシェヴィキも共に「社会主義」派閥。ですが、後に同じ社会主義の中でも「ボリシェヴィキ」が「左派」、「メンシェヴィキ」が「右派」と変化していくようです。

ロシア第一革命が終結するのは1905年12月です。
この時ボリシェヴィキは武装蜂起を計画し、労働者を暴力によって従わせ、デモを決行させるのですが、デモ隊に向かって帝政ロシア政府軍が砲撃。1000人以上の死者を出した後、ボリシェヴィキは投稿し、ロシア第一革命は終結することとなります。


ロシア第一革命後のロシア

前置きのつもりだったのですが、随分長くなりましたね。
革命に合わせて、ロシアでは各地に「ソヴィエト(労働者・農民・兵士の評議会(理事会))」が結成されます。

ですが、ロシア第一革命の後、社会活動家たちに対する皇帝の締め付けは激しくなり、指導者は投獄されるか、または亡命という選択を迫られました。このことにより、「ソヴィエト」は壊滅させらます。

この時、中心となって活動家たちの弾圧を行ったのが「ピョートル・ストルイピン」という人物。
ロシア第一革命後の内閣で首相を務めていた人物です。

ストルイピン

ですが、彼の取った農村に対する政策がロシア国民の反感を買い、1911年9月18日、彼はユダヤ人青年の手によって暗殺されてしまいます。彼が暗殺された場所こそ、現在のウクライナの首都であるキエフ。

ちなみに、当時のロシアの首都はサンクトペテルブルクでしたが、ロシア第一革命当時、このサンクトペテルブルクで「ソヴィエト」を結成した人物が「レフ・トロツキー」。彼もまたウクライナ人で、家族はユダヤ人。

彼は後のロシア革命で指導者の一人ともなる人物です。


少し話が脱線しました。
ストルイピンの弾圧により鳴りを潜めていた社会活動家たちですが、彼が暗殺されたことにより、少しずつ息を吹き返します。

ストルイピン暗殺の翌年、1912年1月、ロシア社会民主労働党からの独立を目指していたレーニンは、ロシア社会民主労働党から追放されてしまいます。

ここで、ロシア社会民主労働党は「ボリシェヴィキ」と「メンシェヴィキ」の2つの党へと完全に分裂してしまうこととなります。


第一次世界大戦に於けるロシア

政党「ボリシェビキ」誕生の2年後、1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発 します。

改めて第309回の記事 を比較しながら記事を見ていただけると、状況が頭に入りやすいかもしれません。

1912年に第一次バルカン戦争が、1913年に第二次バルカン戦争が勃発するわけですが、バルカン戦争終息後、1914年6月28日に起きた「サラエボ事件」を受けてオーストリアがセルビアに対して宣戦布告。

これを受けて、いち早くセルビア支持を表明し、国内に向けて総動員令を発布したのがロシアでしたね。(7月31日)
そして、そのロシアに対して速攻で宣戦布告したのがドイツ。(8月1日)

Europe1914-jp.png

そんなロシアとドイツとの間で最初に起きた衝突が1914年8月17日から9月2日にかけて継続した「タンネンベルクの戦い」でした。

ロシアはこの戦いに於いてドイツ領プロセインに侵攻を行うわけですが、結果ロシアは敗北し、前線をロシア領内まで後退。
続く第一次マズーリ湖攻勢に於いてロシアは再びプロセインへと軍を勧めますが、ドイツはフランスと対峙する西部戦線より部隊を移動させており、ロシア軍は壊滅。

ドイツよりロシア軍は完全にたたき出されてしまうこととなります。
翌年のゴルリッツ戦線でもロシアは敗北し、ポーランド方面ではワルシャワ、イヴァンゴロドの2つの要塞が陥落し、ロシアは大撤退を迫られます。

この様な情報がロシア国内にも伝わり、ロシア社会民主労働党より分裂したボリシェヴィキ、メンシェビキ、及び社会革命党は、一気にその党勢を拡大します。

戦争が長引くことによってロシア国内の経済も低迷。
議会と皇帝との間の対立構造も深刻となり、宮廷もまた僧侶であるはずのグリゴリー・ラスプーチンによって牛耳られる(1916年12月30日に暗殺される)など、第一次世界大戦当時のロシアはまさしく「混迷」を深めていくこととなりました。

そして、そんな中でついに勃発するのが第一弾の「ロシア革命」である「二月革命」です。

次回記事では、そんな「二月革命」についてまとめてみたいと思います。


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第308回 第二次バルカン戦争が勃発した理由とその影響を検証する

第307回第308回の記事 と連続で「バルカン戦争」をテーマとさせていただきました。

今回から再び第一次世界大戦に話題を戻します。
第303回の記事 をおさらいしますと、第一次世界大戦が勃発した直接的な理由は「サラエボ事件」に於いてオーストリア皇太子が

 『ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプ』

によって暗殺された事がその理由となります。

で、第307回第308回の記事 で振り返りましたように、この当時「ボスニア」はオーストリア・ハンガリー帝国に併合されていました。

で、オーストリア当局によって逮捕された暗殺犯のうちの一人が、暗殺に用いられた武器を支給したのがセルビア政府であったことを告白し、オーストリアはセルビア政府を非難。最後通牒を突きつけた上でセルビアに対して宣戦布告を行います。

そしてオーストリア対セルビアという構図であったはずの紛争が、なぜか第一次世界大戦へという全世界を巻き込んだ戦争にまで発展することとなります。


第303回の記事 で私は、

セルビア人の国民感情を高ぶらせた理由に、この「バルカン戦争」が関係しているような気配です。

また、この「バルカン戦争」の結果はどうもこの地域の国々の中にくすぶる火種を投下した様子が見られます

とこの様に記し、第307回第308回の記事 へと移りました。

結果として見えてきたのは、サラエボ事件をきっかけに勃発した第一次世界大戦ですが、サラエボ事件は連続する歴史の流れの中の一シーンにすぎず、サラエボとボスニアの独立から続く一連の国家間の思惑にこそその原因はあったのではないか、ということです。

第二次バルカン戦争

改めて、こちらは第二次バルカン戦争に於ける国家間の関係性の構図です。
後に別途記事にする予定ですが、この当時のヨーロッパの構図として、

 「英・仏・露」の3国で結ばれた「三国協商」

  と

 「独・墺・伊」の3国で結ばれた「三国同盟」

とが対立する構造に在りました。

三国同盟対三国協商

余談ですが、日本はイギリスとの間で「日英同盟」を結んでいました。
元々イギリスはロシアと対立する構造にあり、露仏は日本のアジアに於ける勢力拡大を阻止しようとする構図に在ったのですが、三国協商が締結されたことで、日本はロシア・フランスとも同盟関係を築くことになります。

日本は「三国協商」に巻き込まれた感じですね。
第一次世界大戦中にロシアではロシア革命が起こり、ロシアは三国協商から脱退し、三国協商は崩壊に至ります。

一方三国同盟を結成していたイタリアもまた領土問題に関係して第一次世界大戦中に三国同盟を離れ、イギリス側につくことになります。

この構図を頭に入れて第二次バルカン戦争の国家間の関係図に目をやると、「ロシア」の裏側に「英仏」の姿が、「オーストリア」の背後に「独・墺」の姿が見えてきますね。

三国協商のロシアが支援するセルビアと三国同盟のオーストリアの戦いとは、即ちこのような構図から生み出された戦いだと云うことになります。


では、改めて「サラエボ事件」まで時間軸を戻してみます。

 『ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプ』によってオーストリア皇太子が暗殺されるわけですが、之を支援したとされるのが「セルビア」。

オーストリア側から「セルビア」の存在を見てみますと、セルビアは元々事件の現場となった「ボスニア」を自国領土にしたいと考えていた国です。この国が、オーストリアによってボスニアが併合された後、「ブルガリア」「モンテネグロ」「ギリシャ」と共に「バルカン同盟」を結成し、南方の雄、「オスマントルコ」を撃破します。

また更に、オスマントルコを撃破したセルビアは、更に同じ同盟国であるブルガリアを更に撃破し、領土を拡大しました。
そしてそんなセルビアの後ろには「ロシア」の存在があります。

そんなセルビアが、今度は自国領土であるボスニアのセルビア人を使って自国の皇太子を暗殺した。
これは正直脅威に感じたかもしれませんね。

またオーストリアの立場から更に考えますと、オーストリアはセルビアの意図に反してボスニアを自国領土に併合し、更に第一次バルカン戦争にも干渉してアルバニアを独立させているわけです。

マケドニア

明らかにセルビアの発展を邪魔していますね。
立場的に、オーストリアはセルビアを格下に見ていたのではないでしょうか。

セルビアはオスマントルコの占領下から独立したばかりの小国。一方オーストリアは神聖ローマ帝国の時代から続く由緒ある家柄。そんなセルビアが、自国の皇太子を暗殺した。

オーストリアにとって、セルビアを叩くうえでこれ以上の口実はなかったのかもしれません。


第一次世界大戦への変動

オーストリアのセルビアに対する宣戦布告を受けて、先ず動くのはロシアです。
セルビアの独立を支持する立場を貫いてきたロシアは、1914年7月31日に挙国一致体制を取るため、国内に向けて「総動員令」を発令します。オーストリアがセルビアに宣戦布告を行ったのが同7月28日のことですから、実に迅速な対応です。

オーストリアは宣戦布告に当たって、事前に同盟国であるドイツに相談をしていたわけですが、ロシア参戦を受け、8月1日、ドイツも同様に総動員令を発令します。

同日、ロシアと同盟関係にあるフランスも「総動員令」を発布。
ドイツは8月2日にロシア、8月3日にフランスに対してそれぞれ宣戦布告を行います。

1900.jpg
(バルカン戦争以前の地図ですが、参考にしてみてください。)

また、時を遡って1839年、ベルギー独立戦争を経てネーデルランド連合王国からベルギーが独立するわけですが、このベルギーの独立を支援したのがイギリス。

本来中立国であるはずのベルギーへのドイツ侵攻を受け、1914年8月4日、イギリスはドイツに対して宣戦布告。
イギリスの参戦を受けて嘗てイギリスの植民地であったカナダ、オーストラリア、ニュージーランドも参戦します。

また更に、イギリスからの再三の要請を受け、1914年8月23日、日本もまたドイツに対して宣戦布告を行います。
日本がドイツに対して宣戦布告を行った後の日本の対応は 第106回の記事 をご参照ください。

日本はドイツに対して、「中国に返還することを前提として、無条件に膠州湾岸地域を日本に引き渡す」ことを要請したわけですが、これをドイツが受け入れなかったため、ドイツに対して宣戦布告を行う事となります。

オーストリアもよもやこんなことになるとは思っていなかったのかもしれません。
オーストリアに味方してくれる国はドイツとブルガリア、そしてオスマントルコだけ。

ドイツ・オーストリア両国はまさしく世界中から袋叩きにされることになります。
後先を考えずオーストリアがセルビアに宣戦布告をしたことが原因ではありますが、それにしても・・・。


さて。皆さんお忘れかもしれませんが、今回のシリーズはそもそも第一次世界大戦の原因追及をすることが目的ではありません。

第一次世界大戦の経緯をさらったのは、そもそも「ロシア革命」が勃発したのが第一次世界大戦の真っ只中であったから。
以上のような経緯で第一次世界大戦は勃発したわけですが、そんな第一次世界大戦がヨーロッパから中国にまで飛び火して展開する中、ロシアでは一体何が起きていたのでしょうか。

次回記事では、いよいよ本丸、「ロシア革命」へと記事を移したいと思います。


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第307回 バルカン戦争とは?その影響をわかりやすく考える

第一次バルカン戦争について検証した前回に引き続き、今回は「第二次バルカン戦争」について検証してみます。

復習いたしますと、『バルカン戦争』は

青年トルコ党が実権を握ったオスマントルコによってマケドニア地域に集められたボスニアヘルツェゴビナのムスリムがマケドニアにいたアルバニア人と連携して行った事実上の独立戦争をセルビアが支援し、またロシアの支援を受けて結成された「バルカン同盟」諸国が更にオスマントルコに対して宣戦布告を行った

ことによって勃発しました。

結果、バルカン同盟はオスマントルコに勝利します。
停戦条約として締結されたのが「ロンドン条約」。

改めて、前回お示しした地図を掲載してみます。

マケドニア
【地図①】

元々バルカン戦争はアルバニア人の独立を口実として勃発した戦争ですから、ロンドン条約においてはアルバニアの独立が宣言されます。地図では青色の部分の左端(西側)に「1912」と記されているのが分かると思います。

斜線の引かれていない、このエリアが「アルバニア」が独立した後の領土です。

地図をみるとわかりますが、ロンドン条約によって、ピンク色の「セルビア」領土に隣接する、右上から左下に向けて引かれた太い斜線のエリアがセルビアに、同じく右上から左下に向けて引かれた細い斜線のエリアがギリシャ、左上から右下に向けて引かれた斜線のエリアがブルガリアにそれぞれ割譲されます。

先ほどの地図を少し東に移動させますと、こんな感じです。

トラキア
【地図②】

こい黄土色の部分が「トラキア」。
国境は現在の地図になりますが、トラキアの北側がブルガリア、西側がギリシャ、東側がトルコです。

Wikiのマケドニアのページを参考にしますと、

「1910年代のバルカン戦争によってギリシャ、ブルガリア王国、セルビアの3王国によって分割された。このときの国境が現代まで残されているものである」

と記されていますので、この地図の国境がちょうどバルカン戦争によって分割された国境、ということになりますね。

ブルガリアには、マケドニア領土以外にこの「トラキア」の丁度国境線より北側の部分も割譲されました。


第二次バルカン戦争

さて。今回のテーマとなる第二次バルカン戦争。

ロシアの後押しを受けて同盟を結成し、オスマントルコに対して戦争を挑んだバルカン同盟ですが、トルコに見事勝利し、ロンドン条約によって多くの領土を手に入れることになります。

ところが、今度はこの獲得した領土をめぐってバルカン同盟諸国間で争いが始まります。

記述を読んでいると、領土争いの舞台となったのは地図①の内、ブルガリアが獲得した領土。
南西側に細長く伸びている部分があると思いますが、この領土の所属をめぐって争いが勃発した様です。

同エリアは、丁度「セルビア」「ブルガリア」「ギリシャ」の3国が国境を接する地点で、この地点の領有権を3国が共に主張していました。

特にブルガリアとギリシャはトラキアに於ける国境でも対立する構造にありました。

この様な対立構造にある中、第二次バルカン戦争はブルガリアによるセルビア・ギリシャ両国への侵攻からスタートします。
この段階で事実上バルカン同盟は崩壊しているわけですが、セルビアとギリシャはお互いに同盟関係にあり、共同でブルガリアに対抗します。

更にセルビア・ギリシャ連合軍に対し、バルカン同盟で同盟関係にあるモンテネグロ、更にルーマニア、オスマントルコ帝国までもが参戦し、ブルガリアに対して宣戦布告を行います。

この時、唯一ブルガリアを支援したのがオーストリア・ハンガリー帝国、バルカン同盟側を支援したのがその立役者であるロシアです。

第二次バルカン戦争

結果的にブルガリアの惨敗に終わるわけですが、第一次・第二次バルカン戦争を通じて、バルカン同盟の4カ国、及びオスマントルコ帝国の中で、領土問題に対する不満が蓄積したままになってしまいます。

第二次バルカン戦争の結果、ブカレスト条約が締結されるわけですが、この結果に満足した国は一国も存在しなかったんですね。


オーストリア・ハンガリー帝国とセルビア王国との間に生まれたしこり

改めて振り返ってみましょう。
確かに「バルカン戦争」そのものは独立を目指したアルバニア人をセルビアが支援する形から始まったのですが、セルビアがアルバニア人を支援した動機の中にあったのが、「ナチェルターニェ」の考え方から、自国に統合することを目指していた同じセルビア人の国であるボスニアヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国に併合されてしまったことにありました。

このことでセルビアはボスニアヘルツェゴビナを統合することを諦め、逆に南側のオスマントルコ領を侵略することを目指すようになりました。

オスマントルコとの戦争に勝利し、マケドニア領は手に入れたわけですが、オーストリア・ハンガリー帝国の横やりが入り、アルバニアが独立。ここから軍隊を撤退させられることとなった上、唯一の海上ルートへの抜け道であったアルバニア地域を封鎖されてしまいます。

地政学的に考えれば、海上ルート、所謂「シーレーン」は国が発展する上でも非常に重要な貿易の為のルートであり、北部をオーストリア、南部をトルコに抑えられた状況は、セルビアの将来的な発展の大きな弊害となったはずです。

こう考えると、セルビアの対オーストリアへの開戦に至る動機としては十分だったと考えられますね。
この他、オーストリアはドイツと同盟関係にありましたし、両国はロシアと対立する構造に在りました。

敗戦後、ブルガリアはオーストリア・ドイツと急速に接近し、また敗戦によりお互いに勢力を急速に縮小させることとなったオスマントルコにも接触を始めます。

一方でセルビアを支援したロシアはイギリス・フランスとの間で「三国協商」という同盟関係を築く友好関係にあり、この後サラエボ事件 をきっかけとして火が付いたセルビアとオーストリアとの対立は、一気に第一次世界大戦へと拡大することとなります。

次回記事では、いよいよサラエボ事件が第一次世界大戦へと発展するその過程について記事にしたいと思います。


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第303回 第一次世界大戦とロシア革命/第一次世界大戦はなぜ?

さて。今回のテーマは「バルカン戦争」。

そもそもなぜこのテーマを記すに至ったかと言えば、第303回の記事 の記事に於いて第一次世界大戦を調査する上で、なぜ第一次世界大戦が勃発したのか。その理由としてこの「バルカン戦争」が関係しているらしいことが見えて来たからです。

セルビアが「ナチェルターニェ」という政策方針に従ってボスニアヘルツェゴビナを統合しようとしている中、オーストリア・ハンガリー帝国にボスニアヘルツェゴビナは併合されてしまいます。

そして、その後勃発したのが「バルカン戦争」なるものです。
現時点で、私はこの「バルカン戦争」なるものが一体どのような戦争であったのか、ということをまったく知りませんから、今回の記事で、話題がどちら方面に向いて進んでいくのかもまったく予測できていません。

まずはWiki等をベースとしながら、「教科書的」な話題から記事を進めてみたいと思います。


そもそも、「バルカン戦争」って何?

Wikiを参考にしますと、

「バルカン戦争」とは、「第一次バルカン戦」と「第二次バルカン戦争」という二つの戦争のことを云います。

「第一次バルカン戦争」とは1912年に『バルカン同盟』」を結成した「ブルガリア」「セルビア」「ギリシャ」「モンテネグロ」の4カ国と、衰退しつつあった「オスマン帝国」との間で発生した戦争。

「第二次バルカン戦争」とは敗戦したオスマン帝国から獲得した領土をめぐって、今度はバルカン同盟に所属する4カ国の間で勃発した戦争のことです。


第一次世界大戦を考える上では、どちらかというと「第一次」はあまり関係がなく、「第二次バルカン戦争」によって生まれたバルカン同盟諸国の中の「シコリ」の方が大きいとは思うのですが、まずは「第一次バルカン戦争」について手繰ってみます。


第一次バルカン戦争

改めて、再度1900年当時のヨーロッパ地図を掲載します。
1900.jpg

「ブルガリア」「セルビア」「ギリシャ」「モンテネグロ」の4カ国は、「オーストリア・ハンガリー帝国」と「オスマントルコ帝国」に丁度挟まれる形で位置しています。

「モンテネグロ」は少し見えにくいですが、セルビアの丁度南西側に位置しています。

Wikiの話題としては、丁度「セルビア」が先ず話題として挙がっています。

セルビア・ボスニア

こちらも第303回の記事 で掲載した地図ですが、セルビアの北西側に「ボスニア」が位置しています。

1459年6月、セルビアはオスマントルコによって滅亡させられるわけですが、1817年オスマントルコ領セルビアとして復活。
1882年、正式に「セルビア王国」として独立します。

そんなセルビアですが、独立する以前から大繁栄を誇った中世当時の「セルビア王国」を復活させることを目途として、同じ時期に自治権が認められた「ボスニアヘルツェゴビナ」を自国領土として統合することを目指していました。(ナチェルターニェ)

ところが、1908年、ボスニアヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国によって併合されていしまいます。

このことで北側を抑えられたセルビアは、今度はその野心を南方、つまり「オスマントルコ」へと向けることとなります。

一方のトルコでは、1908年7月3日、「統一と進歩委員会」という政治組織が中心となって「青年トルコ革命」なる武装蜂起が勃発しており、この混乱の中、「バルカン同盟」の一員を構成する「ブルガリア自治公国」がオスマントルコ領から独立を宣言します。


マケドニア

上の地図は、「マケドニア」というトルコ領の一部を示したものです。青い部分がそうですね。
ボスニアヘルツェゴビナがオーストリア・ハンガリー帝国に併合されたとき、トルコはボスニアヘルツェゴビナに居住していたムスリム(イスラム教徒)をこのマケドニアに移住させようとします。

ところが、ボスニアから移住させられたムスリムたちは、現地に居住していたアルバニア人たちと融和し、更に独立を目指して反乱を起こすことになります。この当時のオスマントルコは「青年トルコ党」によって本来の「オスマントルコ」とは異なる姿へと変えられてしまっていましたから、アルバニア人たちは本来のトルコの姿へと戻そうとしたんですね。(1912年5月)

この時、セルビアはアルバニア人たちを支援し、これを口実として対トルコ戦争=バルカン戦争を勃発させます。

バルカン戦争事態が勃発するのは1912年10月8日なのですが、同日トルコに宣戦布告を行ったのはモンテネグロのみ。
ブルガリア、セルビア、ギリシャが宣戦布告するのは10月17日のことです。

「バルカン同盟」は1912年の春~夏にかけて、バルカン諸国のキリスト教徒によって築かれた軍事同盟なのだそうですよ。

この軍事同盟の締結を支援したのは「ロシア」。
ロシアはまた、バルカン半島に於いて増加する「オーストリア・ハンガリー帝国」の勢力を脅威に感じていたわけですね。

セルビアとブルガリアが戦争の結果手に入れようとしていたのは上地図にある「マケドニア」地域であったわけですが、ブルガリアは同時に「トラキア」という地域と「イスタンブール」をその手中に収めようとしていました。

トラキア
【トラキア(濃い茶色部分)】

イスタンブール
【イスタンブール】

この地域は、実はバルカン同盟の結成を支援したロシアも狙っていた土地であったのだそうです。
後にロシアはこの土地を通じて「ドイツ帝国」「オーストリア・ハンガリー帝国」「オスマントルコ帝国」「ブルガリア王国」の4カ国が結成した「中央同盟国」との間で第一次世界大戦を起こすこととなります。

なるほど・・・。少し「第一次世界大戦」の構図が見えてきましたね。

この地域をめぐって、イギリス帝国はロシアにその領有を容認しておきながら、ブルガリアに対してはこの地域の獲得を後押しし、ロシアよりも優先させる、との保障を与えていたのだそうです。

一方、イギリスはオスマン帝国の親密な支援者でもありながら、オスマン帝国に敵対するギリシャのバルカン同盟入りを支援。
このことでロシアに対抗しようと考えていたのだとか・・・。ものすごい二枚舌外交ですね。

また一方でオーストリア・ハンガリー帝国もまたオスマン帝国への領土拡大をもくろんでいた為、自国とトルコとの間にある国とはすべて対立構造に在ったのだそうです。そう。第一次世界大戦勃発のきっかけとなったとされる「サラエボ事件」において関係が悪化した「セルビア」とも。

そして「ドイツ」はもともとオスマントルコ帝国と親密な関係にあったわけですが、そのオスマントルコ帝国が弱体化したことを受けて、同盟関係の中心をトルコからブルガリアへ転向させようとする意図もあったようです。

元々ブルガリア親独的で、またブルガリア国王フェルディナンド1世は反ロシア的な感情を抱いていたようで、この様な複雑な心情がサラエボ事件をきっかけに燃え上がったのが「第一次世界大戦」だと云うことですね。

それでは、改めて次回記事では「第二次バルカン戦争」についてまとめてみたいと思います。


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