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第150回 止まらないインデックスからの削除/Google検索との闘い

【前回までの振り返り】
今回の記事は再び減少したブログへのアクセス数への対策に関する記事です。

ブレイクタイム

第146回 サイトへのアクセス数が激減した理由(失敗から学ぶ大切さ)
第150回 止まらないインデックスからの削除/Google検索との闘い

こちらのふたつの記事ですね。

振り返りとして、第146回の記事では、アクセス数が激減していた理由として

1.PC向けページとスマホ向けページが同時にGoogle検索に登録されてしまったため、「同じ記事が二つある」とみなされてしまった。
2.なぜかPC向けサイトではなく、スマホ向けページが優先して登録され、場合によっては統合されてしまったため、PC向けページが削除されてしまったのではないかという仮説に基づいて記事を作成してみました。

そこで、検索登録されていたスマホ向けページを、「Google search console」を使って軒並み検索結果から登録を削除する依頼をかけたところ無事成功し、スマホページは検索結果には表示されなくなったのですが、にもかかわらず、インデックスからPCページが削除される様子に変わりがありません。

「Fetch as Google」を使ってインデックスから削除されてしまったサイトを再登録する依頼をGoogleにかけたところ、確かに登録はされるのですが、登録される速度を上回る速度で別のページが削除されてしまう・・・。

特に「北一輝」というキーワードでアクセスを増やしつつあった第68回の記事 では、「北一輝」という検索キーワードからの流入がなくなってしまったわけですが、『第68回 「北一輝」という人物』 という記事タイトルでの検索をかけると、PCサイトでもスマホサイトでもなく、ガラケーサイトが検索結果に掲載されていたということを記事にしました。

そこで、改めて、URLではなく、「記事タイトル」での検索を前ページ行ったところ、多くのページでPCページと共にガラケーページが検索結果に表示されていました。同時に『「site:」+「URL」』の組み合わせで検索を行った検索結果に表示されていないページも、タイトルで検索するとほぼすべて検索に引っかかることもわかりました。

北一輝のページは・・・残念ながら完全にPCページが削除されてしまっていましたが。
この状況は現在も解消されておらず、私は「北一輝」のキーワードで検索できる記事を失ってしまいました。

【今回のテーマ】
今回の記事では、前回の記事に引き続き、Google 検索との闘いの様子を継続して記事にしたいと思います。

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第149回 盧溝橋事件の真相を追う/なぜ日中戦争へとつながったのか(前編)

【前回までの振り返り】
前回の記事では、中国北京市「盧溝橋」に於いて勃発した「盧溝橋事件」。

この盧溝橋事件が勃発するに至った背景。なぜ日本軍はこの時「盧溝橋」という地域で演習活動を行っていたのか。
すぐ対岸にまで共産党勢力が迫っていたという事実。またさらに宋哲元の下、冀東防共自治政府や冀察政務委員会の護衛に当たっていた「第29軍」がどんな部隊であったのかということ。

盧溝橋事件が勃発した原因、というより、「どのような状況の中で」盧溝橋事件が勃発したのかということに関して記事にしてみました。

読んでいただければ、「日中戦争の原因となった」とされる盧溝橋事件において、少なくとも日本側は、またさらに言えば「盧溝橋」現地を監理していた中国側としても、これを戦争に発展させるつもりなどさらさなかったということが分かると思います。

【今回のテーマ】

石原莞爾
【石原莞爾】

今回の記事に於きましては、前回の記事に引き続きまして、日中双方の「偶発的な発砲」によって引き起こされた盧溝橋事件が、本来穏便に済まさられるよう勧められていたにも関わらずなぜ最終的に「日中開戦」の経緯へと至ることになったのか。この様な内容について記事を記したいと思います。

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第146回 サイトへのアクセス数が激減した理由(失敗から学ぶ大切さ)

【前回までの振り返り】
今回は話題をお休みしまして、第146回の記事 でご紹介しました、私のサイトに訪れた「アクセス減少」に関連した悩みの続編として記事を作成する予定です。

ブレイクタイム

ってことで、前回と同じ画像を使ってみました。
前回は、アクセスが減少し始めた原因の一つとして、スマートフォン向けのURLが大量にインデックスされてしまったこと。
その結果、なぜか「スマートフォン向けURLが正式なURLである」というような判断をされてしまい、Googleの検索結果から、PC向けのURLが大量に削除されてしまったということをお伝えしました。

そこで、「site:」+「URL」を組み合わせて検索をかける事で表示される、各URLごとの検索結果を調査し、「Google search console(旧ウェブマスターツール)」を使ってスマホ向けのサイトをすべてGoogleの検索結果から削除。
同時に検索結果に表示されるスマホページ以外の、正規ではないURLをすべて含めて検索結果に表示されないようにしました。

削除した後、「Fetch as Google」を使って再度正規URLの登録を試みようとしたのですが・・・。

【今回のテーマ】
今回の記事では、「Fetch as Google」を使って再度正規URLを登録しようとしたその結果、私のサイトへのアクセス状況はどのように変化したのか。そんな経緯について記事にしたいと思います。

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第148回 盧溝橋事件の真相を追う/第29軍の誕生(蒋介石対馮玉祥)

【前回までの振り返り】
前回の記事では、盧溝橋事件に於いて日本軍が対峙した中国の一軍隊である「第29軍」。この軍団が、一体どのような組織であったのか。このことについて、第29軍の発足にまでさかのぼって記事にしてみました。

第29軍は、蒋介石の北伐軍の中の最大の主力部隊であった「馮玉祥」が率いていた部隊で、馮玉祥の下、その部隊を統括していたのがが「宋哲元(そうてつげん)」という人物であるということ。

馮玉祥は北伐が完了した後蒋介石が軍縮を行おうとしたことから蒋介石に反発して反蒋介石軍に参入するのですが、結局蒋介石軍に敗北し、一線を退いて「隠居」します。これだけのことをしでかした馮玉祥ですが、国民党から除名になったりはしていないんですね。

馮が一線を退いた後、馮の部隊が改変された「第29軍」を任せられたのが宋哲元でした。
宋は、盧溝橋事件に於いても、日中間の交渉の中心となる人物で、少なくとも盧溝橋事件に於いて、彼は「反日」ではありませんでした。

【宋哲元】
宋哲元

また一方で、蒋介石と馮玉祥の間で行われた「中原戦争」に於いて蒋介石を支援し、蒋介石の戦勝に貢献した「張学良」が共産党勢力の一掃のために派遣された西安に於いて、あろうことか敵軍である共産党勢力のリーダー、周恩来の口車に載せられて勝手に共産党掃討戦を停戦状態にしてしまったこと。

そしてその後、蒋介石を共産党に協力させるために拉致し、最終的に蒋介石と周恩来との間で「第二次国共合作」が約せられた、そのエピソードまでを前回の記事ではご紹介しました。

【今回のテーマ】
「盧溝橋事件」を引き起こしたのは前回の記事でご紹介したような背景を持つ「第29軍」であり、「盧溝橋事件」とは、同じく前回の記事 でご紹介したような背景の中で起きた事件であったということです。

今回の記事では、改めてこの「盧溝橋事件」について、一体どのような事件であったのか、具体的に、その上でなるべく簡単に、できる限りわかりやすくご紹介できればと考えています。

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第147回 ニューディール政策とブロック経済の違い/世界恐慌後の世界

【前回までの振り返り】

今回のシリーズ では、日本が大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦へと突き動かされるその根本として、特に「日中戦争(支那事変)」の勃発に焦点を置いて記事を作成しています。

第二次世界大戦における日米開戦については様々な「日本の正当性」が各所で語られ、また記されているのですが、それ以前に、ではそもそも日本はなぜ中国と戦争状態に追い散ったのか。

① 日本における2.26事件
② 中国における満州事変
③ 欧米における世界恐慌

この3つのポイントがそのカギを握るのではないか、との推測に基づき記事を作成してきました。

第145回の記事までの内容において、特に①、②の疑問点については回収できたと思うのですが、「欧米における世界恐慌」についてはまだ回収できていないと感じていたので、前回の記事 では、この「欧米の世界恐慌」にポイントを絞って記事を作成しました。

【今回のテーマ】
「満州事変」までは回収できましたので、これからはさらに日中開戦の舞台となった、と言われる「盧溝橋」。

【盧溝橋】
盧溝橋

ここで勃発した「盧溝橋事件」に向けて記事を進めていきます。

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第145回 五・一五事件と二・二六事件の違いをわかりやすく検証します

【前回までの振り返り】
前回までの振り返り・・・というより、今回は今一度 今シリーズ 第1回目の記事 を振り返ってみます。



こちらは同記事でもご紹介している動画です。私が日本の「歴史」を改めて考えなおすきっかけとなった動画です。
動画では、近代化を果たした日本が、特にアメリカやヨーロッパからの「外圧」で、欧米と戦争する以外に選択肢がなくなり、やむを得ず大東亜戦争(太平洋戦争)を起こすこととなった・・・と述べられています。

これは、確かに一つの側面ではあるのですが、そもそも「大東亜戦争」とされる戦争は、アメリカや日本との開戦ではなく、日本と中国との開戦からスタートしており、ではなぜ日本はそもそも中国と戦争を起こすに至ったのかという、その理由を検証することがこのシリーズを始めたの一つの目的でした。

日本と中国の、所謂「日中戦争(盧溝橋事件)」が起きるまでにはもう少しかかるのですが、中国側の原因としては、

 ・イギリスをはじめとする欧州の植民地政策により清朝がズタボロにされたこと。
 ・清朝のプライドが、中国大陸の近代化を著しく遅らせてしまったこと。
 ・清朝を引き継いだ中華民国に於いて、政権を握った袁世凱が保身のため自国民の感情に「反日感情」を植え付けてしまったこと。
 ・ロシア革命成功に伴う「共産主義」への国民の傾倒。
 ・孫文の打ち立てた中国国民党への「共産主義」の浸透。
 ・共産主義者たちの残虐なまでの「暴力」。

この様な、様々な要因が重なって日本と戦争を起こすための精神的な土壌が醸造されていったことが分かりました。
一方で日本側の原因としては、

 ・「ロシア(ソ連)」の脅威。
 ・朝鮮半島と清朝のあまりにもの情けなさ。
 ・第一次世界大戦を目の当たりにした軍人たちの中に芽生えた「危機感」。
 ・軍人たちの中に浸透した「国家社会主義思想(右翼マルクス主義思想)
 ・日本の政治を担った多くの政治家たちの「無能さ」。
 ・右翼マルクス主義が浸透した軍人たちの、政治家たちに対する不信感。
 ・軍部内における「皇道派」と「統制派」の対立と暴走。

確かに中国の側に起因する問題も多くありましたが、だからと言って日本に責任がなかったというと、決してそうは言えないようにも感じます。ただ、共通して言えるのは、「マルクス主義」という思想の問題です。

これも根源をたどれば欧州「フランス革命」にまでたどり着きます。

彼らが「民主主義」を勝ち取ったのは確かに素晴らしいかもしれません。ですが、自分たちの欲望を満たすために「アヘン」や「キリスト教」を利用して中国をズタボロにし、「共産主義」を暴走させて「ソ連(コミンテルン)」という組織を生み出し、日本や中国を内部から崩壊させたこと。

日本や中国を責める前に、このような欧米の横暴をだれも批判しないことを、私としてはとても不思議に思います。

【今回の記事】
今回の記事では、視点を日本や中国から少しそらして、「ヨーロッパ」や「アメリカ」に移し、シリーズを作成したもう一つの目的である「日本がどのようにして欧米に戦争状態にまで追い込まれたのか」という内容について検証してみたいと思います。

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現在進行中のシリーズ にも、とりあえず一つの区切りがつきましたので、少しテイストの違う記事を挟んでみます。

ブレイクタイム

全くの私事ですが、このブログも作成を初めて早丸1年が経過しようとしています。
勿論、ブログを作成する以上は、少しでも多くの方々に見ていただきたい・・・というのは本音です。

作成方法として、主にネット上にあふれている情報(できる限り一次ソース)を参考にし、これをたった一つの情報ではなく、複数の視点から分析を行い、全体として一貫性のある情報にまとめる作業を行っています。

経済情報であればできる限り政府が発表する一次的な情報を参考に、しかもその情報をうのみにするのではなく、一次ソースですらその統計方法等に疑問を持ちながら、最終的に最も信頼性の高い情報に仕上げています。

現在進めている「歴史」に関連するような情報であれば、できる限り複数の人がアップしている情報を比較しながら検証し、例えば中にはまったく同じ情報をコピペしたり、コピペでこそないもののの、ほんの少し文章をいじっただけで、結果的に同じ情報ソースから情報を取得しているような複数サイトもよく見かけます。

この様な情報は「複数の情報」ではなく、「一つの情報」として判断し、まったく違う視点から、記した別の情報と比較して検証を行って一つの情報にまとめています。判断したり、検証したりする人が異なりますから、どうしても食い違いが生れるわけですが、複数の情報を重ねることで、複数の情報から、「もっともらしい」情報をピックアップしていきます。

つじつまが合わなくなればその情報は捨てざるを得ませんから、一から検証し直し・・・などということもざらにあります。
結構大変な作業なんですが、自分の納得のいく答えに出会ったときの快感はやはり捨てきれないものがありますね。

それだけに、やっぱりどれだけの人に見てもらえているのか、ということは、とても気にかかる部分です。

【本日のテーマ】
このブログには、当然「アクセス解析」というものを仕掛けていて、誰が、どのような地域から、どのような方法を使ってこのブログを見てくださっているのか、ということは具(つぶさ)に観察しています。

アクセス数としては、人に自慢できるほどの数ではないのですが、それでも始めた当初に比べれば、大分増えてきたと思います。

【ページビュー数の推移】
アクセス数の推移

人さまのブログを見ていると、どうも数値等を掲載することはGoogleさん的にアウトみたいなので、とりあえず数値は省いています。6月22日に、グッと増えているのが分かると思うのですが、この時のページビュー数が1日当たり234ページ。

中々思い切った増加をしない中で、この時の増え方は個人的にとてもワクワクしました。

ですが、その後の増え方を見ていただきますと・・・増え方、というよりも減ってますよね。
過去に比べるとそれでも多いほうなのですが、やはり、増えない・・・。

一つの目標を月間で3000PV(ページビュー数)にしておりまして、これをいったんはクリアしたのですが、その後、なぜか一気にアクセス数が減少し始めたのです。

今回の記事では、減少し始めて以来の私の悪戦苦闘ぶりについて、これを一つの「失敗談」として、もし同じ悩みをお持ちの方がいらっしゃれば、「共有」する目的で記事にしてみます。

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第144回 第一次上海事変の原因とまとめ(空母「加賀」初出陣)

【前回までの振り返り】
本当は今回の記事、前回の「第一次上海事変」と共に5.15事件単独に絞って掲載しようと考えていたのですが、第一次上海事変が意外と奥が深かったので、前回は「第一次上海事変」を分離させて、単独で記事にしてみました。

前回書ききれていなかった部分で、概略を述べると、そもそも第一次上海事変が勃発するその背景として、時期的に満州事変が勃発した後、満州国を設立したために日本が欧米各国から非難される状況にあったということ。

ここから目をそらすために関東軍で満州事変を引き起こした板垣征四郎が田中隆吉に命じて田中が自身の愛人である川島芳子(満州族親王家の末裔。本名愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)。日本人の養女となったことから和名に変わった)に軍資金を2万円渡して中国人を雇い、「日本人僧侶襲撃事件」を引き起こした・・・という逸話が背景としてあります。

但し、東京裁判において、田中が自分自身の保身に走り、あることないことを吹聴して同じ日本軍の仲間を犯人に仕立て上げまくっていることから、その後記されたこの逸話の信ぴょう性そのものに疑いがあることから、前回の記事では詳細に記しませんでした。

ただ、どちらのケースであったにせよ、満州事変にて関東軍が行ったことと、第一次上海事変における日本海軍の対応はまるっきり異なった性質であることは紛れもない事実です。ですが、ネット上の記述を見ていますと、例えば私がよく記事を作成する際に参考にしている 世界史の窓 を見てみますと、以下の様に記されています。

【「世界史の窓」記事より抜粋】
1932年、上海での日本人僧侶殺害事件を口実に日本軍が中国軍を攻撃。満州事変・満州国建国などに対する批判の目をそらすための謀略であったが、中国軍の抵抗と国際的な非難を受け撤退した。

<中略>
この戦闘で上海市街は大きな被害を受け、反日感情はさらに強まり、また国際連盟およびイギリス・アメリカなどの国際世論は日本の侵略行為に対する非難が強まった。

<中略>
【戦後明らかになった日本軍の謀略】
 この事変は、戦後になって、上海駐在日本公使館付き武官であった田中隆吉少佐が、関東軍の参謀板垣征四郎大佐の依頼で、中国人を買収して襲撃させたものだったことが判明した。満州事変の勃発で満州に集中している列国の関心をそらすのがねらいであった。

 当時、上海は中国で最も繁栄する都市であり、イギリスやアメリカなどの租界があり、その地への日本の軍事行動は大きな国際問題となった。中国の蒋介石政府はただちに国際連盟に提訴し、総会は日本を非難する動きが強まった。揚子江(長江下流域)に大きな権益を持つイギリスとアメリカも日本を非難し、海軍の艦艇を派遣した。

【失敗に終わった武力行使】
 上海事件は、満州事変での陸軍の成功に刺激された海軍によって主導され、引き起こされた。海軍陸戦隊は満州における中国軍の弱体を知り、容易に勝てると判断していたが、上海を防衛していた中国軍の第十九路軍は、蒋介石系ではなく、広東国民政府系の華南地方出身者が多く、内戦を経験して戦闘力を強めていた。

その点を見誤った海軍は苦戦に陥り、陸軍の増援を要請せざるを得なかった。また、ちょうど同時期の1932年2月から、国際連盟主催のジュネーヴ軍縮会議(一般軍備制限会議)が開催され、アメリカ合衆国、ソ連邦も招集されて64カ国が参加してて軍縮に関する国際会議が開催されていた。

会議では日本の軍事行動に関心が高まっていたが、その精神に反する上海事変への戦火拡大は、強い反発を受けることとなった。国際世論を軽視して軍事行動を強行した点も見通しを誤っていた。<後略>

ここに記されている内容と、私の 前回の記事 とをよく見比べていただきたいのです。
そもそも、上記記事中にも記されているとおり、田中隆吉が「日本人僧侶殺害事件を口実に日本軍が中国軍を攻撃」したという、その真偽はともかく、「暴露」を行ったのは「戦後」。第二次世界大戦後後であり、当時の国際社会は、これを「日本人による謀略」であった、などと認識していなかった筈です。

日本総領事が上海市長に対して謝罪を要求し、上海市長がこれを承服したところ、中国人が暴徒化したため、これを警備するため、日本軍だけでなく、当時上海に租界を有していた欧米4カ国と共に、「共同で警備」に当たろうとしたところ、隣接地に駐留していた国民党軍が一方的に発砲し、開戦に至ったわけです。

しかも、元々日本軍に戦闘行為を行うつもりなどさらさらなく、戦争状態に陥ることをあらかじめ回避するため、日本軍が警備に当たる地域と隣接するエリアからの国民党軍の撤退を提案したにも関わらず、これを拒否しての発砲です。

日本軍の反撃は、日本居留民だけでなく欧米の居留民、果ては自分たちを警護してくれている現地の中国人たちをも含めて守るための反撃であったのに、なぜこれをイギリスやアメリカが非難するのでしょうか?

また、武漢政府軍と南京政府軍を比べれば、当然南京政府軍のほうが教育され、統率も取れていましたし、武力においても南京政府軍のほうが勝っていたはずです。

十九路軍が閘北に陣取った時点で、日本軍は彼らが南京政府とは異なった意思で動いていることは薄々感じていたでしょうし、実際には日本軍の武力が十九路軍を圧倒しており、最終的に撤退したのは日本軍ではなく十九路軍でした。十九路軍の撤退を受けて日本軍は停戦を申し出、軍隊を撤退させたのです。

この記事の中に、もう一つの背景として存在した上海抗日救国連合会についての記載が一切ないことも非常に疑問ですし、唯一租界における自衛団の行き過ぎた行為が問題であった、と言えなくはありませんが、それだって現地民が一種のパニック状態に陥っていたことが原因です。

いつもはよく参考にさせていただいているサイトですが、この「第一次上海事変」に関する記載に関してはデマだらけ。
なぜこのような編集を行っているのか、疑問に感じざるを得ません。

【本日のテーマ】

犬養毅
【暗殺された犬養毅】

前置きが長くなりました。本日のテーマは、「五・一五事件」を中心に記事を作成し、また「二・二六事件」が勃発する背景となった、「一夕会の分裂」についても記事にしたいと思っています。

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第143回 一夕会と桜会/三月事件と十月事件・血盟団事件の勃発

【前回までの振り返り】

前回の記事では、「満州事件」が計画される以前に、発生した「三月事件」。
満州事変を計画した「一夕会」のメンバーと、一夕会とはまた別に結成された「桜会」。「大川周明」が「北一輝」から託された『日本改造法案大綱』をこの二つの組織が共同で行おうとしたクーデター未遂事件。

不発に終わった三月事件を再度実行しようと桜会のメンバーが大川と北一輝をともに味方につけて企画したクーデター未遂事件「十月事件」。

一方で三月事件や十月事件とは異なり、桜会が計画したクーデターとほぼ同じ内容を僧侶、井上日召ら「血盟団」が、今度は、今度は「海軍」より支援を受けて実行した「血盟団事件」。血盟団事件は、昭和恐慌を引き起こす原因を作った井上準之助の暗殺に成功した、という点で、未遂に終わった三月・十月事件とは異なっています。(クーデターそのものは失敗しましたが)

5.15事件とは、この血盟団事件において、裏側から血盟団を支援した海軍中尉 藤井斉(ふじいひとし)。
第一次上海事変において命を落とした 藤井の、その意思を海軍兵士たちによって引き起こされます。

【今回の記事】

空母「加賀」
【藤井斉が搭乗した空母「加賀」】

前回の記事では、今回の記事に託すテーマとして、『「5.15事件」と、後に2.26事件を起こす「皇道派」そして「統制派」の違いについて』記事にすることをお約束したのですが、改めて調べていると、「血盟団事件」と「5.15事件」をつなぐキーパーソンとなる藤井斉が巻き込まれた「第一次上海事変」。

これも近代史を見る上では重要な事件であったことが見えてきましたので、少しこの部分を深める記事にしたいと思います。

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第142回 世界恐慌の原因と高橋是清の経済対策(日銀国債直接引受)

【前回までの振り返り】
前回 および 前々回 の二回に渡って、後の世界経済に対して大きな変化をもたらすきっかけとなる「世界恐慌」の発生について、前々回の記事 では日本国内における事情を、前回の記事 では世界恐慌勃発の舞台となったアメリカの状況をそれぞれ掲載しました。

さらに、前回の記事 では、世界恐慌が発生した後、濱口内閣、若槻内閣に引き続いて内閣を引き受けた犬養毅内閣。
犬養内閣で大蔵大臣を務めた高橋是清が、世界恐慌から脱却するために実施した経済政策について記事にしました。

また、第139回の記事 では、「満州事変」を仕掛けた「一夕会」のメンバーがどのようにして集結し、どのようにして満州事変を引き起こしたのか、その様子とさらに満州事変の経過について記事にしました。

この3つの記事、実は無関係の様でいて実は密接に関連しています。

【今回のテーマ】
結論から言うと、タイトルにある「血盟団事件」によって金輸出を解禁し、昭和恐慌を発生させた井上準之助が、ロンドン海軍軍縮条約に対して不満を持っていた「艦隊派」海軍将校の遺志を継いだ海軍中尉らが引き起こした「5.15事件」によって若槻禮次郎に対する恨みを転嫁された犬養毅が、そして過去に幾度も記事にしているように、2.26事件 によって高橋是清が暗殺されてしまいます。

これらの「暗殺事件」を引き起こしたのが何度も話題にしている「国家社会主義者(右翼マルクス主義者)」やその影響を受けた人々です。張作霖爆殺事件も、満州事件も共にこのような思想を持っている人たちが引き起こしています。

【大川周明(おおかわしゅうめい)】
大川周明

今回の記事を読む前に、改めて

第66回 日本における「左翼」
第67回 日本における「左翼」②
第68回 「北一輝」という人物

という3つの記事に目を通していただけると、内容がよりわかりやすくなると思います。

今回の記事では、上記3つの記事を踏まえた上で、改めて「日本における『右翼』」について振り返りたいと思います。

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