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第312回 ロシア革命に於ける二月革命/ロマノフ朝(帝政ロシア)の崩壊

前回の記事でお示ししました様に、所謂「ロシア革命」は、ユリウス暦1917年2月23日にロシアの首都ペトログラードにて発生した、食料配給を求める「デモ」が原因で勃発しました。

2月革命後、「ボリシェヴィキ」「メンシェヴィキ」「社会革命党」の3党によって「ペトログラード・ソヴィエト(労働者・兵士による評議会)」が誕生し、一つの「権力」を保有することとなるわけですが、結成はこの当時多数派であった左派社会主義政党「メンシェヴィキ」の呼びかけに応じて行われました。

ですが、第310回の記事 でもお伝えしました様に、そもそも「メンシェヴィキ」や「ボリシェヴィキ」が誕生したの最大の理由は、後の十月革命で中心的な役割を果たす「ウラジミール=レーニン」がロシア労働党機関紙であった「イスクラ」編集局から分裂し、ボリシェヴィキ中央部「多数派諸委員会ビューロー」を結成したことが原因でした。

この当時「レーニン」率いるボリシェヴィキは「多数派」であったわけですが、「ペトログラード・ソヴィエト」が結成された時点では少数派となっています。

では、「多数派諸委員会ビューロー」を結成した後、「レーニン」率いるボリシェヴィキは、一体どのような変遷をたどったのでしょうか。先ずは「レーニン」にスポットを当て、今回の記事は進めてみたいと思います。


レーニンの生い立ち


レーニン

ロシアの革命家、「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」。本名は「ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ」と言います。

第310回の記事でお伝えした様に、彼の兄の名前は「アレクサンドル・ウリヤノフ」。

当時のロシア皇帝であったアレクサンドル3世を暗殺しようとして失敗した人物です。

内容はWikiベースで進めていきます。
レーニンの兄がクーデターに失敗し、絞首刑に処せられたのが1887年。
レーニンもまた同年12月にカザン大学にて学生運動に加わり、暴動を起こして警察に拘束され、大学からも退学処分されることになりました。レーニンは兄と共に「テロリスト兄弟」の烙印を押され、以降秘密警察から監視される日々を送ることとなります。

そんなレーニンの思想に大きな影響を与えたのが「カール・マルクス」。彼が学生運動に参加したのもマルクスによる影響を受けた部分が大きい様です。

記述を読みますと、レーニンという人物は、非常に頭のいい人物であった様ですね。以下、転載です。

レーニンは監視の中で暴動を控えて「資本論」などカール・マルクスの著作を読み耽り、思想研究に没頭して理論面での活動を志し始めた。

3年後、法律学に関する理論を兄の母校サンクトペテルブルク大学の論文審査に提出、高い評価を受けて入学を許可された。国家検定試験でも134人中1位という成績を残す。

1892年、サンクトペテルブルク大学から第一法学士の称号を与えられる。

ちなみにサンクトペテルブルク大学時代にもかつての専攻であった言語に関する成績はトップクラスで、ギリシャ語・ラテン語、ドイツ語、英語、フランス語を習得した。ただフランス語は苦手だったらしく、後年にフランス語での講義を断ったというエピソードが残っている。


前回の記事 で、ロシアがたどった市民革命への道は、他のヨーロッパ各地がたどった市民革命の変遷とは異なる独特な道を進んだことをお示ししましたが、レーニン自身はどっぷりマルクス主義にはまり、所謂「社会活動家」としてもその頭角を現していきます。

・1895年     労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟を結成
・同年12月7日 逮捕・投獄
・1897年     シベリア流刑、エニセイ県ミヌシンスクの近くのシュシェンスコエ村に追放
・1898年7月   社会主義活動家ナデジダ・クルプスカヤと結婚
・1899年4月   『ロシアにおける資本主義の発達』を出版
・1900年     刑期が終了し7月にスイスへ亡命
(スイス滞在中、イタリア社会党時代のベニート・ムッソリーニと面会)
・1900年12月   政治新聞『イスクラ』を創刊
(当時、ロシア社会主義者の中で広まりつつあった「経済主義(政権打倒のための政治闘争より労働者の経済的地位の向上を目指す経済闘争を重視する考え方」を批判したもの)
・1901年12月   「レーニン」という偽名を用いるようになる

さて。その翌年、1902年に彼が記した著書、「何をなすべきか?」に関する記述の中で、少し面白い記述がありましたので、これを少しご紹介しておきます。

先ほど、ロシアがたどった市民革命の道が他のヨーロッパ諸国とは異なる異質なものであることをお伝えしました。
ただ、レーニンはそんな中でもどっぷり「マルクス主義」にはまった、ということもお伝えしたのですが、「何をなすべきか?」の中に於いて、レーニンもまたこの「マルクス主義」に対して独特の考え方を示したようです。

(何をなすべきか?とは)労働者の自然成長的な経済闘争はそれ自体としてはブルジョア・イデオロギーを超えない、と指摘し、社会主義を目指す政治闘争を主張したものである。

彼はその際に「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」というカウツキーの言葉を引用した。

この考え方は後に外部注入論と呼ばれるようになる。

ちょっとややこしいですね。


外部注入論とは?

「何をなすべきか」の中で、レーニンはそもそも何を主張しようとしていたのでしょう。
第62回の記事 でお伝えしました様に、マルクスは「ゴーダ綱領批判」において、「共産主義」の在り方について、以下の様に定義しています。

・(資本主義から共産主義に移行する)革命の過渡期において、労働者階級による権力の掌握が必要であること。
・これは、プロレタリアート(労働者階級)の独裁によってのみ実現が可能であること。
・プロレタリアには祖国はなく、プロレタリアの利害は一致していること。

加えてその実現が「暴力」によってのみ実現できる、としているわけですが、この部分はいったん頭から外します。

(※以下の内容は、私の個人的な解釈を含みますので、その点はご容赦ください。)

「社会主義」という考え方は、その後のヨーロッパの歴史の中で、様々に姿を変え、例えばマルクスが、その実現は「暴力」によってのみ実現されるとした部分も、後の社会主義者たちの解釈の中で、大きく変化します。

そしてレーニンは、そんな「社会主義」という考え方が、プロレタリアート(労働者)たちの階級闘争の中かから自然発生的に生まれるものではない、と考えたわけですね。

彼の祖国であったロシアに於いても自然発生的に「ナロードニキ」という市民運動は勃発したわけですが、これは所謂「マルクス主義」の影響を受けたものではありません。

マルクス主義は、レーニンらによって事後的にロシア国内に持ち込まれ、ロシアの革命運動に影響を与えていくことになるのです。

マルクスはこのような革命が「プロレタリアートの手によって」実現されるべきだ、と考えました。

ですがレーニンは、「社会主義はプロレタリアート革命の中から自然発生的に生まれるものではない」と主張しているわけです。
ですから、誰かがこの「社会主義」をプロレタリアートたちに教えてあげる必要がある、と考えたのですね。

そしてレーニンは、それが出来るのは知識のない労働者階級である「プロレタリアート」ではなく、資産があり、外部から「社会主義」という思想を学ぶ手段を取ることができる「知識階級」である「ブルジョワジー」だと考えたわけです。

つまり、レーニンの目指す社会主義革命は、「ブルジョワ(資産階級)」による革命。
こうなってくると、レーニンが目指した革命は間違いなく「共産革命」ではなく「社会主義革命」であったことがよくわかります。


レーニン率いるイスクラ派(政治新聞「イスクラ」を創刊したメンバー)は、1903年、1898年3月14日に結党されたものの、弾圧を受けて機能不全に陥っていたロシア社会民主労働党を再建し、第2回党大会を開催します。

ところが、再建されたばかりの同党は、イスクラ派は組織論や指導部の構成をめぐって内部分裂。「ボリシェヴィキ」と「メンシェビキ」の2派閥に分かれます。

このうち「ボリシェヴィキ」を率いたのがウラジミール=レーニンでした。


さて。この後、起きるのが「血の日曜日事件」と「ロシア第一革命」。
このあたりから段々レーニンのスタンスがややこしくなってくるので、一旦記事を分け、続きは次回に委ねることとします。


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第309回 サラエボ事件はなぜ第一次世界大戦へと発展したのか

「二月革命」とは言いますが、これは当時ロシアで利用されていた暦、「ユリウス暦」に基づくもの。
私たちが慣れ親しんでいる「グレゴリオ歴」では3月に起きた革命です。

私自身、このブログを通じて「右翼」や「左翼」、「共産主義」や「社会主義」等について学んできたわけですが、今回のこの「ロシア革命」。これを理解するうえで、私が長い間調べて来た内容がどうも役に立つときが来た様です。

「右翼」と「左翼」の違い、又は「共産主義」と「社会主義」の違いについては改めてシリーズ、「「右翼」と「左翼」の違いを分かりやすく検証します。」 でも振り返っていただければ幸いです。


二月革命の経緯

では、改めて「ロシア革命」に於ける「二月革命」について記事にしてみたいと思います。

帝政ロシア=ロマノフ朝がこうもあっさりと崩壊した理由として、

1.ロシア第一革命に於けるマルクス主義者たちの台頭
2.日露戦争に於ける日本に対する敗北
3.第一次世界大戦への参戦により、外資がロシア国内から撤退したこと
4.第一次世界大戦により、本来食料の生産活動を行うための農民が兵士として戦争に駆り出されてしまった事

主にこのような理由があるようです。
1、2については既に第310回の記事 に掲載しましたね?

加えて3,4の理由によって、ロシア国内の食料が供給不足に陥り、物価が5倍、6倍と高騰してしまったんですね。

で、食料の供給を求めてユリウス暦1917年2月23日、グレゴリオ暦3月8日にロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)に於いて発生した「デモ」が「二月革命」のそもそもの発端です。

2月革命

このデモを鎮圧する様皇帝であるニコライ二世に命じられた警官隊がデモに向けて発砲。多数の市民が犠牲となります。

これを受けて一部の兵士が反乱を起こし、ニコライ二世はこれを鎮圧する様更に命令を出すわけですが、反乱を鎮圧するはずの兵士が次々と反乱軍に加わります。

この時のロシアの指示系統として、「ドゥーマ(議会)」に皇帝が指示をし、指示に従ってドゥーマが政策を実行する・・・という形がとられていたわけですが、肝心のこのドゥーマの議長であるロジャンコが皇帝の意に反して臨時委員会を設置し、政権を掌握し、皇帝に退位を迫ります。

このことによりニコライ二世は退位(1917年3月15日)。
彼の位を継承することを弟に拒否され、ロマノフ朝を継承する者が誰も存在しなくなり、ついにロマノフ朝は崩壊します。

一方で第310回の記事 でお伝えした通り、「メンシェビキ」に所属する議員の呼びかけにより、「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されます。


内容そのものは結構端折りましたが、大体こんな感じです。

この後、更に十月革命がおこり、遂に「ソビエト連邦」が誕生するわけですが・・・。


「ロシア革命」と「フランス革命」の違い

調べてみて面白いな、と感じたのは、今回記事の対象としている「ロシア革命」と、市民革命の先駆けともいえる「フランス革命」や、その後ヨーロッパ各地で起きた「市民革命」との違いです。

第50回の記事 でお伝えしましたように、そもそも「フランス革命」とは、当時のフランスに在った身分制度、「アンシャンレジーム」に於いて、「聖職者」及び「貴族」の位を持つ第1、第2身分の位に対して、一般市民で構成される「第3身分」の位の人々が起こした革命です。

また更に、マルクスらが登場した時代には、第三身分が「ブルジョワ(資産階級)」と「プロレタリアート(労働者階級)」に分かれ、マルクスはブルジョワによる革命を「社会主義」、プロレタリアートによる革命を「共産主義」と呼びました。

そしてマルクスは、共産主義社会を実現するためには、プロレタリアートの暴力による改革と、社会主義社会から共産主義に移行するまでの間、プロレタリアートによる「独裁」が必要である、と説きました。

現代では「社会主義」とは「共産主義」に移行する段階に於ける、「プロレタリアートによる独裁」が行われている状況にある、と解釈されており、「共産主義社会を目指す人々」という意味では「社会主義者」と「共産主義者」とはほぼ同等の意味を持っていると考えられます。

一方で、ではそもそも「共産主義」とはどのような社会をいうと、元々「共産主義(コミュニズム)」という言葉を生み出したフランソワ・ノイエ・バブーフによれば、土地の「相続権」や「所有権」を否定した社会のこと。

この考え方の元となったルソーによれば、「自然界において人は平等であり、土地の所有や財産の相続よって身分、階級が生まれ、不平等が発生した」とあり、バブーフは「土地の所有や財産の相続」を否定し、『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』(完全なる平等社会)の実現を目指しました。

バブーフが考えた、『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』を目指す人々のことを「アナーキスト(無政府主義者)」と言います。(第161回の記事 をご参照ください)


フランス革命後のヨーロッパは、フランス革命による市民革命の『成功例』を参考に市民革命を実現していくわけですが、ロシア革命とフランス革命以降の市民革命の違いとして一番大きいのは、元々ロシアには「ブルジョワ」だの「プロレタリアート」だのと言った身分制度に関する認識がなかった言う事。

そして、ロシア人が「マルクス主義」に触れるのは、アレクサンドル2世による「農奴解放令」が発令され、革命的秘密結社、「第一次『土地と自由』」による「一月蜂起」が勃発した後。

更に、「土地と自由」から分派した「人民の意志」が、アレクサンドル2世を暗殺した後であったということです。
つまり、「マルクス主義」の情報がロシア国内に入る以前に、「市民革命」に相当する行為を行っていた、ということになります。

そして、二月革命後に結成された「ペトログラード・ソヴィエト」で副議長を務めたアレクサンドル・ケレンスキーが所属する社会革命党は、マルクス主義に基づいて結成された政党ではなく、マルクス主義がロシアに入ってくる以前からロシア国内に存在した「人民の意志」の流れを引き継ぐ政党でした。

この様に、「ロシア革命」が勃発する様子は、どうもこれまでのヨーロッパに於ける「市民革命」とは異なる傾向がみられます。

「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されたのはユリウス暦で3月1日、グレゴリオ暦で3月14日となるわけですが、「ペトログラード・ソヴィエト」は本来少数派であったはずの右派社会主義政党「メンシェビキ」の呼びかけによって結成されました。

元々「多数派」であったはずの左派社会主義政党「ボリシェヴィキ」は、「ペトログラード・ソヴィエト」結成時においては少数派だったのですが、ユリウス暦3月12日(グレゴリオ暦3月25日)、亡命先の東シベリアよりレフ・カーメネフと、後にソビエト連邦2代目書記長となるヨシフ=スターリンが帰国。

更にユリウス暦4月3日(グレゴリオ暦4月16日)、10月革命を主導し、ソビエト連邦初代書記長となるウラジミール=レーニンが帰国します。

カーネメフ・スターリン・レーニンはそろってボリシェヴィキのメンバーでした。


さて。それでは、次回記事において、2月革命が勃発した後の経緯を追いかけながら、この3名が帰国後、どのようにして10月革命が勃発するのか。その経緯を記事にしたいと思います。


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第309回 サラエボ事件はなぜ第一次世界大戦へと発展したのか

第297回の記事 に於きまして、私は日露戦争当時に勃発した「ロシア第一革命」について記事にしました。

ロシア第一革命そのものは、

 「私たちの生活はこんなに苦しいのに、日本と戦争をやってるなんて何事だ!」

といった主張を労働者たちが皇帝に対して行ったところ、デモ隊が警備兵に大量に射殺されてしまった事(血の日曜日事件)が原因で、革命運動がロシア全土に広がったもので、主導者のようなものは存在しなかったのだそうですが、ここに至るまでの流れを見てみますと

1.1861年2月、皇帝アレクサンドル2世により、「農奴解放令」を公布。ロシア国民の中に改革へ向けた意識が高揚される。

2.同年末、革命的秘密結社、「第一次『土地と自由』」が結成される。

3.海外に亡命している革命家たちとも連携し、1863年1月22日、ポーランドに於いて武力蜂起が勃発するが、ロシア国内の指導者が逮捕され、1864年4月11日、鎮圧(一月蜂起)

4.1878年、一月蜂起を起こした人民主義者(ナロードニキ)たちによって「第二次『土地と自由』」が結成されるが、革命を起こす方向性で意見が分かれ、テロリズムを肯定する「人民の意志」派と、それを否定しプロパガンダを重視する「チョールヌイ・ペレジェール(全土地割替)」派とに分裂。

5.1881年3月1日「人民の意志」メンバーによりアレクサンドル2世暗殺

6.1887年3月1日、「人民の意志」メンバーである、レーニンの兄「アレクサンドル・ウリヤノフ」によってアレクサンドル3世の暗殺が計画されるが失敗し、「人民の意志」は壊滅。この頃から、西欧に移住したロシア人たちが「マルクス主義」に触れ、ロシア人の「マルクス主義団体」が結成されるようになる。

7.1898年、キエフのマルクス主義団体が中心となり、「ロシア社会民主党」が結成される。結党宣言を行ったシュトルーベにより、「ロシア社会民主労働党」と党名が改められる。

8.1901年、ナロードニキの流れを組む革命政党、「社会革命党」が結成される。

9.ロシア労働党機関紙「イスクラ」編集局を中心とするグループ「イスクラ派」が分裂し、

 『多数派であるボリシェヴィキ』

  と

 『少数派であるメンシェヴィキ』

に分裂する。

「イスクラ」は多数派であるメンシェヴィキの機関紙となるが、ボリシェヴィキの代表で会ったレーニンは1904年末、ボリシェヴィキ中央部「多数派諸委員会ビューロー」を創設する。

10.1905年1月9日、「血の日曜日」によりロシア第一革命が勃発する

と、この様な流れになります。

そう。ついに登場しましたね。ロシア革命の立役者、「ウラジーミル・レーニン」の名が。

レーニン

まあ、悪名高きソ連を生み出したわけですから、「立役者」との表現はあまり適切ではないかもしれませんが。

ちなみに元々は「ボリシェヴィキ」が「多数派」、「メンシェヴィキ」が「少数派」を意味するのですが、ボリシェヴィキもメンシェヴィキも共に「社会主義」派閥。ですが、後に同じ社会主義の中でも「ボリシェヴィキ」が「左派」、「メンシェヴィキ」が「右派」と変化していくようです。

ロシア第一革命が終結するのは1905年12月です。
この時ボリシェヴィキは武装蜂起を計画し、労働者を暴力によって従わせ、デモを決行させるのですが、デモ隊に向かって帝政ロシア政府軍が砲撃。1000人以上の死者を出した後、ボリシェヴィキは投稿し、ロシア第一革命は終結することとなります。


ロシア第一革命後のロシア

前置きのつもりだったのですが、随分長くなりましたね。
革命に合わせて、ロシアでは各地に「ソヴィエト(労働者・農民・兵士の評議会(理事会))」が結成されます。

ですが、ロシア第一革命の後、社会活動家たちに対する皇帝の締め付けは激しくなり、指導者は投獄されるか、または亡命という選択を迫られました。このことにより、「ソヴィエト」は壊滅させらます。

この時、中心となって活動家たちの弾圧を行ったのが「ピョートル・ストルイピン」という人物。
ロシア第一革命後の内閣で首相を務めていた人物です。

ストルイピン

ですが、彼の取った農村に対する政策がロシア国民の反感を買い、1911年9月18日、彼はユダヤ人青年の手によって暗殺されてしまいます。彼が暗殺された場所こそ、現在のウクライナの首都であるキエフ。

ちなみに、当時のロシアの首都はサンクトペテルブルクでしたが、ロシア第一革命当時、このサンクトペテルブルクで「ソヴィエト」を結成した人物が「レフ・トロツキー」。彼もまたウクライナ人で、家族はユダヤ人。

彼は後のロシア革命で指導者の一人ともなる人物です。


少し話が脱線しました。
ストルイピンの弾圧により鳴りを潜めていた社会活動家たちですが、彼が暗殺されたことにより、少しずつ息を吹き返します。

ストルイピン暗殺の翌年、1912年1月、ロシア社会民主労働党からの独立を目指していたレーニンは、ロシア社会民主労働党から追放されてしまいます。

ここで、ロシア社会民主労働党は「ボリシェヴィキ」と「メンシェヴィキ」の2つの党へと完全に分裂してしまうこととなります。


第一次世界大戦に於けるロシア

政党「ボリシェビキ」誕生の2年後、1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発 します。

改めて第309回の記事 を比較しながら記事を見ていただけると、状況が頭に入りやすいかもしれません。

1912年に第一次バルカン戦争が、1913年に第二次バルカン戦争が勃発するわけですが、バルカン戦争終息後、1914年6月28日に起きた「サラエボ事件」を受けてオーストリアがセルビアに対して宣戦布告。

これを受けて、いち早くセルビア支持を表明し、国内に向けて総動員令を発布したのがロシアでしたね。(7月31日)
そして、そのロシアに対して速攻で宣戦布告したのがドイツ。(8月1日)

Europe1914-jp.png

そんなロシアとドイツとの間で最初に起きた衝突が1914年8月17日から9月2日にかけて継続した「タンネンベルクの戦い」でした。

ロシアはこの戦いに於いてドイツ領プロセインに侵攻を行うわけですが、結果ロシアは敗北し、前線をロシア領内まで後退。
続く第一次マズーリ湖攻勢に於いてロシアは再びプロセインへと軍を勧めますが、ドイツはフランスと対峙する西部戦線より部隊を移動させており、ロシア軍は壊滅。

ドイツよりロシア軍は完全にたたき出されてしまうこととなります。
翌年のゴルリッツ戦線でもロシアは敗北し、ポーランド方面ではワルシャワ、イヴァンゴロドの2つの要塞が陥落し、ロシアは大撤退を迫られます。

この様な情報がロシア国内にも伝わり、ロシア社会民主労働党より分裂したボリシェヴィキ、メンシェビキ、及び社会革命党は、一気にその党勢を拡大します。

戦争が長引くことによってロシア国内の経済も低迷。
議会と皇帝との間の対立構造も深刻となり、宮廷もまた僧侶であるはずのグリゴリー・ラスプーチンによって牛耳られる(1916年12月30日に暗殺される)など、第一次世界大戦当時のロシアはまさしく「混迷」を深めていくこととなりました。

そして、そんな中でついに勃発するのが第一弾の「ロシア革命」である「二月革命」です。

次回記事では、そんな「二月革命」についてまとめてみたいと思います。


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第308回 第二次バルカン戦争が勃発した理由とその影響を検証する

第307回第308回の記事 と連続で「バルカン戦争」をテーマとさせていただきました。

今回から再び第一次世界大戦に話題を戻します。
第303回の記事 をおさらいしますと、第一次世界大戦が勃発した直接的な理由は「サラエボ事件」に於いてオーストリア皇太子が

 『ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプ』

によって暗殺された事がその理由となります。

で、第307回第308回の記事 で振り返りましたように、この当時「ボスニア」はオーストリア・ハンガリー帝国に併合されていました。

で、オーストリア当局によって逮捕された暗殺犯のうちの一人が、暗殺に用いられた武器を支給したのがセルビア政府であったことを告白し、オーストリアはセルビア政府を非難。最後通牒を突きつけた上でセルビアに対して宣戦布告を行います。

そしてオーストリア対セルビアという構図であったはずの紛争が、なぜか第一次世界大戦へという全世界を巻き込んだ戦争にまで発展することとなります。


第303回の記事 で私は、

セルビア人の国民感情を高ぶらせた理由に、この「バルカン戦争」が関係しているような気配です。

また、この「バルカン戦争」の結果はどうもこの地域の国々の中にくすぶる火種を投下した様子が見られます

とこの様に記し、第307回第308回の記事 へと移りました。

結果として見えてきたのは、サラエボ事件をきっかけに勃発した第一次世界大戦ですが、サラエボ事件は連続する歴史の流れの中の一シーンにすぎず、サラエボとボスニアの独立から続く一連の国家間の思惑にこそその原因はあったのではないか、ということです。

第二次バルカン戦争

改めて、こちらは第二次バルカン戦争に於ける国家間の関係性の構図です。
後に別途記事にする予定ですが、この当時のヨーロッパの構図として、

 「英・仏・露」の3国で結ばれた「三国協商」

  と

 「独・墺・伊」の3国で結ばれた「三国同盟」

とが対立する構造に在りました。

三国同盟対三国協商

余談ですが、日本はイギリスとの間で「日英同盟」を結んでいました。
元々イギリスはロシアと対立する構造にあり、露仏は日本のアジアに於ける勢力拡大を阻止しようとする構図に在ったのですが、三国協商が締結されたことで、日本はロシア・フランスとも同盟関係を築くことになります。

日本は「三国協商」に巻き込まれた感じですね。
第一次世界大戦中にロシアではロシア革命が起こり、ロシアは三国協商から脱退し、三国協商は崩壊に至ります。

一方三国同盟を結成していたイタリアもまた領土問題に関係して第一次世界大戦中に三国同盟を離れ、イギリス側につくことになります。

この構図を頭に入れて第二次バルカン戦争の国家間の関係図に目をやると、「ロシア」の裏側に「英仏」の姿が、「オーストリア」の背後に「独・墺」の姿が見えてきますね。

三国協商のロシアが支援するセルビアと三国同盟のオーストリアの戦いとは、即ちこのような構図から生み出された戦いだと云うことになります。


では、改めて「サラエボ事件」まで時間軸を戻してみます。

 『ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプ』によってオーストリア皇太子が暗殺されるわけですが、之を支援したとされるのが「セルビア」。

オーストリア側から「セルビア」の存在を見てみますと、セルビアは元々事件の現場となった「ボスニア」を自国領土にしたいと考えていた国です。この国が、オーストリアによってボスニアが併合された後、「ブルガリア」「モンテネグロ」「ギリシャ」と共に「バルカン同盟」を結成し、南方の雄、「オスマントルコ」を撃破します。

また更に、オスマントルコを撃破したセルビアは、更に同じ同盟国であるブルガリアを更に撃破し、領土を拡大しました。
そしてそんなセルビアの後ろには「ロシア」の存在があります。

そんなセルビアが、今度は自国領土であるボスニアのセルビア人を使って自国の皇太子を暗殺した。
これは正直脅威に感じたかもしれませんね。

またオーストリアの立場から更に考えますと、オーストリアはセルビアの意図に反してボスニアを自国領土に併合し、更に第一次バルカン戦争にも干渉してアルバニアを独立させているわけです。

マケドニア

明らかにセルビアの発展を邪魔していますね。
立場的に、オーストリアはセルビアを格下に見ていたのではないでしょうか。

セルビアはオスマントルコの占領下から独立したばかりの小国。一方オーストリアは神聖ローマ帝国の時代から続く由緒ある家柄。そんなセルビアが、自国の皇太子を暗殺した。

オーストリアにとって、セルビアを叩くうえでこれ以上の口実はなかったのかもしれません。


第一次世界大戦への変動

オーストリアのセルビアに対する宣戦布告を受けて、先ず動くのはロシアです。
セルビアの独立を支持する立場を貫いてきたロシアは、1914年7月31日に挙国一致体制を取るため、国内に向けて「総動員令」を発令します。オーストリアがセルビアに宣戦布告を行ったのが同7月28日のことですから、実に迅速な対応です。

オーストリアは宣戦布告に当たって、事前に同盟国であるドイツに相談をしていたわけですが、ロシア参戦を受け、8月1日、ドイツも同様に総動員令を発令します。

同日、ロシアと同盟関係にあるフランスも「総動員令」を発布。
ドイツは8月2日にロシア、8月3日にフランスに対してそれぞれ宣戦布告を行います。

1900.jpg
(バルカン戦争以前の地図ですが、参考にしてみてください。)

また、時を遡って1839年、ベルギー独立戦争を経てネーデルランド連合王国からベルギーが独立するわけですが、このベルギーの独立を支援したのがイギリス。

本来中立国であるはずのベルギーへのドイツ侵攻を受け、1914年8月4日、イギリスはドイツに対して宣戦布告。
イギリスの参戦を受けて嘗てイギリスの植民地であったカナダ、オーストラリア、ニュージーランドも参戦します。

また更に、イギリスからの再三の要請を受け、1914年8月23日、日本もまたドイツに対して宣戦布告を行います。
日本がドイツに対して宣戦布告を行った後の日本の対応は 第106回の記事 をご参照ください。

日本はドイツに対して、「中国に返還することを前提として、無条件に膠州湾岸地域を日本に引き渡す」ことを要請したわけですが、これをドイツが受け入れなかったため、ドイツに対して宣戦布告を行う事となります。

オーストリアもよもやこんなことになるとは思っていなかったのかもしれません。
オーストリアに味方してくれる国はドイツとブルガリア、そしてオスマントルコだけ。

ドイツ・オーストリア両国はまさしく世界中から袋叩きにされることになります。
後先を考えずオーストリアがセルビアに宣戦布告をしたことが原因ではありますが、それにしても・・・。


さて。皆さんお忘れかもしれませんが、今回のシリーズはそもそも第一次世界大戦の原因追及をすることが目的ではありません。

第一次世界大戦の経緯をさらったのは、そもそも「ロシア革命」が勃発したのが第一次世界大戦の真っ只中であったから。
以上のような経緯で第一次世界大戦は勃発したわけですが、そんな第一次世界大戦がヨーロッパから中国にまで飛び火して展開する中、ロシアでは一体何が起きていたのでしょうか。

次回記事では、いよいよ本丸、「ロシア革命」へと記事を移したいと思います。


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第307回 バルカン戦争とは?その影響をわかりやすく考える

第一次バルカン戦争について検証した前回に引き続き、今回は「第二次バルカン戦争」について検証してみます。

復習いたしますと、『バルカン戦争』は

青年トルコ党が実権を握ったオスマントルコによってマケドニア地域に集められたボスニアヘルツェゴビナのムスリムがマケドニアにいたアルバニア人と連携して行った事実上の独立戦争をセルビアが支援し、またロシアの支援を受けて結成された「バルカン同盟」諸国が更にオスマントルコに対して宣戦布告を行った

ことによって勃発しました。

結果、バルカン同盟はオスマントルコに勝利します。
停戦条約として締結されたのが「ロンドン条約」。

改めて、前回お示しした地図を掲載してみます。

マケドニア
【地図①】

元々バルカン戦争はアルバニア人の独立を口実として勃発した戦争ですから、ロンドン条約においてはアルバニアの独立が宣言されます。地図では青色の部分の左端(西側)に「1912」と記されているのが分かると思います。

斜線の引かれていない、このエリアが「アルバニア」が独立した後の領土です。

地図をみるとわかりますが、ロンドン条約によって、ピンク色の「セルビア」領土に隣接する、右上から左下に向けて引かれた太い斜線のエリアがセルビアに、同じく右上から左下に向けて引かれた細い斜線のエリアがギリシャ、左上から右下に向けて引かれた斜線のエリアがブルガリアにそれぞれ割譲されます。

先ほどの地図を少し東に移動させますと、こんな感じです。

トラキア
【地図②】

こい黄土色の部分が「トラキア」。
国境は現在の地図になりますが、トラキアの北側がブルガリア、西側がギリシャ、東側がトルコです。

Wikiのマケドニアのページを参考にしますと、

「1910年代のバルカン戦争によってギリシャ、ブルガリア王国、セルビアの3王国によって分割された。このときの国境が現代まで残されているものである」

と記されていますので、この地図の国境がちょうどバルカン戦争によって分割された国境、ということになりますね。

ブルガリアには、マケドニア領土以外にこの「トラキア」の丁度国境線より北側の部分も割譲されました。


第二次バルカン戦争

さて。今回のテーマとなる第二次バルカン戦争。

ロシアの後押しを受けて同盟を結成し、オスマントルコに対して戦争を挑んだバルカン同盟ですが、トルコに見事勝利し、ロンドン条約によって多くの領土を手に入れることになります。

ところが、今度はこの獲得した領土をめぐってバルカン同盟諸国間で争いが始まります。

記述を読んでいると、領土争いの舞台となったのは地図①の内、ブルガリアが獲得した領土。
南西側に細長く伸びている部分があると思いますが、この領土の所属をめぐって争いが勃発した様です。

同エリアは、丁度「セルビア」「ブルガリア」「ギリシャ」の3国が国境を接する地点で、この地点の領有権を3国が共に主張していました。

特にブルガリアとギリシャはトラキアに於ける国境でも対立する構造にありました。

この様な対立構造にある中、第二次バルカン戦争はブルガリアによるセルビア・ギリシャ両国への侵攻からスタートします。
この段階で事実上バルカン同盟は崩壊しているわけですが、セルビアとギリシャはお互いに同盟関係にあり、共同でブルガリアに対抗します。

更にセルビア・ギリシャ連合軍に対し、バルカン同盟で同盟関係にあるモンテネグロ、更にルーマニア、オスマントルコ帝国までもが参戦し、ブルガリアに対して宣戦布告を行います。

この時、唯一ブルガリアを支援したのがオーストリア・ハンガリー帝国、バルカン同盟側を支援したのがその立役者であるロシアです。

第二次バルカン戦争

結果的にブルガリアの惨敗に終わるわけですが、第一次・第二次バルカン戦争を通じて、バルカン同盟の4カ国、及びオスマントルコ帝国の中で、領土問題に対する不満が蓄積したままになってしまいます。

第二次バルカン戦争の結果、ブカレスト条約が締結されるわけですが、この結果に満足した国は一国も存在しなかったんですね。


オーストリア・ハンガリー帝国とセルビア王国との間に生まれたしこり

改めて振り返ってみましょう。
確かに「バルカン戦争」そのものは独立を目指したアルバニア人をセルビアが支援する形から始まったのですが、セルビアがアルバニア人を支援した動機の中にあったのが、「ナチェルターニェ」の考え方から、自国に統合することを目指していた同じセルビア人の国であるボスニアヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国に併合されてしまったことにありました。

このことでセルビアはボスニアヘルツェゴビナを統合することを諦め、逆に南側のオスマントルコ領を侵略することを目指すようになりました。

オスマントルコとの戦争に勝利し、マケドニア領は手に入れたわけですが、オーストリア・ハンガリー帝国の横やりが入り、アルバニアが独立。ここから軍隊を撤退させられることとなった上、唯一の海上ルートへの抜け道であったアルバニア地域を封鎖されてしまいます。

地政学的に考えれば、海上ルート、所謂「シーレーン」は国が発展する上でも非常に重要な貿易の為のルートであり、北部をオーストリア、南部をトルコに抑えられた状況は、セルビアの将来的な発展の大きな弊害となったはずです。

こう考えると、セルビアの対オーストリアへの開戦に至る動機としては十分だったと考えられますね。
この他、オーストリアはドイツと同盟関係にありましたし、両国はロシアと対立する構造に在りました。

敗戦後、ブルガリアはオーストリア・ドイツと急速に接近し、また敗戦によりお互いに勢力を急速に縮小させることとなったオスマントルコにも接触を始めます。

一方でセルビアを支援したロシアはイギリス・フランスとの間で「三国協商」という同盟関係を築く友好関係にあり、この後サラエボ事件 をきっかけとして火が付いたセルビアとオーストリアとの対立は、一気に第一次世界大戦へと拡大することとなります。

次回記事では、いよいよサラエボ事件が第一次世界大戦へと発展するその過程について記事にしたいと思います。


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第303回 第一次世界大戦とロシア革命/第一次世界大戦はなぜ?

さて。今回のテーマは「バルカン戦争」。

そもそもなぜこのテーマを記すに至ったかと言えば、第303回の記事 の記事に於いて第一次世界大戦を調査する上で、なぜ第一次世界大戦が勃発したのか。その理由としてこの「バルカン戦争」が関係しているらしいことが見えて来たからです。

セルビアが「ナチェルターニェ」という政策方針に従ってボスニアヘルツェゴビナを統合しようとしている中、オーストリア・ハンガリー帝国にボスニアヘルツェゴビナは併合されてしまいます。

そして、その後勃発したのが「バルカン戦争」なるものです。
現時点で、私はこの「バルカン戦争」なるものが一体どのような戦争であったのか、ということをまったく知りませんから、今回の記事で、話題がどちら方面に向いて進んでいくのかもまったく予測できていません。

まずはWiki等をベースとしながら、「教科書的」な話題から記事を進めてみたいと思います。


そもそも、「バルカン戦争」って何?

Wikiを参考にしますと、

「バルカン戦争」とは、「第一次バルカン戦」と「第二次バルカン戦争」という二つの戦争のことを云います。

「第一次バルカン戦争」とは1912年に『バルカン同盟』」を結成した「ブルガリア」「セルビア」「ギリシャ」「モンテネグロ」の4カ国と、衰退しつつあった「オスマン帝国」との間で発生した戦争。

「第二次バルカン戦争」とは敗戦したオスマン帝国から獲得した領土をめぐって、今度はバルカン同盟に所属する4カ国の間で勃発した戦争のことです。


第一次世界大戦を考える上では、どちらかというと「第一次」はあまり関係がなく、「第二次バルカン戦争」によって生まれたバルカン同盟諸国の中の「シコリ」の方が大きいとは思うのですが、まずは「第一次バルカン戦争」について手繰ってみます。


第一次バルカン戦争

改めて、再度1900年当時のヨーロッパ地図を掲載します。
1900.jpg

「ブルガリア」「セルビア」「ギリシャ」「モンテネグロ」の4カ国は、「オーストリア・ハンガリー帝国」と「オスマントルコ帝国」に丁度挟まれる形で位置しています。

「モンテネグロ」は少し見えにくいですが、セルビアの丁度南西側に位置しています。

Wikiの話題としては、丁度「セルビア」が先ず話題として挙がっています。

セルビア・ボスニア

こちらも第303回の記事 で掲載した地図ですが、セルビアの北西側に「ボスニア」が位置しています。

1459年6月、セルビアはオスマントルコによって滅亡させられるわけですが、1817年オスマントルコ領セルビアとして復活。
1882年、正式に「セルビア王国」として独立します。

そんなセルビアですが、独立する以前から大繁栄を誇った中世当時の「セルビア王国」を復活させることを目途として、同じ時期に自治権が認められた「ボスニアヘルツェゴビナ」を自国領土として統合することを目指していました。(ナチェルターニェ)

ところが、1908年、ボスニアヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国によって併合されていしまいます。

このことで北側を抑えられたセルビアは、今度はその野心を南方、つまり「オスマントルコ」へと向けることとなります。

一方のトルコでは、1908年7月3日、「統一と進歩委員会」という政治組織が中心となって「青年トルコ革命」なる武装蜂起が勃発しており、この混乱の中、「バルカン同盟」の一員を構成する「ブルガリア自治公国」がオスマントルコ領から独立を宣言します。


マケドニア

上の地図は、「マケドニア」というトルコ領の一部を示したものです。青い部分がそうですね。
ボスニアヘルツェゴビナがオーストリア・ハンガリー帝国に併合されたとき、トルコはボスニアヘルツェゴビナに居住していたムスリム(イスラム教徒)をこのマケドニアに移住させようとします。

ところが、ボスニアから移住させられたムスリムたちは、現地に居住していたアルバニア人たちと融和し、更に独立を目指して反乱を起こすことになります。この当時のオスマントルコは「青年トルコ党」によって本来の「オスマントルコ」とは異なる姿へと変えられてしまっていましたから、アルバニア人たちは本来のトルコの姿へと戻そうとしたんですね。(1912年5月)

この時、セルビアはアルバニア人たちを支援し、これを口実として対トルコ戦争=バルカン戦争を勃発させます。

バルカン戦争事態が勃発するのは1912年10月8日なのですが、同日トルコに宣戦布告を行ったのはモンテネグロのみ。
ブルガリア、セルビア、ギリシャが宣戦布告するのは10月17日のことです。

「バルカン同盟」は1912年の春~夏にかけて、バルカン諸国のキリスト教徒によって築かれた軍事同盟なのだそうですよ。

この軍事同盟の締結を支援したのは「ロシア」。
ロシアはまた、バルカン半島に於いて増加する「オーストリア・ハンガリー帝国」の勢力を脅威に感じていたわけですね。

セルビアとブルガリアが戦争の結果手に入れようとしていたのは上地図にある「マケドニア」地域であったわけですが、ブルガリアは同時に「トラキア」という地域と「イスタンブール」をその手中に収めようとしていました。

トラキア
【トラキア(濃い茶色部分)】

イスタンブール
【イスタンブール】

この地域は、実はバルカン同盟の結成を支援したロシアも狙っていた土地であったのだそうです。
後にロシアはこの土地を通じて「ドイツ帝国」「オーストリア・ハンガリー帝国」「オスマントルコ帝国」「ブルガリア王国」の4カ国が結成した「中央同盟国」との間で第一次世界大戦を起こすこととなります。

なるほど・・・。少し「第一次世界大戦」の構図が見えてきましたね。

この地域をめぐって、イギリス帝国はロシアにその領有を容認しておきながら、ブルガリアに対してはこの地域の獲得を後押しし、ロシアよりも優先させる、との保障を与えていたのだそうです。

一方、イギリスはオスマン帝国の親密な支援者でもありながら、オスマン帝国に敵対するギリシャのバルカン同盟入りを支援。
このことでロシアに対抗しようと考えていたのだとか・・・。ものすごい二枚舌外交ですね。

また一方でオーストリア・ハンガリー帝国もまたオスマン帝国への領土拡大をもくろんでいた為、自国とトルコとの間にある国とはすべて対立構造に在ったのだそうです。そう。第一次世界大戦勃発のきっかけとなったとされる「サラエボ事件」において関係が悪化した「セルビア」とも。

そして「ドイツ」はもともとオスマントルコ帝国と親密な関係にあったわけですが、そのオスマントルコ帝国が弱体化したことを受けて、同盟関係の中心をトルコからブルガリアへ転向させようとする意図もあったようです。

元々ブルガリア親独的で、またブルガリア国王フェルディナンド1世は反ロシア的な感情を抱いていたようで、この様な複雑な心情がサラエボ事件をきっかけに燃え上がったのが「第一次世界大戦」だと云うことですね。

それでは、改めて次回記事では「第二次バルカン戦争」についてまとめてみたいと思います。


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第297回 日露戦争とロシア第一革命/ロシア国内に於ける背景

さて。今回のシリーズの中心である「ロシア」と「ソ連」を考える上で、どうもこの「第一次世界大戦」というものを無視するわけにはいかないようです。

第一次世界大戦が勃発したのが1914年7月28日、終結したのが1918年11月11日なんですが、ロシアをソ連へと変貌させるきっかけとなった「(第二次)ロシア革命」が勃発したのは1917年2月23日。第一次世界大戦の真っ只中で勃発しました。

ちなみに、2月に起きたロシア革命は「2月革命」と呼ばれます。
この時のロシア革命は 1917年11月7日(ユリウス暦1917年10月25日)にも勃発しており、この時の革命は10月革命と呼ばれます。

なぜ2月革命はグレゴリオ暦なのに10月革命はユリウス暦なんだ、というツッコミが入りそうですが、このネタはロシア革命そのものを記事にする際にわかる様であれば調べてみたいと思いjます。


第一次世界大戦はなぜ起きたのか?

記事としては第一次世界大戦について記す予定なのですが、ひょっとするとこの記事一つでは終わらないかもしれません。
今回は、基本的に教科書通り、第一次世界大戦が勃発するに至った経緯について、一般的な理由を調査してみます。


私の記憶では、中学であったか高校であったかは覚えていませんが、確か「サラエボ事件」なるものが原因で、オーストリアの皇子が殺害されたことがそもそもの発端であったように記憶しています。

ですので、今回は先ずこの「サラエボ事件」から調べてみます。


サラエボ事件とは?

基本、情報ソースはWikiをまずは利用します。

Wikiによると、このサラエボ事件について、以下の様に記されています。

【サラエボ事件とは?】
サラエボ事件とは、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。

この事件がきっかけとなって、第一次世界大戦が開戦した。

とあります。ここで一つ疑問が浮かびます。

確かに、一国の国王の後継者夫妻が暗殺された・・・というのは一大事件かもしれません。
ですが、そんなたった一つの事件がなぜ第一次世界大戦にまでつながっていったのでしょう?

【第一次世界大戦が勃発した理由(Wikiより)】
当局の尋問の間、プリンツィプをはじめとする暗殺犯たちは黙秘を貫いていたが、ダニロ・イリイッチが自白し、武器がセルビア政府の支給品であったことを告白した。

オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府を非難し、セルビアにとって受け入れがたい要求を含んだ最後通牒を突きつけた。オーストリア政府はセルビアが48時間以内に無条件で全条件を受け入れなければ宣戦布告することを通告した。セルビア政府は二点のみを除いてこの要求を受諾した。

しかし、1914年7月28日オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。

上記にある「当局」とは、「オーストリア当局」の事。恐らく警察の事と思われます。

ここで浮かぶ疑問点は二つ。なぜセルビア政府は暗殺者たちに武器を支給したのか。
そして、オーストリアとセルビアの対立に過ぎなかったはずの事件が、一体なぜ第一次世界大戦という大きな戦争にまで拡大したのか。この2点です。

地図としては、世界地図で見る世界史 というサイト様に掲載されているものがとてもわかりやすかったので、ここから持ってきます。

1900.jpg

最も大きい国がロシア帝国。その左下、南西側に「オーストリア・ハンガリー二重君主国」なるものがあって、その真南に、とても小さいですが「セルビア」という国が存在しますね。


調べてみると、どうもポイントとなるのが、サラエボ事件に於いて皇太子夫妻を暗殺した犯人であるガヴリロ・プリンツィプの出身地とその属性に在るようです。

改めて彼の出身とその属性を見てみますと、

「ボスニア出身のボスニア系セルビア人」

となっています。
つまり、ボスニア出身のボスニア系セルビア人がセルビア政府から武器を支給され、起こしたのが今回の事件だということです。

では、「ボスニア」とはどの地域になるのかというと・・・

【ボスニア・ヘルツェゴビナ】
ボスニアヘルツェゴビナ

現在の地図にはなりますが、このあたり。
丁度セルビアと国境を接するあたりになります。

【中世のセルビア】
セルビア(中世)

また更に、こちらは中世の「セルビア」。
セルビアは、7世紀にこの地域にやってきて、この地域に於いて、6つの部族に分かれて生活していたのだそうです。

その6つの部族が以下の通り。

「ラシュカ」「ボスニア」「ドゥクリャ/ゼタ」「ザフムリェ」「トレビニェ」「パガニア」

これら6つの部族が時にくっついたり、時に独立したりを繰り返しながら、1171年、ついに統一され、「セルビア王国」として成立することになります。

そう。「ボスニア」とは、セルビア人の中の一部族の名称だったんですね。

ただ、「ボスニア王国」という国と「セルビア王国」という国の関係性はどうもよく分かりません。
Wikiで、「セルビア王国」についてのページを見ると先ほどの地図となるのですが、これをボスニア王国についてのページから見ると、

セルビア・ボスニア

こんな感じ。ピンクがセルビア、緑がボスニアです。
1184年当時の地図なのだそうですよ。

セルビアが統一された時期と符号が合いませんね。
このあたりははっきりとした理由が分かれば後日記事にできればと思います。

そして、この当時のボスニアは、「ハンガリーの支配下にあった」ともされています。
ボスニアがボスニア王国として独立するのは1377年のことです。


話が随分脱線してしまいましたが、肝心なのは、「ボスニア人は、元々セルビア人だった」というところです。

そんなボスニアとセルビアですが、セルビアは1459年6月、1463年5月にはボスニアがそれぞれオスマントルコ帝国に攻略され、滅亡してしまいます。

しかし、1817年、セルビアはオスマントルコ領セルビア公国として復活。
また更に1877年4月に勃発した露土戦争を経て、1882年、「セルビア王国」として独立を果たします。

ただ、問題となるのはオスマントルコ領であった時代のセルビアで計画されていた「ナチェルターニェ」なる覚書。
ここには、オスマントルコが崩壊したと仮定して、トルコ崩壊後、ボスニアを含む中世のセルビア王国の領域に基づいた「セルビア王国」を建設する、との方針がしるされていました。

そして、この「ナチェルターニェ」に記されていた方針が、後のセルビア王国の政府方針となっていきます。

さて。一方のボスニア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)ですが、こちらも露土戦争の結果締結された「サン・ステファノ条約」に於いて、ボスニアの自治権が認められることとなります。(1878年)

ですが、同年、オーストリア・ハンガリー帝国の要請を受けたドイツ宰相ビスマルクによって主宰された「ベルリン会議」に於いて、このボスニアヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国が軍事占領することが認められてしまいます。

ですが、セルビアは「ナチェルターニェ」にて、中世セルビア王国が存在した地域を「セルビア王国」として復活させることを政府方針としているわけで、オーストリア・ハンガリー帝国に対し、セルビア人が多く居住することを理由に、ボスニアヘルツェゴビナ領有の正当性を主張します。

しかし、1908年10月6日、ついにボスニアはオーストリア・ハンガリー帝国に統合されることとなります。

つまり、セルビア人の感情として、この時点でオーストリア・ハンガリー帝国に対する敵愾心が生れているわけですね。
ただ、これだけではセルビア政府がオーストリア皇太子暗殺を計画した秘密結社に対して武器を提供するまでのことを行ったりゆうとしては 少し弱い気がします。

この後、「バルカン戦争」なるものが勃発します。
どうもセルビア人の国民感情を高ぶらせた理由に、この「バルカン戦争」が関係しているような気配です。

また、この「バルカン戦争」の結果はどうもこの地域の国々の中にくすぶる火種を投下した様子が見られます。

そこで、次回記事では、この「バルカン戦争」について記事にしたいと思います。


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第296回 ザポロージャのコサック軍(ヘーチマン国家)/ウクライナ人の誕生

私、シリーズ、十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 に於いて、日本とロシアの間で勃発した「日露戦争」について、日本と中国とのかかわりあいという視点から、日露戦争が勃発する経緯については記しているのですが、日露戦争そのものの経緯については完全にスルーしています。

というのも、シリーズとしては当初日中間近代史に於いて、たびたび名前の登場する「満州」について、そもそも「満州」とは何なのか、そして「満州」は日中間の近代史に於いて、一体どのような位置づけであったのか。このことを解明することを目的としていたからです。

また一方で、「ロシア革命」に関しても、第64回の記事 や 第125回の記事 などで触れてはいますが、このロシア革命によって誕生したソビエト連邦が後のアジア・ヨーロッパ史に大きな変化をもたらすというのに、その詳細には触れていません。

これも、シリーズの趣旨が主に当時の中国国内に於ける背景に焦点を絞っていたことが理由で、ロシア革命にまで情報を広げると焦点がぼやけることを考慮したためです。

ただ、やはり現在までに至る日本の戦前・戦後史を考察する上で、この「ロシア」の存在は、決して無視できるものではありません。第一次世界大戦後、第二次世界大戦までの中国史に於いて、この「ロシア=ソ連」の存在が非常に大きな影響力を発揮していることはシリーズ、十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 において掲載した通り。

今回のシリーズ では、そんなロシアがなぜ共産化し、中国や日本、ひいてはヨーロッパやアメリカにまであれほど大きな影響を発揮することとなったのか。このことを追求することを目的としています。


日露戦争勃発に至るロシア国内での背景

第79回の記事 にも掲載しました様に、日本とロシアが「日露戦争」を起こすに至った経緯としては、義和団の乱(北清事変)に於いて、清国から宣戦布告を突き付けられた清国に領土を保有する8カ国の内、ロシアを除く7カ国が北京に軍隊を派遣。

特に日本は、義和団から北京の外国人公使館区域に居留する925名の外国人と約3000人ほどの中国人クリスチャンを守るため、柴 五郎 中佐を中心に奮闘する中で、唯一ロシアだけが自国の権益を拡大するためだけに軍隊を派遣。

満州全土を占領してしまったことがそもそもの原因です。

その直前には清国領であったはずの「江東六十四屯」に突如として攻め込み、同地域に居住するすべての清国人を滅ぼし、誰も居住する者のいなくなった江東六十四屯を占領する・・・という考えるだけでもぞっとする暴挙を平然と行っています。

この当時はまだロシアは共産化されてはいなかったわけで、この様な事情を考察すると、ひょっとするとロシア人の中には元々この様な行為を平然と行える性質が存在した・・・ということなのではないかとも考えられます。この時清国人を虐殺したロシア人は、「コサック兵」であったとされています。


ロシア国内に於ける「ポグロム」

「ユダヤ人虐殺」と聞いて真っ先に思い浮かぶ国・・・と言えば、まずは「ドイツ」でしょうか。
ヒットラー率いるナチスが行ったユダヤ人大虐殺=ホロコーストのことが頭に思い浮かぶかもしれません。

ですが、ユダヤ人迫害の歴史はとても古く、ロシアでも同様にユダヤ人は迫害される立場にありました。
理由は様々考えられますが、ポーランドが分割併合されるまで、ユダヤ人はロシアから追放され、ユダヤ人は入国そのものが許可されていませんでした。

ところが、ポーランドが分割され、ロシアの占領下となってしまったことで、元々ユダヤ人に対して寛容な政策を取っていたポーランドに居住していたユダヤ人が、そっくりロシアの国民となってしまったわけです。


その後のロシアに於けるユダヤ人政策は比較的寛容なものとなるのですが、1856年、当時のロシア皇帝アレクサンドル2世はクリミア半島に於けるフランス・イギリス・オスマントルコ等の連合軍との戦争に敗れ、ロシア国内を「近代化」することが必要だと感じるようになります。

【アレクサンドル2世】
アレクサンドル2世

そこで、まず第一に実施したのが「農奴解放令」。
「農奴」。読んで字のごとく、地主の支配を受ける立場にあった農民たちのことです。

このことが、確かにロシアに於ける「産業革命」のきっかけとはなるのですが、このことが、マルクスやミハイル・バクーニンら共産思想の影響を受けたポーランドの小作人や学生たちの感情を焚き付け、1863年1月22日、ポーランドに於いて武力蜂起が勃発します。

この武力蜂起は1月蜂起と呼ばれ、1864年4月11日に鎮圧されます。
この武力蜂起を起こした参加者たちは、「ナロードニキ(人民主義者)」と呼ばれ、武装蜂起鎮圧後も政府や軍による弾圧を受けることとなります。

このことが原因で1881年、アレクサンドル2世は暗殺されるわけですが、彼の後を継いだアレクサンドル3世は、この暗殺を「ユダヤ人の仕業だ」と決めつけ、この後、ロシア政府によるユダヤ人に対する激しい迫害が行われるようになります。

【アレクサンドル3世】
アレクサンドル3世

アレクサンドル3世は、国民の不満を政府ではなく、ユダヤ人に向けることでその解決を図ろうとしたんですね。
この後、ロシア国内ではユダヤ人に対する迫害行為が広範囲にわたって行われるようになり、強姦や掠奪、虐殺行為を含めたユダヤ人に対する迫害行為は「ポグロム」と呼称されるようになります。

考えてみれば、フランス革命に於いても凄まじい虐殺行為は行われていたわけで、欧州を含めて、彼らはこのような虐殺行為を行う事に対して元々抵抗感が薄かったのでしょうか・・・。これだけはどうにも理解できません。

江東六十四屯に於けるアムール川事件が勃発したのは1900年ですから、事件を起こしたロシア人は同じような感覚で清国人を虐殺したのかもしれません。この感覚だけは本当に理解できません。


第59回の記事 で記しましたが、日露戦争に於いて日本に500万ポンドの軍事費を融通する為、米国の銀行家であるジェイコブ=シフを紹介したロスチャイルド家は、「ユダヤ人」の象徴のようにしても語られる一族です。

彼は、「ポグロム」の敵を討つために高橋是清にジェイコブ=シフを紹介した、とも言われています。

日露戦争が勃発するのが1904年2月8日。
翌1905年1月、ロシア第一革命が勃発します。

ロシア第一革命は、労働者たちが皇帝に対し、日露戦争の中止、労働者の待遇改善、憲法改正と基本的人権の付与等を求めてデモを行ったところ、警備兵に大量に射殺されてしまったことからロシア全土に広まった革命運動のことです。

実際には皇帝であるニコライ2世の知らないところで起きた事件(血の日曜日事件)が原因となっており、このことで、特にウクライナ地域に於いて革命運動が活発化します。

【ニコライ二世】
ニコライ二世

また、この事件をきっかけにロシア全国各地で結成されたのが「ソヴィエト(労働者・農民・兵士による評議会)」。

同年9月、ロシアは日露戦争に敗北。
ニコライ二世は「10月勅令」を発令し、国会開設と憲法の制定を発表することで時を同じくして設立された「立憲民主党」の支持を得ることに成功し、革命は鎮静化されます。

ちなみに、ニコライ二世によれば、この時革命に参加した参加者の90%がユダヤ人だったのだとか・・・。
事実なのかどうかはわかりませんけどね。


次回記事では、記事内容を「第一次世界大戦」へと移し、第一次世界大戦が勃発する経緯や第一次世界大戦に対するロシアの関わり合いについて記事にしてみたいと思います。


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第293回 ロシアとウクライナ/ユダヤ人のロシア流入までの歴史

本筋から外さないために、どこから記せばよいか・・・ととても迷ったのですが、今回のタイトルはこんなタイトルで始めてみます。

第293回の記事 でも記しましたが、ウクライナは元々「キエフ大公国」という名称で、現在のイメージだと、「ソビエト連邦」という国の中に含まれていた国で、「ロシア」がソビエト連邦の大部分を占めていることから、ウクライナはロシアに支配されていた国だ・・・というような印象も強いかもしれませんが、元々「ロシア」の方がウクライナの原型であった「キエフ大公国」より派生した国。

言うなれば「ウクライナ」が親で「ロシア」が子であった、という表現の方が近いかもしれません。
事実、モスクワ公はキエフ公の子供がキエフ公より譲り受けた「ウラジーミル・スーズダリ公」が元になっているわけですから。

キエフ大公国がモンゴルに支配されたのち、キエフ大公国を引き継いだのが「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」。
同時期、モスクワ大公国の原型であるウラジミール大公国もモンゴル占領下において存在していました。

ところが、キエフ大公国を引き継いだ「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」は、ハールィチ・ヴォルィーニ大公の血筋が途絶えてしまい、このことから一気に国力が衰退し、ポーランドとリトアニアに分割統治されることとなってしまいます。1349年)

ポーランドとリトアニアは、元々対立し、お互いに戦争を行う関係であったわけですが、共通の敵であるドイツ騎士団等に対抗する必要性に駆られ、ポーランドとリトアニアは同盟関係を結び、「ポーランド・リトアニア連合」となります。(1387年)


フメリニツキーの乱

1569年、ポーランドとリトアニアは、両国の元首を同一の人物が兼ねることにより、「ポーランド・リトアニア共和国」となります。

さて。1648年、そんな「ポーランド・リトアニア共和国」において、「フメリニツキーの乱」と呼ばれる武装蜂起が行われます。
この武装蜂起を主導したのが、「ボフダン・フメリニツキー」という人物。

【ボフダン・フメリニツキー】
フメリニツキー

彼は、ポーランド・リトアニア共和国王によって編成された「登録コサック」の一員で、反乱を起こす際には「ウクライナ・コサック」の指導者でもありました。

「コサック」の起源は明確ではないものの、そのルーツはウクライナにあり、その中にはキエフ公国の元士族・豪族も含まれていたのだとか。

没落した貴族と盗賊の集団であった、とのことですが、ロシアやポーランド・リトアニア等では軍人として重用されていた様子が見られます。

そんな中で、「登録コサック」とは、同じ「コサック」でも、国が正式に認めた「コサック」で、ロシア帝国時代には「貴族」としても認められていたのだとか。


そんなフメリニツキーの領地が、ポーランド貴族であるダニエル・チャプリンスキによって襲撃され、フメリニツキーの恋人であったモトローナ・チャプリーンシカまでも奪い去ってしまいます。

フメリニツキーはこのことを最高裁判所に対して提訴するのですが、敗訴。
さらにダニエル・チャプリンスキの手によって投獄されてしまいます。

ところが、フメリニツキーは警備長の手によって救い出され、ウクライナ・コサックの拠点がある、「ザポローシ゛ャ」へと逃げ出すことに成功します。

彼は、元々その経験や戦果、豊富な知識、家柄等も含めて、ウクライナ・コサックから尊敬される存在にありました。
彼は、ウクライナ・コサックを率い黒海北部、「クリミア・ハン国」のクリミア・タタール人(モンゴル人、というわけではないらしい)とも同盟関係を結び、ザポローシ゛ャに派遣されたポーランド政府軍に勝利します。

これを機に、フメリニツキーがポーランド政府を相手に起こした反乱が、「フメリニツキーの反乱」と呼ばれるものです。


第293回の記事 でもお伝えしましたように、この当時のポーランド政府は、ユダヤ人に対して世界で最も寛容な政府でした。

ポーランド政府は、ユダヤ人を初めとする、異国の知識人を優遇し、自国の農民を管理する立場に当たらせていました。

特にウクライナはポーランド政府から離れていることもあり、「農奴」として働かされていた農民たちの不満は鬱積していました。
また過去に反乱を起こしたウクライナ・コサックたちは軍人としての資格や自治権を奪われて農奴としての扱いを受けていたこともあり、反乱を爆発させる材料が勢ぞろいしていた・・・当時のウクライナはそのような状況に在りました。

ですので、当然自分たちを管理していた「ポーランド人とウクライナ人の貴族・カトリックの聖職者・ユダヤ人の収税吏と官吏」もさることながら、「反乱軍に加わらない、あるいは反乱を支援しない者も身分・宗教・民族を問わずに惨殺(Wikiより)」されます。

また、「一時期コサックの同盟者であったタタールはウクライナの町村でほしいままに奴隷狩りを行った」とのことで、この反乱で殺害されたユダヤ人の数は数万単位に上るのだとか。この話は、飽くまで余談ですけどね。


「ザポロージャのコサック軍」誕生

「ザポローシ゛ャのコサック軍」とは、軍の二つ名の様ではありますが、これ、れっきとした国の名前なんです。
タイトルで( )書きしている「ヘーチマン」とは、コサックの指導者の事。

「ヘーチマン国家」とは、コサックの指導者であるフメリニツキーが設立した国家である「ザポローシ゛ャのコサック軍」の通称になります。ヘーチマン国家誕生を受けて、初めて「ウクライナ人」が、この「ウクライナ」にルーツを持つ民族名として用いられるようになります。

「フメリニツキーの反乱」の結果、ウクライナにはこの「ヘーチマン国家」が誕生します。(1649年)
フメリニツキーはポーランドへの反乱期間中、継続してロシアに援軍を求めていたのですが、ロシアはこれを拒否し続けます。

最終的に、フメリニツキーは「援軍」を求めるのではなく、「ロシアの保護下」に置くことを要求。
1653年7月2日、ロシアはフメリニツキーの要求に応じることを約束。1654年1月18日、このことが正式に誓約されます。


ロシア・ポーランド戦争開戦

ウクライナが自国の保護下に置かれたことで、ロシアはポーランド対ウクライナ戦に参戦することになります。
このことを受け、ウクライナと同盟関係にあったクリミアは同盟を破棄、逆にポーランドと同盟関係を結びます。(1654年6月)

また更に、ポーランド・リトアニア共和国と対立関係にあったスウェーデン王国が参戦(1655年夏)。
フメリニツキーは自軍が優勢となったことから、クリミア・ハン国と再度交渉にあたり、自軍に復活させます。


ところが、決着が見え始めると、今度はウクライナ領土をめぐってスウェーデン、ロシア、ヘーチマン国家の間で対立が顕在化。1656年5月、ロシアはスウェーデンに対して宣戦布告し、今度はポーランド・リトアニアに対して和平を申し入れます。

和平交渉への参加を拒否されたことから、フメリニツキー軍はロシアとの国交を断絶し、スウェーデンに援軍を派遣します。
しかし、ここに至ってフメリニツキーは病床に倒れ、脳梗塞によって死去。

指導者を亡くしたコサック軍は空中分解し、内戦状態へと陥ります。

1718年スウェーデンの指導者であるカール12世が死去。スウェーデンが和平を申し出たことからこの戦争は終結し(1721年)、ロシアは一挙に北方最強国へとのし上がります。

1721年10月22日、「ロシアツァーリ国」改め、「ロシア帝国」が誕生します。


この後、1795年、ポーランドはロシア・プロセイン・オーストリアの三国で分割され、ポーランド・リトアニア共和国は「国家」として事実上消滅してしまいます。

「ウクライナ」にユダヤ人が大量に流入したことが、ロシアに大量のユダヤ人を招き入れる原因になった・・・と考えていたのですが、「ウクライナ」だけでなく、そもそも「ポーランド」そのものが分割されてしまったことによってロシアは大量のユダヤ人を国内に招き入れることとなったんですね。


さて。次回より、いよいよ部隊を「ロシア」へと移動し、時間軸もできれば「ロシア革命」まで進めることができれば、と考えています。


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<継続する記事>
第292回 ポーランドとドイツ騎士団とユダヤ人/ソ連誕生までの布石

だめだ・・・

どうもこのシリーズを書こうとすると、私がそもそもなぜこのシリーズを記そうと思ったのか、という軸がぶれそうになります。

結論として導きたいのは、そもそもロシア帝国が崩壊し、共産化したのは「ロシア人とユダヤ人との対立」の結果である、という結論です。もちろんこれは仮説であり、まだ証明できてはいません。

これを証明するためにこのシリーズを作ろうとしているのですが、どうも「悪魔のささやき」が聞こえてきてなりません。
仕方のない部分はあるのですが、どうしても「ユダヤ人迫害の歴史」を追求しようとしてしまいます。

ですが、これをやっちゃうと本来の「ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯」を追求する以上に記事数を割いてしまいそうでなりません。

もっと言えば、最終的には「ロシア革命はユダヤ人の陰謀であり、ロマノフ家はユダヤ人の手によって壊滅させられた」というところまで持っていきたいわけです。

というと語弊があるかもしれませんね。私は、この仮説が事実であるのか、それともデタラメなのかということを証明したいのです。
ここを証明することが目的ですので、ユダヤ人迫害の歴史は、ロシア中世・近代史に関連する部分に極力留め、それ以上過去にまでは遡らない様努めたいと思います。


前回の記事 では、モンゴル(キプチャク・ハン国)の脅威に晒され、弱体化しつつあったポーランドが、ユダヤ人に寛容な政策を取ることで、他国で迫害されるユダヤ人を自国内に招き入れ、ドイツ商人と共に、ポーランドの経済回復の一助となってく様子を記事にしました。

で、そもそも私がなぜポーランドがユダヤ人を招き入れることとなった歴史に触れようとしたのかというと、このことが後々ロシア内にユダヤ人を大量に招き入れることとなる根拠となったから。

で、私がなぜ「ユダヤ人迫害の歴史」に言及したくなるのかというと、そもそも「ポーランド」にユダヤ人の数が激増した理由は、ポーランド以外の国々でユダヤ人が迫害を受け続けてきていたからであり、これはロシアもまた例外ではありません。

つまり、ロマノフ朝によるユダヤ人に対する迫害がユダヤ人のロマノフ朝に対する反感へと繋がり、これが後のロシア革命へとつながったのではないか・・・というのが一つの「仮説」です。


さて。ではなぜ「ポーランドの歴史」が「ロシアにユダヤ人を招き入れる原因となったのか、と申しますと、ここに大きく関係してくるのが「ウクライナ」の存在です。

では、もう一度前回の記事でご紹介した、「元」国時代の地図を見てみます。

モンゴル

ロシアを支配していた「キプチャク・ハン国」の領土内、カタカナで「キエフ」と書かれている領土内に、さらに小さい文字で「キエフ」、そして「モスクワ」という文字が書かれているのが分かると思います。

前回の記事でもお伝えしました、元々キプチャク・ハン国がこの地を急襲する以前、この国には「キエフ・ルーシ」という国が存在していました。モンゴルの急襲によって「キプチャク・ハン国」と名を変えるわけですが、まだここに「キエフ・ルーシ(キエフ大公国)」が存在していた時代。

時の権力者、ユーリー・ドルゴルーキー大公は、自身の息子であるフセヴォロド3世に、嘗て自身が「公(公国の元首のこと)」として治めていた領土を分け与え、「ウラジーミル・スーズダリ公」の位を与えます。

フセヴォロド3世はこの土地に、「ウラジーミル・スーズダリ公国」を建国し、これが後の「モスクワ・ルーシ(モスクワ大公国)」の原型となります。フセヴォロド3世の死後、この土地はフセヴォロド3世の息子であるユーリー2世が継承します。

モンゴルが攻めてきたのはユーリー2世の時代(1238年)。モンゴル軍により、ユーリー2世の一族は、軒並み滅ぼされ、彼自身も戦死するのですが、彼の弟であるヤロスラフ2世が大公の座を受け継ぎ、彼はモンゴルに「臣下」として従事することで「モンゴル帝国領ウラジーミル公国」の存在を維持します。

更にその息子、アレクサンドル・ネフスキーの末子である「ダニール・アレクサンドロヴィチ」がアレクサンドルより「モスクワ領」を受け継ぎ、「モスクワ公」を名乗ることとなります。ダニーるの血縁者が後にモンゴル王より「モスクワ大公」に任じられ、ダニールの息子であるユーリー3世とイヴァン1世が連続して「モスクワ大公」の位に就くこととなります。

この時代はまだ、「モスクワ大公国」はモンゴルの支配下にあったんですね。

【モスクワ大公国】
モスクワ大公国-2


モスクワ大公国は、確かにユーリー2世よりウラジーミル領を分け与えられたフセヴォロド3世の子孫が更に受け継いだ土地なのですが、実際にモンゴルに滅ぼされた後の「キエフ大公国」そのものを勝ち取り、継承したのは「ハールィチ公国」と「ヴォルィーニ公国」とが合併した「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」でした。

ハールイチ・ヴォルイーニ大公国

この、「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」こそ、「ウクライナ」の源流。

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国はモンゴルとの戦いに敗れた後、ウラジミール大公国同様モンゴルの属国となるのですが、大公であったダヌィーロは、自分の息子を隣国リトアニアの初代大公であったミンダウガスの娘と婚姻関係を結ばせ、リトアニアとの関係を強固なものとし、ともにドイツ騎士団との戦いや、ポーランドへの遠征なども行います。

1340年に大公が途絶え、国が貴族の支配を受けるようになると、その国力は一気に弱体化し、後にポーランド・リトアニアによって分割統治されることなります。

ハールィチ公国はポーランド領に、ヴォルィーニ公国はリトアニア領となります。
この当時、ポーランドとリトアニアは連合国となっており、「ユダヤ教」に対してヨーロッパ一寛容な国家でした。
(※失礼しました。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国がポーランドとリトアニアに吸収された当時、両国はハールィチ・ヴォルィーニ領をめぐって戦争を起こしており、まだ「連合国」と呼べる関係にはありませんでした。
吸収した後、ドイツ騎士団に対抗するため、お互いが連携(1387年)し、同盟関係を結ぶことで「連合国」としての形を築くことになります)


そんな「ポーランド・リトアニア連合国」に「ウクライナ」は吸収されてしまったんですね。
この時、「ウクライナ」という地域に、もまた大量のユダヤ人が流入します。


少し見えてきましたね?
このことが、後にロシア帝国にユダヤ人が大量に流入するきっかけとなります。

そのためには、もう少しこの「ウクライナ」という国の歴史をたどる必要があるのですが・・・。
その記事は次回へゆだねます。


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<継続する記事>
 ソビエト連邦の誕生までの歴史~ロシア人とは何者なのか?

タイトルは非常に悩みました。
ロシアのどの時代にスポットを当てるべきなのか、そもそもタイトルとして、「ロシア」そのものにスポットを当てても良いものなのか。

カテゴリーの名称としては、ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 との名称ですから、なぜポーランドやドイツ、ユダヤ人が関係あるんだ、との声も聞こえてきそうですが・・・。

ただ、調べていますと、どうもソ連誕生の歴史を追いかける上で、「ユダヤ人」や「ポーランド」、そして記事にこそ含めていませんが、「ウクライナ」という国の存在も無視できないということが見えてきました。

【「元」の時代のユーラシア大陸】
モンゴル

こちらは、13世紀。1200年代に、モンゴル帝国「元」がアジアを支配していた時代の地図です。
世界の歴史マップ」様より拝借いたしました。

余談ですが、15世紀には更にロシア中央部に「シビル・ハン」国が勃興するのですが、後にロシア・ツァーリ国に併合され、「シベリア」とその名称を変えます。

ご覧いただくとわかりますが、後の「ロシア大公国」が誕生する位置もまた「キプチャク・ハン国」が占領しており、この領土内に「モスクワ」と書かれていることもわかります。

カタカナで「キエフ」と書かれていますが、元々この地域に「キエフ大公国」という国が存在し、この国の正式名称が「ルーシ」。
「ロシア」という名称の由来となる国の名前です。

さて。この「キエフ」が位置した地域までキプチャク・ハン国が席捲しており、その領土は「ポーランド」にまで迫っていますね。
この時、ローマ教皇であったグレオリウス9世より、全てのキリスト教徒に対して、

 「ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという」
という「詔書」が発せられます。この時、皇帝から命令を受け、ポーランドへ向かったのが「ドイツ騎士団」。

明確な時期は分かりませんが、1241年4月9日、ポーランド・ドイツ連合軍とモンゴル軍が初めて戦闘していますので、この時期が目安になりますね。

ちなみに彼らに命令を下したグレゴリウス9世は、「神聖ローマ帝国」の教皇。
神聖ローマ帝国とは、もともと「東フランク王国」と呼ばれていた地域で、「ドイツ人」とは、一般的にこの「東フランク王国」の出身者たちのことを差していたようです。

ドイツについては後日、改めてシリーズ化します。
プロセインへのドイツ騎士団の移住は、「東方植民」と呼ばれる、神聖ローマ帝国以前から続くドイツ人の植民政策の一環で、これはドイツ人そのものの繁栄をもたらします。

一方でポーランドは、モンゴルによる侵攻などの影響も受けて荒廃し、ドイツ人はさらにポーランドの開拓地への移住を推し進めます。

この様に記すと、あたかもポーランドがドイツによってどんどん占領されているかのようなイメージを受けますが、モンゴル人による侵攻を受けて荒廃するポーランドと違ってドイツは繁栄と共に近代化も推し進められており、ドイツから持ち込まれた「都市法」は、ポーランドの伝統的な習慣法と比較しても、とても進んだものであり、ポーランドはこのドイツ都市法を積極的に受け入れていったんですね。

おかげでポーランドでは農業は回復し、都市化・近代化が推し進められ、元々自然環境にも恵まれていたことから、どんどん経済的繁栄を回復していくこととなります。

この時、ポーランド国王は、都市再生の為、ドイツ商人と同時に、「ユダヤ人」も自国領土へと招き入れます。ユダヤ人は、ポーランドに於いて、「法」によって思想と生活の両面から保護されることとなります。

この当時、ヨーロッパ全土では「反ユダヤ主義」なるものが展開されており、ユダヤ人は迫害を受けていましたから、ユダヤ人は続々とポーランドへと移住してきます。

彼らの知識やビジネスノウハウは後のポーランドにとって経済的な柱となり、ポーランド初の通貨も、彼らユダヤ人の手によって生み出されたのだそうです。

どうも、この当時からユダヤ人には「陰謀論」なるものがついて回る傾向にあり、ユダヤ人により、キリスト教徒がいけにえとされ、儀式として殺害されている・・・といった「デマ」がまことしやかに信じられていたのですが、ポーランド国王は、この様な「デマ」をすでに「胡散臭い」と見抜いていて、この様な「デマ」からもユダヤ人を法律によって保護したのだそうですよ。


さて。一方で「ドイツ騎士団」ですが・・・。
地図上部に、紫色で「ドイツ騎士団領」という文字がありますね。

これは、「プロセイン」と呼ばれる地域で、後に「プロイセン王国」が築かれる、その基盤ともなる地域です。
ここに、「プルーセン人」という、「異教徒(キリスト教以外の宗教の信者)」がおり、この人々を「キリスト教化」することに手を焼いていたポーランド国王は、当時ハンガリーにいたドイツ騎士団に呼び寄せ、プルーセン人の対応に当たらせます。

この時、引き換えとしてポーランド国王はドイツ騎士団に対し当時自国領土であった「クルムラント」の領有権を認め、また更にローマ教皇はプルーセン人の土地である「プロイセン」の領有権もドイツ騎士団に対して認めます。

1226年~1228年にかけてのことですから、モンゴル人によるポーランド侵攻以前の事ではありますが、教皇の命を受けてポーランドまで移民してきたドイツ人たちは、やがてポーランドの支配をもくろむようになります。

このお話は、シリーズをドイツに移した後でふれたいと思います。


記事としては少し短いですが、今回の記事を前提として、次回記事内容がそこそこボリュームのあるものとなる予感がしますので、今回はここで区切りを付けたいと思います。

次回は「ウクライナ」という国にスポットを当て、シリーズロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 を追いかけてみたいと思います。


この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


今回のシリーズは、本編であるなぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか のもう一つの外伝として記していきたいと思います。

「真珠湾攻撃はどうした?」という声も聞こえてきそうですが・・・この情報についてはまだ、私自身の中でこのブログらしい、説得力のある情報を掲載する自信がありませんので、もうしばらくお待ちください。

今回のシリーズは、なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか本編と共に、子カテゴリーとして掲載し続けたシリーズ、十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 、そしてもう一つのシリーズ、共産主義と左翼 についても補完する内容としていく予定です。

シリーズ十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 に於いて、まだ完結させてはいませんが、シリーズ全体を通じて、「日中戦争開戦までの経緯」について、序盤は特に日本ではなく中国の近代史について、中盤では中国の近代史に日本の近代史を絡めながら、そして現時点での終盤では日本の南方政策と欧米との関わりあいに関連した記事を作成しています。

ただ、その途中で私、意図的に掲載していない、抜いている情報というものがあります。
それが今回外伝としてシリーズ化予定の「ロシア」の問題と、「ドイツ」の問題です。

理由としては、子カテゴリータイトルを「十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」としており、間接的には関係があるものの、深堀して話数を割く内容としては適切ではない、と考えたからです。

ですが、それでも特に中国近代史を追い、かの国が日本と敵対する関係に至る経緯を追えば、そこに「ソ連共産党」という存在が大きく影響していることは最早否定することは出来ませんし、一方で本編である「なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか」という視点に立てば、そこで「ソ連」の存在を否定することはやはりできないわけです。

またもう一方、第二次世界大戦に至る経緯として、日本が同盟を結んだドイツとイタリア。
特に、その第二次世界大戦史の中心的な存在として位置する「ドイツ」。「ナチスドイツ」が一体なぜ誕生したのか。ここも話題として避けて通るわけにはいかない内容だと思います。

そこで、今回よりこの二つの存在、つまり「ロシア(ソ連)」と「ドイツ(ナチスドイツ)」について新しく記事をシリーズ化していきたいと思います。歴史的に、日本の歴史に先に絡んでくるのは「ロシア」ですから、まずはシリーズ第一弾として、「ロシア」についてまとめていきます。


ただ、このロシアが共産化していく光景について、私は過去に一度だけ記事にしたことがあります。
それが、シリーズ共産主義と左翼 に記した、第64回 「コミンテルン」と「労働社会主義インターナショナル」 という記事です。

ロシアが崩壊していく過程が、非常にユダヤ人臭の強い崩壊の仕方である、ということを紹介し、ここで 元ソ連外交官が語る 「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌 という他者様のブログ記事をご紹介しています。

これは、日本の外交官も務めたロシア人、「アレキサンドル・イワノフ」という人物の講演内容をまとめた・・・と転載先では紹介されているのですが、そもそもこの情報、出所が唯一このブログのみの発信であり、ではここに記されていることが本当に正しいのかどうか。これは改めて調査してみなければ本当のところは分かりません。

ですが、ここに記している内容は、ロシアが崩壊し、共産化していく様子を実にわかりやすくまとめられていますので、その内容の信ぴょう性は一旦脇に於いて、この記事に記されている内容をベースとして、これを検証しながら記事は進めてみます。


「ロシア人」とは何者なのか?

ロシア

こちらは現在の「ロシア」の地図です。Googlemapから拝借しました。

あらためて地図で見てみますと、この国の巨大さを思い知らされますね。
シリーズ十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 では「中国」を追いかけてきたわけですが、その中国と比較してもロシアの巨大さは際立つものがあります。

これほど巨大な領土を持つ「ロシア」ですが、元々は、

モスクワ大公国

これくらいの大きさでした。この時の国の名前を「モスクワ大公国」と言います。
16世紀ころの領土です。で、この国が、17世紀に入るころには

ロシア・ツアーリ1

これくらいの大きさになります。また更に、18世紀に入るころには

ロシア・ツアーリ

これくらいの大きさにまで成長します。1547年、イヴァン4世が「ツァーリ(皇帝)」の称号を得て以来、「モスクワ大公国」ではなく、「ロシア・ツァーリ国」と呼ばれるようになります。

イヴァン4世の父であるヴァシーリー3世は、「モスクワ大公国」の「モスクワ大公」でした。イヴァン4世は大公であるヴァシーリー3世の息子ですから、彼が最初即位した位は「大公」。この時の彼の年齢はなんと3歳。当然国政を仕切れる様な年齢ではありませんから、彼の母親を初めとする、彼以外の人間が「摂政」等の役職に就き、国政を運営していきます。

ロシアの通貨である「ルーブル」は、彼の母、エレナが摂政であった時代に導入されたのだそうです。

ところが、エレナの死後、大公であるイヴァン4世の存在は無視され、エレナに代わって他の貴族が世間を奪取。
当時のロシア国教であった、「ロシア正教会」もまた貴族らの権力争いに巻き込まれ、新しくこの「ロシア正教会」の「府主教」に任命されたのが当時イヴァンの教育係を務めていた「マカリー」という人物でした。

ですが、マカリーは「ロシア正教会」の権威復活を期しており、イヴァン4世に対して、「神に選ばれたツァーリ」としての教育を施すのだそうです。

「神に選ばれたツァーリ」ですか・・・。
これ、パターン的に所謂「パーソナリティ障害」を生み出すんですよね。特に「自己愛性人格障害」と呼ばれる人格障害を齎す教育方法ですね。

イヴァンは後に「雷帝」として国民から恐れられる恐怖政治、大虐殺を行うわけですが、彼をそうさせたのは、ひょっとするとこのマカリーの教育方針にあったのかもしれません。

実際、彼の夫人であるアナスタシアは彼の凶暴性を抑えることができていたようですし、実にあやしい。

夫人の死後、要人や彼に意見するものなどを対象に次々と粛清、処刑を行うようになります。

1570年には彼の親衛隊であるオプリーチニキの軍隊(オプリーチニキ軍)を使ってノヴゴロドという地域の住民に対する大虐殺と修道院に対する略奪を繰り返し、これは1月2日~2月当初まで続けられたのだとか。この時の犠牲者は3千人に上るんだそうですよ。


少しわかってきたのは、ロシアが東進して占領した地域は、元々モンゴル人が統治していた国々で、所謂「シベリア」と呼ばれる地域もモンゴル人国家でした。

基本、Wikiを参考に書いていますが、文中、

「歴史家たちは彼の憤怒の原因について、それが政治的対立、個人的憎悪、精神的不安定のいずれによるものなのかを決められないでいる」

とあります。ですがこれ、恐らくマカリーの指導方針に伴って発現した「パーソナリティ障害」が原因と思われますね。
晩年は自分の子どもや子供の妻に対して異常なほどの虐待行為を行っていることからもこれは当たっているのではないでしょうか。

彼のこの様な政策は、結局国内、国外共に反感を買い、ロシアを荒廃させ、1609年、ポーランド軍によりモスクワの首都クレムリンを占領されるまでロシア国内に於いて「動乱時代」という時代が続きます。

モスクワ占領を受け、ロシア国民は遂に団結し、義勇軍を結成してポーランド軍を撃退。
その後、1613年2月に全国会議が開かれ、ロシア人民と、「コサック」と呼ばれる流れ者集団も参加し、ミハイル・ロマノフという人物がツァーリとして選出されます。

1721年には、同じくツァーリであったピョートル1世が「インペラートル(大帝)」を名乗り、以降ロシア・ツァーリ国は「ロシア帝国」と改められることとなります。

では、「ロシア人とは何か」と問われると、そのルーツは元々「東スラブ」。

東スラブ
上図の赤色のエリアに居住していた「東スラブ語」を話す民族の事です。

丁度モスクワ大公国が位置した当りの地域ですね。
東スラブ人たちが設立した国家「ロシア帝国」。では、この国に一体何が起きたのでしょう?

次回以降の記事にて、ロシア帝国成立後、ロシアが「共産化」するまでの様子を順に追いかけてみたいと思います。



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