なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのかなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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第334回 ロシア革命後の経緯

私がこのシリーズを作成する理由

このブログでは、特にPC版ではあえて私が記事を作成した日にちを掲載していません。
これは、私自身が作成した記事が「時代の変化」によって意味合いが変わるような内容にはしたくないと考えていることにその最大の理由があります。

シリーズとしては 「ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯」 という名称で、親シリーズとしては 「なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか」 という名称のシリーズの下に配置しています。

ブログ全体を見てくださっている方にはもうご存知とは思いますが、ブログそのものは現在の安倍内閣の政策内容を中心に「政治」そのものと「経済」を中心に記事を作成しています。

同じ親カテゴリーの配下に掲載している「十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」 というシリーズの延長線上に 「ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯」 という名称のカテゴリーを作成しているわけですが、実はこれらのシリーズを作成する決断に至った理由は、私が既に作成している「政治」や「経済」に関連した記事。これに説得力を持たせるためには日本の歴史を私自身が理解する必要がある、と考えたからです。

国債の問題 にしても 年金の問題 にしても、実は多くの人が「理解したつもり」になっている情報とその本当の姿の間に大きなギャップが存在し、私が時々呼ばれて開催する勉強会等でもこれらの話をするとほとんどの方の中の「価値観」が音を立てて崩壊してしまいます。

今現在自分が持っている「常識」が実は大きな偏見によって作り上げられた大きな「非常識」の塊であることをまずは理解することからすべてはスタートします。

ではなぜこのような誤った情報ばかりが流布され、正しい情報を知る機会に私たちは恵まれないのか。その情報を発信する中心にいるのが「マスコミ」です。「マスコミ」という媒体を利用して誤った情報を流布させ、日本人に、「ひょっとすると日本はこのままでは崩壊してしまうのではないか。日本はもう終わりなのではないか」という本当は何の根拠のない、誤った危機感を抱かせてしまう。

これは、そうすることで何等かの利益を手にすることができる人が確かに存在するからです。では、そういった「利益」を手にしようとしている存在はいったい何者なのか。

実は、この様な誤った情報とセットで流出されている情報に目を向けると、なんとなくその正体が見えてきます。
その情報とは、所謂「自虐史観」というものです。

「自虐史観」と「日本という社会構造への危機感」をセットにして情報を流出させることで日本人の精神的構造やその支柱を弱体化させてしまう存在。

彼らは言います。

  「嘗ての日本は悪であった」と。

だから私たちはその迷惑をかけた相手に対して謝罪し、その謝罪する相手に対してある一定の利益を享受させなければならない。

そう主張する人たちは、実は日本人の利益ではなく、日本人以外の人たちの利益を優先させようとする人たちです。

ですがそうではなく、日本の将来を楽観し、現在の日本の経済状況を正確に把握しようと努める人たちの多くは逆の主張を行います。

 「あの時代の日本人は素晴らしかった」

と。

シリーズ 十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 を作成し始めたころの私には、日本は本当に「悪かった」のか、それともそうではなかったのか。これに対して明確な裏付けを以て主張する知識を有していませんでしたから、この様な知識を有する人たちとの間では、議論に参加することすらできませんでした。

ですが、ここを明確にしなければ日本の将来が恰も絶望的であるかのように情報を流布する人たちを説得することは不可能だと私は直感しました。だからこそシリーズ 十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 を作成し、現在は ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 というシリーズを作成しているのです。

ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 というシリーズに関しては、ひとまずソビエト連邦が誕生する経緯までは把握することができたわけですが、そもそもの目的は、であればなぜ赤化した「ソビエト」という国や、そこから影響を受けて誕生した中国共産党がなぜあそこまで残虐な集団へと変質したのか。

ここを探ることにその目的はありますから、シリーズとしてはもうしばらく記事を続けていこうと思います。


「コミンテルン」誕生に至る経緯

前回の記事 では、レフ=トロツキーが中心となって結成した「軍事革命委員会」が、同じ「左派」であったはずのケレンスキー率いる臨時政府内閣に対して、引き起こした「10月革命=ロシア革命」。これが一体どのような形態の中、どのような考え方に基づいて行われたのか、これをまさに革命が引き起こされる真っ只中で行われた第二回ソビエト大会に於けるトロツキーの演説と、第二回ソビエト大会の開催やクーデターの実行をめぐって行われたトロツキーとレーニンとの間でのやり取りを中心に記事にしました。

これは非常に意外な事ではありましたが、その結果としてクーデターはほとんど血を流す事なく、非常に平和裏に実行されました。
これは私の予想を大きく裏切る結果・・・ではあったわけですが、事実は事実として受け止めたいと思います。

となると、どこに問題があったのかと考えた場合ロシア革命が見事成功し、ボリシェヴィキ=ソビエトが政権を握ることとなった、その後の歴史の流れの中でこれが見いだせるのではないか、ということです。

前回の記事では、そのポイントとしてトロツキーの発言内容に着目し、その発言内容がまさしく「コミンテルン」を彷彿させるものであったことから、次はその「コミンテルン」発足に至る経緯を追求することとしました。

「コミンテルン」そのものに関しては私、 第63回の記事 で少しその過程を掲載しています。

ただ、当時の私は今回ほどはロシア革命の経緯に関しての知識がありませんでしたから、今回はもう少し深く記事を作成することができるような感じはしています。

冒頭にすこしテーマからそれる内容を掲載しましたので、記事を分けまして改めて次回記事に於いて「ソビエト連邦の誕生からコミンテルン発足に至る経緯」についての記事を作成したいと思います。


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第324回 10月革命の経緯と10月革命後のロシア

前回の記事では、「ロシア革命」に於いて、レーニン率いる「ボリシェビキ」が中心となった「軍事革命委員会」、同じ社会主義政党であるメンシェビキや社会革命党が中心となった臨時政府に対するクーデターを起こし、遂にロシア政府(冬宮殿)を制圧する様子(10月革命)を記事にしました。

記してみた印象としては、私の印象として、「ロシア革命」はもっと凄惨で、血で血を洗うような革命であったのではないか、というイメージを持っていたのですが、実際には当時の国際社会から考えても、非常に穏やかに、平和裏に「革命」が行われたのだということに、少々拍子抜けする思いがしました。

フランス革命や等を見ていると、「支配される側」よりも「支配される側」の方が革命においては過激で、確かに怠惰ではありますが、支配する側が暴力的な手段に訴えることはそうなかった様に思います。

ですが、ロシア革命においては、むしろこの「支配する側」の方が暴力的であり、支配される側は非暴力的であるように映りますね。意外でした。

レーニンにしても、7月事件までは暴力そのものに反対し、暴力に依らない「社会主義革命」を訴えていた彼が、突然その方針を転換し、「一転して暴力によるブルジョワの廃絶を訴えるようになった」と私は記しましたが、その手段こそ「革命」という暴力的な手段であったものの、その結果は非常に平和的であったわけです。


さて。このような結果をもたらした理由として、これもまた意外だったのですが、10月革命に向けてボリシェヴィキに合流した、「社会民主労働党の過激な反戦派であるメジライオンツィ」。ここに所属していたレフ=トロツキーの存在です。

トロツキー


今回の記事は、10月革命と同時に開催された「第2回ソビエト大会」。ここに於いて行われたトロツキーの演説内容からスタートしたいと思います。


第二回ソビエト大会に於けるトロツキーの演説


内容は以下のサイトから引用します。
第2回全露ソヴィエト大会での演説

サイトそのものをどのような紹介の仕方をすればよいかが分かりませんので、たちまちリンクを貼り付けておきます。

【トロツキーの演説】
1、メンシェヴィキとエスエルの退去について

(10月25日)

 同志トロツキーは次のように述べた。人民大衆の蜂起は弁明を必要としない。生起したことは陰謀ではなく、蜂起である。われわれはペトログラードの労働者と兵士たちの革命的エネルギーを鍛錬してきた。われわれは大衆の意志を陰謀へではなく、蜂起へと、公然と鍛え上げてきたのだ、と。

 演説の結びに、同志トロツキーはボリシェヴィキ会派の名において、次のような決議を提案した。

 

 第2回全ロシア・ソヴィエト大会は次のように確認する。

 メンシェヴィキおよびエスエル代議員の大会からの退去は、武器を手にした労働者、兵士大衆の前衛が反革命の攻撃から大会と革命とを防衛しているこの瞬間において、労働者、兵士大衆が全ロシアの全権を代表するのを阻もうという、無力で犯罪的な試みである。

 協調主義者諸党は、その旧来の政策によって革命の事業に甚大な損害を与え、労働者、農民、兵士たちの間で完全に面目を失墜した。

 協調主義者たちは、軍隊とわが国とを滅亡の淵へと追いやった6月18日の破滅的な攻撃を準備し、それに賛成した。

 協調主義者たちは、死刑を復活させた政府、人民を裏切る政府を支持してきた。協調主義者は7ヵ月間というもの、土地問題で農民を絶えず欺く政策を支持してきた。

 協調主義者たちは革命的諸組織の破壊、労働者たちの武装解除、軍隊へのコルニーロフ的規律の導入、血まみれの戦争の無意味な引き延ばしを支持してきた。

 協調主義者たちは、幾百万の勤労大衆を飢餓に追いやりつつあるわが国の経済的崩壊を、彼らの同盟者であるブルジョアジーがいっそう深刻にするのを実際には手助けしてきた。

 この政策の結果、大衆の信用を失ってしまったにもかかわらず、協調主義者たちは、ソヴィエトおよび軍事組織の長期にわたって改選されていない上層部における自分たちの地位に、作為的にかつ不誠実にもしがみついてきた。

 以上の事情のゆえに、全ロシア中央執行委員会(ツィック)は協調主義的な軍委員会と政府当局による直接の支持を拠り所としつつ、あらゆる手段をもってソヴィエト大会を妨害しようとしてきた。

 大会開催を妨害し革命的階級の世論を偽造しようとするこの政策が惨めな失敗をこうむったとき、協調主義者たちによって創られた臨時政府が、ペトログラードの労働者と兵士たちの圧力の下に崩壊したとき、全ロシア・ソヴィエト大会が革命的社会主義の党(ボリシェヴィキ)の明白な優勢を示し、ブルジョアジーとその下僕によって裏切られ苦しめられてきた革命的大衆にとって、蜂起が唯一の出口であることが明らかになったとき、協調主義者たちは、ソヴィエトの力を掘りくずそうと無駄な努力をしたあげく、それと絶縁したことによって、自らの最後の結論を引き出したのである。

 協調主義者たちの退去は、ソヴィエトを弱めるどころか、それを強化するものである。なぜならば、労働者と農民の革命の中から反革命的混ぜ物を一掃するからだ。

 エスエルとメンシェヴィキの声明を聞いたのち、第2回全ロシア大会は自らの事業を続行する。そして、その任務は勤労人民の意志と10月24日、25日の彼らの蜂起とによって定められている。

 去れ協調主義者どもよ! 去れブルジョアジーの下僕どもよ!

 兵士、労働者、農民による蜂起の勝利万歳!

上記文章は、ロシア語版『トロツキー著作集』に収録されているものですが、冒頭の文言は、この資料の作成者の言葉だと思われます。

内容はもっぱら「協調主義者」たちへの批判です。同資料のタイトルに「1、メンシェヴィキとエスエルの退去について」と記されていますね。

メンシェヴィキと「エスエル」。エスエルとは、即ちケレンスキーが所属した社会革命党の事です。
トロツキーの演説を引用する形で記されていますが、その内容はレーニンの主張をそのまま地でいくような内容となっています。

要約すれば、

メンシェビキも社会革命党も、一見すると革命政党のように見えるが、結果的にはブルジョワたちとの協調を図り、この事が革命そのものを形骸化させ、兵士や農民たちに甚大な被害を与えた。

「協調主義者」たちを政治の舞台から一掃することが、本当の「革命」である

と、そういった内容になっています。
リンク先からの受け売りになってしまいますが、現時点としてはこのロシア革命を判断する上での明確な情報を持ち合わせていませんので、このリンク先の内容を参考としながら記事を進めていきます。

リンク先資料によれば、この「第二回ソビエト大会」を開催するに当たって、レーニンは

「大会を開催するべきではない」=「大会を開催することはクーデターを失敗させる決定的な要因になる」

と考えていたのですが、一方のトロツキーは、

「大会を開催する前にクーデターを起こすことは、双方に不要な流血を起こす結果になる。クーデターと大会を連携させて行うことが必要だ」

と考えていました。トロツキーは、軍事革命委員会を設置する際、その演説の中で、

 「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」

と宣言しており、要は堂々と「クーデターを起こすための組織を作るぞ!」と言いながら軍事革命委員会を作っていたわけです。
ですが、そもそも軍事革命委員会を作ることを提案したのはメンシェヴィキの面々でしたし、特に「コルニーロフの反乱」に於いて中心的な役割を果たしたボリシェヴィキに強く出ることは出来なかった・・・ということでしょうか。

第二回ソビエト大会を開催する直前に、エストニア自治政府に於いて、ボリシェヴィキの指導者の一人が左派勢力を率いてクーデターを起こします。

これを受けてケレンスキー内閣はボリシェヴィキ機関紙の印刷所を占拠し、「武力による言論弾圧」を行います。
トロツキーは、この様なケレンスキー政府の行動を、「第二回ソビエト大会を妨害する行為である」とし、「ソビエト防衛」の名の下、軍事革命委員会はケレンスキー内閣を「鎮圧」する形で見事クーデターを成功させてしまうわけです。

この時点でペトログラード内のロシア人兵士たちはほぼボリシェヴィキ側についていましたから、結果的にほとんど血を流すことなくクーデターを成功させることができたわけです。


トロツキーは、また同じ演説の中で、以下の様にも述べています。

平和のための闘争には2つの道がある。

第1の道は、同盟諸国の政府と敵国の諸政府に対して、革命の道徳的および物質的力を対置することである。

第2の道、これはスコベレフとのブロックであり、そのことはテレシチェンコとのブロックを意味している。すなわち、帝国主義への完全な屈服を意味している。

「平和に関する布告」の中でわれわれが各国の政府と人民とに同時に呼びかけていると指摘する者がいる。しかし、これは形式的なものにすぎない。われわれは当然のことながら、自分たちのアピールで帝国主義政府に影響を与えようなどとは思っていない。しかし、これらの政府が存在する間は、われわれはそれを無視するわけにはいかないのだ。

われわれはすべての希望を、われわれの革命がヨーロッパ革命に道を開くということに賭けている。

もし、蜂起したヨーロッパ人民が帝国主義を押しつぶさないならば、われわれが押しつぶされるだろう。このことは疑いない。ロシア革命が西欧における闘争の旋風を引き起こすか、あるいはすべての国々の資本家どもがわが革命を締め殺すかのどちらかだ。

改めて確認しておきますと、ボリシェヴィキの指導者はレーニンです。ですが、彼は今回記事にした「第二回ソビエト大会」において、これを開催するか、しないかでトロツキーと意見が分かれ、結果的にトロツキーの選択(戦略)が正しかったことが証明されてしまいました。

トロツキーの戦略により、ほとんど流血することなく革命を成功させることができたのです。これ以来、レーニンはトロツキーの事をとても信頼するようになります。

そして、トロツキーは上記演説の中で、

「われわれはすべての希望を、われわれの革命がヨーロッパ革命に道を開くということに賭けている。」

と述べています。
つまり、ロシアが行った革命のモデルを、ロシアだけでなくヨーロッパ全土にまで広げることを提案しているわけですね。

ここまで来ると、私の過去の記事を読んだことがある人の中には、とある言葉が思い浮かぶのではないかと思います。

第三インターナショナル。そう、「コミンテルン」の事です。

トロツキーが演説した内容は、そっくり「コミンテルン」の在り方と同じことを言っています。

現時点ではまだ私自身の「予測」にすぎませんが、次回記事では、この「コミンテルン」結成に向けた経緯に主眼を置いて記事を進めてみたいと思います。


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第323回 7月事件と10月革命までの経緯

私自身が勉強しながら記事を進めていますから、内容としては「真相」に踏み込む形ではなく、表面的な経緯をなぞる形となっていますが、もう暫くお付き合いください。

前回の復習です。
ロシア革命に於いては完全に出遅れた感じのボリシェビキとレーニンですが、二月革命の勃発を受け、流刑地や亡命先より帰還。徐々にその影響力の片鱗を見せ始めます。

共産主義革命の在り方としては、元々 第二インターナショナル が目指していた様な非暴力、反戦の姿勢を指示していたはずのレーニンですが、7月事件の失敗で、その責任をすべてボリシェヴィキ指導者たちに押し付けられるような形となり、レーニンはフィンランドに亡命。他の指導者たちは地下に潜伏し、ボリシェヴィキへの勢力は後退へと追い込まれてしまいます。

この時レーニンらを7月事件の主犯に仕立て上げ、首都ペトログラードから追い払ってしまったのが前首相のリヴォフなのか、リヴォフの後をついたケレンスキーなのか、見るサイトによって時系列が異なっていますので私自身ははっきりとはまだ理解できていません。

ただ、リヴォフは7月事件の責任を取って辞任していますので、おそらくボリシェヴィキをペトログラードから追い立てたのはケレンスキー内閣だったのだと思われます。

指導者たちが表舞台から鳴りを潜める中で、ボリシェヴィキそのものは合法的な活動に終始します。
同年(1917年)8月、ボリシェヴィキとは距離を置きながらも歩みをそろえていた社会民主労働党の過激な反戦派であるメジライオンツィ が、8月初めに開催されたボリシェヴィキ党大会を通じてボリシェヴィキに統合されます。

前回、軍事革命委員会結成に於いて中心的役割を演じた人物としてご紹介したレフ=トロツキーはこのメジライオンツィに所属していた人物です。この後、コルニーロフ事件を経て一気に勢力を拡大したボリシェヴィキによって十月革命は引き起こされるわけですが、どうもこの革命を主導したのはこのメジライオンツィに所属する面々であったようです。


十月革命勃発までの経緯

それにしても、調べれば調べるほど頭の中がごちゃごちゃになりそうです。

ロシア革命に勃発する経緯について、様々な記述を見ることができるのですが、私がこれまでやってきた検証方法がどうにも通用しない分野です。

例えば「レーニン」という人物の行動を探るにしても、通常であれば同じ記述が1か所ではなく複数個所に存在し、それらの矛盾点を潰し、整合性を取っていく中である程度の「流れ」が見えてくるのですが、見るサイトによって書いていることがバラバラで、重複している部分が少ないのです。

ですので、「検証」を行う事が難しく、書いてあることが真実なのかどうか、例えば「真実なのかどうかわからないけれども、おそらく真相に近いのではないか」というレベルにまで落とし込むことができていない記述が多くなりますので、あくまでも「そういう説があるんだ」と、現時点では参考程度に留めておいていただけると嬉しく思います。

7月革命に於いてケレンスキー内閣より追い立てられたレーニンはフィンランドにまで逃れていたわけですが、彼はそれまで暴力を否定し、暴力に依らない「社会主義革命」を訴えていたように思えるわけですが、そんな彼がなぜか7月事件以後、一転して暴力によるブルジョワの廃絶を訴えるようになります。

その代表的なものが彼がフィンランドに潜伏している期間に記した「国家と革命」という著書。
この中で、彼は以下のような主張を訴えています。

【国家と革命(Wikiより)】
レーニンにとって、国家は階級支配を維持する意義がある。

このことを示すためにエンゲルスの研究を参照しながら、社会から発生しながらも社会の上位において自らを社会から疎外する権力を国家と考える。

したがって国家とは階級支配の機関であり、階級の衝突を緩和しながら維持する政治秩序を創出するものであり、既存のブルジョア独裁国家は奪取するだけでなく、革命においてプロレタリアートによって強制力により廃絶してプロレタリア独裁国家をつくらねばならない。

同時にレーニンは革命とは選挙に基づいた政権交代ではない暴力革命でなければならないと主張し、ブルジョア国家の一部であるブルジョア民主主義もまた廃絶されなければならない(暴力革命に拘らず選挙などの平和的な手段もありうるとしたエンゲルスやマルクスの側面をレーニンは無視した)。

この主張のために、レーニンは、マルクスが著書でわずかしか触れていない「プロレタリア独裁」という用語を「民主主義の最高形態」として「発見」し、以後の著作で大々的に用いた。

この様に急進的な姿勢へと転換した理由の一つとして、「ロシア革命」という名前のサイト中、「革命の決意」というページ に於いて、以下のような記述がみられます。

【サイト「ロシア革命」より、「革命の決意」】
「七月事件」以降地下に潜ったレーニンは9月13日、「ボリシェヴィキは権力を掌握しなければならない」と題する手紙を潜伏先のフィンランドからボリシェヴィキの党本部にむけ発送した。

「ボリシェヴィキは2つの首都(ペトログラードとモスクワ)のソヴィエトにおいて多数を占めたので、国家権力をその手に握ることが出来るし、また握らなければならない」として臨時政府に対する武装蜂起を呼びかけたのである。

何故急にそんなことを言い出したのか?

実はこの頃、ドイツにて急速に革命的機運が高まりつつあった。

「ロシアの革命によって他国のプロレタリア革命に火を付け、そちらの援助によってロシアでも社会主義社会を実現する」という「世界革命」を指向するレーニンにとって、臨時政府打倒とソヴィエト政権樹立という火花を打ち上げることこそが「世界革命」の合図なのであり、ドイツの情勢を見てもその機は限界まで熟しているというのである(ロシア革命史)。

この記述の中で、

 「ロシアの革命によって他国のプロレタリア革命に火を付け、そちらの援助によってロシアでも社会主義社会を実現する」

という考え方をこの時点でのレーニンが持っていたのかどうかは若干疑ってみているのですが、それでもレーニンが考え方を変えたきっかけとして、当時のドイツに於いて革命的機運が高まってきていた・・・という記述は参考になるように感じます。

この当時のドイツがどのような状況にあったのか、という内容については後日まとめる予定の「なぜナチスドイツは誕生したのか」というカテゴリーに委ねたいと思います。

ですから、今回はレーニンの心情の変化がフィンランド潜伏中のドイツに於ける世情の変化にあった、という前提で話を進めてみたいと思います。

それともう一つ考えられるのは、「第二インターナショナル」の存在。

レーニンは、元々暴力を否定し、反戦を訴えていた第二インターナショナルの面々が、いざ祖国が戦争に巻き込まれるとその姿勢を翻し、祖国防衛へと立場を簡単に変えてしまったことを批判していました。

彼が「暴力」によらない革命を目指していた、と私が記している根拠はここにあります。

ですが、彼が「国家と革命」に於いて記述している内容は、「祖国がいざ戦争に巻き込まれるとその姿勢を翻した第二インターナショナル」ではなく、「もともと暴力を否定し、反戦を訴えていた第二インターナショナル」をどうも批判している様に見えるのです。

彼は第二インターナショナルが「祖国がいざ戦争に巻き込まれるとその姿勢を翻した」ことを批判していた筈なんですが、「第二インターナショナル」を批判するということは、そもそも第二インターナショナルのやり方そのものが間違っていたのではないか・・・とうする発想に至ったのではないでしょうか?

第二インターナショナルがそもそも第一インターナショナルの暴力的な部分を否定し、「暴力」ではなく「話し合い」による改革を訴えていたわけですが、そのやり方を否定するということは、即ち暴力による革命を肯定することになる・・・と。

四月テーゼにおいても彼はメンシェヴィキやボルシェビキの同志であるはずのカーネフやスターリンを批判しました。
その批判する理由が、「プロレタリアート(ソヴィエト)」による革命を実現しながら、「ブルジョワ(臨時政府」)」の政治を肯定してしまったことにありました。

そして7月事件を受けてケレンスキーが首相となり、議会政治そのものを社会主義者たちが支配したにも関わらず、結局ケレンスキーは戦争を肯定し、兵士を含むロシア国民より同盟諸国との同盟関係を優先したわけです。

ですからレーニンは政治そのものをメンシェヴィキやケレンスキー達社会革命党の面々ではなく、ボリシェヴィキの手中に収めることが必要だと考える様になっていったんですね。


さて。この時点でしっくり来ていないのは、コルニーロフの反乱 の後、トロツキーが中心となって軍事革命委員会が結成されるわけですが、この時点で既にレーニンが変装してロシアに戻ってきていて、7月事件を受けて壊滅状態に陥っていたボリシェヴィキを再建した、という記述がみられる中で、同じレーニンが変装して戻ってきたのは10月だ、という記述がみられたり・・・。

どの情報を信じるべきなのか、まだ現時点では確定していません。
また、レーニンが「世界革命」という考え方を持っていて、ロシア革命後、ロシア革命の余波が全世界に広がり、全世界で社会主義革命がおこることを期待していた、という記述も登場します。

これは、後の「第三インターナショナル」、即ち「コミンテルン」の結成にも関わってきますね。
まぁ・・・それにしても時系列が一致しません。


十月革命の勃発
十月革命はユリウス暦10月25日に革命が起きたから十月革命と呼ばれるのであって、現代の暦であるグレゴリオ暦では11月7日に起きた革命です。

十月革命はボリシェヴィキ率いる軍事革命委員会がケレンスキー率いる臨時政府に対して引き起こしたクーデターです。
きっかけとなったのはエストニア自治政府に於いて、ボリシェヴィキの指導者の一人でエストニア人のヤーン・アンヴェルトがエストニアの左派革命勢力を率いて起こした武力蜂起。

これを受けロシア臨時政府がボリシェヴィキ機関紙の印刷所を占拠。つまり武力による報道弾圧を行うわけですが、これに反発してついに軍事革命委員会が武力行動を開始します。

ボリシェヴィキの事前策略のおかげで既にペトログラード内ロシアの兵士たちはボリシェビキ側に付いており、実際にはそれほど血を流すことなくボリシェヴィキはペトログラードの要所を抑え、続いてロシア政府のある冬宮殿を制圧。

冬宮殿

ボリシェヴィキはたった2日でロシア政府を占拠してしまったのです。(ロシア革命)

同じタイミングで「第二回ソビエト大会」が開催されるわけですが・・・。


次回はロシア革命後、ボリシェヴィキがどのようにして政権を掌握するに至るのか。
「ロシア革命後の経緯」について記事にしたいと思います。



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第319回 レーニンの四月テーゼと十月革命

前回の記事、タイトルは「レーニンの四月テーゼと十月革命」としていましたが、内容としてはほぼ四月テーゼに関する記事で、十月革命については全く触れていませんでしたね。

今回の記事では、改めまして四月テーゼより、十月革命が勃発するまでの経緯を追いかけてみたいと思います。


前回までの復習ですが、第一次世界大戦の影響下、肝心の生産活動を行うべき人材を兵士ととして戦争に駆り出されたロシア帝国では、食料不足を原因として、首都、ペトログラードを中心にデモが発生。

これを鎮圧するために警官隊がデモ隊に発砲。このことを受けてデモは武装蜂起へと発展。デモの鎮圧にあたるべき兵士が次々と反乱軍側につき、皇帝ニコライ二世は半ば強制的に退陣させられ、遂に帝政ロシアは崩壊。

「残された議会(ドゥーマ)」と「政党であるメンシェビキを中心に作られたペトログラード・ソヴィエト」が帝政後ロシアの主導権を握ることとなりました。

ペトログラード・ソヴィエトを中心となって結成したメンシェヴィキは、後の十月革命で中心的な役割を果たすボリシェヴィキとはまた別の政党で、ボリシェヴィキの中心的なメンバーであるレーニンやスターリンらは流刑地送りにされていたり亡命していたりしていましたので、革命政府の旗振り役とはなれなかったんですね。

ところが、2月革命と帝政ロシアの崩壊を受け、流刑地よりボリシェヴィキの中央委員であるカーネフとスターリンがペトログラードに帰還(1917年4月3日)。

ですが、カーネフやスターリンを含むペトログラード・ソヴィエトは「暴力」による革命を容認しており、この姿勢を亡命先のスイスから帰還していたレーニンは批判し、「四月テーゼ」というものを公表します。

レーニン

【四月テーゼの骨子】
 
・「臨時政府」を「ブルジョワ政府」とみなし、一切支持しないこと
・「祖国防衛」を拒否すること
・「全権力のソヴィエトへの移行」

帝政ロシアの後を引き継いだ臨時政府は、ロシア国民向けにはペトログラード・ソヴィエトの意向を反映した声明を発表するわけですが、第一次世界大戦真っ只中であった当時、同盟関係にあった連合各国にはこれと逆行する声明を送りました。

で、これに反発した労働者や兵士が再びデモを起こし(四月危機)、ペトログラード・ソヴィエトが臨時政府へと入党することになりました。


7月事件

レーニンの打ち出した「四月テーゼ」は、まさにこの臨時政府の意向を先読みしていたかののような内容となっていたわけです。

四月危機は臨時政府の外相と陸海相が辞任することで収束し、5月5日に発足した臨時政府とペトログラード・ソヴィエトの第一次連立政府では4名、ペトログラード・ソヴィエト側の人物が入党するわけですが、だから臨時政府の方針が大幅に変わった、というわけでもなかった様です。

臨時政府では同盟諸国からの要請を受け、ペトログラード・ソヴィエト側の議員であるケレンスキー陸海省は、対独前線に於いて大攻勢を仕掛けます(6月18日)。然し革命をうけ、当然兵士たちの士気は低下しており、ドイツからの反撃を受けることになります。

このことで更に兵士たちの政府に対する不満は募り、「7月3日、ペトログラードの第一機関銃連隊は、ソヴィエトの中央執行委員会に全権力を掌握するよう求めるための武装デモを行うことを決定(Wikiより)」します。

第一機関銃連隊以外の部隊や工場労働者たちも参加し、デモが行われる(7月事件)わけですが、ソヴィエトの中央執行委員会はこれを拒否。デモは拡大するものの、前線より臨時政府やソヴィエト中央の姿勢を指示する部隊が到着し、デモは鎮圧され、失敗に終わります。

ボリシェヴィキはデモ隊の姿勢を支持したことから、デモが起きたことそのものがボリシェヴィキのせいにされ、メンバーであったトロツキーやカーメネフは逮捕され、レーニンは一時的にフィンランドへと逃亡します。


レーニンの変化
レーニンは元々暴力を否定し、反戦を訴えていた 第二インターナショナル の面々がいざ祖国が戦争に巻き込まれるとその姿勢を翻し、祖国防衛へと立場を簡単に変えてしまったことを批判し、このことが「四月テーゼ」の内容にも反映されていました。

つまり、この時点では「反暴力」を訴え、第二インターナショナルが取っていた暴力に依らない、平和的な手段による共産(社会)主義革命を訴えていました。

四月テーゼにある「全権力をソヴィエトへ」という考え方はボリシェヴィキ自身のスローガンとしても採用され、ボリシェヴィキは平和的な手段により権力を臨時政府(ブルジョワ)から奪取しようと考えていました。

ですが、7月事件でボリシェヴィキが壊滅的な状況へと追い込まれたことから、レーニンはこの「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを放棄することを呼びかけるようになります。つまり、これまでの様に平和的な手段によって権力を奪取するのではなく、「武装蜂起」、つまり「暴力」によって臨時政府から政権を奪取することを訴えるようになるのです。

マルクスは、共産主義革命は暴力によってしか実現できないと訴えたわけですが、レーニンも結果的にはこのマルクスの考え方を継承することとなるんですね。


コルニーロフの反乱
一方、第一次連立政権では、首相であったリヴォフが7月事件の責任を取って辞任(7月8日)。

代わりに二月革命後よりドゥーマの一員であった社会革命党のケレンスキーが首相となり、内閣を完全に社会主義者陣営で固めてしまいます(第二次連立内閣:7月24日)。ただしここにボリシェヴィキは含まれません。

この様にして政権の座に就いたケレンスキーですが、実際におこなった政治の内容は第一次連立内閣とそう変わりはなかったらしく、対独戦の失敗や7月事件後のボリシェヴィキ陣営への弾圧を通して旧体制派や革命派からも支持を失い、弱い支持基盤を晒すこととなります。

そして、そんな中旧体制の復活を求めるラーヴル・コルニーロフが軍の最高総司令官の座へと就任し、首相であるケレンスキーとの間で対立が生れます。ケレンスキーも旧体制派の支持を得たいとは考えていましたが、コルニーロフの要求のすべてを受け入れることは出来ませんでした。

そして、コルニーロフはついに反乱を起こし、部下に武力を用いてソヴィエトを解散させることを命じます。
そして政府に対しては全権を再び旧体制派へと委譲することを求めます。

この時政府側に付いたがボリシェビキの面々。
コルニーロフの命を受けてペトログラードに攻め込んだ兵士たちはソヴィエトを指示する人々に説得されて武装解除し、弾の一発も撃つことなくこの反乱は収束したのだそうです。


軍事革命委員会の結成

コルニーロフの反乱を受け、メンシェヴィキはペトログラード・ソヴィエトに対し、「軍事革命委員会」の設置を提案します。

この時点でボリシェヴィキは「全権をソヴィエトへ」というスローガンを放棄し、武装蜂起による権力奪取を行う方針を第六回党大会(7月末~8月当初)に於いて決議しており、またコルニーロフの反乱後、10月10日(ユリウス暦)にボリシェヴィキ中央委員会に於いて賛成多数により「武装蜂起はもはや避けられず、その期は十分に熟した」という宣言を採択しています。

ボリシェヴィキは武装蜂起を行うための戦力を欲しており、メンシェヴィキ側からの「軍事革命委員会設置の提案」は渡りに船でした。

10月12日、メンシェヴィキが提案し、ボリシェヴィキが賛成した軍事革命員会は設置されることとなります。
この軍事革命委員会は、ケレンスキー政権を打倒し、ソヴィエトによる政権を設立するため、武力蜂起を行う為の組織であったわけです。

この時中心的な役割を演じたのがレフ・トロツキーという人物で、彼は「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」との演説を行い、ボリシェヴィキには公然と武装蜂起を行う意思があることを認めてしまいます。

トロツキー

この様な状況に在りましたから、メンシェヴィキは軍事革命委員会には参加せず、軍事革命委員会は大部分をボリシェヴィキが、そのほか社会革命党左派(エスエル左派)、そして無派閥によって構成されることになりました。

ボリシェヴィキはついにペトログラード・ソビエトに於ける「多数派」へと返り咲いたんですね。
トロツキーは武装蜂起を第二回全国ソビエト大会が開催される10月25日に実行することを主張し、軍の各部隊もケレンスキー率いる臨時政府ではなく、ペトログラード・ソヴィエトの指示に従うことを決めます。

さて。この後10月24日、2月革命以降に設立されたエストニア自治政府に於いて「10月革命」の口火は切られます。
次回記事においては、10月革命の経緯と10月革命後のロシアについて記事にしたいと思います。


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第318回 ロシア第一革命以降のレーニン/ボリシェヴィキの指導者

人間の気持ちや感情ほど検証しにくいものはない・・・と、そう感じさせられるのが今回の「ロシア革命」についての検証です。

同一人物が考えている内容でも、これが段々変化していく様子が露骨に見て取れるし、それが元々考えていた事なのか、それとも途中で変説したのか、これを見ることがまた難しい・・・。

ですので、ごくわずかの事を調べるのにもものすごく膨大な時間が必要になってます。なので振り返って見ると記事そのものがとても短くなってますね。このあたり、ご容赦いただければと思います。


レーニンの四月テーゼ

四月テーゼ

前回の記事の復習と、更新すべき情報も含めて二月革命以降の様子をまとめてみます。

二月革命によってニコライ二世が失脚させられ、代わりに当時の国会(ドゥーマ)を構成していたメンバーによって臨時政府が打ち立てれます。

一方革命を起こした側であるボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、社会革命党の三党ですが、二月革命後、この三党によって「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されます。

ボリシェヴィキの主要メンバーが流刑にあっていたり亡命したりしており、この時ボリシェヴィキは中心的な役割を果たすことができず、ペトログラード・ソヴィエトはメンシェヴィキの旗振りによって結成されました。

ペトログラード・ソヴィエトが結成されたのが1917年2月27日。ペトログラード・ソヴィエトはこの時、ペトログラード守備軍に対し、

「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴィエトの命令と決定に反しないかぎりで遂行すべきである」

という命令を発しています。「国会軍事委員会」、すなわち臨時政府のことを一つの政府として承認しているんですね。


一方の臨時政府ですが、3月6日、

「同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発表」

しています。この時点で、臨時政府は戦争を継続することを発表しました。

難しいのはここからで、この政府決定に対し、ペトログラード・ソヴィエトは「全世界の諸国民へ」という声明に於いて、

「われわれは、自己の支配階級の侵略政策にすべての手段をもって対抗するであろう。そしてわれわれは、ヨーロッパの諸国民に、平和のための断乎たる協同行動を呼びかける」
「ロシア人民がツァーリの専制権力を打倒したように、諸君の反専制的体制のクビキを投げすてよ」

という主張を行います。

難しいんですが、その他の記述から想像すると、どうも戦争そのものは容認しながらも、戦争が終結した後の社会に於いて、二月革命において労働者や兵士が結束して帝国主義を崩壊させたようにヨーロッパの諸国民が結束し、専制君主制維持を打倒するための行動を起こすよう呼びかけている様です。

これが3月1日のこと。

同月12日、流刑地よりボリシェヴィキの中央委員であるカーネフとスターリンがペトログラードに帰還します。
15日、彼らはボリシェヴィキ機関紙である「プラウダ」に於いて、以下のような記事を掲載します。

軍隊と軍隊とが対峙しているときに、武器をしまって家路につくよう一方に提案するのは、最もばかげた政策であろう。これは平和政策などではなく、自由人民たちを苛立たせ拒絶させる、奴隷政策だ。

前回の記事 に於いて、レーニンが 第二インターナショナル に所属した社会主義者たちが暴力を否定し、反戦を訴えていながら、いざ第一次世界大戦が勃発すると「祖国擁護」を訴えて反戦の姿勢を翻したことを批判したことを記事にしました。

同じボリシェヴィキの指導者であるカーネフとスターリンが記した記事は、この様なレーニンの考え方と真っ向から対立するものです。

臨時政府による戦争継続の姿勢を容認したペトログラード・ソヴィエトと、更にこれに追随するような記事を掲載したカーネフとスターリン。レーニンがペトログラードに帰国するのは4月3日の事ですが、翌4月4日、レーニンが発表したものが「四月テーゼ」です。


具体的な四月テーゼの話題に進前に、少し時間を戻してペトログラード・ソヴィエトの圧力を受け、臨時政府が発表した「戦争目的についての声明」ついて掲載しておきます。

この声明が発表されたのが3月27日。臨時政府は、以下のような内容の声明を発表します。

「自由ロシアの目的は、他民族を支配することでもなく、彼らからその民族的な財産を奪取することでもなく、外国領土の暴力的奪取でもない。それは、諸民族の自決を基礎とした確固たる平和をうちたてることである。……この原則は、わが同盟国に対して負っている義務を完全に遵守しつつ……臨時政府の外交政策の基礎とされるであろう」(Wikiより)

この当時の戦争は主に他国の領土を侵略するために行われていましたから、この声明では、

・帝政を打倒した臨時政府は、外国の領土や財産を暴力的に侵略する為には戦争は行わないこと

を訴えています。また、「自決」とありますから、議会を通じて民族が統合的に意思決定を行うシステムを基盤とした平和な社会を築くことを目的とします、とも訴えているわけです。

ペトログラード・ソヴィエトの要求をそのまま声明とした形ですね。

臨時政府はこの声明を4月18日、連合国各国政府に発送します。ですが、この声明に「ミリュコフ覚書」なるものが添付されていました。

この内容については、時系列を追いかける形で後程掲載したいと思います。


「現下の革命におけるプロレタリアートの任務」

これが、「四月テーゼ」の正式な名称です。
四月テーゼの中でレーニンは、

 ・「臨時政府」を「ブルジョワ政府」とみなし、一切支持しないこと
 ・「祖国防衛」を拒否すること
 ・「全権力のソヴィエトへの移行」

などを訴えました。

「祖国防衛」の拒否、とはレーニンの訴えた「革命的祖国敗北主義」に基づくものと考えられます。

引用先の第63回の記事 では、この革命的祖国敗北主義を非常に辛辣に書き表しましたが、少なくともこの時点ではまだいうほど末恐ろしいものでもない様に感じます。

彼の後を引き継いだスターリンの政策をみるまでこの考え方に対する評価は先延ばしにしたいと思います。

さて。レーニンが四月テーゼを発表したのは4月4日ですが、同月18日、臨時政府が連合各国政府宛に送った声明に添付されていた覚書には、以下のような内容が記されていました。

「遂行された革命が、共通の同盟した闘争におけるロシアの役割の弱化を招来する、と考える理由はいささかもない。全く逆に……決定的勝利まで世界戦争を遂行しようという全国民的志向は、強まっただけである」

レーニンと当時のペトログラード・ソヴィエトとの間でも「戦争」に対する受け止め方に大きな開きがあったわけですが、この「ミリュコフ覚書」に書かれていた内容は、そんなペトログラード・ソヴィエトの考え方にすら大きく離反するものでした。

「ミリュコフ覚書」の内容が新聞で報じられると、労働者や兵士らの抗議デモを引き起こし(四月危機)、臨時政府のミリュコフ外相とグチコフ陸海相が辞職。そしてペトログラード・ソヴィエトよりもとより法務大臣として入閣していたケレンスキー以外に、メンシェヴィキ・社会革命党より合計4名が臨時政府に入党することとなりました。


ボリシェヴィキでは、四月危機の勃発を受け、レーニンの四月テーゼが党の公式見解となり、「全権力をソヴィエトへ」という言葉がスローガンとなります。


それにしても、ややこしい・・・。
目まぐるしく変化する情勢は、続いて「七月事件」、そして「十月革命」へと移行します。

次回記事ではこの七月事件と十月革命についての記事を作成します。


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第313回 「ウラジミール=レーニン」という人物

前回の記事では、後に10月革命の中心人物となり、ロシア革命を成し遂げてしまう人物、「ウラジミール=レーニン」について、彼の生い立ちをロシア第一革命が起こる直前まで追いかけてみました。

レーニン

記事を革命前後で分けたことには、単に文章が長くなってしまう事以外にもう一つ理由があります。

レーニンは、ロシアに於ける革命を「プロレタリアートによる革命」ではなく、「ブルジョワ」によって成し遂げるべきだと、そう考えたのだということを記事にしました。

そして、元々「マルクス」という人物によれば、「プロレタリアートによる革命」を「共産主義」、「ブルジョワによる革命」を「社会主義」と定義づけていましたから、ブルジョワによる革命を目指したレーニンの革命は、「共産主義革命」ではなく「社会主義革命」であったのだと、そうお伝えしたと思います。


プロレタリアートと農民がブルジョアジー抜きで遂行するブルジョア革命

それにしても解釈が難しい・・・。
何が、と申しますと、これがタイトルにある、「プロレタリアートと農民がブルジョアジー抜きで遂行するブルジョア革命」。

レーニンは元々「ロシアに於ける革命は、プロレタリアートではなくブルジョワに依って成し遂げられるべきだ」と考えていました。
ですが、1905年に勃発した血の日曜日事件 を受け、「レーニン来るるべき革命の性格を「労働者と農民の革命的民主主義独裁」と規定した」とWikiには掲載されています。

そして、その考え方の中で、「レーニンはプロレタリアートと農民がブルジョアジー抜きで遂行するブルジョア革命を構想した」とあるのです。

なんだそれは、と。
ブルジョア革命はブルジョワジー(資産階級)行われるものなんじゃないのか、と。

そこで、同じ記述をWikiではなく、「世界史の窓」に書かれてある「レーニン」のページを参考にしてみると、以下の様に記されていました。

1902年には『何をなすべきか?』を著し、少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党が労働者を指導すべきであると主張した。1903年のロシア社会民主労働党第2回大会に参加し、その主張を展開しボリシェヴィキを指導した。第1次ロシア革命では当面のブルジョア民主主義革命の達成を目指した。

Wikiベースでは「ブルジョワによる」とされている部分が、「少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党」と言い換えられています。

この、「少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党」の事をレーニンは「ブルジョワ」と表現したのでしょうか。
世界史の窓の文章から見ますと、ロシア社会民主労働党の中で、「ボリシェヴィキ」としてブルジョワ民主主義革命を目指した、ということになります。

いや然しそれ、既にブルジョワジーが主導していない時点でブルジョワ革命じゃないだろう、というツッコミが入りそうな曲面ですね。

世界史の窓からの引用は、レーニンの著書である「何をなすべきか」からの引用です。
で、私が前回の記事 で掲載したレーニンの考え方もまた同じ「何をなすべきか」において掲載されている内容を意訳したものです。

レーニンは1916年、つまり第一次世界大戦場勃発した2年後、亡命先にて「帝国主義論」という著書を残しています。
レーニンがこの著書を通じて対立しているのは、元々反戦を訴えながら、第一次世界大戦の勃発を受けて「祖国擁護」へと転じていいった 第二インターナショナルの社会主義者 たち。

リンク先にも掲載しているとおり、ここでいう「社会主義者」とは、共産主義者たちが訴える「暴力による革命」を否定し、暴力の代わりに議会による話し合いでこれを解決しようと考えた人たちのことです。

ですが、暴力を否定し、反戦を訴えたはずのこの社会主義者たちが、いざ第一次世界大戦が勃発し、祖国が戦争に巻き込まれると一転して「祖国擁護」を訴えて祖国に戻り、第二インターナショナルは事実上崩壊してしまいました。

この時記された著書、「帝国主義論」の中で記されていたのは、「資本主義社会が発展し最終段階としていきつくところが『帝国主義』である」ということ。

つまり、レーニンが目指していたのは帝国主義と資本主義社会の打倒だったんですね。
つまり、「帝国主義と資本主義社会」を打倒すること、即ち「ブルジョワ革命」であると考えていたのではないでしょうか。

さて。では、このレーニン率いる「ボリシェヴィキ」がロシア第一革命に於いて何をしたのかというと、第310回の記事 よりの引用になりますが、

『武装蜂起を計画し、労働者を暴力によって従わせ、デモを決行』

します。このデモ隊に対して帝政ロシア政府軍が発砲、1000人以上の死者を出した後、ボリシェヴィキは政府軍に投降。ロシア第一革命は終結することになります。

つまり、レーニンはロシア第一革命に於いて、ブルジョワ民主主義革命を起こすことに失敗した・・・と。


さて。「ロシア第一革命」に続いて起きた革命が「二月革命」。
このとき、レーニンはスイスに亡命しており、二月革命を主導したのは「社会革命党」と「メンシェビキ」。

二月革命に於いてロシア皇帝であるニコライ2世が半ば強制的に退位させられ、後を引き継ぐことがいなかったことから帝政ロシアは崩壊。所謂「帝国主義」を崩壊させることに成功し、ここで無事「ブルジョワ革命」は成し遂げられることとなりました。

さて。ところが、です。
ここで問題となってくるのは帝政ロシアの後を引き継いだ臨時政府と、メンシェヴィキの旗振りで結成されたペトログラード・ソヴィエト。

「ロシア社会民主労働党」より分裂した「ボリシェヴィキ」と「メンシェヴィキ」ですが、この二つの派閥の最大の違いは、ボリシェヴィキの目指していたのは「プロレタリアートと農民がブルジョアジー抜きで遂行するブルジョア革命」。

一方のメンシェヴィキが目指していたのは、「ブルジョワ革命なんだから、やっぱりブルジョワジーの手で実現されるブルジョワ革命」。この違いがこの二つの派閥の考え方の違いです。

メンシェヴィキは、ニコライ二世が去った後のロシアで誕生した、ロシア国会(ドゥーマ)議長らによって結成された臨時政府を「ブルジョワ政党」であると考え、この臨時政府を支持する方針を示します。

これが、レーニンにとっては「社会主義革命を成し遂げず、妥協した姿である」と捉えるんですね。

レーニンに先駆けて同じボリシェヴィキの指導者であるカーメネフとスターリンも帰国するわけですが、レーニンはそんな二人もメンシェヴィキと変わりがない、と訴えます。



4月3日、スイスから帰国したレーニンは、この様な思いを記した「四月テーゼ」なるものを発表します。

次回記事では、この「四月テーゼ」を中心に記事を進めてみます。


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第312回 ロシア革命に於ける二月革命/ロマノフ朝(帝政ロシア)の崩壊

前回の記事でお示ししました様に、所謂「ロシア革命」は、ユリウス暦1917年2月23日にロシアの首都ペトログラードにて発生した、食料配給を求める「デモ」が原因で勃発しました。

2月革命後、「ボリシェヴィキ」「メンシェヴィキ」「社会革命党」の3党によって「ペトログラード・ソヴィエト(労働者・兵士による評議会)」が誕生し、一つの「権力」を保有することとなるわけですが、結成はこの当時多数派であった左派社会主義政党「メンシェヴィキ」の呼びかけに応じて行われました。

ですが、第310回の記事 でもお伝えしました様に、そもそも「メンシェヴィキ」や「ボリシェヴィキ」が誕生したの最大の理由は、後の十月革命で中心的な役割を果たす「ウラジミール=レーニン」がロシア労働党機関紙であった「イスクラ」編集局から分裂し、ボリシェヴィキ中央部「多数派諸委員会ビューロー」を結成したことが原因でした。

この当時「レーニン」率いるボリシェヴィキは「多数派」であったわけですが、「ペトログラード・ソヴィエト」が結成された時点では少数派となっています。

では、「多数派諸委員会ビューロー」を結成した後、「レーニン」率いるボリシェヴィキは、一体どのような変遷をたどったのでしょうか。先ずは「レーニン」にスポットを当て、今回の記事は進めてみたいと思います。


レーニンの生い立ち


レーニン

ロシアの革命家、「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」。本名は「ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ」と言います。

第310回の記事でお伝えした様に、彼の兄の名前は「アレクサンドル・ウリヤノフ」。

当時のロシア皇帝であったアレクサンドル3世を暗殺しようとして失敗した人物です。

内容はWikiベースで進めていきます。
レーニンの兄がクーデターに失敗し、絞首刑に処せられたのが1887年。
レーニンもまた同年12月にカザン大学にて学生運動に加わり、暴動を起こして警察に拘束され、大学からも退学処分されることになりました。レーニンは兄と共に「テロリスト兄弟」の烙印を押され、以降秘密警察から監視される日々を送ることとなります。

そんなレーニンの思想に大きな影響を与えたのが「カール・マルクス」。彼が学生運動に参加したのもマルクスによる影響を受けた部分が大きい様です。

記述を読みますと、レーニンという人物は、非常に頭のいい人物であった様ですね。以下、転載です。

レーニンは監視の中で暴動を控えて「資本論」などカール・マルクスの著作を読み耽り、思想研究に没頭して理論面での活動を志し始めた。

3年後、法律学に関する理論を兄の母校サンクトペテルブルク大学の論文審査に提出、高い評価を受けて入学を許可された。国家検定試験でも134人中1位という成績を残す。

1892年、サンクトペテルブルク大学から第一法学士の称号を与えられる。

ちなみにサンクトペテルブルク大学時代にもかつての専攻であった言語に関する成績はトップクラスで、ギリシャ語・ラテン語、ドイツ語、英語、フランス語を習得した。ただフランス語は苦手だったらしく、後年にフランス語での講義を断ったというエピソードが残っている。


前回の記事 で、ロシアがたどった市民革命への道は、他のヨーロッパ各地がたどった市民革命の変遷とは異なる独特な道を進んだことをお示ししましたが、レーニン自身はどっぷりマルクス主義にはまり、所謂「社会活動家」としてもその頭角を現していきます。

・1895年     労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟を結成
・同年12月7日 逮捕・投獄
・1897年     シベリア流刑、エニセイ県ミヌシンスクの近くのシュシェンスコエ村に追放
・1898年7月   社会主義活動家ナデジダ・クルプスカヤと結婚
・1899年4月   『ロシアにおける資本主義の発達』を出版
・1900年     刑期が終了し7月にスイスへ亡命
(スイス滞在中、イタリア社会党時代のベニート・ムッソリーニと面会)
・1900年12月   政治新聞『イスクラ』を創刊
(当時、ロシア社会主義者の中で広まりつつあった「経済主義(政権打倒のための政治闘争より労働者の経済的地位の向上を目指す経済闘争を重視する考え方」を批判したもの)
・1901年12月   「レーニン」という偽名を用いるようになる

さて。その翌年、1902年に彼が記した著書、「何をなすべきか?」に関する記述の中で、少し面白い記述がありましたので、これを少しご紹介しておきます。

先ほど、ロシアがたどった市民革命の道が他のヨーロッパ諸国とは異なる異質なものであることをお伝えしました。
ただ、レーニンはそんな中でもどっぷり「マルクス主義」にはまった、ということもお伝えしたのですが、「何をなすべきか?」の中に於いて、レーニンもまたこの「マルクス主義」に対して独特の考え方を示したようです。

(何をなすべきか?とは)労働者の自然成長的な経済闘争はそれ自体としてはブルジョア・イデオロギーを超えない、と指摘し、社会主義を目指す政治闘争を主張したものである。

彼はその際に「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」というカウツキーの言葉を引用した。

この考え方は後に外部注入論と呼ばれるようになる。

ちょっとややこしいですね。


外部注入論とは?

「何をなすべきか」の中で、レーニンはそもそも何を主張しようとしていたのでしょう。
第62回の記事 でお伝えしました様に、マルクスは「ゴーダ綱領批判」において、「共産主義」の在り方について、以下の様に定義しています。

・(資本主義から共産主義に移行する)革命の過渡期において、労働者階級による権力の掌握が必要であること。
・これは、プロレタリアート(労働者階級)の独裁によってのみ実現が可能であること。
・プロレタリアには祖国はなく、プロレタリアの利害は一致していること。

加えてその実現が「暴力」によってのみ実現できる、としているわけですが、この部分はいったん頭から外します。

(※以下の内容は、私の個人的な解釈を含みますので、その点はご容赦ください。)

「社会主義」という考え方は、その後のヨーロッパの歴史の中で、様々に姿を変え、例えばマルクスが、その実現は「暴力」によってのみ実現されるとした部分も、後の社会主義者たちの解釈の中で、大きく変化します。

そしてレーニンは、そんな「社会主義」という考え方が、プロレタリアート(労働者)たちの階級闘争の中かから自然発生的に生まれるものではない、と考えたわけですね。

彼の祖国であったロシアに於いても自然発生的に「ナロードニキ」という市民運動は勃発したわけですが、これは所謂「マルクス主義」の影響を受けたものではありません。

マルクス主義は、レーニンらによって事後的にロシア国内に持ち込まれ、ロシアの革命運動に影響を与えていくことになるのです。

マルクスはこのような革命が「プロレタリアートの手によって」実現されるべきだ、と考えました。

ですがレーニンは、「社会主義はプロレタリアート革命の中から自然発生的に生まれるものではない」と主張しているわけです。
ですから、誰かがこの「社会主義」をプロレタリアートたちに教えてあげる必要がある、と考えたのですね。

そしてレーニンは、それが出来るのは知識のない労働者階級である「プロレタリアート」ではなく、資産があり、外部から「社会主義」という思想を学ぶ手段を取ることができる「知識階級」である「ブルジョワジー」だと考えたわけです。

つまり、レーニンの目指す社会主義革命は、「ブルジョワ(資産階級)」による革命。
こうなってくると、レーニンが目指した革命は間違いなく「共産革命」ではなく「社会主義革命」であったことがよくわかります。


レーニン率いるイスクラ派(政治新聞「イスクラ」を創刊したメンバー)は、1903年、1898年3月14日に結党されたものの、弾圧を受けて機能不全に陥っていたロシア社会民主労働党を再建し、第2回党大会を開催します。

ところが、再建されたばかりの同党は、イスクラ派は組織論や指導部の構成をめぐって内部分裂。「ボリシェヴィキ」と「メンシェビキ」の2派閥に分かれます。

このうち「ボリシェヴィキ」を率いたのがウラジミール=レーニンでした。


さて。この後、起きるのが「血の日曜日事件」と「ロシア第一革命」。
このあたりから段々レーニンのスタンスがややこしくなってくるので、一旦記事を分け、続きは次回に委ねることとします。


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第310回 ロシア革命勃発に至る背景/マルクス主義者の台頭

「二月革命」とは言いますが、これは当時ロシアで利用されていた暦、「ユリウス暦」に基づくもの。
私たちが慣れ親しんでいる「グレゴリオ歴」では3月に起きた革命です。

私自身、このブログを通じて「右翼」や「左翼」、「共産主義」や「社会主義」等について学んできたわけですが、今回のこの「ロシア革命」。これを理解するうえで、私が長い間調べて来た内容がどうも役に立つときが来た様です。

「右翼」と「左翼」の違い、又は「共産主義」と「社会主義」の違いについては改めてシリーズ、「「右翼」と「左翼」の違いを分かりやすく検証します。」 でも振り返っていただければ幸いです。


二月革命の経緯

では、改めて「ロシア革命」に於ける「二月革命」について記事にしてみたいと思います。

帝政ロシア=ロマノフ朝がこうもあっさりと崩壊した理由として、

1.ロシア第一革命に於けるマルクス主義者たちの台頭
2.日露戦争に於ける日本に対する敗北
3.第一次世界大戦への参戦により、外資がロシア国内から撤退したこと
4.第一次世界大戦により、本来食料の生産活動を行うための農民が兵士として戦争に駆り出されてしまった事

主にこのような理由があるようです。
1、2については既に第310回の記事 に掲載しましたね?

加えて3,4の理由によって、ロシア国内の食料が供給不足に陥り、物価が5倍、6倍と高騰してしまったんですね。

で、食料の供給を求めてユリウス暦1917年2月23日、グレゴリオ暦3月8日にロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)に於いて発生した「デモ」が「二月革命」のそもそもの発端です。

2月革命

このデモを鎮圧する様皇帝であるニコライ二世に命じられた警官隊がデモに向けて発砲。多数の市民が犠牲となります。

これを受けて一部の兵士が反乱を起こし、ニコライ二世はこれを鎮圧する様更に命令を出すわけですが、反乱を鎮圧するはずの兵士が次々と反乱軍に加わります。

この時のロシアの指示系統として、「ドゥーマ(議会)」に皇帝が指示をし、指示に従ってドゥーマが政策を実行する・・・という形がとられていたわけですが、肝心のこのドゥーマの議長であるロジャンコが皇帝の意に反して臨時委員会を設置し、政権を掌握し、皇帝に退位を迫ります。

このことによりニコライ二世は退位(1917年3月15日)。
彼の位を継承することを弟に拒否され、ロマノフ朝を継承する者が誰も存在しなくなり、ついにロマノフ朝は崩壊します。

一方で第310回の記事 でお伝えした通り、「メンシェビキ」に所属する議員の呼びかけにより、「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されます。


内容そのものは結構端折りましたが、大体こんな感じです。

この後、更に十月革命がおこり、遂に「ソビエト連邦」が誕生するわけですが・・・。


「ロシア革命」と「フランス革命」の違い

調べてみて面白いな、と感じたのは、今回記事の対象としている「ロシア革命」と、市民革命の先駆けともいえる「フランス革命」や、その後ヨーロッパ各地で起きた「市民革命」との違いです。

第50回の記事 でお伝えしましたように、そもそも「フランス革命」とは、当時のフランスに在った身分制度、「アンシャンレジーム」に於いて、「聖職者」及び「貴族」の位を持つ第1、第2身分の位に対して、一般市民で構成される「第3身分」の位の人々が起こした革命です。

また更に、マルクスらが登場した時代には、第三身分が「ブルジョワ(資産階級)」と「プロレタリアート(労働者階級)」に分かれ、マルクスはブルジョワによる革命を「社会主義」、プロレタリアートによる革命を「共産主義」と呼びました。

そしてマルクスは、共産主義社会を実現するためには、プロレタリアートの暴力による改革と、社会主義社会から共産主義に移行するまでの間、プロレタリアートによる「独裁」が必要である、と説きました。

現代では「社会主義」とは「共産主義」に移行する段階に於ける、「プロレタリアートによる独裁」が行われている状況にある、と解釈されており、「共産主義社会を目指す人々」という意味では「社会主義者」と「共産主義者」とはほぼ同等の意味を持っていると考えられます。

一方で、ではそもそも「共産主義」とはどのような社会をいうと、元々「共産主義(コミュニズム)」という言葉を生み出したフランソワ・ノイエ・バブーフによれば、土地の「相続権」や「所有権」を否定した社会のこと。

この考え方の元となったルソーによれば、「自然界において人は平等であり、土地の所有や財産の相続よって身分、階級が生まれ、不平等が発生した」とあり、バブーフは「土地の所有や財産の相続」を否定し、『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』(完全なる平等社会)の実現を目指しました。

バブーフが考えた、『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』を目指す人々のことを「アナーキスト(無政府主義者)」と言います。(第161回の記事 をご参照ください)


フランス革命後のヨーロッパは、フランス革命による市民革命の『成功例』を参考に市民革命を実現していくわけですが、ロシア革命とフランス革命以降の市民革命の違いとして一番大きいのは、元々ロシアには「ブルジョワ」だの「プロレタリアート」だのと言った身分制度に関する認識がなかった言う事。

そして、ロシア人が「マルクス主義」に触れるのは、アレクサンドル2世による「農奴解放令」が発令され、革命的秘密結社、「第一次『土地と自由』」による「一月蜂起」が勃発した後。

更に、「土地と自由」から分派した「人民の意志」が、アレクサンドル2世を暗殺した後であったということです。
つまり、「マルクス主義」の情報がロシア国内に入る以前に、「市民革命」に相当する行為を行っていた、ということになります。

そして、二月革命後に結成された「ペトログラード・ソヴィエト」で副議長を務めたアレクサンドル・ケレンスキーが所属する社会革命党は、マルクス主義に基づいて結成された政党ではなく、マルクス主義がロシアに入ってくる以前からロシア国内に存在した「人民の意志」の流れを引き継ぐ政党でした。

この様に、「ロシア革命」が勃発する様子は、どうもこれまでのヨーロッパに於ける「市民革命」とは異なる傾向がみられます。

「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されたのはユリウス暦で3月1日、グレゴリオ暦で3月14日となるわけですが、「ペトログラード・ソヴィエト」は本来少数派であったはずの右派社会主義政党「メンシェビキ」の呼びかけによって結成されました。

元々「多数派」であったはずの左派社会主義政党「ボリシェヴィキ」は、「ペトログラード・ソヴィエト」結成時においては少数派だったのですが、ユリウス暦3月12日(グレゴリオ暦3月25日)、亡命先の東シベリアよりレフ・カーメネフと、後にソビエト連邦2代目書記長となるヨシフ=スターリンが帰国。

更にユリウス暦4月3日(グレゴリオ暦4月16日)、10月革命を主導し、ソビエト連邦初代書記長となるウラジミール=レーニンが帰国します。

カーネメフ・スターリン・レーニンはそろってボリシェヴィキのメンバーでした。


さて。それでは、次回記事において、2月革命が勃発した後の経緯を追いかけながら、この3名が帰国後、どのようにして10月革命が勃発するのか。その経緯を記事にしたいと思います。


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第309回 サラエボ事件はなぜ第一次世界大戦へと発展したのか

第297回の記事 に於きまして、私は日露戦争当時に勃発した「ロシア第一革命」について記事にしました。

ロシア第一革命そのものは、

 「私たちの生活はこんなに苦しいのに、日本と戦争をやってるなんて何事だ!」

といった主張を労働者たちが皇帝に対して行ったところ、デモ隊が警備兵に大量に射殺されてしまった事(血の日曜日事件)が原因で、革命運動がロシア全土に広がったもので、主導者のようなものは存在しなかったのだそうですが、ここに至るまでの流れを見てみますと

1.1861年2月、皇帝アレクサンドル2世により、「農奴解放令」を公布。ロシア国民の中に改革へ向けた意識が高揚される。

2.同年末、革命的秘密結社、「第一次『土地と自由』」が結成される。

3.海外に亡命している革命家たちとも連携し、1863年1月22日、ポーランドに於いて武力蜂起が勃発するが、ロシア国内の指導者が逮捕され、1864年4月11日、鎮圧(一月蜂起)

4.1878年、一月蜂起を起こした人民主義者(ナロードニキ)たちによって「第二次『土地と自由』」が結成されるが、革命を起こす方向性で意見が分かれ、テロリズムを肯定する「人民の意志」派と、それを否定しプロパガンダを重視する「チョールヌイ・ペレジェール(全土地割替)」派とに分裂。

5.1881年3月1日「人民の意志」メンバーによりアレクサンドル2世暗殺

6.1887年3月1日、「人民の意志」メンバーである、レーニンの兄「アレクサンドル・ウリヤノフ」によってアレクサンドル3世の暗殺が計画されるが失敗し、「人民の意志」は壊滅。この頃から、西欧に移住したロシア人たちが「マルクス主義」に触れ、ロシア人の「マルクス主義団体」が結成されるようになる。

7.1898年、キエフのマルクス主義団体が中心となり、「ロシア社会民主党」が結成される。結党宣言を行ったシュトルーベにより、「ロシア社会民主労働党」と党名が改められる。

8.1901年、ナロードニキの流れを組む革命政党、「社会革命党」が結成される。

9.ロシア労働党機関紙「イスクラ」編集局を中心とするグループ「イスクラ派」が分裂し、

 『多数派であるボリシェヴィキ』

  と

 『少数派であるメンシェヴィキ』

に分裂する。

「イスクラ」は多数派であるメンシェヴィキの機関紙となるが、ボリシェヴィキの代表で会ったレーニンは1904年末、ボリシェヴィキ中央部「多数派諸委員会ビューロー」を創設する。

10.1905年1月9日、「血の日曜日」によりロシア第一革命が勃発する

と、この様な流れになります。

そう。ついに登場しましたね。ロシア革命の立役者、「ウラジーミル・レーニン」の名が。

レーニン

まあ、悪名高きソ連を生み出したわけですから、「立役者」との表現はあまり適切ではないかもしれませんが。

ちなみに元々は「ボリシェヴィキ」が「多数派」、「メンシェヴィキ」が「少数派」を意味するのですが、ボリシェヴィキもメンシェヴィキも共に「社会主義」派閥。ですが、後に同じ社会主義の中でも「ボリシェヴィキ」が「左派」、「メンシェヴィキ」が「右派」と変化していくようです。

ロシア第一革命が終結するのは1905年12月です。
この時ボリシェヴィキは武装蜂起を計画し、労働者を暴力によって従わせ、デモを決行させるのですが、デモ隊に向かって帝政ロシア政府軍が砲撃。1000人以上の死者を出した後、ボリシェヴィキは投稿し、ロシア第一革命は終結することとなります。


ロシア第一革命後のロシア

前置きのつもりだったのですが、随分長くなりましたね。
革命に合わせて、ロシアでは各地に「ソヴィエト(労働者・農民・兵士の評議会(理事会))」が結成されます。

ですが、ロシア第一革命の後、社会活動家たちに対する皇帝の締め付けは激しくなり、指導者は投獄されるか、または亡命という選択を迫られました。このことにより、「ソヴィエト」は壊滅させらます。

この時、中心となって活動家たちの弾圧を行ったのが「ピョートル・ストルイピン」という人物。
ロシア第一革命後の内閣で首相を務めていた人物です。

ストルイピン

ですが、彼の取った農村に対する政策がロシア国民の反感を買い、1911年9月18日、彼はユダヤ人青年の手によって暗殺されてしまいます。彼が暗殺された場所こそ、現在のウクライナの首都であるキエフ。

ちなみに、当時のロシアの首都はサンクトペテルブルクでしたが、ロシア第一革命当時、このサンクトペテルブルクで「ソヴィエト」を結成した人物が「レフ・トロツキー」。彼もまたウクライナ人で、家族はユダヤ人。

彼は後のロシア革命で指導者の一人ともなる人物です。


少し話が脱線しました。
ストルイピンの弾圧により鳴りを潜めていた社会活動家たちですが、彼が暗殺されたことにより、少しずつ息を吹き返します。

ストルイピン暗殺の翌年、1912年1月、ロシア社会民主労働党からの独立を目指していたレーニンは、ロシア社会民主労働党から追放されてしまいます。

ここで、ロシア社会民主労働党は「ボリシェヴィキ」と「メンシェヴィキ」の2つの党へと完全に分裂してしまうこととなります。


第一次世界大戦に於けるロシア

政党「ボリシェビキ」誕生の2年後、1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発 します。

改めて第309回の記事 を比較しながら記事を見ていただけると、状況が頭に入りやすいかもしれません。

1912年に第一次バルカン戦争が、1913年に第二次バルカン戦争が勃発するわけですが、バルカン戦争終息後、1914年6月28日に起きた「サラエボ事件」を受けてオーストリアがセルビアに対して宣戦布告。

これを受けて、いち早くセルビア支持を表明し、国内に向けて総動員令を発布したのがロシアでしたね。(7月31日)
そして、そのロシアに対して速攻で宣戦布告したのがドイツ。(8月1日)

Europe1914-jp.png

そんなロシアとドイツとの間で最初に起きた衝突が1914年8月17日から9月2日にかけて継続した「タンネンベルクの戦い」でした。

ロシアはこの戦いに於いてドイツ領プロセインに侵攻を行うわけですが、結果ロシアは敗北し、前線をロシア領内まで後退。
続く第一次マズーリ湖攻勢に於いてロシアは再びプロセインへと軍を勧めますが、ドイツはフランスと対峙する西部戦線より部隊を移動させており、ロシア軍は壊滅。

ドイツよりロシア軍は完全にたたき出されてしまうこととなります。
翌年のゴルリッツ戦線でもロシアは敗北し、ポーランド方面ではワルシャワ、イヴァンゴロドの2つの要塞が陥落し、ロシアは大撤退を迫られます。

この様な情報がロシア国内にも伝わり、ロシア社会民主労働党より分裂したボリシェヴィキ、メンシェビキ、及び社会革命党は、一気にその党勢を拡大します。

戦争が長引くことによってロシア国内の経済も低迷。
議会と皇帝との間の対立構造も深刻となり、宮廷もまた僧侶であるはずのグリゴリー・ラスプーチンによって牛耳られる(1916年12月30日に暗殺される)など、第一次世界大戦当時のロシアはまさしく「混迷」を深めていくこととなりました。

そして、そんな中でついに勃発するのが第一弾の「ロシア革命」である「二月革命」です。

次回記事では、そんな「二月革命」についてまとめてみたいと思います。


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第308回 第二次バルカン戦争が勃発した理由とその影響を検証する

第307回第308回の記事 と連続で「バルカン戦争」をテーマとさせていただきました。

今回から再び第一次世界大戦に話題を戻します。
第303回の記事 をおさらいしますと、第一次世界大戦が勃発した直接的な理由は「サラエボ事件」に於いてオーストリア皇太子が

 『ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプ』

によって暗殺された事がその理由となります。

で、第307回第308回の記事 で振り返りましたように、この当時「ボスニア」はオーストリア・ハンガリー帝国に併合されていました。

で、オーストリア当局によって逮捕された暗殺犯のうちの一人が、暗殺に用いられた武器を支給したのがセルビア政府であったことを告白し、オーストリアはセルビア政府を非難。最後通牒を突きつけた上でセルビアに対して宣戦布告を行います。

そしてオーストリア対セルビアという構図であったはずの紛争が、なぜか第一次世界大戦へという全世界を巻き込んだ戦争にまで発展することとなります。


第303回の記事 で私は、

セルビア人の国民感情を高ぶらせた理由に、この「バルカン戦争」が関係しているような気配です。

また、この「バルカン戦争」の結果はどうもこの地域の国々の中にくすぶる火種を投下した様子が見られます

とこの様に記し、第307回第308回の記事 へと移りました。

結果として見えてきたのは、サラエボ事件をきっかけに勃発した第一次世界大戦ですが、サラエボ事件は連続する歴史の流れの中の一シーンにすぎず、サラエボとボスニアの独立から続く一連の国家間の思惑にこそその原因はあったのではないか、ということです。

第二次バルカン戦争

改めて、こちらは第二次バルカン戦争に於ける国家間の関係性の構図です。
後に別途記事にする予定ですが、この当時のヨーロッパの構図として、

 「英・仏・露」の3国で結ばれた「三国協商」

  と

 「独・墺・伊」の3国で結ばれた「三国同盟」

とが対立する構造に在りました。

三国同盟対三国協商

余談ですが、日本はイギリスとの間で「日英同盟」を結んでいました。
元々イギリスはロシアと対立する構造にあり、露仏は日本のアジアに於ける勢力拡大を阻止しようとする構図に在ったのですが、三国協商が締結されたことで、日本はロシア・フランスとも同盟関係を築くことになります。

日本は「三国協商」に巻き込まれた感じですね。
第一次世界大戦中にロシアではロシア革命が起こり、ロシアは三国協商から脱退し、三国協商は崩壊に至ります。

一方三国同盟を結成していたイタリアもまた領土問題に関係して第一次世界大戦中に三国同盟を離れ、イギリス側につくことになります。

この構図を頭に入れて第二次バルカン戦争の国家間の関係図に目をやると、「ロシア」の裏側に「英仏」の姿が、「オーストリア」の背後に「独・墺」の姿が見えてきますね。

三国協商のロシアが支援するセルビアと三国同盟のオーストリアの戦いとは、即ちこのような構図から生み出された戦いだと云うことになります。


では、改めて「サラエボ事件」まで時間軸を戻してみます。

 『ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプ』によってオーストリア皇太子が暗殺されるわけですが、之を支援したとされるのが「セルビア」。

オーストリア側から「セルビア」の存在を見てみますと、セルビアは元々事件の現場となった「ボスニア」を自国領土にしたいと考えていた国です。この国が、オーストリアによってボスニアが併合された後、「ブルガリア」「モンテネグロ」「ギリシャ」と共に「バルカン同盟」を結成し、南方の雄、「オスマントルコ」を撃破します。

また更に、オスマントルコを撃破したセルビアは、更に同じ同盟国であるブルガリアを更に撃破し、領土を拡大しました。
そしてそんなセルビアの後ろには「ロシア」の存在があります。

そんなセルビアが、今度は自国領土であるボスニアのセルビア人を使って自国の皇太子を暗殺した。
これは正直脅威に感じたかもしれませんね。

またオーストリアの立場から更に考えますと、オーストリアはセルビアの意図に反してボスニアを自国領土に併合し、更に第一次バルカン戦争にも干渉してアルバニアを独立させているわけです。

マケドニア

明らかにセルビアの発展を邪魔していますね。
立場的に、オーストリアはセルビアを格下に見ていたのではないでしょうか。

セルビアはオスマントルコの占領下から独立したばかりの小国。一方オーストリアは神聖ローマ帝国の時代から続く由緒ある家柄。そんなセルビアが、自国の皇太子を暗殺した。

オーストリアにとって、セルビアを叩くうえでこれ以上の口実はなかったのかもしれません。


第一次世界大戦への変動

オーストリアのセルビアに対する宣戦布告を受けて、先ず動くのはロシアです。
セルビアの独立を支持する立場を貫いてきたロシアは、1914年7月31日に挙国一致体制を取るため、国内に向けて「総動員令」を発令します。オーストリアがセルビアに宣戦布告を行ったのが同7月28日のことですから、実に迅速な対応です。

オーストリアは宣戦布告に当たって、事前に同盟国であるドイツに相談をしていたわけですが、ロシア参戦を受け、8月1日、ドイツも同様に総動員令を発令します。

同日、ロシアと同盟関係にあるフランスも「総動員令」を発布。
ドイツは8月2日にロシア、8月3日にフランスに対してそれぞれ宣戦布告を行います。

1900.jpg
(バルカン戦争以前の地図ですが、参考にしてみてください。)

また、時を遡って1839年、ベルギー独立戦争を経てネーデルランド連合王国からベルギーが独立するわけですが、このベルギーの独立を支援したのがイギリス。

本来中立国であるはずのベルギーへのドイツ侵攻を受け、1914年8月4日、イギリスはドイツに対して宣戦布告。
イギリスの参戦を受けて嘗てイギリスの植民地であったカナダ、オーストラリア、ニュージーランドも参戦します。

また更に、イギリスからの再三の要請を受け、1914年8月23日、日本もまたドイツに対して宣戦布告を行います。
日本がドイツに対して宣戦布告を行った後の日本の対応は 第106回の記事 をご参照ください。

日本はドイツに対して、「中国に返還することを前提として、無条件に膠州湾岸地域を日本に引き渡す」ことを要請したわけですが、これをドイツが受け入れなかったため、ドイツに対して宣戦布告を行う事となります。

オーストリアもよもやこんなことになるとは思っていなかったのかもしれません。
オーストリアに味方してくれる国はドイツとブルガリア、そしてオスマントルコだけ。

ドイツ・オーストリア両国はまさしく世界中から袋叩きにされることになります。
後先を考えずオーストリアがセルビアに宣戦布告をしたことが原因ではありますが、それにしても・・・。


さて。皆さんお忘れかもしれませんが、今回のシリーズはそもそも第一次世界大戦の原因追及をすることが目的ではありません。

第一次世界大戦の経緯をさらったのは、そもそも「ロシア革命」が勃発したのが第一次世界大戦の真っ只中であったから。
以上のような経緯で第一次世界大戦は勃発したわけですが、そんな第一次世界大戦がヨーロッパから中国にまで飛び火して展開する中、ロシアでは一体何が起きていたのでしょうか。

次回記事では、いよいよ本丸、「ロシア革命」へと記事を移したいと思います。


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第307回 バルカン戦争とは?その影響をわかりやすく考える

第一次バルカン戦争について検証した前回に引き続き、今回は「第二次バルカン戦争」について検証してみます。

復習いたしますと、『バルカン戦争』は

青年トルコ党が実権を握ったオスマントルコによってマケドニア地域に集められたボスニアヘルツェゴビナのムスリムがマケドニアにいたアルバニア人と連携して行った事実上の独立戦争をセルビアが支援し、またロシアの支援を受けて結成された「バルカン同盟」諸国が更にオスマントルコに対して宣戦布告を行った

ことによって勃発しました。

結果、バルカン同盟はオスマントルコに勝利します。
停戦条約として締結されたのが「ロンドン条約」。

改めて、前回お示しした地図を掲載してみます。

マケドニア
【地図①】

元々バルカン戦争はアルバニア人の独立を口実として勃発した戦争ですから、ロンドン条約においてはアルバニアの独立が宣言されます。地図では青色の部分の左端(西側)に「1912」と記されているのが分かると思います。

斜線の引かれていない、このエリアが「アルバニア」が独立した後の領土です。

地図をみるとわかりますが、ロンドン条約によって、ピンク色の「セルビア」領土に隣接する、右上から左下に向けて引かれた太い斜線のエリアがセルビアに、同じく右上から左下に向けて引かれた細い斜線のエリアがギリシャ、左上から右下に向けて引かれた斜線のエリアがブルガリアにそれぞれ割譲されます。

先ほどの地図を少し東に移動させますと、こんな感じです。

トラキア
【地図②】

こい黄土色の部分が「トラキア」。
国境は現在の地図になりますが、トラキアの北側がブルガリア、西側がギリシャ、東側がトルコです。

Wikiのマケドニアのページを参考にしますと、

「1910年代のバルカン戦争によってギリシャ、ブルガリア王国、セルビアの3王国によって分割された。このときの国境が現代まで残されているものである」

と記されていますので、この地図の国境がちょうどバルカン戦争によって分割された国境、ということになりますね。

ブルガリアには、マケドニア領土以外にこの「トラキア」の丁度国境線より北側の部分も割譲されました。


第二次バルカン戦争

さて。今回のテーマとなる第二次バルカン戦争。

ロシアの後押しを受けて同盟を結成し、オスマントルコに対して戦争を挑んだバルカン同盟ですが、トルコに見事勝利し、ロンドン条約によって多くの領土を手に入れることになります。

ところが、今度はこの獲得した領土をめぐってバルカン同盟諸国間で争いが始まります。

記述を読んでいると、領土争いの舞台となったのは地図①の内、ブルガリアが獲得した領土。
南西側に細長く伸びている部分があると思いますが、この領土の所属をめぐって争いが勃発した様です。

同エリアは、丁度「セルビア」「ブルガリア」「ギリシャ」の3国が国境を接する地点で、この地点の領有権を3国が共に主張していました。

特にブルガリアとギリシャはトラキアに於ける国境でも対立する構造にありました。

この様な対立構造にある中、第二次バルカン戦争はブルガリアによるセルビア・ギリシャ両国への侵攻からスタートします。
この段階で事実上バルカン同盟は崩壊しているわけですが、セルビアとギリシャはお互いに同盟関係にあり、共同でブルガリアに対抗します。

更にセルビア・ギリシャ連合軍に対し、バルカン同盟で同盟関係にあるモンテネグロ、更にルーマニア、オスマントルコ帝国までもが参戦し、ブルガリアに対して宣戦布告を行います。

この時、唯一ブルガリアを支援したのがオーストリア・ハンガリー帝国、バルカン同盟側を支援したのがその立役者であるロシアです。

第二次バルカン戦争

結果的にブルガリアの惨敗に終わるわけですが、第一次・第二次バルカン戦争を通じて、バルカン同盟の4カ国、及びオスマントルコ帝国の中で、領土問題に対する不満が蓄積したままになってしまいます。

第二次バルカン戦争の結果、ブカレスト条約が締結されるわけですが、この結果に満足した国は一国も存在しなかったんですね。


オーストリア・ハンガリー帝国とセルビア王国との間に生まれたしこり

改めて振り返ってみましょう。
確かに「バルカン戦争」そのものは独立を目指したアルバニア人をセルビアが支援する形から始まったのですが、セルビアがアルバニア人を支援した動機の中にあったのが、「ナチェルターニェ」の考え方から、自国に統合することを目指していた同じセルビア人の国であるボスニアヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国に併合されてしまったことにありました。

このことでセルビアはボスニアヘルツェゴビナを統合することを諦め、逆に南側のオスマントルコ領を侵略することを目指すようになりました。

オスマントルコとの戦争に勝利し、マケドニア領は手に入れたわけですが、オーストリア・ハンガリー帝国の横やりが入り、アルバニアが独立。ここから軍隊を撤退させられることとなった上、唯一の海上ルートへの抜け道であったアルバニア地域を封鎖されてしまいます。

地政学的に考えれば、海上ルート、所謂「シーレーン」は国が発展する上でも非常に重要な貿易の為のルートであり、北部をオーストリア、南部をトルコに抑えられた状況は、セルビアの将来的な発展の大きな弊害となったはずです。

こう考えると、セルビアの対オーストリアへの開戦に至る動機としては十分だったと考えられますね。
この他、オーストリアはドイツと同盟関係にありましたし、両国はロシアと対立する構造に在りました。

敗戦後、ブルガリアはオーストリア・ドイツと急速に接近し、また敗戦によりお互いに勢力を急速に縮小させることとなったオスマントルコにも接触を始めます。

一方でセルビアを支援したロシアはイギリス・フランスとの間で「三国協商」という同盟関係を築く友好関係にあり、この後サラエボ事件 をきっかけとして火が付いたセルビアとオーストリアとの対立は、一気に第一次世界大戦へと拡大することとなります。

次回記事では、いよいよサラエボ事件が第一次世界大戦へと発展するその過程について記事にしたいと思います。


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第303回 第一次世界大戦とロシア革命/第一次世界大戦はなぜ?

さて。今回のテーマは「バルカン戦争」。

そもそもなぜこのテーマを記すに至ったかと言えば、第303回の記事 の記事に於いて第一次世界大戦を調査する上で、なぜ第一次世界大戦が勃発したのか。その理由としてこの「バルカン戦争」が関係しているらしいことが見えて来たからです。

セルビアが「ナチェルターニェ」という政策方針に従ってボスニアヘルツェゴビナを統合しようとしている中、オーストリア・ハンガリー帝国にボスニアヘルツェゴビナは併合されてしまいます。

そして、その後勃発したのが「バルカン戦争」なるものです。
現時点で、私はこの「バルカン戦争」なるものが一体どのような戦争であったのか、ということをまったく知りませんから、今回の記事で、話題がどちら方面に向いて進んでいくのかもまったく予測できていません。

まずはWiki等をベースとしながら、「教科書的」な話題から記事を進めてみたいと思います。


そもそも、「バルカン戦争」って何?

Wikiを参考にしますと、

「バルカン戦争」とは、「第一次バルカン戦」と「第二次バルカン戦争」という二つの戦争のことを云います。

「第一次バルカン戦争」とは1912年に『バルカン同盟』」を結成した「ブルガリア」「セルビア」「ギリシャ」「モンテネグロ」の4カ国と、衰退しつつあった「オスマン帝国」との間で発生した戦争。

「第二次バルカン戦争」とは敗戦したオスマン帝国から獲得した領土をめぐって、今度はバルカン同盟に所属する4カ国の間で勃発した戦争のことです。


第一次世界大戦を考える上では、どちらかというと「第一次」はあまり関係がなく、「第二次バルカン戦争」によって生まれたバルカン同盟諸国の中の「シコリ」の方が大きいとは思うのですが、まずは「第一次バルカン戦争」について手繰ってみます。


第一次バルカン戦争

改めて、再度1900年当時のヨーロッパ地図を掲載します。
1900.jpg

「ブルガリア」「セルビア」「ギリシャ」「モンテネグロ」の4カ国は、「オーストリア・ハンガリー帝国」と「オスマントルコ帝国」に丁度挟まれる形で位置しています。

「モンテネグロ」は少し見えにくいですが、セルビアの丁度南西側に位置しています。

Wikiの話題としては、丁度「セルビア」が先ず話題として挙がっています。

セルビア・ボスニア

こちらも第303回の記事 で掲載した地図ですが、セルビアの北西側に「ボスニア」が位置しています。

1459年6月、セルビアはオスマントルコによって滅亡させられるわけですが、1817年オスマントルコ領セルビアとして復活。
1882年、正式に「セルビア王国」として独立します。

そんなセルビアですが、独立する以前から大繁栄を誇った中世当時の「セルビア王国」を復活させることを目途として、同じ時期に自治権が認められた「ボスニアヘルツェゴビナ」を自国領土として統合することを目指していました。(ナチェルターニェ)

ところが、1908年、ボスニアヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国によって併合されていしまいます。

このことで北側を抑えられたセルビアは、今度はその野心を南方、つまり「オスマントルコ」へと向けることとなります。

一方のトルコでは、1908年7月3日、「統一と進歩委員会」という政治組織が中心となって「青年トルコ革命」なる武装蜂起が勃発しており、この混乱の中、「バルカン同盟」の一員を構成する「ブルガリア自治公国」がオスマントルコ領から独立を宣言します。


マケドニア

上の地図は、「マケドニア」というトルコ領の一部を示したものです。青い部分がそうですね。
ボスニアヘルツェゴビナがオーストリア・ハンガリー帝国に併合されたとき、トルコはボスニアヘルツェゴビナに居住していたムスリム(イスラム教徒)をこのマケドニアに移住させようとします。

ところが、ボスニアから移住させられたムスリムたちは、現地に居住していたアルバニア人たちと融和し、更に独立を目指して反乱を起こすことになります。この当時のオスマントルコは「青年トルコ党」によって本来の「オスマントルコ」とは異なる姿へと変えられてしまっていましたから、アルバニア人たちは本来のトルコの姿へと戻そうとしたんですね。(1912年5月)

この時、セルビアはアルバニア人たちを支援し、これを口実として対トルコ戦争=バルカン戦争を勃発させます。

バルカン戦争事態が勃発するのは1912年10月8日なのですが、同日トルコに宣戦布告を行ったのはモンテネグロのみ。
ブルガリア、セルビア、ギリシャが宣戦布告するのは10月17日のことです。

「バルカン同盟」は1912年の春~夏にかけて、バルカン諸国のキリスト教徒によって築かれた軍事同盟なのだそうですよ。

この軍事同盟の締結を支援したのは「ロシア」。
ロシアはまた、バルカン半島に於いて増加する「オーストリア・ハンガリー帝国」の勢力を脅威に感じていたわけですね。

セルビアとブルガリアが戦争の結果手に入れようとしていたのは上地図にある「マケドニア」地域であったわけですが、ブルガリアは同時に「トラキア」という地域と「イスタンブール」をその手中に収めようとしていました。

トラキア
【トラキア(濃い茶色部分)】

イスタンブール
【イスタンブール】

この地域は、実はバルカン同盟の結成を支援したロシアも狙っていた土地であったのだそうです。
後にロシアはこの土地を通じて「ドイツ帝国」「オーストリア・ハンガリー帝国」「オスマントルコ帝国」「ブルガリア王国」の4カ国が結成した「中央同盟国」との間で第一次世界大戦を起こすこととなります。

なるほど・・・。少し「第一次世界大戦」の構図が見えてきましたね。

この地域をめぐって、イギリス帝国はロシアにその領有を容認しておきながら、ブルガリアに対してはこの地域の獲得を後押しし、ロシアよりも優先させる、との保障を与えていたのだそうです。

一方、イギリスはオスマン帝国の親密な支援者でもありながら、オスマン帝国に敵対するギリシャのバルカン同盟入りを支援。
このことでロシアに対抗しようと考えていたのだとか・・・。ものすごい二枚舌外交ですね。

また一方でオーストリア・ハンガリー帝国もまたオスマン帝国への領土拡大をもくろんでいた為、自国とトルコとの間にある国とはすべて対立構造に在ったのだそうです。そう。第一次世界大戦勃発のきっかけとなったとされる「サラエボ事件」において関係が悪化した「セルビア」とも。

そして「ドイツ」はもともとオスマントルコ帝国と親密な関係にあったわけですが、そのオスマントルコ帝国が弱体化したことを受けて、同盟関係の中心をトルコからブルガリアへ転向させようとする意図もあったようです。

元々ブルガリア親独的で、またブルガリア国王フェルディナンド1世は反ロシア的な感情を抱いていたようで、この様な複雑な心情がサラエボ事件をきっかけに燃え上がったのが「第一次世界大戦」だと云うことですね。

それでは、改めて次回記事では「第二次バルカン戦争」についてまとめてみたいと思います。


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第297回 日露戦争とロシア第一革命/ロシア国内に於ける背景

さて。今回のシリーズの中心である「ロシア」と「ソ連」を考える上で、どうもこの「第一次世界大戦」というものを無視するわけにはいかないようです。

第一次世界大戦が勃発したのが1914年7月28日、終結したのが1918年11月11日なんですが、ロシアをソ連へと変貌させるきっかけとなった「(第二次)ロシア革命」が勃発したのは1917年2月23日。第一次世界大戦の真っ只中で勃発しました。

ちなみに、2月に起きたロシア革命は「2月革命」と呼ばれます。
この時のロシア革命は 1917年11月7日(ユリウス暦1917年10月25日)にも勃発しており、この時の革命は10月革命と呼ばれます。

なぜ2月革命はグレゴリオ暦なのに10月革命はユリウス暦なんだ、というツッコミが入りそうですが、このネタはロシア革命そのものを記事にする際にわかる様であれば調べてみたいと思いjます。


第一次世界大戦はなぜ起きたのか?

記事としては第一次世界大戦について記す予定なのですが、ひょっとするとこの記事一つでは終わらないかもしれません。
今回は、基本的に教科書通り、第一次世界大戦が勃発するに至った経緯について、一般的な理由を調査してみます。


私の記憶では、中学であったか高校であったかは覚えていませんが、確か「サラエボ事件」なるものが原因で、オーストリアの皇子が殺害されたことがそもそもの発端であったように記憶しています。

ですので、今回は先ずこの「サラエボ事件」から調べてみます。


サラエボ事件とは?

基本、情報ソースはWikiをまずは利用します。

Wikiによると、このサラエボ事件について、以下の様に記されています。

【サラエボ事件とは?】
サラエボ事件とは、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。

この事件がきっかけとなって、第一次世界大戦が開戦した。

とあります。ここで一つ疑問が浮かびます。

確かに、一国の国王の後継者夫妻が暗殺された・・・というのは一大事件かもしれません。
ですが、そんなたった一つの事件がなぜ第一次世界大戦にまでつながっていったのでしょう?

【第一次世界大戦が勃発した理由(Wikiより)】
当局の尋問の間、プリンツィプをはじめとする暗殺犯たちは黙秘を貫いていたが、ダニロ・イリイッチが自白し、武器がセルビア政府の支給品であったことを告白した。

オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府を非難し、セルビアにとって受け入れがたい要求を含んだ最後通牒を突きつけた。オーストリア政府はセルビアが48時間以内に無条件で全条件を受け入れなければ宣戦布告することを通告した。セルビア政府は二点のみを除いてこの要求を受諾した。

しかし、1914年7月28日オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。

上記にある「当局」とは、「オーストリア当局」の事。恐らく警察の事と思われます。

ここで浮かぶ疑問点は二つ。なぜセルビア政府は暗殺者たちに武器を支給したのか。
そして、オーストリアとセルビアの対立に過ぎなかったはずの事件が、一体なぜ第一次世界大戦という大きな戦争にまで拡大したのか。この2点です。

地図としては、世界地図で見る世界史 というサイト様に掲載されているものがとてもわかりやすかったので、ここから持ってきます。

1900.jpg

最も大きい国がロシア帝国。その左下、南西側に「オーストリア・ハンガリー二重君主国」なるものがあって、その真南に、とても小さいですが「セルビア」という国が存在しますね。


調べてみると、どうもポイントとなるのが、サラエボ事件に於いて皇太子夫妻を暗殺した犯人であるガヴリロ・プリンツィプの出身地とその属性に在るようです。

改めて彼の出身とその属性を見てみますと、

「ボスニア出身のボスニア系セルビア人」

となっています。
つまり、ボスニア出身のボスニア系セルビア人がセルビア政府から武器を支給され、起こしたのが今回の事件だということです。

では、「ボスニア」とはどの地域になるのかというと・・・

【ボスニア・ヘルツェゴビナ】
ボスニアヘルツェゴビナ

現在の地図にはなりますが、このあたり。
丁度セルビアと国境を接するあたりになります。

【中世のセルビア】
セルビア(中世)

また更に、こちらは中世の「セルビア」。
セルビアは、7世紀にこの地域にやってきて、この地域に於いて、6つの部族に分かれて生活していたのだそうです。

その6つの部族が以下の通り。

「ラシュカ」「ボスニア」「ドゥクリャ/ゼタ」「ザフムリェ」「トレビニェ」「パガニア」

これら6つの部族が時にくっついたり、時に独立したりを繰り返しながら、1171年、ついに統一され、「セルビア王国」として成立することになります。

そう。「ボスニア」とは、セルビア人の中の一部族の名称だったんですね。

ただ、「ボスニア王国」という国と「セルビア王国」という国の関係性はどうもよく分かりません。
Wikiで、「セルビア王国」についてのページを見ると先ほどの地図となるのですが、これをボスニア王国についてのページから見ると、

セルビア・ボスニア

こんな感じ。ピンクがセルビア、緑がボスニアです。
1184年当時の地図なのだそうですよ。

セルビアが統一された時期と符号が合いませんね。
このあたりははっきりとした理由が分かれば後日記事にできればと思います。

そして、この当時のボスニアは、「ハンガリーの支配下にあった」ともされています。
ボスニアがボスニア王国として独立するのは1377年のことです。


話が随分脱線してしまいましたが、肝心なのは、「ボスニア人は、元々セルビア人だった」というところです。

そんなボスニアとセルビアですが、セルビアは1459年6月、1463年5月にはボスニアがそれぞれオスマントルコ帝国に攻略され、滅亡してしまいます。

しかし、1817年、セルビアはオスマントルコ領セルビア公国として復活。
また更に1877年4月に勃発した露土戦争を経て、1882年、「セルビア王国」として独立を果たします。

ただ、問題となるのはオスマントルコ領であった時代のセルビアで計画されていた「ナチェルターニェ」なる覚書。
ここには、オスマントルコが崩壊したと仮定して、トルコ崩壊後、ボスニアを含む中世のセルビア王国の領域に基づいた「セルビア王国」を建設する、との方針がしるされていました。

そして、この「ナチェルターニェ」に記されていた方針が、後のセルビア王国の政府方針となっていきます。

さて。一方のボスニア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)ですが、こちらも露土戦争の結果締結された「サン・ステファノ条約」に於いて、ボスニアの自治権が認められることとなります。(1878年)

ですが、同年、オーストリア・ハンガリー帝国の要請を受けたドイツ宰相ビスマルクによって主宰された「ベルリン会議」に於いて、このボスニアヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国が軍事占領することが認められてしまいます。

ですが、セルビアは「ナチェルターニェ」にて、中世セルビア王国が存在した地域を「セルビア王国」として復活させることを政府方針としているわけで、オーストリア・ハンガリー帝国に対し、セルビア人が多く居住することを理由に、ボスニアヘルツェゴビナ領有の正当性を主張します。

しかし、1908年10月6日、ついにボスニアはオーストリア・ハンガリー帝国に統合されることとなります。

つまり、セルビア人の感情として、この時点でオーストリア・ハンガリー帝国に対する敵愾心が生れているわけですね。
ただ、これだけではセルビア政府がオーストリア皇太子暗殺を計画した秘密結社に対して武器を提供するまでのことを行ったりゆうとしては 少し弱い気がします。

この後、「バルカン戦争」なるものが勃発します。
どうもセルビア人の国民感情を高ぶらせた理由に、この「バルカン戦争」が関係しているような気配です。

また、この「バルカン戦争」の結果はどうもこの地域の国々の中にくすぶる火種を投下した様子が見られます。

そこで、次回記事では、この「バルカン戦争」について記事にしたいと思います。


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第296回 ザポロージャのコサック軍(ヘーチマン国家)/ウクライナ人の誕生

私、シリーズ、十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 に於いて、日本とロシアの間で勃発した「日露戦争」について、日本と中国とのかかわりあいという視点から、日露戦争が勃発する経緯については記しているのですが、日露戦争そのものの経緯については完全にスルーしています。

というのも、シリーズとしては当初日中間近代史に於いて、たびたび名前の登場する「満州」について、そもそも「満州」とは何なのか、そして「満州」は日中間の近代史に於いて、一体どのような位置づけであったのか。このことを解明することを目的としていたからです。

また一方で、「ロシア革命」に関しても、第64回の記事 や 第125回の記事 などで触れてはいますが、このロシア革命によって誕生したソビエト連邦が後のアジア・ヨーロッパ史に大きな変化をもたらすというのに、その詳細には触れていません。

これも、シリーズの趣旨が主に当時の中国国内に於ける背景に焦点を絞っていたことが理由で、ロシア革命にまで情報を広げると焦点がぼやけることを考慮したためです。

ただ、やはり現在までに至る日本の戦前・戦後史を考察する上で、この「ロシア」の存在は、決して無視できるものではありません。第一次世界大戦後、第二次世界大戦までの中国史に於いて、この「ロシア=ソ連」の存在が非常に大きな影響力を発揮していることはシリーズ、十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 において掲載した通り。

今回のシリーズ では、そんなロシアがなぜ共産化し、中国や日本、ひいてはヨーロッパやアメリカにまであれほど大きな影響を発揮することとなったのか。このことを追求することを目的としています。


日露戦争勃発に至るロシア国内での背景

第79回の記事 にも掲載しました様に、日本とロシアが「日露戦争」を起こすに至った経緯としては、義和団の乱(北清事変)に於いて、清国から宣戦布告を突き付けられた清国に領土を保有する8カ国の内、ロシアを除く7カ国が北京に軍隊を派遣。

特に日本は、義和団から北京の外国人公使館区域に居留する925名の外国人と約3000人ほどの中国人クリスチャンを守るため、柴 五郎 中佐を中心に奮闘する中で、唯一ロシアだけが自国の権益を拡大するためだけに軍隊を派遣。

満州全土を占領してしまったことがそもそもの原因です。

その直前には清国領であったはずの「江東六十四屯」に突如として攻め込み、同地域に居住するすべての清国人を滅ぼし、誰も居住する者のいなくなった江東六十四屯を占領する・・・という考えるだけでもぞっとする暴挙を平然と行っています。

この当時はまだロシアは共産化されてはいなかったわけで、この様な事情を考察すると、ひょっとするとロシア人の中には元々この様な行為を平然と行える性質が存在した・・・ということなのではないかとも考えられます。この時清国人を虐殺したロシア人は、「コサック兵」であったとされています。


ロシア国内に於ける「ポグロム」

「ユダヤ人虐殺」と聞いて真っ先に思い浮かぶ国・・・と言えば、まずは「ドイツ」でしょうか。
ヒットラー率いるナチスが行ったユダヤ人大虐殺=ホロコーストのことが頭に思い浮かぶかもしれません。

ですが、ユダヤ人迫害の歴史はとても古く、ロシアでも同様にユダヤ人は迫害される立場にありました。
理由は様々考えられますが、ポーランドが分割併合されるまで、ユダヤ人はロシアから追放され、ユダヤ人は入国そのものが許可されていませんでした。

ところが、ポーランドが分割され、ロシアの占領下となってしまったことで、元々ユダヤ人に対して寛容な政策を取っていたポーランドに居住していたユダヤ人が、そっくりロシアの国民となってしまったわけです。


その後のロシアに於けるユダヤ人政策は比較的寛容なものとなるのですが、1856年、当時のロシア皇帝アレクサンドル2世はクリミア半島に於けるフランス・イギリス・オスマントルコ等の連合軍との戦争に敗れ、ロシア国内を「近代化」することが必要だと感じるようになります。

【アレクサンドル2世】
アレクサンドル2世

そこで、まず第一に実施したのが「農奴解放令」。
「農奴」。読んで字のごとく、地主の支配を受ける立場にあった農民たちのことです。

このことが、確かにロシアに於ける「産業革命」のきっかけとはなるのですが、このことが、マルクスやミハイル・バクーニンら共産思想の影響を受けたポーランドの小作人や学生たちの感情を焚き付け、1863年1月22日、ポーランドに於いて武力蜂起が勃発します。

この武力蜂起は1月蜂起と呼ばれ、1864年4月11日に鎮圧されます。
この武力蜂起を起こした参加者たちは、「ナロードニキ(人民主義者)」と呼ばれ、武装蜂起鎮圧後も政府や軍による弾圧を受けることとなります。

このことが原因で1881年、アレクサンドル2世は暗殺されるわけですが、彼の後を継いだアレクサンドル3世は、この暗殺を「ユダヤ人の仕業だ」と決めつけ、この後、ロシア政府によるユダヤ人に対する激しい迫害が行われるようになります。

【アレクサンドル3世】
アレクサンドル3世

アレクサンドル3世は、国民の不満を政府ではなく、ユダヤ人に向けることでその解決を図ろうとしたんですね。
この後、ロシア国内ではユダヤ人に対する迫害行為が広範囲にわたって行われるようになり、強姦や掠奪、虐殺行為を含めたユダヤ人に対する迫害行為は「ポグロム」と呼称されるようになります。

考えてみれば、フランス革命に於いても凄まじい虐殺行為は行われていたわけで、欧州を含めて、彼らはこのような虐殺行為を行う事に対して元々抵抗感が薄かったのでしょうか・・・。これだけはどうにも理解できません。

江東六十四屯に於けるアムール川事件が勃発したのは1900年ですから、事件を起こしたロシア人は同じような感覚で清国人を虐殺したのかもしれません。この感覚だけは本当に理解できません。


第59回の記事 で記しましたが、日露戦争に於いて日本に500万ポンドの軍事費を融通する為、米国の銀行家であるジェイコブ=シフを紹介したロスチャイルド家は、「ユダヤ人」の象徴のようにしても語られる一族です。

彼は、「ポグロム」の敵を討つために高橋是清にジェイコブ=シフを紹介した、とも言われています。

日露戦争が勃発するのが1904年2月8日。
翌1905年1月、ロシア第一革命が勃発します。

ロシア第一革命は、労働者たちが皇帝に対し、日露戦争の中止、労働者の待遇改善、憲法改正と基本的人権の付与等を求めてデモを行ったところ、警備兵に大量に射殺されてしまったことからロシア全土に広まった革命運動のことです。

実際には皇帝であるニコライ2世の知らないところで起きた事件(血の日曜日事件)が原因となっており、このことで、特にウクライナ地域に於いて革命運動が活発化します。

【ニコライ二世】
ニコライ二世

また、この事件をきっかけにロシア全国各地で結成されたのが「ソヴィエト(労働者・農民・兵士による評議会)」。

同年9月、ロシアは日露戦争に敗北。
ニコライ二世は「10月勅令」を発令し、国会開設と憲法の制定を発表することで時を同じくして設立された「立憲民主党」の支持を得ることに成功し、革命は鎮静化されます。

ちなみに、ニコライ二世によれば、この時革命に参加した参加者の90%がユダヤ人だったのだとか・・・。
事実なのかどうかはわかりませんけどね。


次回記事では、記事内容を「第一次世界大戦」へと移し、第一次世界大戦が勃発する経緯や第一次世界大戦に対するロシアの関わり合いについて記事にしてみたいと思います。


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第293回 ロシアとウクライナ/ユダヤ人のロシア流入までの歴史

本筋から外さないために、どこから記せばよいか・・・ととても迷ったのですが、今回のタイトルはこんなタイトルで始めてみます。

第293回の記事 でも記しましたが、ウクライナは元々「キエフ大公国」という名称で、現在のイメージだと、「ソビエト連邦」という国の中に含まれていた国で、「ロシア」がソビエト連邦の大部分を占めていることから、ウクライナはロシアに支配されていた国だ・・・というような印象も強いかもしれませんが、元々「ロシア」の方がウクライナの原型であった「キエフ大公国」より派生した国。

言うなれば「ウクライナ」が親で「ロシア」が子であった、という表現の方が近いかもしれません。
事実、モスクワ公はキエフ公の子供がキエフ公より譲り受けた「ウラジーミル・スーズダリ公」が元になっているわけですから。

キエフ大公国がモンゴルに支配されたのち、キエフ大公国を引き継いだのが「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」。
同時期、モスクワ大公国の原型であるウラジミール大公国もモンゴル占領下において存在していました。

ところが、キエフ大公国を引き継いだ「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」は、ハールィチ・ヴォルィーニ大公の血筋が途絶えてしまい、このことから一気に国力が衰退し、ポーランドとリトアニアに分割統治されることとなってしまいます。1349年)

ポーランドとリトアニアは、元々対立し、お互いに戦争を行う関係であったわけですが、共通の敵であるドイツ騎士団等に対抗する必要性に駆られ、ポーランドとリトアニアは同盟関係を結び、「ポーランド・リトアニア連合」となります。(1387年)


フメリニツキーの乱

1569年、ポーランドとリトアニアは、両国の元首を同一の人物が兼ねることにより、「ポーランド・リトアニア共和国」となります。

さて。1648年、そんな「ポーランド・リトアニア共和国」において、「フメリニツキーの乱」と呼ばれる武装蜂起が行われます。
この武装蜂起を主導したのが、「ボフダン・フメリニツキー」という人物。

【ボフダン・フメリニツキー】
フメリニツキー

彼は、ポーランド・リトアニア共和国王によって編成された「登録コサック」の一員で、反乱を起こす際には「ウクライナ・コサック」の指導者でもありました。

「コサック」の起源は明確ではないものの、そのルーツはウクライナにあり、その中にはキエフ公国の元士族・豪族も含まれていたのだとか。

没落した貴族と盗賊の集団であった、とのことですが、ロシアやポーランド・リトアニア等では軍人として重用されていた様子が見られます。

そんな中で、「登録コサック」とは、同じ「コサック」でも、国が正式に認めた「コサック」で、ロシア帝国時代には「貴族」としても認められていたのだとか。


そんなフメリニツキーの領地が、ポーランド貴族であるダニエル・チャプリンスキによって襲撃され、フメリニツキーの恋人であったモトローナ・チャプリーンシカまでも奪い去ってしまいます。

フメリニツキーはこのことを最高裁判所に対して提訴するのですが、敗訴。
さらにダニエル・チャプリンスキの手によって投獄されてしまいます。

ところが、フメリニツキーは警備長の手によって救い出され、ウクライナ・コサックの拠点がある、「ザポローシ゛ャ」へと逃げ出すことに成功します。

彼は、元々その経験や戦果、豊富な知識、家柄等も含めて、ウクライナ・コサックから尊敬される存在にありました。
彼は、ウクライナ・コサックを率い黒海北部、「クリミア・ハン国」のクリミア・タタール人(モンゴル人、というわけではないらしい)とも同盟関係を結び、ザポローシ゛ャに派遣されたポーランド政府軍に勝利します。

これを機に、フメリニツキーがポーランド政府を相手に起こした反乱が、「フメリニツキーの反乱」と呼ばれるものです。


第293回の記事 でもお伝えしましたように、この当時のポーランド政府は、ユダヤ人に対して世界で最も寛容な政府でした。

ポーランド政府は、ユダヤ人を初めとする、異国の知識人を優遇し、自国の農民を管理する立場に当たらせていました。

特にウクライナはポーランド政府から離れていることもあり、「農奴」として働かされていた農民たちの不満は鬱積していました。
また過去に反乱を起こしたウクライナ・コサックたちは軍人としての資格や自治権を奪われて農奴としての扱いを受けていたこともあり、反乱を爆発させる材料が勢ぞろいしていた・・・当時のウクライナはそのような状況に在りました。

ですので、当然自分たちを管理していた「ポーランド人とウクライナ人の貴族・カトリックの聖職者・ユダヤ人の収税吏と官吏」もさることながら、「反乱軍に加わらない、あるいは反乱を支援しない者も身分・宗教・民族を問わずに惨殺(Wikiより)」されます。

また、「一時期コサックの同盟者であったタタールはウクライナの町村でほしいままに奴隷狩りを行った」とのことで、この反乱で殺害されたユダヤ人の数は数万単位に上るのだとか。この話は、飽くまで余談ですけどね。


「ザポロージャのコサック軍」誕生

「ザポローシ゛ャのコサック軍」とは、軍の二つ名の様ではありますが、これ、れっきとした国の名前なんです。
タイトルで( )書きしている「ヘーチマン」とは、コサックの指導者の事。

「ヘーチマン国家」とは、コサックの指導者であるフメリニツキーが設立した国家である「ザポローシ゛ャのコサック軍」の通称になります。ヘーチマン国家誕生を受けて、初めて「ウクライナ人」が、この「ウクライナ」にルーツを持つ民族名として用いられるようになります。

「フメリニツキーの反乱」の結果、ウクライナにはこの「ヘーチマン国家」が誕生します。(1649年)
フメリニツキーはポーランドへの反乱期間中、継続してロシアに援軍を求めていたのですが、ロシアはこれを拒否し続けます。

最終的に、フメリニツキーは「援軍」を求めるのではなく、「ロシアの保護下」に置くことを要求。
1653年7月2日、ロシアはフメリニツキーの要求に応じることを約束。1654年1月18日、このことが正式に誓約されます。


ロシア・ポーランド戦争開戦

ウクライナが自国の保護下に置かれたことで、ロシアはポーランド対ウクライナ戦に参戦することになります。
このことを受け、ウクライナと同盟関係にあったクリミアは同盟を破棄、逆にポーランドと同盟関係を結びます。(1654年6月)

また更に、ポーランド・リトアニア共和国と対立関係にあったスウェーデン王国が参戦(1655年夏)。
フメリニツキーは自軍が優勢となったことから、クリミア・ハン国と再度交渉にあたり、自軍に復活させます。


ところが、決着が見え始めると、今度はウクライナ領土をめぐってスウェーデン、ロシア、ヘーチマン国家の間で対立が顕在化。1656年5月、ロシアはスウェーデンに対して宣戦布告し、今度はポーランド・リトアニアに対して和平を申し入れます。

和平交渉への参加を拒否されたことから、フメリニツキー軍はロシアとの国交を断絶し、スウェーデンに援軍を派遣します。
しかし、ここに至ってフメリニツキーは病床に倒れ、脳梗塞によって死去。

指導者を亡くしたコサック軍は空中分解し、内戦状態へと陥ります。

1718年スウェーデンの指導者であるカール12世が死去。スウェーデンが和平を申し出たことからこの戦争は終結し(1721年)、ロシアは一挙に北方最強国へとのし上がります。

1721年10月22日、「ロシアツァーリ国」改め、「ロシア帝国」が誕生します。


この後、1795年、ポーランドはロシア・プロセイン・オーストリアの三国で分割され、ポーランド・リトアニア共和国は「国家」として事実上消滅してしまいます。

「ウクライナ」にユダヤ人が大量に流入したことが、ロシアに大量のユダヤ人を招き入れる原因になった・・・と考えていたのですが、「ウクライナ」だけでなく、そもそも「ポーランド」そのものが分割されてしまったことによってロシアは大量のユダヤ人を国内に招き入れることとなったんですね。


さて。次回より、いよいよ部隊を「ロシア」へと移動し、時間軸もできれば「ロシア革命」まで進めることができれば、と考えています。


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第292回 ポーランドとドイツ騎士団とユダヤ人/ソ連誕生までの布石

だめだ・・・

どうもこのシリーズを書こうとすると、私がそもそもなぜこのシリーズを記そうと思ったのか、という軸がぶれそうになります。

結論として導きたいのは、そもそもロシア帝国が崩壊し、共産化したのは「ロシア人とユダヤ人との対立」の結果である、という結論です。もちろんこれは仮説であり、まだ証明できてはいません。

これを証明するためにこのシリーズを作ろうとしているのですが、どうも「悪魔のささやき」が聞こえてきてなりません。
仕方のない部分はあるのですが、どうしても「ユダヤ人迫害の歴史」を追求しようとしてしまいます。

ですが、これをやっちゃうと本来の「ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯」を追求する以上に記事数を割いてしまいそうでなりません。

もっと言えば、最終的には「ロシア革命はユダヤ人の陰謀であり、ロマノフ家はユダヤ人の手によって壊滅させられた」というところまで持っていきたいわけです。

というと語弊があるかもしれませんね。私は、この仮説が事実であるのか、それともデタラメなのかということを証明したいのです。
ここを証明することが目的ですので、ユダヤ人迫害の歴史は、ロシア中世・近代史に関連する部分に極力留め、それ以上過去にまでは遡らない様努めたいと思います。


前回の記事 では、モンゴル(キプチャク・ハン国)の脅威に晒され、弱体化しつつあったポーランドが、ユダヤ人に寛容な政策を取ることで、他国で迫害されるユダヤ人を自国内に招き入れ、ドイツ商人と共に、ポーランドの経済回復の一助となってく様子を記事にしました。

で、そもそも私がなぜポーランドがユダヤ人を招き入れることとなった歴史に触れようとしたのかというと、このことが後々ロシア内にユダヤ人を大量に招き入れることとなる根拠となったから。

で、私がなぜ「ユダヤ人迫害の歴史」に言及したくなるのかというと、そもそも「ポーランド」にユダヤ人の数が激増した理由は、ポーランド以外の国々でユダヤ人が迫害を受け続けてきていたからであり、これはロシアもまた例外ではありません。

つまり、ロマノフ朝によるユダヤ人に対する迫害がユダヤ人のロマノフ朝に対する反感へと繋がり、これが後のロシア革命へとつながったのではないか・・・というのが一つの「仮説」です。


さて。ではなぜ「ポーランドの歴史」が「ロシアにユダヤ人を招き入れる原因となったのか、と申しますと、ここに大きく関係してくるのが「ウクライナ」の存在です。

では、もう一度前回の記事でご紹介した、「元」国時代の地図を見てみます。

モンゴル

ロシアを支配していた「キプチャク・ハン国」の領土内、カタカナで「キエフ」と書かれている領土内に、さらに小さい文字で「キエフ」、そして「モスクワ」という文字が書かれているのが分かると思います。

前回の記事でもお伝えしました、元々キプチャク・ハン国がこの地を急襲する以前、この国には「キエフ・ルーシ」という国が存在していました。モンゴルの急襲によって「キプチャク・ハン国」と名を変えるわけですが、まだここに「キエフ・ルーシ(キエフ大公国)」が存在していた時代。

時の権力者、ユーリー・ドルゴルーキー大公は、自身の息子であるフセヴォロド3世に、嘗て自身が「公(公国の元首のこと)」として治めていた領土を分け与え、「ウラジーミル・スーズダリ公」の位を与えます。

フセヴォロド3世はこの土地に、「ウラジーミル・スーズダリ公国」を建国し、これが後の「モスクワ・ルーシ(モスクワ大公国)」の原型となります。フセヴォロド3世の死後、この土地はフセヴォロド3世の息子であるユーリー2世が継承します。

モンゴルが攻めてきたのはユーリー2世の時代(1238年)。モンゴル軍により、ユーリー2世の一族は、軒並み滅ぼされ、彼自身も戦死するのですが、彼の弟であるヤロスラフ2世が大公の座を受け継ぎ、彼はモンゴルに「臣下」として従事することで「モンゴル帝国領ウラジーミル公国」の存在を維持します。

更にその息子、アレクサンドル・ネフスキーの末子である「ダニール・アレクサンドロヴィチ」がアレクサンドルより「モスクワ領」を受け継ぎ、「モスクワ公」を名乗ることとなります。ダニーるの血縁者が後にモンゴル王より「モスクワ大公」に任じられ、ダニールの息子であるユーリー3世とイヴァン1世が連続して「モスクワ大公」の位に就くこととなります。

この時代はまだ、「モスクワ大公国」はモンゴルの支配下にあったんですね。

【モスクワ大公国】
モスクワ大公国-2


モスクワ大公国は、確かにユーリー2世よりウラジーミル領を分け与えられたフセヴォロド3世の子孫が更に受け継いだ土地なのですが、実際にモンゴルに滅ぼされた後の「キエフ大公国」そのものを勝ち取り、継承したのは「ハールィチ公国」と「ヴォルィーニ公国」とが合併した「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」でした。

ハールイチ・ヴォルイーニ大公国

この、「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」こそ、「ウクライナ」の源流。

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国はモンゴルとの戦いに敗れた後、ウラジミール大公国同様モンゴルの属国となるのですが、大公であったダヌィーロは、自分の息子を隣国リトアニアの初代大公であったミンダウガスの娘と婚姻関係を結ばせ、リトアニアとの関係を強固なものとし、ともにドイツ騎士団との戦いや、ポーランドへの遠征なども行います。

1340年に大公が途絶え、国が貴族の支配を受けるようになると、その国力は一気に弱体化し、後にポーランド・リトアニアによって分割統治されることなります。

ハールィチ公国はポーランド領に、ヴォルィーニ公国はリトアニア領となります。
この当時、ポーランドとリトアニアは連合国となっており、「ユダヤ教」に対してヨーロッパ一寛容な国家でした。
(※失礼しました。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国がポーランドとリトアニアに吸収された当時、両国はハールィチ・ヴォルィーニ領をめぐって戦争を起こしており、まだ「連合国」と呼べる関係にはありませんでした。
吸収した後、ドイツ騎士団に対抗するため、お互いが連携(1387年)し、同盟関係を結ぶことで「連合国」としての形を築くことになります)


そんな「ポーランド・リトアニア連合国」に「ウクライナ」は吸収されてしまったんですね。
この時、「ウクライナ」という地域に、もまた大量のユダヤ人が流入します。


少し見えてきましたね?
このことが、後にロシア帝国にユダヤ人が大量に流入するきっかけとなります。

そのためには、もう少しこの「ウクライナ」という国の歴史をたどる必要があるのですが・・・。
その記事は次回へゆだねます。


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 ソビエト連邦の誕生までの歴史~ロシア人とは何者なのか?

タイトルは非常に悩みました。
ロシアのどの時代にスポットを当てるべきなのか、そもそもタイトルとして、「ロシア」そのものにスポットを当てても良いものなのか。

カテゴリーの名称としては、ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 との名称ですから、なぜポーランドやドイツ、ユダヤ人が関係あるんだ、との声も聞こえてきそうですが・・・。

ただ、調べていますと、どうもソ連誕生の歴史を追いかける上で、「ユダヤ人」や「ポーランド」、そして記事にこそ含めていませんが、「ウクライナ」という国の存在も無視できないということが見えてきました。

【「元」の時代のユーラシア大陸】
モンゴル

こちらは、13世紀。1200年代に、モンゴル帝国「元」がアジアを支配していた時代の地図です。
世界の歴史マップ」様より拝借いたしました。

余談ですが、15世紀には更にロシア中央部に「シビル・ハン」国が勃興するのですが、後にロシア・ツァーリ国に併合され、「シベリア」とその名称を変えます。

ご覧いただくとわかりますが、後の「ロシア大公国」が誕生する位置もまた「キプチャク・ハン国」が占領しており、この領土内に「モスクワ」と書かれていることもわかります。

カタカナで「キエフ」と書かれていますが、元々この地域に「キエフ大公国」という国が存在し、この国の正式名称が「ルーシ」。
「ロシア」という名称の由来となる国の名前です。

さて。この「キエフ」が位置した地域までキプチャク・ハン国が席捲しており、その領土は「ポーランド」にまで迫っていますね。
この時、ローマ教皇であったグレオリウス9世より、全てのキリスト教徒に対して、

 「ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという」
という「詔書」が発せられます。この時、皇帝から命令を受け、ポーランドへ向かったのが「ドイツ騎士団」。

明確な時期は分かりませんが、1241年4月9日、ポーランド・ドイツ連合軍とモンゴル軍が初めて戦闘していますので、この時期が目安になりますね。

ちなみに彼らに命令を下したグレゴリウス9世は、「神聖ローマ帝国」の教皇。
神聖ローマ帝国とは、もともと「東フランク王国」と呼ばれていた地域で、「ドイツ人」とは、一般的にこの「東フランク王国」の出身者たちのことを差していたようです。

ドイツについては後日、改めてシリーズ化します。
プロセインへのドイツ騎士団の移住は、「東方植民」と呼ばれる、神聖ローマ帝国以前から続くドイツ人の植民政策の一環で、これはドイツ人そのものの繁栄をもたらします。

一方でポーランドは、モンゴルによる侵攻などの影響も受けて荒廃し、ドイツ人はさらにポーランドの開拓地への移住を推し進めます。

この様に記すと、あたかもポーランドがドイツによってどんどん占領されているかのようなイメージを受けますが、モンゴル人による侵攻を受けて荒廃するポーランドと違ってドイツは繁栄と共に近代化も推し進められており、ドイツから持ち込まれた「都市法」は、ポーランドの伝統的な習慣法と比較しても、とても進んだものであり、ポーランドはこのドイツ都市法を積極的に受け入れていったんですね。

おかげでポーランドでは農業は回復し、都市化・近代化が推し進められ、元々自然環境にも恵まれていたことから、どんどん経済的繁栄を回復していくこととなります。

この時、ポーランド国王は、都市再生の為、ドイツ商人と同時に、「ユダヤ人」も自国領土へと招き入れます。ユダヤ人は、ポーランドに於いて、「法」によって思想と生活の両面から保護されることとなります。

この当時、ヨーロッパ全土では「反ユダヤ主義」なるものが展開されており、ユダヤ人は迫害を受けていましたから、ユダヤ人は続々とポーランドへと移住してきます。

彼らの知識やビジネスノウハウは後のポーランドにとって経済的な柱となり、ポーランド初の通貨も、彼らユダヤ人の手によって生み出されたのだそうです。

どうも、この当時からユダヤ人には「陰謀論」なるものがついて回る傾向にあり、ユダヤ人により、キリスト教徒がいけにえとされ、儀式として殺害されている・・・といった「デマ」がまことしやかに信じられていたのですが、ポーランド国王は、この様な「デマ」をすでに「胡散臭い」と見抜いていて、この様な「デマ」からもユダヤ人を法律によって保護したのだそうですよ。


さて。一方で「ドイツ騎士団」ですが・・・。
地図上部に、紫色で「ドイツ騎士団領」という文字がありますね。

これは、「プロセイン」と呼ばれる地域で、後に「プロイセン王国」が築かれる、その基盤ともなる地域です。
ここに、「プルーセン人」という、「異教徒(キリスト教以外の宗教の信者)」がおり、この人々を「キリスト教化」することに手を焼いていたポーランド国王は、当時ハンガリーにいたドイツ騎士団に呼び寄せ、プルーセン人の対応に当たらせます。

この時、引き換えとしてポーランド国王はドイツ騎士団に対し当時自国領土であった「クルムラント」の領有権を認め、また更にローマ教皇はプルーセン人の土地である「プロイセン」の領有権もドイツ騎士団に対して認めます。

1226年~1228年にかけてのことですから、モンゴル人によるポーランド侵攻以前の事ではありますが、教皇の命を受けてポーランドまで移民してきたドイツ人たちは、やがてポーランドの支配をもくろむようになります。

このお話は、シリーズをドイツに移した後でふれたいと思います。


記事としては少し短いですが、今回の記事を前提として、次回記事内容がそこそこボリュームのあるものとなる予感がしますので、今回はここで区切りを付けたいと思います。

次回は「ウクライナ」という国にスポットを当て、シリーズロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 を追いかけてみたいと思います。


この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


今回のシリーズは、本編であるなぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか のもう一つの外伝として記していきたいと思います。

「真珠湾攻撃はどうした?」という声も聞こえてきそうですが・・・この情報についてはまだ、私自身の中でこのブログらしい、説得力のある情報を掲載する自信がありませんので、もうしばらくお待ちください。

今回のシリーズは、なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか本編と共に、子カテゴリーとして掲載し続けたシリーズ、十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 、そしてもう一つのシリーズ、共産主義と左翼 についても補完する内容としていく予定です。

シリーズ十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 に於いて、まだ完結させてはいませんが、シリーズ全体を通じて、「日中戦争開戦までの経緯」について、序盤は特に日本ではなく中国の近代史について、中盤では中国の近代史に日本の近代史を絡めながら、そして現時点での終盤では日本の南方政策と欧米との関わりあいに関連した記事を作成しています。

ただ、その途中で私、意図的に掲載していない、抜いている情報というものがあります。
それが今回外伝としてシリーズ化予定の「ロシア」の問題と、「ドイツ」の問題です。

理由としては、子カテゴリータイトルを「十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」としており、間接的には関係があるものの、深堀して話数を割く内容としては適切ではない、と考えたからです。

ですが、それでも特に中国近代史を追い、かの国が日本と敵対する関係に至る経緯を追えば、そこに「ソ連共産党」という存在が大きく影響していることは最早否定することは出来ませんし、一方で本編である「なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか」という視点に立てば、そこで「ソ連」の存在を否定することはやはりできないわけです。

またもう一方、第二次世界大戦に至る経緯として、日本が同盟を結んだドイツとイタリア。
特に、その第二次世界大戦史の中心的な存在として位置する「ドイツ」。「ナチスドイツ」が一体なぜ誕生したのか。ここも話題として避けて通るわけにはいかない内容だと思います。

そこで、今回よりこの二つの存在、つまり「ロシア(ソ連)」と「ドイツ(ナチスドイツ)」について新しく記事をシリーズ化していきたいと思います。歴史的に、日本の歴史に先に絡んでくるのは「ロシア」ですから、まずはシリーズ第一弾として、「ロシア」についてまとめていきます。


ただ、このロシアが共産化していく光景について、私は過去に一度だけ記事にしたことがあります。
それが、シリーズ共産主義と左翼 に記した、第64回 「コミンテルン」と「労働社会主義インターナショナル」 という記事です。

ロシアが崩壊していく過程が、非常にユダヤ人臭の強い崩壊の仕方である、ということを紹介し、ここで 元ソ連外交官が語る 「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌 という他者様のブログ記事をご紹介しています。

これは、日本の外交官も務めたロシア人、「アレキサンドル・イワノフ」という人物の講演内容をまとめた・・・と転載先では紹介されているのですが、そもそもこの情報、出所が唯一このブログのみの発信であり、ではここに記されていることが本当に正しいのかどうか。これは改めて調査してみなければ本当のところは分かりません。

ですが、ここに記している内容は、ロシアが崩壊し、共産化していく様子を実にわかりやすくまとめられていますので、その内容の信ぴょう性は一旦脇に於いて、この記事に記されている内容をベースとして、これを検証しながら記事は進めてみます。


「ロシア人」とは何者なのか?

ロシア

こちらは現在の「ロシア」の地図です。Googlemapから拝借しました。

あらためて地図で見てみますと、この国の巨大さを思い知らされますね。
シリーズ十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 では「中国」を追いかけてきたわけですが、その中国と比較してもロシアの巨大さは際立つものがあります。

これほど巨大な領土を持つ「ロシア」ですが、元々は、

モスクワ大公国

これくらいの大きさでした。この時の国の名前を「モスクワ大公国」と言います。
16世紀ころの領土です。で、この国が、17世紀に入るころには

ロシア・ツアーリ1

これくらいの大きさになります。また更に、18世紀に入るころには

ロシア・ツアーリ

これくらいの大きさにまで成長します。1547年、イヴァン4世が「ツァーリ(皇帝)」の称号を得て以来、「モスクワ大公国」ではなく、「ロシア・ツァーリ国」と呼ばれるようになります。

イヴァン4世の父であるヴァシーリー3世は、「モスクワ大公国」の「モスクワ大公」でした。イヴァン4世は大公であるヴァシーリー3世の息子ですから、彼が最初即位した位は「大公」。この時の彼の年齢はなんと3歳。当然国政を仕切れる様な年齢ではありませんから、彼の母親を初めとする、彼以外の人間が「摂政」等の役職に就き、国政を運営していきます。

ロシアの通貨である「ルーブル」は、彼の母、エレナが摂政であった時代に導入されたのだそうです。

ところが、エレナの死後、大公であるイヴァン4世の存在は無視され、エレナに代わって他の貴族が世間を奪取。
当時のロシア国教であった、「ロシア正教会」もまた貴族らの権力争いに巻き込まれ、新しくこの「ロシア正教会」の「府主教」に任命されたのが当時イヴァンの教育係を務めていた「マカリー」という人物でした。

ですが、マカリーは「ロシア正教会」の権威復活を期しており、イヴァン4世に対して、「神に選ばれたツァーリ」としての教育を施すのだそうです。

「神に選ばれたツァーリ」ですか・・・。
これ、パターン的に所謂「パーソナリティ障害」を生み出すんですよね。特に「自己愛性人格障害」と呼ばれる人格障害を齎す教育方法ですね。

イヴァンは後に「雷帝」として国民から恐れられる恐怖政治、大虐殺を行うわけですが、彼をそうさせたのは、ひょっとするとこのマカリーの教育方針にあったのかもしれません。

実際、彼の夫人であるアナスタシアは彼の凶暴性を抑えることができていたようですし、実にあやしい。

夫人の死後、要人や彼に意見するものなどを対象に次々と粛清、処刑を行うようになります。

1570年には彼の親衛隊であるオプリーチニキの軍隊(オプリーチニキ軍)を使ってノヴゴロドという地域の住民に対する大虐殺と修道院に対する略奪を繰り返し、これは1月2日~2月当初まで続けられたのだとか。この時の犠牲者は3千人に上るんだそうですよ。


少しわかってきたのは、ロシアが東進して占領した地域は、元々モンゴル人が統治していた国々で、所謂「シベリア」と呼ばれる地域もモンゴル人国家でした。

基本、Wikiを参考に書いていますが、文中、

「歴史家たちは彼の憤怒の原因について、それが政治的対立、個人的憎悪、精神的不安定のいずれによるものなのかを決められないでいる」

とあります。ですがこれ、恐らくマカリーの指導方針に伴って発現した「パーソナリティ障害」が原因と思われますね。
晩年は自分の子どもや子供の妻に対して異常なほどの虐待行為を行っていることからもこれは当たっているのではないでしょうか。

彼のこの様な政策は、結局国内、国外共に反感を買い、ロシアを荒廃させ、1609年、ポーランド軍によりモスクワの首都クレムリンを占領されるまでロシア国内に於いて「動乱時代」という時代が続きます。

モスクワ占領を受け、ロシア国民は遂に団結し、義勇軍を結成してポーランド軍を撃退。
その後、1613年2月に全国会議が開かれ、ロシア人民と、「コサック」と呼ばれる流れ者集団も参加し、ミハイル・ロマノフという人物がツァーリとして選出されます。

1721年には、同じくツァーリであったピョートル1世が「インペラートル(大帝)」を名乗り、以降ロシア・ツァーリ国は「ロシア帝国」と改められることとなります。

では、「ロシア人とは何か」と問われると、そのルーツは元々「東スラブ」。

東スラブ
上図の赤色のエリアに居住していた「東スラブ語」を話す民族の事です。

丁度モスクワ大公国が位置した当りの地域ですね。
東スラブ人たちが設立した国家「ロシア帝国」。では、この国に一体何が起きたのでしょう?

次回以降の記事にて、ロシア帝国成立後、ロシアが「共産化」するまでの様子を順に追いかけてみたいと思います。



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第289回 教育勅語の柱となる内容/教育勅語の現代語訳にチャレンジ②

さて。教育勅語現代語訳に挑みました今回のシリーズ第3回目。

未着手の残る3文の現代語訳にチャレンジしてみます。
冒頭に教育勅語原文を掲載いたします。

【教育勅語原文】
朕(ちん)惟(おも)うに  我(わ)が 皇祖(こうそ)皇宗(こうそう) 国(くに)を肇(はじ)むること 宏遠(こうえん)に 徳(とく)を樹(た)つること 深厚(しんこう)なり

我(わ)が臣民(しんみん) 克(よ)く忠(ちゅう)に 克(よ)く孝(こう)に 億兆(おくちょう)心(こころ)を 一(いつ)にして 世々(よよ)厥(そ)の美(び)を済(な)せるは 此(こ)れ 我(わ)が国体(こくたい)の精華(せいか)にして 教育(きょういく)の淵源(えんげん) 亦(また)実(じつ)に此(ここ)に存(そん)す

爾(なんじ)臣民(しんみん) 父母(ふぼ)に孝(こう)に 兄弟(けいてい)に友(ゆう)に 夫婦(ふうふ)相(あい)和(わ)し 朋友(ほうゆう)相(あい)信(しん)じ 恭倹(きょうけん)己(おの)れを持(じ)し 博愛(はくあい)衆(しゅう)に及(およ)ぼし 学(がく)を修(おさ)め 業(ぎょう)を習(なら)い 以(もっ)て智能(ちのう)を啓発(けいはつ)し 徳器(とくき)を成就(じょうじゅ)し 進(すすん)で公益(こうえき)を広(ひろ)め 世務(せいむ)を開(ひら)き 常(つね)に国憲(こくけん)を重(おもん)じ 国法(こくほう)に遵(したが)い 一旦(いったん)緩急(かんきゅう)あれば 義勇(ぎゆう) 公(こう)に 奉(ほう)じ 以(もっ)て天壤(てんじょう)無窮(むきゅう)の皇運(こううん)を 扶翼(ふよく)すべし

是(かく)の如(ごと)きは独(ひと)り 朕(ちん)が忠良(ちゅうりょう)の臣民(しんみん)たるのみならず 又(また)以(もっ)て爾(なんじ)祖先(そせん)の遺風(いふう)を 顕彰(けんしょう)するに足(た)らん

斯(こ)の道(みち)は 実(じつ)に我(わ)が皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)の 遺訓(いくん)にして 子孫(しそん)臣民(しんみん)の倶(とも)に遵守(じゅんしゅ)すべき所(ところ) 之(これ)を古今(ここん)に通(つう)じて 謬(あやま)らず 之(これ)を 中外(ちゅうがい)に施(ほどこ)して悖(もと)らず

朕(ちん)爾(なんじ)臣民(しんみん)と倶(とも)に 拳々(けんけん)服膺(ふくよう)して 咸(みな)其(その)徳(とく)を一(いつ)にせんことを 庶(こい)幾(ねが)う

明治二十三年十月三十日
御名(ぎょめい) 御璽(ぎょじ)

教育勅語


斯の道は 実に我が皇祖皇宗の 遺訓にして 子孫臣民の倶に遵守すべき所
之を古今に通じて 謬らず 之を 中外に施して悖らず


まずは、今回記事とする最後の三文の内、最初は第一文目を飛ばしまして2文目から進めてみます。

 「斯の道は 実に我が皇祖皇宗の 遺訓にして 子孫臣民の倶に遵守すべき所」

について。では、「この道」とは何かと申しますと、これはいうまでもありません。前回の記事 で書き記した内容。

即ち、

1.父母に 孝に

2.兄弟に 友に

3.夫婦 相 和し

4.朋友 相 信じ

5.恭倹 己れを 持し

6.博愛 衆に 及ぼし

7.学を 修め

8.業を 習い

9.以て 智能を 啓発し

10.徳器を 成就し

11.進で 公益を 広め

12.世務を 開き

13.常に 国憲を 重じ

14.国法に 遵い

15.一旦緩急あれば 義勇 公に奉じ

この15の『徳』のことです。

そしてこの15の『徳』を実践することで、「天壤無窮の皇運を扶翼」するということを、教育勅語では「この道」として示しています。

繰り返しになりますが、ここで「天壤無窮の皇運」とあることから、福島瑞穂は「天皇制=悪」であるという誤った解釈に基づいて教育勅語を悪の象徴でもあるかの様に喧伝していますが、ここでいう「天壤無窮の皇運」とは、神々が世界を作り、人類を誕生させたその時代から途切れることなく続くこの世界そのものを差しています。

もっと言えば、現世に於いて「皇宗」はその命が絶たれてしまったかもしれませんが、日本書紀や古事記に於いて描かれている神代の世界では、「皇宗」は「皇祖」と共に未だに存在し続けているのです。

「日本」という国が紡いできたストーリーは、たまたまそのような神々が降臨させた天孫、神武天皇の時代より描かれたわけですが、教育勅語に於いて明治天皇が「扶翼」すべきだとした、「天壤無窮の皇運」とは、単に日本のストーリーのみを示したものではありません。

この様な事を書き記すと、「そのような思想を勝手に私たちに押し付けるな!」という人が現れそうですが、少なくとも「日本」という世界の歴史は、そのような「皇運」と共に形成されてきたのです。


では、この様な考え方を以て、改めて

 「斯の道は 実に我が皇祖皇宗の 遺訓にして 子孫臣民の倶に遵守すべき所」

という言葉について考えてみましょう。

(少なくとも、教育勅語に於いてに於いて「主語」を構成している)明治天皇は、教育勅語に於いて、「斯の道」、即ち15の徳を実践し、日本のみならず、この世界全体の将来の発展の為に貢献するということが、「皇祖皇宗の遺訓」だとしています。

「遺訓」。即ち「亡くなった方からの教え」の事。

明治天皇は、「この道」を自分が臣民たちに押し付けようとするものではなく、自分の祖先である高宗や、日本だけでなく、この世界そのものを「肇めた」神々が、この世界が誕生した時にこの世界に植え、私たち日本国民が育て続けてきた、神々からの「教え」であると記しています。

そして、それを「遵守」しなければならないのは、日本国民だけでなく、皇祖皇宗の「子孫」である自分自身も「臣民」である日本国民と共に「守っていかなければならない」と言っています。

図らずも、このことを身をもって示したのが2.26事件 に於いて、だれも自分自身に「輔弼」する役割を持つ人がいなくなった中で、昭和天皇自らが同士討ちを避けようとパニック状態に陥った軍部を一喝して自ら「暴徒」である皇道派を鎮圧にあたらせた、その「御聖断」にあるのではないでしょうか。

そして、

 「之を古今に通じて 謬らず 之を 中外に施して悖らず」

即ち、この様な考え方は、過去も、現在に至っても尚一貫して通用する道理であり、このことを日本国内だけでなく、海外に対して実践し、また伝承したとしても、何等道理に反することのないものである、と言っています。

「悖らず」とは、「道理に反するものではない」という意味です。


では、改めて第一文目。

「是の如きは独り朕が忠良の臣民たるのみならず 又以て爾祖先の遺風を 顕彰するに足らん」

という言葉について考えてみます。「一人」とは、打消しの言葉と共に用いることで、と共に用いることで、「ただ、〇〇だけではない」という意味になります。

ですので、前半部分は「この如き」、即ち皇祖皇宗の遺訓であるこれら15の徳を実践するということは、あなたたちが天皇である私に尽くす忠義に熱い優秀な臣民である、ということを示すというだけではなく、という意味になります。

「のみならず」とありますので、明治天皇が伝えたかったことは、この前半部分よりもむしろこの後半部分。

 「爾祖先の遺風を 顕彰するに足らん」

という部分にあります。

「遺風」とは、亡くなった人の教えの事。
「顕彰」とは、隠されている良いことを明らかにし、表す事

とありますので、「爾祖先の遺風を 顕彰するに足らん」とは、

 「あなた方の祖先の教えが、実はとても素晴らしい教えであり、その素晴らしさをあなた方自身が明らかにすることになるのですよ」

という意味合いです。

この当時の国民は、現在以上に天皇陛下の事を敬愛し、天皇陛下の為になりたい、と思っていたはずですので、前半でそのような国民の気持ちを受け止めた上で、「ですが、実際は私ではなく、あなた方自身の祖先を讃え、敬うことになるのですよ」と暗に伝えているのです。


朕 爾臣民と倶に 拳々服膺して 咸 其徳を一にせんことを 庶幾う

こちらが最後の一文です。難しいのは、「服膺(ふくよう)」という言葉でしょうか。
これは、「こころに留めてわすれないこと」。

「拳々」とは、15の「徳」一つ一つの事。

この文章で大事なのは、「朕 爾臣民と倶に」とあることです。
最終三分、第二文目において、「子孫臣民の倶に遵守すべき所」とありましたね?

この15の徳を忘れず、心に留めて実践しなければならないのは、臣民である日本国民だけでなく、自分たち皇族も、あなた方と共にこれを実践していかなければならないと、明治天皇は教育勅語に於いて自分自身に対しても尚訓示しているのです。

これを頭に置いて

 
朕 爾臣民と倶に 拳々服膺して 咸 其徳を一にせんことを 庶幾う

という文章を見てみましょう。
大事なのは、この文章の主語が「朕」。即ち明治天皇自身である、という事。

15の徳を「拳々服膺」するのは、臣民ではなく自分自身である、と言っているわけです。
勿論「共に」とありますから、国民がこれを「拳々服膺」することは前提条件となっているわけですが、明治天皇は少なくともこの文章に於いて、臣民である日本国民が、15の徳を「拳々服膺」するということを疑っていないんですね。

そして、自分自身が、臣民と共に15の徳一つ一つを「忘れず、心に留め置き」、自分自身を含めた日本国民全員が、「その徳を一(いつ)にする」ことを願っています、と締めくくっています。

他の訳文を見てみますと、「徳を一(いつ)にする」という言葉を、「一致して立派な行いをする」と記しているものが多いのですが、私、これは微妙に異なっているのではないかと感じています。

確かにこの「教育勅語」には、15の徳が列挙されていて、これを実践することが大切だ、と記されています。
ですが、例えば

 「父母に孝行する」

という一言だけとっても、これはいろんな孝行の仕方があります。例えば、私が考えている「親孝行」の仕方と、私が記しているこの記事を読んでいただいているあなたの「親孝行」の仕方は、必ずしも一緒であるとは言えません。

やはりその育ち方や環境、教わってきたことによってその「孝行」の在り方は変わってくると思うのです。
特に、教育勅語の中で謳われている「天壤無窮の皇運」の世は、単に日本の事だけを示してはいませんから、国境を越えればまたそこには異なる「価値観」を持った世界が広がっています。

「価値観」というものは、一人ひとり異なっているんです。
そして、どの価値観が正しいとか、どの価値観が間違っているとか、「価値観」とはそのような「正解」があるものでもないでしょう。

ですから、私が正しいと思って他者に施した行いが、却って他者の感情を傷つけたり、もっと大変な事を惹起してしまうこともあるわけです。

だからこそ私たちは他者の価値観や考え方を学び、自分自身と異なる価値観をも認め、受容し、その上で自分が一番正しいと信じる行動をとっているわけです。

時にこれを実践しようとしても、様々な障害があり、実践するわけにはいかないこともあります。
目の前に困っている人が二人いたとして、必ずしも二人とも助けられるわけではないのです。ひょっとすると両者を見捨てなければならないこともあるでしょう。

明治天皇は、この文面の締めくくりで、「朕 爾臣民と倶に 拳々服膺」、つまり「忘れず、心に留めおく」とは記していますが、これを「実践する」とは記してませんね?

そして、その上で「臣民と、徳を一(いつ)」にすることを希(こいねが)う、としているわけです。
勿論教育勅語の骨子を考えたのは明治天皇ではありません。

文部科学省ホームページ によりますと、起草に関係した人物として名前が挙がっているのは元田永孚、伊藤博文、井上毅、山県有朋などの名前があります。

ですが、最終的には明治天皇がこれに目を通し、承認していますから、これは明治天皇の考え方にも合っているわけです。

ですので、あえて主語を明治天皇として記しますが、明治天皇は、全ての人が、同じ「徳」を「一(いつ)」にするということが、実はそう簡単な事ではないということをご存じだったのではないでしょうか。

ですので、

「あなたたち国民の皆さんがそうであるように、私もまたあなた方同様に『15の徳』をすべて忘れず、常に思い出せる状態にした上で、少しでもあなた方国民の考える『徳』に近づける様努力します。

そして、いつか私の考える『徳』が、あなた方国民の考える『徳』と同じものとなり、またあなた方国民の考える『徳』が、全ての国民の間で同じものとなり、日本国民全員が、一つの共通した素晴らしい価値観に基づいて行動できるようになることを心から願っています」

と、そう書き記しているのではないかと思うのです。


現在に生きる私たちが、
「教育勅語」から学ばなければならないこと


さて、それでは、振り返って見て、現在に生きる私たちはいかがでしょう。

勿論、「他者の価値観を認める」=「自らの考え方を捨てる」ということではありません。
とくに大切なのは、自らの軸となる、しっかりとした形のある考え方をきちんと持った上で、自分とは違う、第三者の考え方をきちんと受け止めるという事。

そして、その上できちんと自らの考え方も相手に伝えながら、お互いの違いを交渉し、高めあうという姿勢を持つということです。

間違えても、相手の考え方を全否定したり、相手の考え方を受け入れず、話を途中で遮ったり、自らの考え方を強引に相手に押し付けたりするような姿勢ではありません。

自らの軸となる考え方を持った上で、相手の話に耳を傾け、相手の考え方を理解しようとする姿勢を持つことが何より大切なのです。

 「朕 爾臣民と倶に 拳々服膺して 咸 其徳を一にせん」

とは、まさにこのような事を伝えようとしているのではないでしょうか。
現在の国会議員、特に野党の面々に、この教育勅語の教えを実践し、天孫の時代より続く天壤無窮の世、「日本」の事を本当に思い、日本という国を「扶翼」しようとする精神を持った政治家がどれほどいるのでしょうか。

この様な精神を持つことで初めて「皇祖皇宗」の時代より続く、「天壤無窮の皇運」の世、即ち「世界」へと思いをはせ、困難に立ち向かう他国の人々の為に「扶翼」する精神を持つことができるのではないでしょうか。

取り分けて民進、社民、共産、自由の面々に対して特に言いたい。
あなたたちのどこに「教育勅語」を貶し、否定する資格があるのかと。

教育勅語に込められている「思い」をぜひ彼らには実践していただきたいものです。

長くなりましたが、これにて教育勅語に関する記事は終了したいと思います。


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<継続する記事>
第288回 教育勅語とは?/教育勅語の現代語訳にチャレンジ

前回に引き続き、私なりの「教育勅語現代語訳」を掲載いたします。

冒頭に原文全文を掲載しておきます。

【教育勅語原文】
朕(ちん)惟(おも)うに  我(わ)が 皇祖(こうそ)皇宗(こうそう) 国(くに)を肇(はじ)むること 宏遠(こうえん)に 徳(とく)を樹(た)つること 深厚(しんこう)なり

我(わ)が臣民(しんみん) 克(よ)く忠(ちゅう)に 克(よ)く孝(こう)に 億兆(おくちょう)心(こころ)を 一(いつ)にして 世々(よよ)厥(そ)の美(び)を済(な)せるは 此(こ)れ 我(わ)が国体(こくたい)の精華(せいか)にして 教育(きょういく)の淵源(えんげん) 亦(また)実(じつ)に此(ここ)に存(そん)す

爾(なんじ)臣民(しんみん) 父母(ふぼ)に孝(こう)に 兄弟(けいてい)に友(ゆう)に 夫婦(ふうふ)相(あい)和(わ)し 朋友(ほうゆう)相(あい)信(しん)じ 恭倹(きょうけん)己(おの)れを持(じ)し 博愛(はくあい)衆(しゅう)に及(およ)ぼし 学(がく)を修(おさ)め 業(ぎょう)を習(なら)い 以(もっ)て智能(ちのう)を啓発(けいはつ)し 徳器(とくき)を成就(じょうじゅ)し 進(すすん)で公益(こうえき)を広(ひろ)め 世務(せいむ)を開(ひら)き 常(つね)に国憲(こくけん)を重(おもん)じ 国法(こくほう)に遵(したが)い 一旦(いったん)緩急(かんきゅう)あれば 義勇(ぎゆう) 公(こう)に 奉(ほう)じ 以(もっ)て天壤(てんじょう)無窮(むきゅう)の皇運(こううん)を 扶翼(ふよく)すべし

是(かく)の如(ごと)きは独(ひと)り 朕(ちん)が忠良(ちゅうりょう)の臣民(しんみん)たるのみならず 又(また)以(もっ)て爾(なんじ)祖先(そせん)の遺風(いふう)を 顕彰(けんしょう)するに足(た)らん

斯(こ)の道(みち)は 実(じつ)に我(わ)が皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)の 遺訓(いくん)にして 子孫(しそん)臣民(しんみん)の倶(とも)に遵守(じゅんしゅ)すべき所(ところ) 之(これ)を古今(ここん)に通(つう)じて 謬(あやま)らず 之(これ)を 中外(ちゅうがい)に施(ほどこ)して悖(もと)らず

朕(ちん)爾(なんじ)臣民(しんみん)と倶(とも)に 拳々(けんけん)服膺(ふくよう)して 咸(みな)其(その)徳(とく)を一(いつ)にせんことを 庶(こい)幾(ねが)う

明治二十三年十月三十日
御名(ぎょめい) 御璽(ぎょじ)

教育勅語

前回の記事では、教育勅語原文の内、冒頭の2文の現代語訳にトライしてみました。

読み方として、特に大切なのは第一文

 「徳(とく)を樹(た)つること 深厚(しんこう)なり」

という言葉なのだと私は思います。
「宏遠」や「深厚」という言葉で表現していますが、ここで記されている「宏遠」とは、その神代の時代からの「歴史」の奥深さを示しており、その時代に「樹つる」「徳」は今なお育まれ、成長し続けていると、そのような意味合いがここには込められているのでしょう。

単に「徳」と記していますが、その「徳」は、皇族の祖先である「皇祖皇宗」、そしてその「皇祖皇宗」が「肇めた」「日本」という国。
ここで歴史を築き上げたその一瞬一瞬に存在していた私たち「臣民」の祖先までをも含め、その全体で育み続けた「徳」。

その意味合いはとても深い物があると思います。

そして、その「徳」こそが私たち「臣民」が心を一つにして実現してきたものであり、「日本」という国のあるべき姿を示すものであという事。そして私たち日本人の「教育」とは、神々がこの世を築き始めた時代より受け継がれ、尚現在の世に於いて私たちが実現している『徳』にこそあるのだと、第二文では表現されています。

そして、その私たち「臣民」が心を一つにして築き上げてきた「徳」を、ここでは「美」であると表現され、その「美」こそ日本という国のあるべき姿、その「真髄」であるとしているのです。

「勅語」ですから、これは明治天皇より当時の日本国民に対して発せられた言葉である、という体裁が保たれています。
教育勅語に於いて、明治天皇は日本国民の事を非常に称賛しているんですね。

その上で、ではその「徳」とは何なのか。
これを列挙しているのが続く第三文。今回の記事の中心となる部分です。


教育勅語の柱

爾(なんじ)臣民(しんみん)

1.父母に 孝に

2.兄弟に 友に

3.夫婦 相 和し

4.朋友 相 信じ

5.恭倹 己れを 持し

6.博愛 衆に 及ぼし

7.学を 修め

8.業を 習い

9.以て 智能を 啓発し

10.徳器を 成就し

11.進で 公益を 広め

12.世務を 開き

13.常に 国憲を 重じ

14.国法に 遵い

15.一旦緩急あれば 義勇 公に奉じ

 以て 天壤無窮の皇運を扶翼すべし

合計で15項目ありますが、これが教育勅語に於いて、明治天皇が「日本の『徳』」であるとして示した内容です。

内容として難しいと思われるのは「恭倹」でしょうか。
辞書で調べますと、

 「人に対してはうやうやしく、自分自身は慎み深く振る舞うこと。また、そのさま」

解りやすく言えば、「謙虚さ」のことですね。


その他、「業」とは「仕事」の事。

「徳器」とは、辞書で調べますと、

 ① 身に備わっている徳行(道徳にかなった行為)と器量(人徳と才能)。
 ② 道徳を守る性質。

とあります。他の訳文を見ますと、「人格」や「徳と才能」などとも訳されています。

本文には「徳器を成就する」とあり、「成就」という言葉を調べますと、これは元々仏教用語であり、「智」と「徳」を完全に身に着けた状態の事、とあります。

「成就」を「向上」というように意訳しているものも見かけますが、この様な内容から考えますと、

「徳器を成就する」とは、
「道徳心と器量を完全に身に着ける」ことを意味しているものではないかと思われます。


「進んで公益を広め」とは、「進んで社会全体の利益の為に貢献する」こと、
「世務」とは、「世の中の務め」の事ですから、「世務」を「開く」とは、世の中の為にできる新しい役割を切り拓くことを意味していると考えられます。

そして最終項目である

 「一旦緩急あれば 義勇 公に奉じ 以て 天壤無窮の皇運を扶翼すべし」

とは、第287回の記事 でお伝えした通り。

「ひとたびこの国に危急の事態が発生すれば、正義の心と勇気をもって公の為に身を捧げ、神代の時代から続くこの国が将来に亘って繁栄できるよう、その一助ととなりなさい」

といった意味合いでしょうか。第287回の記事 でも述べたように、福島瑞穂や共産党、民進党など、教育勅語を否定する人たちは、この一文を以て教育勅語全体を否定しています。

ですが、この言葉を現代に置き換えて考えれば、

東日本大震災のような、この国の将来に亘る運命を左右しかねない緊急の事態が発生した場合、正義の心と勇気をもって、自分自身の生活や仕事をさておいてでも、被災地で苦しむ人々の為に奉仕し、この国が安定して繁栄し続けられるよう、その助けとなりなさい

というような意味合いになると、そう考えるのがごく当たり前の視点なのではないでしょうか。
そうならないのはなぜか。日本が第二次世界大戦に於いて、アジア地域に対する侵略行為を行い、従軍慰安婦や南京大虐殺などの事件を引き起こし、特に中韓に対して迷惑をかけ続けたのだとする誤った「思い込み」があるからです。

また更に、私が行った「第287回の記事」の解釈でも尚、この「教育勅語」の解釈としては実にお粗末なものである・・・ということを、改めて全文を訳していて気づかされました。

では、この様な認識を踏まえて改めてこの教育勅語の柱となる部分について、私なりの「現代語訳」を記したいと思います。

あなたたち日本国民は、

1.お父さん、お母さんの為に孝行し

2.兄弟姉妹は仲良くし

3.夫婦はお互いを認め合い

4.友達はお互いを信じあい

5.他者をを尊敬し、自分自身は慎み深くする気持ちを持ち

6.他人を差別する気持ちを持たず、広く平等に人を愛する気持ちを持ち、

7.学問を身に着け、

8.仕事を教わり、

9.そうして自分自身の知識や才能を切り開き、

10.他者を思いやり、人の為に行動することを当たり前のこととしてできるようになり、

11.進んで社会全体の利益の為に行動し、

12.世の中の為にできる新しい役割を発見し、

13.常に憲法を重んじ、

14.法律に従い、

15.ひとたび日本国に危機が迫れば、正義の心と勇気をもって公の為に尽くし、

そして人類誕生の時代から続くこの国の将来のために貢献する気持ちを忘れないでください

いかがでしょう。

ひょっとすると原文に記している段階で気づかれた方もいらっしゃるかもしれませんが、一節。即ち、福島議員が稲田さんを攻撃していた

 「一旦緩急あれば 義勇 公に奉じ 以て 天壤無窮の皇運を扶翼すべし」

というフレーズですが、この後半部分、「以て 天壤無窮の皇運を扶翼すべし」とは、 「一旦緩急あれば 義勇 公に奉じ」という言葉のみにかかる言葉ではありません。

じっくり見てみればわかることですが、「以て 天壤無窮の皇運を扶翼すべし」とは、私が番号を振っている1番~15番までの項目全てにかかる言葉です。

自力で現代語訳を行わなければ、私もまた誤った解釈のまま今後も教育勅語を語っていたかもしれませんね。

国語的な解釈をすると、

「天壤無窮の皇運を扶翼すべし」の主語は「爾 臣民」であり、「爾 臣民」の述語が「天壤無窮の皇運を扶翼すべし」ですね。
1~15は全て「天壤無窮の皇運を扶翼すべし」の修飾語。

「臣民」は、1~15の「徳」を実践することによって、「天壤無窮の皇運を扶翼」しなければならない、ということが記された文章です。誤った教育を受けた人は、ひょっとすると

 なんで「天壤無窮の皇運を扶翼」しなければならないんだ!

と思う人もいるかもしれませんが、日本の成り立ちや歴史をきちんと理解している人であれば、そう抵抗を覚えることはないはずです。戦前は、海外に於いて、ごく当たり前に戦争が行われていたので、「ひとたび日本国に危機が迫れば、正義の心と勇気をもって公の為に尽くし」と教えられると、その選択肢として「戦争」という選択肢も含まれていたでしょうが、現在の日本に於いて、国民の中に「戦争」という選択肢は存在しません。

「正義の心と勇気」を以て、「公の為に尽く」さなければならない「危機」とは、現実的に考えて「大規模災害」しか考えられないはずです。にも拘らず、これを強引に「戦争」につなげようとする人々の頭の中は、一体どのような構造になっているのでしょうか。

考え方としては、「緊急事態条項」と一緒です。

緊急事態条項もまた、自民党が、「国民保護法」に於いて、本来であれば日本が戦争状態に陥らなければ宣言することができない「緊急事態宣言」を、大規模災害時にも行えるようにし、より速やかに救済・救援活動をおこなえるようにすることを目的とした憲法改正案なのですが、民進・共産・社民・自由党の面々は、「安倍内閣が戦争を行えるようにするための準備だ」と盛んに喧伝しています。

教育勅語批判も一緒です。内容を現代の社会システムに置き換えて考えれば何の疑問も発生しない内容を、まるで現在が戦前でもあるかのようにして考えるからおかしくなります。


さて。次回記事では、最後の残る3つの文章に関して記事にしたいと思います。


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