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第355回 ブレスト=リトフスク条約締結~第一次世界大戦終結後のロシア

前回の記事では、主にロシア内戦の様子を中心に、トロツキーやレーニンが内戦中に行使した「戦時共産主義」について記事にしました。

この後、レーニンは急速に健康を害し、1924年1月21日、レーニンはその人生を閉じるわけですが、これまでの功績やレーニンとの信頼関係を考えると、レーニンの後を継ぐのはやはりトロツキーであるべきだと考えられるわけです。

ですが、レーニンの後を継いだのはトロツキーではなく、ヨシフ・スターリンであったわけです。

今回の記事では、なぜレーニンの後を継いだのがトロツキーではなくスターリンであったのか。この謎に迫る形で記事を作成したいと思います。


スターリンという人物

スターリン

現時点で記事を作成している目的は、レーニンの作った「コミンテルン」という組織が世界に与えた影響を調査することを一つの目的としているわけですが、「コミンテルン」そのものを追いかけようとすると、やはりその中心人物であるレーニン、そしてレーニンの後を引き継いだ「スターリン」の両名を追いかける必要があると考えています。

前回の記事では、コミンテルンを結成した後のレーニンについて追いかけたわけですが、彼は1924年1月にはその生涯を閉じてしまうこととなります。

こうなると、問題となるのはロシア共産党やコミンテルンがレーニンからスターリンに引き継がれていく過程を追いかけることで見えてくるものがあるのかな、と思っています。

既に記載しています通り、レーニンの事を一番理解していた人物はトロツキーであり、レーニンが最も信頼を置いていた人物はトロツキーでした。トロツキーは実際に有能でしたし、仮にロシア共産党の党首として選ばれたとしても、非常に全くそん色のない人物であったと考えられます。

ですが、なぜかレーニンの後を引き継いだのはトロツキーではなくスターリンであった。
これまでレーニンやトロツキーについてはたびたび記事に掲載していますので、まずは「スターリン」という人物の為人や経歴等を追いかけてみます。

ただ、スターリンの情報に関しては、彼がロシア共産党書記長となって以降の情報がほとんどで、レーニン体制下のスターリンに関する情報はあまり出て来ません。特に客観性のある情報の乏しいのが難点です。

まず間違いのない情報として、スターリンは「ロシア帝国占領下のグルジアで生まれたグルジア人」であるということ。

レーニンは学者の息子で、トロツキーは地主の息子と、比較的恵まれた環境に育った(共にユダヤ人)であるのに対して、スターリンの父親は靴職人。母親も農奴出身で、スターリンは貧しい家庭に生まれ育ちました。

スターリンの地元は元々荒々しく暴力的な地域で、彼の父親も酒を飲むと母親やスターリンに暴力をふるうような、そんな家庭であったようです。

スターリン自身はグルジア正教会からの推薦を受け、10歳の時に聖職者を要請するための神学校に進みますが、父親はこれに反対。また教会自体もグルジア人には差別的。彼自身も事故を経験するなどし、決して楽な環境ではなかったわけですが、彼はやがて優等生として認められていくことになります。

ですが、トロツキーやレーニンがそうであったように、スターリンもまた在学中にマルクス主義に傾倒し、「神学」に対する疑問を抱くようになります。

トロツキーは、もともとナロードニキ(マルクス主義が入ってくる前のロシア帝国の社会主義者)であったため、最初からマルクス主義に傾倒することはなかったのですが、スターリンはそうではなく、やがて神学校を退学します。

レーニンやトロツキーは機関誌を発行したり、党や団体を指揮するなど、「指導者」としての立場で革命にかかわっていくわけですが、スターリンはそうではありません。

スターリンの場合はもっと小さな組織。製油所の労働者を組織したり、ボリシェビキの中の一部隊を指揮したり、レーニンやトロツキーよりも器の小さな組織を操っているようなイメージを受けます。

やり方もどちらかというと姑息で、人を揺すってお金を巻き上げようとしたり、銀行強盗をしたり、強奪をしたり・・・と、犯罪を行ってお金を集め、これをレーニンに渡してレーニンの支持を得ていくような、そんな構図ができています。

1907年にロンドンで開かれたロシア社会民主労働党第5回大会で彼は初めてトロツキーと出会うわけですが、この時のトロツキーに対する印象もあまりよくなかったようで、後にレーニンの下、トロツキーとスターリンは重用されるわけですが、その後もスターリンはトロツキーのやり方に悉く異を唱えていたようです。


スターリン対トロツキー

両者の対立が表面化するのは、10月革命後、ロシア内戦が勃発した後のことです。

これに対処するため、レーニンは「ソ連共産党政治局」を組織します。構成メンバーは

 レーニン
 レフ・トロツキー
 ヨシフ・スターリン
 レフ・カーメネフ
 ニコライ・クレスチンスキー

の5名。当時の中央委員会の中心メンバーだった5名です。世事局は全ての主要な政治的決定を行うことにより、迅速な意思決定を行えるように設置されたものですね。

言い換えれば、トロツキーとスターリンはともに当時のロシアを含む「ソ連」の最高意思決定機関に配属されたようなもの。
ここにおいて元帝国支持者の扱い方をめぐってスターリンはトロツキーと対立します。

トロツキーはたとえ元帝国支持者であっても、その専門的知識を生かそうとしましたが、スターリンは彼らを信用せず、逆に殺害を命じます。

スターリンはレーニンに対してトロツキーの解任を求めますが、逆に彼のとった戦略が不必要な犠牲者を生んだとして彼はレーニンからも批判されることになります。

スターリンはポーランド戦ではレーニンやトロツキーの戦略と衝突し、最高司令官であるカーネメフの命令を拒否するなどしたため、党大会でトロツキーから痛烈に批判されます。


ソビエト連邦共産党初代書記長

ターニングポイントとなるのはここですね。

ロシア内戦が落ち着いた後、1920年後半になると、トロツキーはレーニンに対して国内の生産部門に対する共産党の独裁体制を築く必要性を訴えます。レーニンはトロツキーのこの意見に対する支持基盤を築くよう、スターリンに求めます。この結果、実際、1921年3月の第10回党大会でレーニンの支持基盤は優位な立場を得ます。

ですが、レーニンはこの時自分自身の方針を通すための困難さを感じました。

各地方の共産党委員会を指導する立場にあったのが「責任書記」。カーネメフはレーニンに対してこれらの責任書記を取りまとめる「書記長」という役職を新設することを進言しました。そして、初代書記長に任じられたのがスターリンでした。(1922年4月3日)


結構調べるのに時間がかかっていますので、まずはここまでを「前半」として締めくくりたいと思います。
この後、レーニンは体調を崩し、やがて「死」へと向かって歩みを進めていくことになるのですが、このようなレーニンの歩みの裏側で、「スターリン」と「トロツキー」が対立し、謀略が繰り広げられていく様子を次回記事では掲載したいと思います。



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第352回 ドイツ共産党が起こした「三月行動」とコミンテルンの関わり

前回までの記事では、ロシア革命後のロシアで結成された「第三インターナショナル=コミンテルン」が、一番最初に「支援」を行ったとされる「ドイツ革命」の様子を検証してみました。

コミンテルンがドイツ革命に対して行った支援とはいったいどのようなものだったのか。

これを実行したのはコミンテルンが派遣したハンガリー人クン・ベーラ。
クン・ベーラが介入する以前に、コミンテルンはドイツ共産党中央委員会に働きかけ、当時議長を務めていたパウル・レヴィを組織的に失脚させ、ここに指導者としてクン・ベーラを送り込みます。

クン・ベーラはドイツ共産党の新たなる指導部に働きかけ、当時のドイツの首都、ワイマールに隣接する都市「マンスフェルト」で武装蜂起を起こさせます。

マンスフェルトの占領に一時的には成功するものの、たった3日間で国防軍によって鎮圧されてしまう・・・という非常にお粗末な結果に終わりました。

ともあれ、これが初めてコミンテルンが支援した「共産主義革命」の顛末です。

三月行動が失敗した後、三月行動を批判したパウル・レヴィは共産党そのものから除名され、その後コミンテルンは方針転換し、ドイツ共産党は過激な行動を控えるようになった・・・とWikiベースでは記されています。


今回の記事では、改めてロシア国内におけるコミンテルンの動向に着目してみます。

しかしこの時期のロシア、「ロシア」と呼ぶべきか、「ソ連」と呼ぶべきか・・・迷いますね。


第一次世界大戦後のロシア

第347回までの記事 に於きまして、ロシア革命後の「ウクライナ」の歴史についても振り返りました。

年表で振り返りますと、

ウクライナが中央同盟軍との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結させたのが1918年2月9日。

ロシアが中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」に締結したのが1918年3月3日。

中央同盟国が連合国軍に敗北したのが1918年11月13日。

ドイツ共産党が誕生したのが1919年1月1日。

ポーランド・ソビエト戦争が勃発したのが1919年2月。

レーニンがコミンテルンを結成したのが1919年3月。

ドイツ共産党が三月行動を起こしたのが1921年3月

と、こんな感じです。

ドイツ共産党が誕生するまでの間でも、各国で共産党が結成されていましたから、コミンテルン結成が目的としていたのは、これらの地域での共産革命の支援です。

ロシアで起こった事を東欧を中心とした各地で再現しようとしたんですね。
1918年3月3日、ブレスト=リトフスク条約に署名し、世界大戦から手を引いた後、ボリシェビキはその党名を「ロシア共産党」へと改名しました。

3月3日、対外戦争そのものは終結したわけですが、ドイツとの間で締結したブレスト=リトフスク条約によって、ロシアはドイツに対して圧倒的な譲歩を強いられたわけです。

この事から、第347回の記事 でも掲載しました通り、この事でボリシェビキ政権はロシア国内のあらゆる階層から非難の的に晒されることとなります。

その典型的な事例が、これまで連立して内閣を構成していた社会革命党左派の政権からの離脱、及びボリシェヴィキに対する武装蜂起、1918年8月30日のレーニン暗殺未遂事件です。

レーニン暗殺の犯人だとされた社会革命党右派は弾圧の対象とされ、実際には事件とは無関係の512人の政治家や軍人が処刑されました。

ロシア国内は赤軍(共産派)と白軍(反ボリシェヴィキ派)に別れて内戦状態に突入しました。

ロシア内戦

ドイツが連合国軍に敗北すると、連合国軍は白軍に味方し、赤軍との間で干渉戦争に突入します。

ドイツが撤退した後の空白地域に共産党を結成することを目的としてレーニン自身も赤軍を送り込んでいますね。

結果的にロシア内戦では赤軍が勝利するわけですが、この赤軍を組織したのがトロツキー。
・ボリシェヴィキはロシアの人口稠密(過密)地帯を支配しており、1921年には数百万人もの兵士を徴兵により募兵することが可能であった。それに対し白軍の兵力が25万人を超えることはなかった。

・ボリシェヴィキの支配地域にはロシアにおける主要工業地域が含まれており、武器の供給においても圧倒的な有利にあった。

・鉄道の路線も赤軍が支配しており兵士・装備の輸送を効率的に行えた一方で、白軍は互いに分断され、政治的、民族的に見ても統合される可能性はほとんどなかった。

・白軍の司令官は帝政時代の貴族や地主が大半であり、彼らは占領地で旧体制の復活を望み農民から土地を取り上げたため民衆からの支持を失った。(Wikiより)

赤軍の置かれた立場はこのような状況にあったわけですが、更に。
レフ・トロツキーはブレスト=リトウスク条約調印後の1918年に軍事担当の人民委員に任命された。彼は優れた演説家であるだけでなく、赤軍の組織化にも才能を発揮した。

コルニーロフによる反乱の際に暫定政府によって組織化された赤衛軍を基として、徴兵により赤軍を作り上げた。

彼は列車を駆使し各地を回り赤軍の士気を高めることに成功した。彼の取り決めた規律は厳格を極め脱走兵は直ちに射殺された。

軍の忠誠を維持するためにボリシェヴィキの任命する政治将校が設けられるようになった。

トロツキー自身は軍事作戦に直接関与せず、赤軍に参加していた75,000人もの士官たち、その多くは職業軍人が白軍との戦闘を指揮した。(Wikiより)

要はトロツキーは軍を組織する能力も非常に有能であった、ということですね。

こうしてみると、ロシア革命ってトロツキーがいなかったらどうなってたんだろう・・・と思わずにはいられません。
10月革命も、あそこまで穏やかに収束させることができたのはトロツキーのおかげで、若しレーニンだけしか行かなかったら、もっと凄惨な結果になっていたのではないか・・・と思わずにはいられません。

これは、レーニンがそういうものを望んでいた、というより、たぶんそういう方法しか思いつかなかったんじゃないかという想像からです。ドイツ共産党による三月行動において、クン・ベーラが行った革命の様に・・・。

ただ、実際に内戦で行われた戦闘行為は凄惨なものであったようです。
ここもWikiから引用します。
内戦中赤軍と白軍、両軍の手により一家離散を余儀なくされる民間人も珍しくはなかった。

片方の軍が残虐行為を働くと、もう片方もそれに劣らない報復行為に及んだと言われている。

レーニンの下で誕生した秘密警察チェーカーは令状も無く無制限に市民を逮捕できたため、多くの人々が無実の罪を着せられて処刑された。

また、この時取られた経済政策「戦時共産主義」に関しても同様の傾向がみられます。

1920年から1921年にかけて発生した旱魃が事態を更に悪化させた。

レーニンは市場経済廃絶のために飢餓に苦しむ地域に救援の手を差しのべるどころか逆に食料を強制的に徴発し、多くの餓死者を出した。

革命勃発からわずか数年の内に、およそ800万人が死亡したと推定されている。

この800万人という数字は経済政策のみによるものではなく、戦闘行為まで含まれるものと思われます。

この中で発生したのがあの「尼港事件」です。

尼港事件(リンク先最下部)

尼港事件で焼け落ちた日本領事館

内戦そのものは、ポーランド・ソビエト戦争が終結し、ここに投じられていた赤軍が投じられたことで赤軍側の勝利に終わりました。(1920年11月)


内戦終戦後のロシア

内戦により疲弊したロシア経済を救うため、レーニンがとった経済政策が「ネップ」と呼ばれる経済政策です。

戦時共産主義政策では軍隊に武器と食料を回すため、旱魃に襲われた状況の中でも民間から余剰穀物を強制的に徴収し、ロシア全体を飢餓状態に陥れたわけですが、今度はその余剰穀物に「食料税」を課し、税金を納めた後は自由に売買をしてよい、というルールを作ります。商業も一部認められたのだそうです。

資本主義を否定した共産主義ですが、内戦後のロシアではその「資本主義」の制度が導入されたんですね。

レーニンはこれを「国家資本主義」と呼称したのだそうです。

一方でレーニンは子供のころからロシア正教会=宗教の腐敗ぶりを目の当たりにしており、大人になったレーニンは「マルクス主義」を信仰する「無神論者」だったのだそうです。彼はロシア正教会を「反革命の温床」とみなしていたんですね。

1922年3月、教会の財産の接収に反対するデモで死者まで発生したことを受け、レーニンはロシア正教会の弾圧へと突き進みます。以下、Wikiからの引用です。
1922年3月、イヴァノヴォ州シューヤで発生した教会財産接収に反対するデモが暴徒化した。

死者まで招いたこの事態に憤慨し、3月19日にロシア正教会の弾圧を指示。

『これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない』

と厳命した

実際に弾圧された教会はロシア正教会に限らず、イスラム教のモスクまで弾圧の対象となったのだそうです。


さて。レーニンは暗殺未遂の後遺症もあり、この頃から徐々に健康を害していくようになります。

今回の記事は「前半」としてここまでとし、次回の記事は「グルジア問題」と「レーニンの死」、そしてレーニンの死後のロシアについて記事にしてみたいと思います。


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第351回 ドイツ革命の経緯(ワイマール共和国の誕生)

前回まで記事では、レーニンが提唱し、設立した「第三インターナショナル=コミンテルン」について、ヨーロッパを中心とする世界各地で発足する「共産党」。

その発足後の武装蜂起の支援に関しまして、コミンテルンが初めて具体的な支援を行ったとされる「ドイツ革命」に関しましてそれでは「ドイツ革命」とは何ぞや、という視点でしばし記事を作成しました。

ドイツ革命の流れとしては、
<1.ドイツ第一次世界大戦において元々短期決戦を考えていたが、想定が外れ長期化してしまった。

2.この状況を打開するため、「総力戦体制」が取られ、結果として働き手を奪われたドイツでは極度の食料不足に陥った。

3.戦局の悪化と共に、ドイツ国内において「平和」と「食料」を求める「デモや暴動」が頻発するようになった。

4.ロシアにおける二月革命の成功を受け、ドイツ各地において「ストライキ」が勃発する。

5.1918年10月29日、ドイツ大洋艦隊の水兵達約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、逮捕される。

6.逮捕された水平たちが送られたキール軍港に駐屯していた兵士たちが逮捕された水平たちの釈放を求めて行ったデモ隊に対し、官憲が発砲。デモは一気に武装蜂起へと発展する。

7.11月4日、労働者・兵士レーテが結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧。西部ドイツが一気にレーテの支配下に入る(レーテ蜂起)。レーテ蜂起はドイツ全土に広がり。

8.1918年11月9日、社会民主党員のフィリップ・シャイデマンが議事堂の窓から身を乗り出して独断で共和政の樹立を宣言することによってドイツは共和制へ移行。ヴィルヘルム二世は亡命し、後日退位を表明する。

9.ドイツは「人民委員評議会」と「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」の二重権力構造へと陥る。

10.11月11日、ドイツは連合国との間で休戦協定を結ぶ。

11.1919年2月6日、ワイマールにおいて「ワイマール憲法」が制定され、国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認される。

12.1919年6月28日、ドイツは第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」に調印。

13.1920年3月13日、右派政治家であるヴォルフガング・カップによって、「カップ一揆」と呼ばれるクーデターが勃発。ベルリンが制圧され、新政府樹立。これに対し、ドイツ政府は「ゼネラルストライキ」にて対抗する。

14.ルール地方では労働者・兵士たちが結束して「ルール赤軍」を結成。1920年3月末までにルール地方全土を占領(ルール蜂起:4月6日、政府側軍隊によって壊滅)。

15.社会民主党は信認を失い、中央党・ドイツ民主党・ドイツ人民党の3党が内閣(コンスタンティン・フェーレンバッハ内閣)を結成。(1920年6月2日)

と、この様な流れです。

この後姿を見せるのが「ドイツ共産党」。本日のメインテーマです。

ドイツ共産党発足の経緯

第351回の記事 でもご紹介しましたが、ドイツ共産党は「スパルタクス団」と呼ばれるドイツのマルクス主義者たちが構成する政治集団が母体となって結成されました。

「スパルタクス団」はドイツ社会民主党左派から更に分裂した「グルッペ・インターナツィオナーレ」によって結成されたものです。

当時獄中に捉えられていた「ローザ・ルクセンブルク」という女性の提案によって作成されることとなった非合法の小冊子『スパルタクス書簡』では、グループ全員がペンネームとして「スパルタクス」という名称を用いていたことから、彼女らのグループは「スパルタクスグループ(スパルタクス団)」として知られる事となりました。

ルクセンブルクらが元々所属していた政党は「ドイツ社会民主党」だったわけですが、このドイツ社会民主党の左派がここから分裂して「独立社会民主党」を結成。スパルタクス団もここに合流するのですが、この「独立社会民主党」より更に革命路線を目指す「極左」勢力が結成しのが「ドイツ共産党・スパルタクス団」でした。

1919年1月1日の事です。

1月5日にはスパルタクス団による「スパルタクス団蜂起」なるものも勃発するわけですが、これは元々武装蜂起を意図していたものではなく、「デモ」を呼びかけたものだった事、そして集まったメンバーが想定していた以上に大量に集まってしまった事などから、統率がうまく行かず、政府が結成した義勇兵によってあっという間に鎮圧されてしまいます。

この時行われた義勇軍と武装した労働者たちとの間で武力衝突が起こり、無関係な市民も多数巻き込まれたのだそうです。
Wikiベースの情報ではありますが、この時鎮圧に拘わった義勇兵が後のドイツ政治に対して大きく影響を与えていくこととなるのだそうです。


パウル・レヴィ

スパルタクス団蜂起において、スパルタクス団の指導者であったローザ・ルクセンブルクら多くのドイツ共産党指導者たちは政府義勇軍兵士によって「私刑」の名の下で惨殺されます。

彼女らに代わって共産党を指揮する立場となったのがサブタイトルにある「パウル・レヴィ」という人物です。

パウル・レヴィ

掲載されている情報を読んでいきますと、どうもロシアのレーニンらと親交があったのはこの人物。
彼はどうも極左が集うドイツ共産党の中においても比較的穏やかな人物であったようで、スパルタクス団蜂起そのものにも否定的で、蜂起後、党首に就任した後は同党内の極左派を除名処分にしてしまいます。

この時除名されたメンバーは「ドイツ共産主義労働者党」を結成します。

「広範な層の労働者との連帯」を意図していたのがレヴィ、「直接的な革命」を目指していたのが除名されたドイツ共産主義労働者党のメンバーであった、という構図です。

彼は、イタリア共産党結成をめぐる騒動の中でイタリア共産党結成にコミンテルンの支持するイタリア指導者を支持しなかったことから、ドイツ共産党の中央委員会に置ける投票権を失い、彼の支持者共々中央委員会を退陣することになります。

この時コミンテルンよりドイツに派遣されてきていたのがクン・ベーラというハンガリー人です。

クンベーラ


ドイツ共産党による三月行動とコミンテルン

漸くたどり着きましたね、「三月行動」。

そもそもなぜイタリア共産党結成における絡みでパウル・レヴィはドイツ共産党議長の座を追われることとなったのでしょう。

レヴィがコミンテルンの行動に反対する立場にある人物(ジアチント・メノッティ・セッラティ)の支持を表明したのは、イタリア社会党の党会議に於いての事。コミンテルンは、イタリア社会党を分裂させ、そこからイタリア共産党を誕生させようとしていたわけですが、レヴィはこれに反対していたんですね。

そして、レヴィを組織的に失脚させたのが「コミンテルン」。レヴィが失脚したドイツ共産党を指導したのがコミンテルンより派遣されたクン・ベーラ。彼は、ドイツ共産党に対し、ドイツの「マンスフェルト」という都市で武力蜂起を起こさせます。

マンスフェルト

ちなみにこの当時の首都、「ワイマール」がここ。
ワイマール

実際に3日間、都市を占拠することに成功するのですが、それもたった3日間。その後、あっという間に国防軍によって鎮圧されてしまいます。(1921年3月:三月行動)


しょぼっ・・・と思われた方もいらっしゃるかもしれません。私もそう思います。

多分、当時のコミンテルンの皆さんもそう思ったのでしょう。同年6月に開催された第三回コミンテルン世界大会においてクン・ベーラは痛烈に批判され、後にスターリンの下で「大粛清」に巻き込まれ、銃殺されることとなります。

この時はまだレーニンは健在な時代。
パウル・レヴィはこの三月行動をパンフレットにおいて大批判するわけですが、この事が理由で彼はドイツ共産党を除名されてしまいます。

ですが、レーニンやトロツキーは、実は彼の行った批判に対し、賛同する意思を示していました。レーニンは彼に書簡を送り、
「規律違反」による除名を受け入れ、除名された後もKPDに親しく接し、階級闘争に際しては誠実な方法で同党と共闘すれば、復党に尽力する

ことを約束します。

ですが、レヴィはこれを受け容れず、レーニンからもそっぽを向かれてしまうこととなります。


さて。ですが、よく考えていただきたいのです。レーニンやトロツキーの行った「ロシア革命」は、私の事前の予想を大きく裏切り、非常に平和的に、誰一人死者を出すことなく、非常にあっさりと成し遂げられてしまいましたね?

これはトロツキーの機転によるものが大きかったわけですが、ではクン・ベーラが始動した「三月行動」はどうであったでしょうか?

実はクンベーラはハンガリー革命の指導者。ハンガリー革命では12万の軍隊が武力衝突していますから、死傷者の数も推して知るべしです。こう考えると、レーニンやトロツキーがレヴィに賛同したのも何となく理解できますよね。

さて。「コミンテルン」をめぐる今回のシリーズ、次は再び舞台を「ロシア」に戻したいと思います。


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第350回 ドイツ革命の経緯(レーテ蜂起)

前回の記事では、今回のカテゴリーに関連して、レーニンたちが結成した「コミンテルン」が初めてその影響を与えるに至った「ドイツ」。

ここで勃発した「ドイツ革命」について、主にその「前半」ともいえる部分を掲載しました。

今回の記事では、ここから更にドイツ皇帝/プロセイン国王であったヴィルヘルム二世の退位と「ワイマール共和国」まで話題を進められればと思います。

ヴィルヘルム二世の退位

ヴィルヘルム2世
今回のカテゴリーの目的の中の一つに、「共産党」という組織に内在する残虐性を追いかけることも含まれているわけですが、彼らの行う「市民革命」の中には、「帝国主義」から「共和制」への移行という目的も含まれています。

ですから、「ドイツ革命」においても、この「帝政崩壊」というものが一つの課題になるのかと思い、あえてピックアップしてみました。

キール軍港から始まるレーテ蜂起によって、一部都市では既に皇帝を退位させ、共和制の敷かれた年もあるわけですが、ドイツ全体でもやはり同様の事が起こります。

ほんと、ロシア革命とよく似ているのですが、ドイツの帝政が崩壊する過程においても、やはりロシアと同じように労働者や市民がパンを求めてデモを起こします。

ただ、このタイミングで支配層側はこれまでの様に群衆に向けて発砲するようなことはせず、首相であったマックスマックス大公子がヴィルヘルム二世に退位を迫るなどし、暴力に依らない方法がとられています。

血気にはやる民衆側の勢いが収まることはなかったのですが、結果的に社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトのそばにいた社会民主党員のフィリップ・シャイデマンが議事堂の窓から身を乗り出して独断で共和政の樹立を宣言することによって共和制への移行が成し遂げられました。(1918年11月9日)

ドイツ共和制宣言

同じ日にヴィルヘルム二世は亡命し、後日退位を表明。

11月10日には社会民主党、独立社会民主党(USPD)、民主党からなる仮政府、「人民委員評議会」が結成されたわけだけど、労働者や兵士たちが結成した「レーテ」はこれを承認しながら、「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」なるものを選任し、ここにドイツの最高権力を与え、二重権力構造が生まれる・・・と。

このあたりもロシア革命とそっくりですね。


今回は「ドイツ」について調査することが目的ではなく、ここにコミンテルンがどうかかわっていくのか、ということを探ることが目的ですので、少し端折ります。

この様な状況の中で、第一次世界大戦に関してドイツは連合国との間で休戦協定を結びます。(11月11日)

しかし・・・これまで中国やロシア、またはヨーロッパにおける市民革命の様子をずっと見て来たからかもしれませんが、どうもドイツの革命の様子は、非常におとなしいですね。

この後、ドイツのマルクス主義者たちの政治集団である「スパルタクス団」が「ドイツ共産党(KPD)」を結成。
同じスパルタクス団による「一月闘争(スパルタクス団蜂起)」なども勃発し、実際に射撃戦なども行われるわけですが、結構あさりと鎮圧されてしまいます。

11月19日には国民議会選挙が実施され、社会民主党が第一党を獲得。2月6日、ワイマールという都市で国会が召集され、国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認されます。

この時制定された憲法が「ワイマール憲法」。当時世界で最も民主的である、とされた憲法ですね。
「大統領の権限の強い共和制、ドイツ帝国諸邦を基にした州(ラント)による連邦制、基本的人権の尊重が定められた」とされています。

「ドイツ帝国」が崩壊した後、「ワイマール憲法」の下で成立した共和制国家の事を、「通称」ワイマール共和国、と呼ぶのですね。
正式名称は「ドイツ国」であると。

非常にあっさりと出来上がってしまいます。

1919年6月28日、ドイツは第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」に調印します。
この時ドイツが調印させられた内容が以下の通りです。

ラインラントへの連合軍駐屯、陸軍は10万人を上限とするなどの軍備の制限、植民地とエルザス=ロートリンゲン、上シュレージエンなどの割譲、ザール地方の国際連盟による管理化、ダンツィヒ(現・グダニスク)の自由都市化などの領土削減が行われた。

また経済面でも連合国側の管理機関がドイツに設置される事になり、飛行機の開発・民間航空も禁止された。そして戦争責任はドイツにあることが定められた。中でもドイツを苦しめる事になるのが、多額となると見られる賠償金であった。この条約はドイツ国民に屈辱を与え、ヴァイマル政府に対する反感の元となった。

経済的な側面でいうと、多額の賠償金や産業の停滞が原因で政府の税収が減り、これをドイツ政府は「紙幣の増刷」という方法で対応したため、市場は次第に「インフレ」に見舞われるようになります。

物資やサービスが不足する中で紙幣増刷を行えば、当然そうなりますね。

この事から、左派勢力によるストライキや暴動が頻発するようになり、レーテ蜂起において帝政が崩壊した都市バイエルンでは、更にバイエルン州政府が共産党によって倒され、「バイエルン・レーテ共和国」が発足。(バイエルン革命:1919年4月6日)

しかしすぐさまワイマール共和国政府派遣された軍隊等によって壊滅させられ、たった1カ月で崩壊。

で、この時崩壊前に共産党によって人質に取られた人々が虐殺され、更に崩壊後、バイエルン占領軍によってレーテ共和国に拘わった人々への虐殺行為がいたるところで行われたのだそうですよ。


本論とは少し外れるのですが、レーテ共和国が崩壊した後のバイエルンでは、「右傾化」が進んでいきます。
「右傾化」って、要は国家主義者たちの事ですね。共産主義は最終的には「国家」そのものを否定しているわけですが、国家主義者たちは「国」や「民族」としてのプライドやほこりを大切にしていたのでしょうか。

そして、そんな混乱の中、「バイエルン」という土地で生まれたのが「国家社会主義ドイツ労働者党」=「ナチス」でした。
こうしてみると、彼らが「共産主義者」を否定するようになった経緯も何となく見えてきますね。

まあ、この話題は後に掲載する予定の「ドイツ」に関するカテゴリーで掘ってみたいと思います。


カップ一揆


カップ一揆

1920年3月13日には、ヴェルサイユ条約締結に反対した右派政治家であるヴォルフガング・カップによって、「カップ一揆」と呼ばれるクーデターが勃発。ベルリンが制圧され、新政府樹立が宣言されます。

ところが、これに対してドイツ政府がとった方法は、「ゼネラルストライキ」。
つまり、労働者が結束して「働かない」ことを呼びかけました。カップは「右派政治家」ですから、政府の呼びかけに応じたのは「左派」であったということです。この結束力に驚かされますね。

そういえば、ドイツに「ハイパーインフレ」を引き起こす原因となったのは、「ルール占領」。フランスおよびベルギーによってドイツの生産拠点であったルール地方を占領されたこと。この時もドイツ政府は労働者たちにストライキを呼びかけ、代わりに紙幣をばらまいたことが「ハイパーインフレ」を引き起こすこととなります。


ルール蜂起

「ルール占領」が行われるのは1920年12月26日の事なのですが、それ以前に同じルール地方で、カップ一揆におけるゼネストに参加した労働者立による「ルール蜂起」という事件も起きています。

右派政治家であるカップが起こした「カップ一揆」を受け、今度はドイツ左派政党が結束し、共産党、独立社民党、社民党が共同声明の中で「プロレタリア独裁による政治権力の実現」を目標とすることを宣言します。

これを受けてルール地方では労働者・兵士たちが結束して「ルール赤軍」を結成。1920年3月末までにルール地方全土を占領してしまいます。

これに対し、共和国側は軍隊を派兵し、4月6日にはルール赤軍中枢であるドルトムントに到着し、ルール赤軍を壊滅させました。


これらの混乱を通じ、ワイマール政府において中心的な役割を果たしてきたドイツ社会民主党はやがて国民からの信認を失いはじめます。

選挙によって大きく議席を失い、社会民主党に代わって中央党・ドイツ民主党・ドイツ人民党の3党が内閣を結成することになります。

さて。このような中で1921年3月。ついにドイツ共産党が姿を見せることになります。


次回記事では、ドイツ共産党が起こした「三月行動」とコミンテルンの関わり合いについて記事にしてみたいと思います。


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<継承する記事>
第349回 第三インターナショナル=コミンテルンの発足

前回の記事では、レーニンやトロツキーが発足させた「第三インターナショナル」=「コミンテルン」は、一体どのような組織だったのか、何を目指そうとしていたのか。これを途中まで記し、「ドイツ革命」を通じてその過程を検証することをお約束し、記事を終えました。

今回の記事では、第一次世界大戦末期に勃発した「ドイツ革命」の経緯と、革命においてコミンテルンがどのようにかかわったのか。
そして「コミンテルン」そのものの思想の変動についても記事にしたいとおもます。


「共産主義」と「社会主義」

「共産主義」と「左翼」 のカテゴリーの中で幾度も触れてきたテーマでもあります。

第161回の記事 の中で、この問題について私の中では一つの決着をつけたつもりではいたのですが、どうもこの「共産主義者」と「社会主義者」についての違いがより明確となったのは今回シリーズ化している「ロシア革命」の時機だったのではないか・・・ということが見えてきました。

第161回の記事 に於きまして、私は「共産主義」と「社会主義」の違いについて、以下のような方法で定義づけを行いました。
① ブルジョワによる運動が「社会主義」であり、プロレタリアートによる運動が「共産主義」である。
② 平和的に「完全平等主義」を実現するのが社会主義であり、これを暴力によって実現するのが「共産主義」である。
③ 「社会主義社会」とは、「資本主義」から「共産主義」へと移行する途中の「プロレタリアートによる独裁」がおこなれている社会である

ここには、とあるSNSにおいて、実際に共産党に所属し、ここで共産主義についてきちんと学んだ方とお話をする中で教えていただいた事が含まれています。③に記した内容がまさしくそれです。

しかし、今回のカテゴリーを記していく中で、どうも「共産主義」と「社会主義」という区分けについて、見えてきたのは、「レーニン」が目指した社会の在り方こそ本当の「共産主義」であり、10月革命が勃発する以前、社会革命党やメンシェヴィキ、そしてスターリンらが妥協しようとした社会は、本当の共産主義ではなかったのではないのか?

レーニンが主導して立ち上げたコミンテルンが目指したものは「世界革命」であったこと。ところが、これを引き継いだはずのスターリンが目指したのは「一国社会主義」というものでした。


「世界革命」の「前提」

ロシアの革命家たちが自分たちの革命の成功にこだわった、その背景にあったものとして、ここにはどうもマルクスの「予言」が原因としてあったようです。

【「共産党宣言」におけるマルクスの予言】
1882年に書かれた『共産党宣言』のロシア語版序文では、マルクスとエンゲルスは「ロシアはヨーロッパの革命的活動の前衛となっている」という認識を示し、「ロシア革命が西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命の合図となり、その結果、両者がたがいにおぎないあう」可能性に言及した。(Wikiより)

そして、この予言の通りロシア革命は見事に成功しました。

そして、マルクスと共に共産主義革命の勃発を予測したエンゲルスは、次の様にも述べていました。
<共産主義革命は、けっしてただ一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで、同時におこる革命となるであろう。

〔中略〕それは、世界の他の国々にも同じようにいちじるしい反作用をおよぼし、それらの国々のこれまでの発展様式をまったく一変させ、非常に促進させるだろう。それは一つの世界革命であり、したがって世界的な地盤でおこるだろう。

マルクスたちの予言通りに共産主義革命が勃発するのだとしたら、ロシア革命が成功したのだから、これがきっかけとなり、西ヨーロッパを皮切りに、世界中で共産主義革命=「世界革命」が半ば自発的に勃発する、とレーニンやトロツキーは考えたわけです。

そう期待したわけですね。そして、革命を成功させたロシアがその手本になろうとしたのです。
その最初の第一手となったのが「ドイツ革命」でした。


「ドイツ革命」とは?

Wikiの表記を引用してざっくりと解説しますと、「ドイツ革命」とは以下のようなものを差します。

第一次世界大戦末期に、1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起と、その帰結として皇帝ヴィルヘルム2世が廃位され、ドイツ帝国が打倒された革命である。ドイツでは11月革命とも言う。

この様な蜂起が勃発した最大の理由は、

・元々短期決戦を想定していたドイツの想定が敗れ、フランス軍との戦闘においてその戦線は長期化してしまった事。
・膠着状態を打開するため、あらゆる人員、物資を戦争遂行に動員する体制=「総力戦体制」に移行したこと。

この2つです。この結果、ドイツの経済は停滞し、「国民に多大な窮乏と辛苦を強いる」事となり、「戦局の悪化とともに軍部への反発や戦争に反対する気運の高まりを招き、平和とパンをもとめるデモや暴動が頻発」することになります。

ロシア二月革命 が勃発した理由とまったく同じ理由ですね。

考えてみれば、この当時ヨーロッパまで出張に来ていた「岡村寧次(おかむらやすじ)」、「永田鉄山(ながたてつざん)」、「小畑敏四郎(おばたとしろう)」に東条英機を加えた4名は、この様なドイツやロシアの状況を見て、日本陸軍の現状に危機感を覚え、軍部の人臣を刷新し、軍全体で総力戦が挑める体制を築く必要性を実感する(バーデン・バーデンの密約) わけですね。

ふ~む・・・。

まあ、あくまでも余談です。ただ、当時のドイツにしろロシアにしろ、自国がどうであろうとそこには「敵国」が存在するわけですから、ここに軍部の人臣を刷新する必要性を実感した、ということはそうおかしなことではないのかもしれませんね。


ドイツ革命の経過

デモや暴動が頻発した、という部分だけでなく、これが武力蜂起へと転化するあたりも、ロシア二月革命によく似ています。

1917年3月、ロシアにおいて勃発した二月革命と、革命が成功し帝政が崩壊したことに、ドイツの労働者たちは刺激され、ドイツ各地にてストライキが勃発しました。

これが武装蜂起へと転化するきっかけとなったのは、1918年10月29日、ドイツ大洋艦隊の水兵達約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、サボタージュを行った事が原因でした。

彼らは逮捕され、キール軍港へと送られるのですが、このキールに駐屯していた水兵たちが、仲間の釈放を求めてデモを行います。

【キール軍港】
キール軍港


これに対し、官憲が発砲したことから、デモは一気に武装蜂起へと発展。

11月4日、労働者・兵士レーテ(ソビエトやラーダの様なもの)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧しました。
後に政府が派遣した部隊により反乱は一時鎮圧されるのですが、この武装蜂起は反乱を起こした兵士たちによって、西部ドイツが一気にレーテの支配下にはいります。

【レーテ蜂起】
レーテ蜂起


ドイツの都市バイエルンでは、バイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、君主制が廃止されるなどし、この運動はほぼすべての主要都市に波及。ほぼすべての主要都市で「レーテ」が結成されます。(レーテ蜂起)

勿論この話には続きがあるわけですが、私の時間が少しなくなってきましたので、続きは次回記事に委ね、今回はここで一旦終了いたします。


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<継承する記事>
第347回 ウクライナとロシア、それぞれのブレスト=リトフスク条約

しかしこの記事・・・一体どこから手を付ければよいのかということに、いささか悩まされる部分があります。

そもそも、「コミンテルン」が発足した理由は「第二インターナショナル」の失敗が最大の理由です。

第319回の記事 にて、私はレーニンの唱えた「革命的敗北主義」について言及しましたが、この「革命的敗北主義」という言葉が初めて登場するのが、1915年9月、反戦派が集合してスイスにて開催された「ツィンメルワルト会議」という名前の国際会議です。

第一次世界大戦が勃発したのが1914年6月の事ですから、ここでいう「反戦」とは、第一次世界大戦に対して用いられたものになります。

場所はスイス。レーニン亡命中に開催されたものです。

どうもレーニンの「革命的敗北主義」とは、そもそも「第二インターナショナル」が1912年、自ら作成した「バーゼル宣言」に記されていた文言に由来するものであるようです。

【バーゼル宣言より抜粋】
 「戦争が勃発するおそれがあるので、加盟諸国の労働者階級とその議会代表者は、インタナショナル事務局の総括的活動に支持されながら、彼らに最も有効とおもわれる手段を適用することによって戦争の勃発を防止することに、全力をつくすべき義務がある。

それらの手段は、階級闘争が激化し一般的政治情勢が激化するに応じて当然変化するものである。

 それでもなお戦争が起こった場合には、すみやかな終結のためにつくし、戦争によってひきおこされた経済上および政治上の危機を、国民を揺りうごかすのに利用し、そのことによって資本主義的階級支配の排除を促進することに全力をあげてつとめることが、義務である」。

後段の「それでもなお」以下の文章は、まさしくレーニンの「革命的祖国敗北主義」そのものではないでしょうか?

つまり、

「戦争を勃発させない様、努力する中においても尚戦争が勃発してしまった場合、危機感によって国民を扇動し、支配者層を排除するために全力を尽くす事が必要だ」

とバーゼル宣言には記されているわけです。そしてレーニンの主張する「革命的祖国敗北主義」とはまさしくこの事です。
第二インターナショナルはそう宣言しているにも関わらず、各国の社会主義政党は戦争の勃発に伴って「祖国防衛主義」に走り、その思想を投げ出してしまった事をレーニンは批判しました。

そして、これを受けて開催されたのが「ツィンメルワルト会議」です。もう一度「国際主義」を復活させるために行われたわけですが、同会議においても、その手段として「平和的な手段を用いる」ことを主張した「右派」と、「革命的な手段を用いる」ことを主張した「左派」に分かれてしまいます。

「国際主義」とは、「社会階級・国家・搾取のない世界」を目指し、それを実現するために、国籍を問わずすべての労働者を組織し、各国の国境に止まらず、国際革命を目的とする考え方です。(Wikiより)

この時、「左派」の中心にいたのがレーニンであり、彼がこの時に主張した枠組みこそ「第三インターナショナル」でした。

ロシア革命においてもレーニンはメンシェヴィキや社会革命党、同じボリシェヴィキの仲間であるカーネフやスターリンに対して、彼らの取った方法が「日和見主義」であると批判していたわけですが、「第三インターナショナル」とは、これまでの第二インターナショナルが否定してきた「排外主義」と共に、この「日和見主義」との断絶も主張したもの。

レーニンが「四月テーゼ」にて謳った内容こそ「第三インターナショナル」が目指すべき姿であったと考えることができます。

【四月テーゼの骨子】
・「臨時政府」を「ブルジョワ政府」とみなし、一切支持しないこと
・「祖国防衛」を拒否すること
・「全権力のソヴィエトへの移行」

レーニンが臨時政府を「ブルジョワ政府」とみなした理由は、臨時政府が他の帝国主義・資本主義国家と連携し、排外的な戦争を継続する意思を有していた為でしたね。


「第三インターナショナル」の実現に向けた動き

レーニンがこの「第三インターナショナル」の実現を具体的に動かし始めるのはロシア革命が成功した後の事。

1918年12月、イギリス労働党が第二インターナショナルの再建を目指して会議を呼びかけた事に対抗して、外務人民委員であったゲオルギー・チチェーリンに対して第三インターナショナル設立の準備に入る様指示を出します。

1919年3月にモスクワで開催された会議において、「第三インターナショナル」の創設が議決されます。「コミンテルン」の結成です。
合計54の代議士が参加し、このうち国外からは5名の参加がありました。

レーニン


「コミンテルン」への加盟条件

さて。いざ「コミンテルン」が結成されますと、レーニンが否定した「日和見主義」的な社会主義者まで含めて、様々な団体が関心を示すようになりました。

ですが、これはレーニンの目指すものであはありませんから、コミンテルンへ加盟するための21の条件を作成します。

21か条全てを掲載しているサイトが見当たりませんので、今回はWikiに掲載されています、4条件のみ掲載しておきます。

・内乱へ向けての非合法的機構の設置(第3条)
・党内における「軍事的規律に近い鉄の規律」(第12条)
・社会民主主義的綱領の改定(第15条)、党名の共産党への変更(第17条)
・コミンテルンに反対する党員の除名(第21条)



「コミンテルン」が行った事

それでは、この「コミンテルン」という組織は、一体どのような事を行っていたのでしょうか。

今回の記事では、「レーニン」がその代表者であった時代のコミンテルンについて掲載します。

ロシア革命の後、ヨーロッパでは様々な共産主義国家、及び共産党が誕生しました。

1918年1月 – アルゼンチン共産党結成
     2月 – クバーニ人民共和国独立宣言
     8月 - フィンランド共産党結成
     11月 - オーストリア共産党
         ギリシャ共産党(1924年まで社会主義労働者党)
         ハンガリー共産党結成
     12月 - ラトビア社会主義ソビエト共和国成立
          ポーランド共産党(1925年まで共産主義労働者党)
          ドイツ共産党結成

そして、翌1919年3月にコミンテルンが発足します。
コミンテルンが主に行ったのは、その後の武装蜂起の支援。

この時、「ドイツ革命」の支援を行った様子が登場しますので、次回記事ではこの「ドイツ革命」の様子を記事にしてみたいと思います。

一応、私の予定ではこの「ドイツ」という国にも単独でスポットを当て、なぜナチスドイツが誕生したのかというところまで含めてカテゴリーを作成する予定ではいるのですが、これに先駆けてこの「ドイツ革命」のみピンポイントで取り扱ってみたいと思います。


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<継承する記事>
第346回 ウクライナ・ソビエト戦争の経過とヨーロッパ諸国の干渉

前回の記事では、ロシア戦争後のウクライナについて、一通りその経過を収束することができましたので、一旦ウクライナについては記事を終了させる予定だったのですが、改めて記事を読み返していて、今回テーマとする「ブレスト=リトフスク条約」について回収ができていないと感じましたので、コミンテルンの記事に入る前にいったんこの「ブレスト=リトフスク条約」について記事を記しておきます。


ブレスト=リトフスク条約
こちらの画像は、ロシアと中央同盟国が締結した「ブレスト=リトフスク条約」です。

第342回の記事 にて「ロシアと中央同盟国のブレスト=リトフスク条約」を、前回の記事 で「ウクライナと中央同盟国のブレスト=リトフスク条約」をそれぞれ記事にしました。

時系列から申しますと、ウクライナが締結したブレスト=リトフスク条約が1918年2月9日、ロシアが締結したブレスト=リトフスク条約が同年3月3日の事ですから、ウクライナの方が先に締結したことになります。


ブレスト=リトフスク条約とは?

では、そもそもこの「ブレスト=リトフスク条約」とは何なのか。

今更言うまでもないかもしれませんが、「ブレスト=リトフスク条約」とは、ウクライナ、ロシアがそれぞれ別途中央同盟国との間で締結した「講和条約」です。

前回の記事で記しました通り、ウクライナが締結した「ブレスト=リトフスク条約」は、当時ロシアが元東ウクライナの首都であったハルキウに建国し、ここを拠点として領地を拡大するロシア赤軍との戦闘で敗北を続け、1918年2月8日に首都キエフを占領された翌日、ロシア赤軍を打倒するために選択した講和条約。

このことによってウクライナは独墺と同盟関係を築くことに成功し同年4月末日までにウクライナはウクライナ人民共和国(ソビエト)の領土をほぼ全て奪い返すことに成功しました。


ロシアと中央同盟国との和平交渉の経緯

一方、ロシアが中央同盟国との間でブレスト=リトフスク条約を締結するのはウクライナから約1カ月遅れた1918年3月3日の事。ウクライナでは中央ラーダ軍とボリシェビキ軍間での内戦真っ只中であったことが分かります。

では、ロシアが中央同盟国との間で締結した「ブレスト=リトフスク条約」とは、一体どのような条約であったのでしょうか。


和平交渉をスタートさせたのはウクライナよりもロシアの方が先でした。

10月革命によってボリシェビキ軍が臨時政府軍を打倒し、新政権を打ち立てる中で、臨時政府がロシアを代表する正式な政府であると認識し、臨時政府が統括するロシア領内での自治を宣言していたウクライナが、臨時政府の崩壊に伴って正式にロシアからの独立を宣言したのが1917年11月20日の事。

このままではロシアと対立構造にあるドイツがウクライナに介入することは避けられない状況の中でロシアは1917年12月22日、中央同盟国との間で和平交渉をスタートさせます。

しかし、ロシア側が「賠償金や領土併合なしの和平」を和平交渉の条件として提示したことから、この交渉はすぐに暗礁に乗り上げています。ボリシェヴィキ派ウクライナ人民共和国が出来るのはその3日後。

12月25日にロシア側からウクライナ側に最後通牒が突きつけられ、ウクライナとロシアは戦争状態に突入します。


ウクライナと中央同盟国との交渉の経緯

一方、ウクライナ側が中央同盟国との和平交渉に乗り出したのは翌年1918年1月1日の事。中央同盟国側からすると、ロシアと並行する形で同時にウクライナとも和平交渉を進めるわけです。

これに対し、ロシア側(トロツキー)らからの妨害工作が入るわけですが、ウクライナは豊富な穀倉地であり、ウクライナの穀物を魅力に感じたドイツは、ロシアよりウクライナを和平交渉の相手として選択します。

その結果、1918年2月9日ウクライナ中央ラーダ政府と中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」が締結されます。

同条約では、100万トンの穀物を提供することを見返りに、中央同盟国がウクライナに軍事協力を行うことが約束されました。


ボリシェヴィキ政権の誤算

ウクライナと中央同盟国との間で条約が締結されたことを受けて翌2月10日、トロツキーは中央同盟国との交渉を打ち切ります。

ボリシェヴィキ政権の誤算としては、この時点で既にボリシェヴィキ側はウクライナ領土の大半を手中に収めており、ウクライナの事を舐めてかかっていた部分がありました。そして、ドイツをはじめとする中央同盟国内部にもロシア革命の考え方に賛同する労働者や農民、兵士たちがいることから、彼らが武装蜂起を起こすことにも期待していたわけです。

ですが、ウクライナが中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結してしまった事から、この計算が大きく狂ってしまいました。レーニンは慌ててウクライナに対する懐柔策を講じるわけですが、結果的に中央ラーダ軍は息を吹き返し、自分たちが占領していた領土の大半が逆に奪い返され、ボリシェビキ軍はロシア領土内へと追い返されてしまうことになります。


さて。そもそもウクライナがロシア赤軍に劣勢を強いられていた最大の理由は中央ラーダ軍がロシア赤軍に対して武力が劣っていたわけではなく、赤軍がウクライナに対して仕掛けた情報戦(プロパガンダ戦略)によって内部崩壊させられたことが原因です。

つまり、10月革命によって政権を奪取したばかりのボリシェビキ軍の戦力は「その程度」の戦力でした。

第一次世界大戦において英仏を筆頭とする連合軍を相手にする独墺軍にとって、ロシア赤軍の軍力などまさに赤子の手をひねるようなもの。ウクライナ領土を経て、独墺軍が破竹の勢いでロシア領土にまで攻め入る状況にありました。


ロシアが締結した「ブレスト=リトフスク条約」

ロシアは元々「賠償金や領土併合なしの和平」を条件として中央同盟国との間での和平交渉に臨んでいました。

ですが、この様な状況に陥りますと、もうそうは言っていられません。

ロシア赤軍最高総司令官は1918年2月19日、全軍に武装蜂起をする様指令を出し、直ちにドイツ軍との間で和平交渉に入る様命令を出します。

条約が締結されたのは3月3日の事。ロシアはこの条約によって第一次世界大戦戦線から正式に離脱。

そして「フィンランド」、「エストニア」、「ラトヴィア」、「リトアニア」、「ポーランド」、「ウクライナ」及び、トルコとの国境付近の「アルダハン」、「カルス」、「バトゥミ」に対するすべての権利を放棄させられます。

ロシアが放棄した地域

上図の赤色で示された地域ですね。これらの地域はドイツに割譲され、そのほとんどが独立を果たすこととなります。

ウクライナは4月29日、ヘーチマンの政変によって中央ラーダ軍が解散させられ、政治体制も共和制から君主制へと移行。
国名も「ウクライナ人民共和国」から「ウクライナ国」へと変更されます。

6月12日、ロシアはついにウクライナ国との間で休戦協定を結ぶこととなり、この事を受けてロシア内戦は一時休戦状態となりました。

また更に8月27日、ブレスト=リトフスク条約には追加条項が加えられ、ロシアは条約相手国に対して多額の賠償金を支払わされることとなりました。

条約への妥結後、レーニンは首都をペトログラードからモスクワへと遷都しました。


これでブレスト=リトフスク条約に関する点はほぼ回収できましたね。

この語、1918年11月13日、中央同盟国は連合国側に敗北し、ブレスト=リトフスク条約は効力を失い、ロシア=ウクライナは再び交戦状態へと突入することになります。

一方この条約に調印したことでボリシェヴィキ政権は国内のあらゆる階層から非難の的に晒されることとなりました。
この事でロシア赤軍(ボリシェヴィキ側)と白軍(反ボリシェヴィキ側)との対立が激しくなり、ロシア国内でも内乱状態に突入することになります。

第一次世界大戦終結後、連合軍側が白軍側についてこの内乱に介入したことから、ロシア国内この後2年間に及ぶ内戦状態が継続することになりました。


さて。改めまして、次回こそ「コミンテルン」に関連した記事を作成したいと思います。


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<継承する記事>
第344回 ロシア革命時のウクライナ/ウクライナ・ソビエト戦争勃発

ウクライナ1918

前回の記事を軽くおさらいします。

前回の記事は、ロシア帝国領土となった後、ロシア帝国に於いて勃発した「二月革命」。これによって独立の機運が盛り上がったウクライナが、十月革命が勃発するまで、ニコライ政権に続いて誕生した「臨時政府」を正式な政府であると認め、「臨時政府が統治するロシア」に対して、「ロシア連邦内の自治地域である」という宣言を勝手に行ってしまった第一次ウニヴェルサール期。

その後第一次世界大戦の影響下、ドイツ軍がウクライナを占領してまいかねない状況の中で慌てて臨時政府がウクライナの自治権を認めた「第二次ウニヴェルサール期」、十月革命に於いて臨時政府がボリシェビキ政権に敗れた後、ついに「ウクライナ人民共和国の創設」を宣言した第三次ウニヴェルサール期。

これに対抗してボリシェビキ政権がウクライナ政府=中央ラーダに工作員を送り込み、中央ラーダを乗っ取ろうとするもののこれに失敗。

これを受けて中央ラーダに対して最後通牒を突きつけ、これを拒否されるや否やその翌日、もう一つの「ウクライナ人民共和国」を元々東ウクライナの首都であった都市、「ハルキウ」に建国します。

ハルキウは元々ウクライナ人ではなく、ロシア人やロシア人が多く居住していた地域で、ボリシェビキもこの地域には浸透しやすかったんですね。

前回の記事ではこの国の名を「ウクライナ・ソビエト共和国」と記しましたが、実際にこの名称で呼ばれるようになるのは1918年3月19日の事。この時、ウクライナ人民共和国以外に存在していたいくつかの「ソビエト共和国」を、統合し、「ウクライナ・ソビエト共和国」と呼称するようになります。

前回の記事ではここまでお伝えしました。今回はこれ以降。ロシア・ウクライナ戦争がどのようにして進んでいくのか。また第一次世界大戦の収束に伴ってこの戦争にはウクライナでもロシアでもない、第三国が関わるようになるわけですが、この過程について記事にしたいと思います。


「ウクライナ・ソビエト戦争」の経緯

ただ、この「ウクライナ・ソビエト戦争」。具体的に情報が掲載されている資料がWikiしかありませんので、この情報をベースに進めていくことになります。

1.実際に進行が開始するのは翌年、1918年1月の事で1月9日以降、カテリノスラウ、アレクサンドロフスク、コノトープ、フルーヒウと次々とボリシェビキ軍が占領。

2.一方でウクライナ中央ラーダ政府は1月22日、ロシアからの完全な独立を宣言します。(第四次ウニヴェルサール)

ウクライナとボリシェビキ軍の戦力は拮抗していた様なのですが、ボリシェビキ軍はウクライナに対して情報戦を仕掛け、このことによって中央ラーダ軍を内部から崩壊させていくような戦い方をしていたようです。

3.1月28日、ウクライナの首都、キエフにてボリシェビキ軍スパイが武力蜂起を起こし、翌29日には「クルーティの戦い」が勃発し、ウクライナの300人の青年隊が4千人のボリシェビキ軍に敗北。

4.2月8日にはボリシェビキ軍によりキエフが占領されてしまいます。中央ラーダ軍はジトームィルまで撤退します。

地図でいえば、ウクライナ領の中央にある●、「Kiev」がキエフ、その西側の●、「Zhitomir」がジトームィルです。

この時、ボリシェビキ軍(そのほぼすべてがロシア人)は、元々ウクライナ人を見下す傾向が強く、レーニンたちが「ロシア革命」を起こして勝ち取ったはずのソビエト政府だったのですが、ウクライナ人にとってその振る舞いは「帝政ロシア時代のロシア」を思い起こさせるものとなったのだとか。

キエフを占領したムラヴィヨーフという人物が率いるボリシェビキ軍=赤軍は占領下におけるキエフで、約2週間のうちにウクライナ人を無差別に逮捕・処刑し、約2000人のウクライナ人を殺害したのだそうです。フランス革命時代のロベスピエールを彷彿させますね。

この事で、ウクライナ人の反ボリシェビキ感情はマックスに到達します。


ウクライナ・ドイツ間での「ブレスト=リトフスク条約」の締結

5.2月9日、中央ラーダは独墺との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結。食糧100万トンと引き換えに独墺軍の軍事的協力を得ることに成功します。

この段階、つまり1918年2月9日の段階から、元々「ウクライナとロシア」の戦いであったはずの「内戦」にドイツとオーストリアが参戦します。

ここでは「独墺と条約を締結した」と記しましたが、実際に締結した相手は「中央同盟国」。

もともと第一次世界大戦は「英仏露」の「三国協商」と「独墺伊」の「三国同盟」の戦いから始まったわけですが、ロシアはロシア革命により三国協商より離脱。一方イタリアは途中で三国協商側に寝返り、三国同盟から離脱。

独墺はオスマン帝国、ブルガリア王国と共に「中央同盟国」を形成する状態にありました。

6.ウクライナ中央ラーダからの要請を受け、独墺はウクライナへ45万の軍隊を派遣。独墺の支援を受けた中央ラーダは破竹の勢いで領土を回復していきます。

7.1918年3月、ロシアは首都をペトログラードからモスクワへ遷都。

8.ウクライナ領土にあったソビエト共和国を全て「ウクライナ・ソビエト共和国」として結集するもそのほぼ全てが中央ラーダ軍に奪い返され、ウクライナ・ソビエト共和国はロシア領土内に逃げ込むことになります。

9.4月末日までに中央ラーダはウクライナ領のほぼ全てを奪い返します。


ヘーチマンの政変

さて。この段階で「ウクライナ」は「独墺」と同盟関係にあるわけですが、ウクライナ領土内に派遣されたドイツ軍。このドイツ軍の胎動が実に横柄なもので、ウクライナ領土内の農民から膨大な食料が徴発されるなどし、これまでボリシェビキに向けられていた反発心が、今度はドイツ軍をウクライナに招き入れた中央ラーダに対して向けられることになります。

10.1918年4月29日、ウクライナ・コサックの氏族であるパウロー・スコロパードシクィイがキエフ・サーカス劇場にて行われていた農民大会にて、ヘーチマンに選出される。(ヘーチマンの政変)。中央ラーダは解散させられ、国号は「ウクライナ国」と改められる

まるでロシアで起きた10月革命を彷彿させるようなクーデターがウクライナでも勃発します。

中央ラーダの「ラーダ」は議会を意味しますから、所謂「共和制」を目指す政権です。ところがヘーチマンの政変によって誕生割いた政権は「ヘーチマン(コサックのボス)」が存在しますので、ウクライナ国がは「君主制国家」でありました。

ボリシェビキが政権を握ったロシアとは違って、ウクライナでは君主国家へと再び時代が逆戻りした形となったわけですね。


中央ラーダ軍の復活

1918年11月1日 西ウクライナ人民共和国が独立を宣言

1918年11月11日 ドイツが連合国に敗北

ウクライナ国ができたのは4月末であったわけですが、同年11月、ドイツが連合国に敗北してしまったことでドイツ軍はウクライナから撤退してしまいます。

これをまたとない機会ととらえた中央ラーダ軍の残党が再び結集し、「ディレクトーリヤ」という組織を作ります。
12月14日 撤退するドイツ軍と協定を結んだ上でキエフを再び占領。ウクライナ国ヘーチマン、スコロパードシクィイは亡命し、ウクライナ国は消滅。ウクライナ人民共和国が復活

1919年1月6日 ウクライナ・ソビエト共和国は「ウクライナ労農臨時政府」を立ち上げ、「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」に国号を変更する

3月10日 ウクライナ社会主義ソビエト共和国は独立を宣言し、ロシア共和国と軍事同盟を結ぶ

ややこしすぎる・・・

この時点でウクライナは「西ウクライナ人民共和国」「ウクライナ人民共和国」「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」の3つ存在する状態となります。

ちなみに「西ウクライナ人民共和国」は地図でいうと西側の黄色の部分。「GALICIA(ガリツィア)」と書いている部分があると思うのですが、このあたりで独立した国家です。で、同エリアに●で、「Lvov-Lemberg(リヴィウ)」と書いている都市がありますが、ここが西ウクライナの首都。

元々この地域に住んでいる住民の6割はウクライナ人だったのだそうですが、そのほとんどが農民で農村部に住んでいて、首都であるリヴィウにはウクライナ人ではなく、ポーランド人やユダヤ人によって支配されていたのだそうです。

ですから、西ウクライナ人民共和国が独立を宣言した時点で西ウクライナとポーランドとは交戦状態に陥ります。

一方のウクライナ人民共和国では、国家こそ復活したものの、ディレクトーリヤ政府は「ボリシェヴィキ・ソビエト政府の軍隊(赤軍)」や「南ロシア軍(白軍、白衛軍)」、「ウクライナ革命反乱軍(黒軍)」と交戦状態に陥ります。「ボリシェヴィキ・ソビエト政府」が「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」の事ですね。

西ウクライナとウクライナ共和国は双方がそんな状態にありましたから、1919年1月22日、両国は正式に統一宣言を行います。


ポーランド・ソビエト戦争

1919年2月14日 ポーランド・ソビエト戦争勃発

ドイツ軍が撤退した後、レーニンはロシアが撤退した地域に各地域の共産主義勢力と連携すること、ドイツ、及びオーストリアの革命勢力を支援することを目的として赤軍を派遣することを命じます。(1918年11月)

「ドイツ軍が撤退した地域」に該当するのが「ポーランド」でした。
ドイツの敗戦後、ドイツとソ連から領土を割譲される形で「ポーランド」が復活します。

第一次世界大戦当時、ポーランドはドイツとソ連によって割譲されており、更にソ連領ポーランドとウクライナが国境を接する形にありました。

一方のポーランドは、フランスからの支援を受ける形で1919年2月、軍の再編成を行います。ここに攻め込んできたのがソ連の赤軍でした。(ポーランド・ソビエト戦争の勃発)

この様な状況の中で、1919年7月17日、ポーランドはガリツィア地域を占領し、西ウクライナ人民共和国は崩壊し、残党がウクライナ人民共和国へと逃げ込むことになります。

ウクライナ人民共和国ディレクトーリヤ軍と西ウクライナ人民共和国軍は共闘し、ボリシェビキ赤軍と一進一退の攻防を広げるのですが、1919年10月ウクライナでチフスが流行し、ウクライナ軍は兵士の7割を失います。

これを受け、ウクライナ軍はウクライナ人にとって宿敵であったはずのポーランドへ亡命することとなります。

ディレクトーリヤ軍を率いるシモン・ペトリューラにとって最も憎む相手こそボリシェヴィキ軍。ペトリューラはポーランドに対し、自分たちを唯一のウクライナを代表する唯一の政府として認める事を条件として、ポーランドと同盟を結びます。

ところが、一方の西ウクライナ人民共和国軍はボリシェビキよりもむしろポーランドを最大の宿敵として認識していた為、ペトリューラとは袂を分かち、ポーランドではなくロシア赤軍と合同することとなります。

然し、結果的にディレクトーリヤ軍とポーランド軍はロシア赤軍に敗北し、ポーランドはこの戦争を収束させるよう西欧諸国より圧力をかけられ、ディレクトーリヤ軍ではなくウクライナ社会主義ソビエト共和国を正式なウクライナ政権であるとして承認し、西ウクライナ人民共和国を自国領土として併合しました。

それまで「ウクライナ人民共和国」であったはずの領土は「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」の領土として併合されることとなりました。


ウクライナ人民共和国政府はその後も亡命し続け、中心人物であるペトリューラはソ連のスパイに暗殺されるものの、亡命政府そのものは第二次世界大戦後も存在し続け、現在は「ウクライナ共和国」として無事独立を果たすことに成功しています。


しかし、それにしても、「東欧」ってものすごく複雑ですね。

次回記事では、いよいよ「コミンテルン」が発足する経緯について迫ってみたいと思います。

この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第343回 ロシア革命の財源はどこから?/ユダヤ陰謀論の正体

さて。今回はソビエト連邦が誕生する経緯に於いて私が関心を持った4つのテーマの内2つ目。「ウクライナ」にスポットを当ててみたいと思います。


「ウクライナ」についての復習

今回のシリーズ の冒頭では、「ロシア」に焦点を当てる前に、「ロシア」が誕生する原点となった国家である「ウクライナ」についての記事を作成しました。

とはいえ、当時のウクライナの名称は「ウクライナ」ではなく、「キエフ=ルーシ公国」。現在のウクライナの首都、「キエフ」を中心に存在した国家です。キエフ公国がモンゴルに滅ぼされた後、モンゴルの支配下に於いてこのキエフ公国を継承した「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」がウクライナのルーツです。

「ロシア」はキエフ大公より土地を分割された「ウラジーミル・スーズダリ公」が、後に「モスクワ公」となり、これがロシアの源流となります。

「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」はその後分裂し、「ハールィチ公国」はポーランドに、「ヴォルィーニ公国」はリトアニアに、それぞれ分割して統治されることとなりました。

元々敵対する関係にあったポーランドとリトアニアですが、共通の脅威であったドイツ騎士団に対抗するため、同盟関係を結び、やがて両国を一人の元首が束ねる「ポーランド・リトアニア共和国」となります。

「ハールィチ公国」はポーランドに、「ヴォルィーニ公国」はリトアニアにそれぞれ分割統治されていたわけですから、両国が合併し、一つの国家となったことで「ウクライナ」は再び一つ国家における領土として束ねられることとなります。実際には統合される3年前、ウクライナそのものがリトアニアからポーランドへと移り、「ウクライナ」というポーランドの一地域となります。

そして、そんな「ポーランド・リトアニア共和国」に出現したのが「ボフダン・フメリニツキー」。ウクライナ・コサックの指導者です。ウクライナ・コサックは元々「キエフ=ルーシ」の士族・豪族の流れ者集団で、ウクライナの一地域に拠点を構えていました。

ウクライナがポーランドの一地域となった折、同地域の「登録コサック」、即ち公的な軍事組織として認められたコサック軍には、他のポーランドの貴族と同等の権利が認められました。

フメリニツキーが率いていた「ウクライナ・コサック」とは、このポーランドの一地域となった「ウクライナ」のコサック軍であったものと考えられます。

ただ、この「ウクライナ・コサック」が与えられていた権利は限定的で、しばしば共和国に対する反乱を起こしていました。

その代表的な反乱がフメリニツキーの起こした「フメリニツキーの反乱」と呼ばれるもので、フメリニツキーは反乱の結果、ポーランド政府に勝利し、「ザポロージャのコサック軍(ヘーチマン国家)」という名前の国家を打ち立てます。この時ウクライナ人たちは初めて自分たちの事を「ウクライナ人」であると認識しました。

この後、フメリニツキーは自国をロシアの保護下に置くことを求め、ヘーチマン国家はロシアの保護下に置かれることとなるのですが、フメリニツキーの死後、ウクライナ=ロシア戦争が勃発するなどし、ウクライナは内戦状態へ。

その後、「右岸ウクライナ」がポーランド=リトアニア政府に、「左岸ウクライナ」がロシアに、それぞれ分割統治されることとなります。右岸ウクライナはポーランド=リトアニアにより自治権を失うのですが、左岸ウクライナはロシアにより自治権をみとめられ、保護国として存在し続けます。

所が、後に左岸ウクライナはロシアに対して独立戦争を仕掛け、失敗。その後左岸ウクライナもまた自治権を失うことになります。

その後、ポーランドそのものがロシア・プロセイン・オーストリアの三国で分割されることとなり、「ポーランド=リトアニア共和国」をのものが事実上消滅。右岸ウクライナまで含めてウクライナはロシア領となります。


ロシア革命と第一次世界大戦の経緯

さて。それでは時間軸を再びロシア革命へと戻します。

ここでもう一つおさらいなのですが、ロシア革命(10月革命)が起きたのは現代の暦で1917年11月7日。第一次世界大戦の真っ只中です。

では、改めて「第一次世界大戦」がどのような戦争であったのかというと、「英仏露」の「三国協商」と「独墺伊」の「三国同盟」の戦い。これに他の諸外国が絡んだ形で行われていた戦争です。

三国同盟対三国協商

上図を見るとわかると思いますが、三国同盟を英仏とロシアとで挟撃している構図です。

ところが、第一次世界大戦への参戦で、肝心の労働力であった農民たちが兵士として戦線に駆り出され、ロシアは極端な食糧不足に陥ります。で、食料の供給を求めて主婦たちが起こしたデモをきっかけに勃発したのが「二月革命」。二月革命の勃発により、ニコライ二世が失脚し、帝政ロシアが崩壊。

その後のロシアはニコライ政権下でドゥーマ(議会)をになっていた面々によって結成された「臨時政府」と、メンシェヴィキの旗振りによって結成された「ペトログラード・ソビエト」との二重権力構造となるわけですが、ペトログラード・ソヴィエトは臨時政府を「ブルジョワジー」であると考え、彼らの目指す「ブルジョワ革命」が臨時政府によって行われたと判断し、ペトログラード・ソビエトは臨時政府を指示する方針を示しました。

その後も臨時政府はニコライ政権下、第一次世界大戦に参戦する姿勢を改めず、4月危機、7月事件を経て左派政権である社会革命党の党首であるケレンスキー内閣が結成されるも、状況は変わらず。そしてついに10月革命が勃発し、ケレンスキーは失脚。ボリシェビキが政権の座に就くこととなったわけです。(ロシア革命の完成)


「帝国主義」の象徴である第一次世界大戦への参戦に反発してボリシェビキ政権が誕生したわけですから、この時点でロシアは第一次世界大戦から脱退することになります。

ですが、ドイツからすればそうは問屋が卸しません。これまでロシアとは対立する状況にあったわけですから、このままではロシアは一気に独墺によって攻め込まれることとなります。これを防ぐために、ボリシェビキ政権との間で講和条約を締結する以外に方法はない・・・ということになりますね。

この様な発想からロシアと中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)との間で締結されたのが「ブレスト=リトフスク条約」。この条約の締結によってロシアは第一次世界大戦から脱退します。


ロシア革命とウクライナ

さて。それでは改めて「ロシア革命とウクライナ」について考えてみます。

二月革命の勃発により、帝政ロシアは崩壊したわけですが、当時ロシア領にあったウクライナでも、二月革命の成功はウクライナ独立の機運を盛り立てることとなりました。この機運を受けて、1917年3月、ウクライナの各勢力間の関係を調整する政治的中枢機関として設立されたのが「ウクライナ中央ラーダ」。

「中央ラーダ」の「ラーダ」とは、ロシアでいう「ソビエト」とほぼ同義です。

ヘーチマン国家時代のウクライナもそうなんですが、どうもこのウクライナ人、自分たちの力で結束しよう、という思いがそれほど強く内容で「中央ラーダ」もこの例にもれず、せっかく独立や自治を志して結成されたのに、その方針として「「ロシア連邦」の枠内で共和国全土を治める方針」を定めます。

つまり、ウクライナとして完全に独立することはせず、ニコライ政権に続いて誕生した臨時政府にウクライナの命運を委ね「臨時政府の統治するロシアの一部として、ウクライナに自治を認めてください」という・・・まあ随分都合の良い方針を定めたわけです。まるでどっかの朝鮮半島を見ている様です。

で、この方針を以て中央ラーダの代表団はロシアベラルーシを訪れ、「自分たちに自治権を与えてください」とお願いするわけですが、当然断られます。

これもまた当然の事で、ウクライナは自分たちが戦争状態にある独墺とロシアとの干渉地域に当たるわけです。そこに自治権を認める事は、ロシア自身の命運を左右する結果ともなりかねませんから。

で、断られたウクライナはなんと、6月23日、「ウクライナはロシア連邦領内の自治地域である」と勝手に宣言してしまいます。(第1次ウニヴェルサール期)

ところが、一方のロシアでは、臨時政府に於いて陸海相の座に就いたケレンスキーが、ドイツに対する徹底抗戦を訴えるわけですが、二月革命により第一次世界大戦継続に対するモチベーションがダダ下がりのロシアの前線は完全に崩壊し、ペトログラードでは兵士らによるデモ(7月事件)が勃発し、8月には「コルニーロフの反乱」が勃発。

最前線であるウクライナが、いずれドイツに占領されてしまいかねない状況に陥ります。そこで、慌てて臨時政府は中央ラーダが設置されているキエフに使者を送り、地域を限定して、にはなるものの、ウクライナに対して「自治」を認める事を伝達します。

このことによって、ウクライナはロシアに併合されて以来、初めて正式な形での「自治権」を有することになりました。(第2次ウニヴェルサール期)


ウクライナ・ソビエト戦争の勃発

さて。ここまで見ていただいているとわかると思いますが、ウクライナ「中央ラーダ」は、明らかにニコライ政権の後を引き継いだ「臨時政府」を相手に交渉を行っています。この時点ではまだボリシェビキ政権は誕生していないわけですから、当然と言えば当然なのですが、中央ラーダは明らかに「臨時政府派」なのです。

ところが、その「臨時政府」がボリシェビキの起こしたクーデターによって崩壊。中央ラーダはこのことによって「盟主」を失ってしまいます。中央ラーダは、ボリシェビキの行為を「暴力的である」として非難します。

自分たちが仕えてきた臨時政府が崩壊したわけですが、だからと言って臨時政府を崩壊させたボリシェビキにホイホイと仕えるわけにはいきません。

朝鮮の場合は日清戦争で清国が日本に敗れた後、今度は日本に尻尾を振り、日本が三国干渉で旗色が悪いと見るや、今度はロシアに対して尻尾を振るという非常に情けない態度を取り、最終的には日本の手によって強制的に中国から独立させられてしまったわけですが、ウクライナは違いましたね。

ロシア臨時政府がボリシェビキに敗れ、崩壊するとウクライナはついに「ウクライナ人民共和国の創設」を宣言し、完全にロシアからの独立を宣言するのです。(第3次ウニヴェルサール期)

形式上は、あくまでも「ロシア臨時政府が統治するロシア領内での独立」を意味するわけですが、その、肝心の臨時政府が存在しないわけですから、これが事実上の「独立宣言」となりました。

これを受け、「英仏露三国協商」を構成していた英と仏は、早急にウクライナを国家として承認します。

この段階ではまだボリシェビキ政権は臨時政府から政権を奪取したばかりで、ドイツとは対立する構造にあります。ウクライナはそんなロシアから独立を宣言したわけです。

一方、ボリシェビキ政権は英仏と同盟関係にあった臨時政府に対するクーデターを仕掛け、これを成功させたわけですから、英仏とはまた対立する構造が出来上がります。何しろ、これを成功させたレーニンやトロツキーは、「反帝国主義」を掲げる共産主義者ですからね。

また、英仏は当然独墺と戦争状態にあるわけですから、ウクライナに独墺側につかれるわけにもいきませんから、英仏がウクライナの国家承認を急いだのも理解できます。

また、一方のボリシェビキ政権も、ウクライナに勝手に独立されるわけにはいきませんから、ボリシェビキ政権は先ず中央ラーダにスパイを送り込み、中央ラーダを乗っ取ろうとしますが、失敗。

そこで、ボリシェビキ政権はウクライナ中央ラーダに対し、「ウクライナでソビエト軍、ボリシェヴィキ軍の行動の自由を保障すること」を条件に中央ラーダが運営するウクライナ人民共和国の設立を認めるとした交換条件を突きつけます。

勿論これは中央ラーダにとって飲めるものではありませんから、ボリシェビキ政権から中央ラーダに対する「最後通牒」となります。当然中央ラーダはこれを拒否し、ボリシェヴィキはウクライナへ軍事侵攻を行うことを決定(1917年12月25日)。翌26日、ボリシェヴィキは、ウクライナのロシア側の地域、「ハルキウ」という地域にもう一つのウクライナ人民共和国、「ウクライナ・ソヴィエト共和国」を樹立します。

「ウクライナ・ソビエト戦争」の勃発です。

ウクライナ1918

こちらの図で、右上の濃い紫色のエリアがロシア・ソビエトで、その西側の薄紫色のエリアが「ウクライナ・ソヴィエト共和国」です。
この地域には元々「ボリシェヴィキ派」のウクライナ人が多くいた地域でもあったようです。


次回記事では、ウクライナ・ソビエト戦争の経過と、これに絡む諸外国の様子なども記事にできればと思います。


この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第342回 ソビエト連邦誕生までの経緯を復習する

さて。今回のシリーズに於きまして、前回の記事で私の関心のある4つのテーマを掲載しました。

 1.ボリシェヴィキの活動資金について。

 2.ウクライナについて。

 3.「ロシア内戦」の経過とソビエト連邦が成立するまでの経緯。

 4.「コミンテルン」発足に至る経緯。

この4つのテーマの内、今回は1つ目、「ボリシェヴィキ」の活動資金について、記事にしてみたいと思います。

シリーズ冒頭の記事 に於きまして、元ソ連外交官の講演 について記した記事を参考に、また続く第293回の記事 では「そもそもロシア帝国が崩壊し、共産化したのは『ロシア人とユダヤ人との対立』の結果である、という結論」を導き出すために作成するものである、ということにも言及しました。

ただ、現時点ではこの仮説を裏付けることの出来る明確な根拠のある情報には出会っていません。
しかし、今回の記事は少しこの「裏付け」ともなるかもしれない要素を含んでいます。


アメリカンインターナショナルコミュニケーション

そもそも私がなぜ「ボリシェヴィキの活動資金について」関心を持ったのか。

言われてみれば確かに疑問を持つべき部分ではあるのですが、「ロシア革命」と「ソ連の誕生」を調べていて、ロシア革命に於いて、レーニンとトロツキーが率いた「ボリシェヴィキ」に対して資金援助を行った投資会社があったらしい、という情報に出会いました。

この投資会社の名前がサブタイトルに記した「アメリカンインターナショナルコーポレーション」略して「AIC」という名前の会社です。

調べてみるのですが、どうもこのAICについては客観的に調査することの出来る情報に巡り合いません。

ただ、客観的な情報として、このAICの社長が「フランク・A・バンダーリップ」という人物であり、彼の名前で調べると、彼が創設した会社として「American International Corporation」とう名称が登場し、またWikiベースではありますが、AICが設立された年として1915年という年号も出てきますので、少なくともボリシェヴィキに資金援助が出来る時期に「アメリカンインターナショナルコーポレーション」という会社が存在していた、ということだけは裏付けることが出来るかと思います。

私が関心を持ったのは、飽くまでWikiベースではありますが、AICへの出資者として、「ジョン・モルガン」、「ロックフェラー」、「ジェームズ・スティルマン」という3人の名前が挙がっているところです。

とくに「モルガン」や「ロックフェラー」という名前は、シリーズ中では 第297回の記事 で若干触れていますが、日露戦争に於いて、資金を求めた高橋是清が融資を求めた相手としてご紹介した「ロスチャイルド」と共に、現在でもアメリカの中央銀行であるFRBに対して出資をしている、「国際金融機関」につながる名前です。

そして、所謂「ユダヤ陰謀論」を唱えたがる人たちの中では必ず登場する名前でもあります。

「AIC」とは、そんなモルガンやロックフェラーらが出資してアメリカのニューヨークに設立した投資会社なんですね。

これに関連して、冒頭に触れた 元ソ連外交官の講演 について触れたブログでは、以下のような記述がみられます。

この10月革命はユダヤ人による革命であった。これは疑いの余地がない。いうまでもなく、革命を指導した者のほとんどがユダヤ人だからである。10月革命の前に、トロツキーをリーダーとする70人のユダヤ人グループが、ニューヨークからやって来ていた。アメリカのユダヤ人資本家ヤコブ・シフは、このトロツキーのグループを支援していた。

そのときロシアは、ドイツとの戦争の真っ最中であった。第一次世界大戦である。ドイツの方面からも、レーニンのグループがロシアに入った。このグループもまた、ほとんどがユダヤ人だった。10月革命は、アメリカとドイツの金によってユダヤ人が実行した革命であった。

少し回りくどく記されていますね。

Wikiにてトロツキーの動向を見てみますと、トロツキーは 

ロシア第一革命 が勃発した後、ロシアに帰国し、「サンクトペテルブルク・ソビエト」の指導者となる
・12月、逮捕されてシベリアへ終身流刑にされるものの、護送中に脱走、ウィーンへと亡命
・第一次世界大戦勃発後、スイス、フランスへと居住地を移すものの、1915年、フランスを追放されスペイン経由でニューヨークに映る

とあります。つまり、この時トロツキーはモルガンやロックフェラー等の国際金融機関とのコネクションを作り、二月革命 の勃発を受けてロシアに舞い戻ってたわけです。

ちなみに元ソ連外交官の講演中に登場する「ヤコブ・シフ」とは、日露戦争勃発に於いて、ロスチャイルドが高橋是清に紹介したアメリカの銀行家でもあります。

元ソ連外交官である「アレキサンドル・イワノフ」氏やユダヤ陰謀論者の考え方では、トロツキーがユダヤ人であり、モルガンやロックフェラーらもまたユダヤ人であることから、「ユダヤ人であるトロツキーをAICが資金援助してロシア革命を成功させた」という印象を持たせている印象を受けます。

一方でこちらの記事 等ではこれをユダヤ人の復讐劇とはせず、「ウォール街の銀行からによるビジネス」であったとする主張もあります。

ただ、私の考え方としては、ロスチャイルドがヤコブ=シフを是清に紹介した理由の一つとして、ロシアにおけるユダヤ人の迫害=ポグロムが行われていたことがあったことを考えると、投資家たちの中に「ロシア人に対する復讐心」の様なものがあったのではないか、とする考え方もできなくはないかな、と思います。

ただ、レーニンやトロツキーが「ユダヤ人」としてのイデオロギーでロシア革命(10月革命)を実施した、という考え方はちょっと無理があるのではないか、と思いますね。


「シオンの議定書」

シオンの議定書

さて、このサブタイトル。実は「ボリシェヴィキの活動資金」というテーマとは直接関係はないのですが、本タイトルとしてあげました、もう一つのテーマ、「ユダヤ陰謀論の正体」。こちらにかかってくる情報になります。

「ユダヤ陰謀論」って何? って思う人もいるかもしれませんね。

簡単に言うと、ユダヤ人には「選民思想」という考え方があり、ユダヤ人こそが神に選ばれた民族で、世界の終末に於いて、ユダヤ人だけが救われる・・・といった考え方があることが基本ベースになっていて、ここから「ユダヤ人が裏社会を支配している」といった考え方にもつながっています。

で、今回ご紹介するこの「シオンの議定書」なのですが、どうもこの「シオンの議定書」こそがこの「ユダヤ陰謀論」の発端になっているのではないか・・・という考えに私自身がたどり着いたわけです。

Wikiベースではありますが、そもそもこの「シオンの議定書」は「1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン二十四人の長老」による決議文であるという体裁をとっている」と記されています。

そしてその決議分が「1902年にロシア人の反ユダヤ主義者により捏造された」ものであると記されています。

この「シオンの議定書」は、まだニコライ二世が健全で、「皇帝」として存在していた時代に、ニコライ二世に対して献上するために作成されたもので、「帝政ロシアに対する不満をユダヤ人に向けさせるために作成されたもの」なのだそうです。

内容としては『マキャベリとモンテスキューの地獄での対話』という書物があり、これがマキャベリ という政治思想家とナポレオン三世の「地獄対話」を収録したもの。

ナポレオン3世の「非民主的政策と世界征服への欲望」を揶揄する様な内容になっているのだそうですが、この書物で、「ナポレオン3世」と記されている部分を全て「ユダヤ人」と置き換えている文章を大幅に加筆されたもの、なのだそうです。

Wikiの内容から判断すると、この書物を改ざんした人物がオフラーナ在パリ部長のピョートル・ラチコフスキーという人物で、元となった書物が発見されたのが彼が家宅捜索を行ったエリ・ド・シオンといいう人物の家。

で、ラチコフスキーが改ざんした文書に「セルゲイ・ニルス」という人物が序文を付け加えたもの。これがニコライ二世に献上される予定だったのだそうです。

で、この書物をロシア第一革命当時に

『諸悪の根源——ヨーロッパ、とりわけロシアの社会の現在の無秩序の原因は奈辺にあるのか? フリーメーソン世界連合の新旧議定書よりの抜粋』

とのタイトルでその完全版を収録した冊子が発行されました。で、この文書がロシア革命当時、日本を含めた全世界に広まります。


ただ、元ネタが『マキャベリとモンテスキューの地獄での対話』であり、これと比較した内容をイギリスの新聞「タイムズ」が報道し、ねつ造されたものであることを暴露。

一気にその熱は冷めていくわけですが・・・ねぇ。日本の陰謀論者の皆さん。


タイムズが暴露するのが1921年の事なのですが、その数年前。日本が「シベリア出兵」をした折、多くの「白軍兵士」がこの書物を保有しており、日本人はこの書物に触れることになります。

陸軍のロシア語教官であった樋口艶之助という人物がこの書籍を翻訳し、日本で出版。
また、安江仙弘という人物もシベリア出兵からの帰国後、包荒子というペンネームで『世界革命之裏面』という書物を出版し、書物内で議定書を紹介します。

これ以外にも複数の日本人が議定書を翻訳し日本で出版するわけですが、先ほどご紹介した安江仙弘や同じく議定書を翻訳した経験のある犬塚惟重という人物は、逆に「日ユ同祖論」、つまり「日本とユダヤ人は実は祖先が同じであり、同朋である」という主張を展開し、ドイツ人の虐待からユダヤ人を救出。ユダヤ資本を満州に招き入れようとします。

「『マッソン結社の陰謀』および『シオン議定書』と題するパンフレット」が教育界にも配布されるなどし、これが日本国内における「陰謀論」の元祖となるわけですね。


非常にぶっちゃけた表現をすると、ユダヤ陰謀論の原型となった「シオンの議定書」とは、大川隆法が霊と対話する形式で発効した書籍の様なものを更に改ざんして作成されたもの・・・だったわけですね。

これを100%と信頼するとすれば、青木理や菅野完らが発行している「日本会議本」の様なもので、フィクション要素満載の情報であった・・・ということになりますね。ふ~む。。。

私も一時期この「ユダヤ陰謀論」に染まっていた時期もありましたし、この情報に出会うまで、「そういう話があっておおかしくはないよな」と、半ば信じていた部分もありましたが、まぁ、一気に目が覚めた気がします。


私がこの記事を作成しようと考えたことには、一つの理由があります。

現在、ネット上で「陰謀論」を唱える人を見かけませんか?
私が記した「ユダヤ陰謀論」だけではありません。散々野党連中が盛り立てている「加計・森友」問題にしても、「あれは安倍首相の陰謀だ!」という雰囲気を覚えませんか?

「日本会議秘密結社説」もまた同様です。

そして、この様な主張を唱える人たちの支持層を追いかけていくと、九分九厘たどり着くのが「小沢一郎」という人物です。

私、別に小沢一郎そのものがそんな陰謀論者であるだとかそういうことを言いたいわけではありません。ですが、小沢一郎の支持層にはそういった「陰謀論者」が多いことは間違いのない事実なんです。

「この人の主張、正しいかもしれないけど、なんだかおかしいな・・・」と感じたとき。試しに鎌をかけてみてください。「あなたの支持している政治家は誰ですか?」と。

恐らくかなりの確率で「小沢一郎」の名が出てきます。
あなたはマスコミによって世論誘導されていませんか?

↑こちらは私がかつて作成していたブログの1ページです。「根拠」となる情報となるかどうかは受け止める方次第だと思います。
作成したのは2012年9月の事ですから、5年近く昔の記事です。

日にちは随分と経過していますが、現在でもSNS等で討論したり情報を閲覧したりする中で、当時と同様な「違和感」を覚えることは、未だにあります。

「共産党」は非常にわかりやすいですから、警戒もしやすいと思います。ですが、「小沢一郎の影響」は一見すると正しくも見えてしまいます。例えば「加計問題」に於いて、愛媛県今治市で活動しているとある団体があります。

一見すると正しく見える情報ですが、よくよく確認すると違和感を覚える。そんな情報です。

彼らは「共産党」に影響を受けているわけではありません。小沢一郎なのです。

もしこの記事を読んでいただいている方で、お近くに「小沢一郎側の主張」を述べる人に出会ったら要注意です。

彼らは「他人の主張」を簡単に取り込んで、あたかも自分自身の主張であったかのようにして手のひらを返してくるケースも多々、あります。もしお知り合いの方が取り込まれそうになっているな・・・と気づかれたときはきちんとした情報を相手の方に与え、取り込まれてしまわない様、未然に対処されることを私はお勧めします。


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第341回 本シリーズを作成するに至った経緯

前回は「本シリーズを作成するに至った経緯」とのタイトルで記事を作成し、私の本シリーズに対する思いを語りました。

第324回 の記事に於いて、ロシア革命の本丸である「10月革命」が非常に平和裏に成し遂げられる様子を記し、第334回の記事 では10月革命を成功させたトロツキーの考え方について、10月革命に合わせる形で行われた「第二回ソビエト大会」。ここでトロツキーの行った演説を参考に記事を作成しました。

ここまでの経緯を見てみると、レーニンやトロツキーが中心となって起こした「10月革命」そのものは、決して世に言われる悪名高い共産主義国家としてのソビエト連邦を誕生させることを目的としたものではないのではないか、と感じられます。

後程詳細に記事にする予定ではいますが、この後、私たちの知る「ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)」が誕生するまでの経緯を年表形式でまとめます。

1917年11月7日(旧暦10月25日)
 ボリシェヴィキにより臨時政府ケレンスキー内閣倒壊(10月革命:ロシア内戦勃発)

1917年11月9日
 ソビエト・ロシア共和国誕生

1918年3月3日
 ドイツとの間でブレスト=リトフスク条約締結(ロシア内戦、一時休戦状態に)

1918年7月19日
 ロシア共和国憲法制定(ロシア社会主義連邦ソビエト共和国に改名)

1922年11月
 内戦終結

1922年12月30日
 第1回ソビエト連邦全連邦ソビエト大会
 ロシア連邦共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア社会主義ソビエト共和国、ザカフカース連邦の4カ国が加盟した「ソビエト社会主義共和国連邦」が樹立

この年表を作る中で、少し見えてきたことがあります。


ロシア内戦とシベリア出兵

私がこの記事を作成するに至った理由の一つとして、特に「共産党」が介在した様々な事件に関して、その残虐性や異常性がみられることがあり、これは中国だけでなく、「ロシア」に関しても同様の事が言えます。

ロシアが介在した事件の残虐性を示す事件として、私は二つの事件を過去に記事にしました。

 黒竜江(アムール川)事件(リンク先最下部)
 尼港事件(リンク先最下部)

アムール川事件に於いて殺害された清国人は2万5千人、尼港事件に於いて殺害されたロシア人・日本人は合わせて6000人(内日本人730名)に上ります。

さて、ここで改めて思い出していただきたいのですが、「ロシア革命(10月革命)」が起きた時点において、全世界は未だ「第一次世界大戦」の最中でした。

大戦そのものは1918年11月11日、ドイツが降伏したことにより終結するわけですが、同時期にロシアは内戦状態にありました。
この内戦はボリシェヴィキを中心とした革命支持者「赤軍」と反革命派「白軍」との間で行われます。

前述した「尼港事件」とは、そんなロシア内戦の真っ只中、1920年にロシアの「ニコラエフスク」という地域で勃発した大虐殺事件です。

詳細はまた後日記事に委ねる予定ですが、「ロシア内戦」に対して、英・仏・日・米の4カ国は白軍に味方する形で「対ソ干渉戦争」を仕掛けます。

ヨーロッパ側から攻めたのが英仏で、アジア側から攻めたのが日米でした。

この時日米が派兵した先が「シベリア」。モンゴルの支配下で「シビル=ハン国」と呼ばれた地域です。

シベリア

これが、世にいう「シベリア出兵」です。

この時日本が相手にしていたのは、日本の駐留に反対していた「抗日パルチザン」という連中。「パルチザン」とは「非正規的な武装勢力」の事を云うわけですが、要はゲリラ部隊です。

日本はこのゲリラ部隊が潜伏すると考えられる村々を攻めたわけですが、この時日本軍がパルチザンをかくまう村民に対して行った行為を象徴する事件として、「イヴァノフカ事件」と呼ばれる事件があります。

現地駐留軍がパルチザンをかくまったという理由で老若男女問わず銃によって殺害し、小屋の中に押し込めたまま焼き殺してしまう・・・と言った残虐な行為が行われたのだそうです。

参考になる記事として、私に近いスタンスから記された方の記事として、「陽月秘話」というサイト様記事がありましたので、合わせてご紹介しておきます。

シベリア出兵とイワノフカ事件

記事の引用になりますが、日本側としてはあくまでも

「日本軍は村民から武器の押収やゲリラと見られる人物の処刑を行っていたところ、思わぬゲリラの反撃を受けて一個大隊が全滅するという被害を受けました」

とあり、この報復として「イヴァノフカ事件」は行われたわけですが、引用元の記事にも掲載されているとおり、「尼港事件」と「イヴァノフカ事件」との間に、その規模とやり方の面で大きな違いこそありますが、同様の事を日本軍も行っていた、という点でご紹介しておくべき内容だと感じましたので、私の記事でもご紹介しておきます。


ここに登場した「パルチザン」とは飽くまで「非正規武装集団」であり、レーニンやトロツキーの管理下にある舞台ではありません。「尼港事件」が勃発した時点で、確かに「赤軍」を名乗ってこそいますが、この時のロシアはまだ完全には共産化しておらず、また内戦状態にあり、「共産党」としての統治機能が十分にいきわたっている、とは到底考えられません。

そうすると、どうも「共産主義」という政治システムそのものより、どうもこの様な地域に居住していた居住民の生活習慣にその原因はあるのではないか・・・とも考えられるように感じます。


さて、この時点で私の中にはいくつかの調べておきたいことがあります。

一つ目は「ボリシェヴィキの活動資金」について。

もう一つは、カテゴリーの冒頭でスポットを宛てていた「ウクライナ」について。

3つ目が今回の記事で掲載した「ロシア内戦」の経過とソビエト連邦が成立するまでの経緯。

そして4つ目が「コミンテルン」発足に至る経緯です。
次回以降の記事に於きまして、これら4つのテーマをできれば一つずつ補完していきたいと思います。


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第334回 ロシア革命後の経緯

私がこのシリーズを作成する理由

このブログでは、特にPC版ではあえて私が記事を作成した日にちを掲載していません。
これは、私自身が作成した記事が「時代の変化」によって意味合いが変わるような内容にはしたくないと考えていることにその最大の理由があります。

シリーズとしては 「ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯」 という名称で、親シリーズとしては 「なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか」 という名称のシリーズの下に配置しています。

ブログ全体を見てくださっている方にはもうご存知とは思いますが、ブログそのものは現在の安倍内閣の政策内容を中心に「政治」そのものと「経済」を中心に記事を作成しています。

同じ親カテゴリーの配下に掲載している「十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」 というシリーズの延長線上に 「ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯」 という名称のカテゴリーを作成しているわけですが、実はこれらのシリーズを作成する決断に至った理由は、私が既に作成している「政治」や「経済」に関連した記事。これに説得力を持たせるためには日本の歴史を私自身が理解する必要がある、と考えたからです。

国債の問題 にしても 年金の問題 にしても、実は多くの人が「理解したつもり」になっている情報とその本当の姿の間に大きなギャップが存在し、私が時々呼ばれて開催する勉強会等でもこれらの話をするとほとんどの方の中の「価値観」が音を立てて崩壊してしまいます。

今現在自分が持っている「常識」が実は大きな偏見によって作り上げられた大きな「非常識」の塊であることをまずは理解することからすべてはスタートします。

ではなぜこのような誤った情報ばかりが流布され、正しい情報を知る機会に私たちは恵まれないのか。その情報を発信する中心にいるのが「マスコミ」です。「マスコミ」という媒体を利用して誤った情報を流布させ、日本人に、「ひょっとすると日本はこのままでは崩壊してしまうのではないか。日本はもう終わりなのではないか」という本当は何の根拠のない、誤った危機感を抱かせてしまう。

これは、そうすることで何等かの利益を手にすることができる人が確かに存在するからです。では、そういった「利益」を手にしようとしている存在はいったい何者なのか。

実は、この様な誤った情報とセットで流出されている情報に目を向けると、なんとなくその正体が見えてきます。
その情報とは、所謂「自虐史観」というものです。

「自虐史観」と「日本という社会構造への危機感」をセットにして情報を流出させることで日本人の精神的構造やその支柱を弱体化させてしまう存在。

彼らは言います。

  「嘗ての日本は悪であった」と。

だから私たちはその迷惑をかけた相手に対して謝罪し、その謝罪する相手に対してある一定の利益を享受させなければならない。

そう主張する人たちは、実は日本人の利益ではなく、日本人以外の人たちの利益を優先させようとする人たちです。

ですがそうではなく、日本の将来を楽観し、現在の日本の経済状況を正確に把握しようと努める人たちの多くは逆の主張を行います。

 「あの時代の日本人は素晴らしかった」

と。

シリーズ 十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 を作成し始めたころの私には、日本は本当に「悪かった」のか、それともそうではなかったのか。これに対して明確な裏付けを以て主張する知識を有していませんでしたから、この様な知識を有する人たちとの間では、議論に参加することすらできませんでした。

ですが、ここを明確にしなければ日本の将来が恰も絶望的であるかのように情報を流布する人たちを説得することは不可能だと私は直感しました。だからこそシリーズ 十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 を作成し、現在は ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 というシリーズを作成しているのです。

ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 というシリーズに関しては、ひとまずソビエト連邦が誕生する経緯までは把握することができたわけですが、そもそもの目的は、であればなぜ赤化した「ソビエト」という国や、そこから影響を受けて誕生した中国共産党がなぜあそこまで残虐な集団へと変質したのか。

ここを探ることにその目的はありますから、シリーズとしてはもうしばらく記事を続けていこうと思います。


「コミンテルン」誕生に至る経緯

前回の記事 では、レフ=トロツキーが中心となって結成した「軍事革命委員会」が、同じ「左派」であったはずのケレンスキー率いる臨時政府内閣に対して、引き起こした「10月革命=ロシア革命」。これが一体どのような形態の中、どのような考え方に基づいて行われたのか、これをまさに革命が引き起こされる真っ只中で行われた第二回ソビエト大会に於けるトロツキーの演説と、第二回ソビエト大会の開催やクーデターの実行をめぐって行われたトロツキーとレーニンとの間でのやり取りを中心に記事にしました。

これは非常に意外な事ではありましたが、その結果としてクーデターはほとんど血を流す事なく、非常に平和裏に実行されました。
これは私の予想を大きく裏切る結果・・・ではあったわけですが、事実は事実として受け止めたいと思います。

となると、どこに問題があったのかと考えた場合ロシア革命が見事成功し、ボリシェヴィキ=ソビエトが政権を握ることとなった、その後の歴史の流れの中でこれが見いだせるのではないか、ということです。

前回の記事では、そのポイントとしてトロツキーの発言内容に着目し、その発言内容がまさしく「コミンテルン」を彷彿させるものであったことから、次はその「コミンテルン」発足に至る経緯を追求することとしました。

「コミンテルン」そのものに関しては私、 第63回の記事 で少しその過程を掲載しています。

ただ、当時の私は今回ほどはロシア革命の経緯に関しての知識がありませんでしたから、今回はもう少し深く記事を作成することができるような感じはしています。

冒頭にすこしテーマからそれる内容を掲載しましたので、記事を分けまして改めて次回記事に於いて「ソビエト連邦の誕生からコミンテルン発足に至る経緯」についての記事を作成したいと思います。


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第324回 10月革命の経緯と10月革命後のロシア

前回の記事では、「ロシア革命」に於いて、レーニン率いる「ボリシェビキ」が中心となった「軍事革命委員会」、同じ社会主義政党であるメンシェビキや社会革命党が中心となった臨時政府に対するクーデターを起こし、遂にロシア政府(冬宮殿)を制圧する様子(10月革命)を記事にしました。

記してみた印象としては、私の印象として、「ロシア革命」はもっと凄惨で、血で血を洗うような革命であったのではないか、というイメージを持っていたのですが、実際には当時の国際社会から考えても、非常に穏やかに、平和裏に「革命」が行われたのだということに、少々拍子抜けする思いがしました。

フランス革命や等を見ていると、「支配される側」よりも「支配される側」の方が革命においては過激で、確かに怠惰ではありますが、支配する側が暴力的な手段に訴えることはそうなかった様に思います。

ですが、ロシア革命においては、むしろこの「支配する側」の方が暴力的であり、支配される側は非暴力的であるように映りますね。意外でした。

レーニンにしても、7月事件までは暴力そのものに反対し、暴力に依らない「社会主義革命」を訴えていた彼が、突然その方針を転換し、「一転して暴力によるブルジョワの廃絶を訴えるようになった」と私は記しましたが、その手段こそ「革命」という暴力的な手段であったものの、その結果は非常に平和的であったわけです。


さて。このような結果をもたらした理由として、これもまた意外だったのですが、10月革命に向けてボリシェヴィキに合流した、「社会民主労働党の過激な反戦派であるメジライオンツィ」。ここに所属していたレフ=トロツキーの存在です。

トロツキー


今回の記事は、10月革命と同時に開催された「第2回ソビエト大会」。ここに於いて行われたトロツキーの演説内容からスタートしたいと思います。


第二回ソビエト大会に於けるトロツキーの演説


内容は以下のサイトから引用します。
第2回全露ソヴィエト大会での演説

サイトそのものをどのような紹介の仕方をすればよいかが分かりませんので、たちまちリンクを貼り付けておきます。

【トロツキーの演説】
1、メンシェヴィキとエスエルの退去について

(10月25日)

 同志トロツキーは次のように述べた。人民大衆の蜂起は弁明を必要としない。生起したことは陰謀ではなく、蜂起である。われわれはペトログラードの労働者と兵士たちの革命的エネルギーを鍛錬してきた。われわれは大衆の意志を陰謀へではなく、蜂起へと、公然と鍛え上げてきたのだ、と。

 演説の結びに、同志トロツキーはボリシェヴィキ会派の名において、次のような決議を提案した。

 

 第2回全ロシア・ソヴィエト大会は次のように確認する。

 メンシェヴィキおよびエスエル代議員の大会からの退去は、武器を手にした労働者、兵士大衆の前衛が反革命の攻撃から大会と革命とを防衛しているこの瞬間において、労働者、兵士大衆が全ロシアの全権を代表するのを阻もうという、無力で犯罪的な試みである。

 協調主義者諸党は、その旧来の政策によって革命の事業に甚大な損害を与え、労働者、農民、兵士たちの間で完全に面目を失墜した。

 協調主義者たちは、軍隊とわが国とを滅亡の淵へと追いやった6月18日の破滅的な攻撃を準備し、それに賛成した。

 協調主義者たちは、死刑を復活させた政府、人民を裏切る政府を支持してきた。協調主義者は7ヵ月間というもの、土地問題で農民を絶えず欺く政策を支持してきた。

 協調主義者たちは革命的諸組織の破壊、労働者たちの武装解除、軍隊へのコルニーロフ的規律の導入、血まみれの戦争の無意味な引き延ばしを支持してきた。

 協調主義者たちは、幾百万の勤労大衆を飢餓に追いやりつつあるわが国の経済的崩壊を、彼らの同盟者であるブルジョアジーがいっそう深刻にするのを実際には手助けしてきた。

 この政策の結果、大衆の信用を失ってしまったにもかかわらず、協調主義者たちは、ソヴィエトおよび軍事組織の長期にわたって改選されていない上層部における自分たちの地位に、作為的にかつ不誠実にもしがみついてきた。

 以上の事情のゆえに、全ロシア中央執行委員会(ツィック)は協調主義的な軍委員会と政府当局による直接の支持を拠り所としつつ、あらゆる手段をもってソヴィエト大会を妨害しようとしてきた。

 大会開催を妨害し革命的階級の世論を偽造しようとするこの政策が惨めな失敗をこうむったとき、協調主義者たちによって創られた臨時政府が、ペトログラードの労働者と兵士たちの圧力の下に崩壊したとき、全ロシア・ソヴィエト大会が革命的社会主義の党(ボリシェヴィキ)の明白な優勢を示し、ブルジョアジーとその下僕によって裏切られ苦しめられてきた革命的大衆にとって、蜂起が唯一の出口であることが明らかになったとき、協調主義者たちは、ソヴィエトの力を掘りくずそうと無駄な努力をしたあげく、それと絶縁したことによって、自らの最後の結論を引き出したのである。

 協調主義者たちの退去は、ソヴィエトを弱めるどころか、それを強化するものである。なぜならば、労働者と農民の革命の中から反革命的混ぜ物を一掃するからだ。

 エスエルとメンシェヴィキの声明を聞いたのち、第2回全ロシア大会は自らの事業を続行する。そして、その任務は勤労人民の意志と10月24日、25日の彼らの蜂起とによって定められている。

 去れ協調主義者どもよ! 去れブルジョアジーの下僕どもよ!

 兵士、労働者、農民による蜂起の勝利万歳!

上記文章は、ロシア語版『トロツキー著作集』に収録されているものですが、冒頭の文言は、この資料の作成者の言葉だと思われます。

内容はもっぱら「協調主義者」たちへの批判です。同資料のタイトルに「1、メンシェヴィキとエスエルの退去について」と記されていますね。

メンシェヴィキと「エスエル」。エスエルとは、即ちケレンスキーが所属した社会革命党の事です。
トロツキーの演説を引用する形で記されていますが、その内容はレーニンの主張をそのまま地でいくような内容となっています。

要約すれば、

メンシェビキも社会革命党も、一見すると革命政党のように見えるが、結果的にはブルジョワたちとの協調を図り、この事が革命そのものを形骸化させ、兵士や農民たちに甚大な被害を与えた。

「協調主義者」たちを政治の舞台から一掃することが、本当の「革命」である

と、そういった内容になっています。
リンク先からの受け売りになってしまいますが、現時点としてはこのロシア革命を判断する上での明確な情報を持ち合わせていませんので、このリンク先の内容を参考としながら記事を進めていきます。

リンク先資料によれば、この「第二回ソビエト大会」を開催するに当たって、レーニンは

「大会を開催するべきではない」=「大会を開催することはクーデターを失敗させる決定的な要因になる」

と考えていたのですが、一方のトロツキーは、

「大会を開催する前にクーデターを起こすことは、双方に不要な流血を起こす結果になる。クーデターと大会を連携させて行うことが必要だ」

と考えていました。トロツキーは、軍事革命委員会を設置する際、その演説の中で、

 「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」

と宣言しており、要は堂々と「クーデターを起こすための組織を作るぞ!」と言いながら軍事革命委員会を作っていたわけです。
ですが、そもそも軍事革命委員会を作ることを提案したのはメンシェヴィキの面々でしたし、特に「コルニーロフの反乱」に於いて中心的な役割を果たしたボリシェヴィキに強く出ることは出来なかった・・・ということでしょうか。

第二回ソビエト大会を開催する直前に、エストニア自治政府に於いて、ボリシェヴィキの指導者の一人が左派勢力を率いてクーデターを起こします。

これを受けてケレンスキー内閣はボリシェヴィキ機関紙の印刷所を占拠し、「武力による言論弾圧」を行います。
トロツキーは、この様なケレンスキー政府の行動を、「第二回ソビエト大会を妨害する行為である」とし、「ソビエト防衛」の名の下、軍事革命委員会はケレンスキー内閣を「鎮圧」する形で見事クーデターを成功させてしまうわけです。

この時点でペトログラード内のロシア人兵士たちはほぼボリシェヴィキ側についていましたから、結果的にほとんど血を流すことなくクーデターを成功させることができたわけです。


トロツキーは、また同じ演説の中で、以下の様にも述べています。

平和のための闘争には2つの道がある。

第1の道は、同盟諸国の政府と敵国の諸政府に対して、革命の道徳的および物質的力を対置することである。

第2の道、これはスコベレフとのブロックであり、そのことはテレシチェンコとのブロックを意味している。すなわち、帝国主義への完全な屈服を意味している。

「平和に関する布告」の中でわれわれが各国の政府と人民とに同時に呼びかけていると指摘する者がいる。しかし、これは形式的なものにすぎない。われわれは当然のことながら、自分たちのアピールで帝国主義政府に影響を与えようなどとは思っていない。しかし、これらの政府が存在する間は、われわれはそれを無視するわけにはいかないのだ。

われわれはすべての希望を、われわれの革命がヨーロッパ革命に道を開くということに賭けている。

もし、蜂起したヨーロッパ人民が帝国主義を押しつぶさないならば、われわれが押しつぶされるだろう。このことは疑いない。ロシア革命が西欧における闘争の旋風を引き起こすか、あるいはすべての国々の資本家どもがわが革命を締め殺すかのどちらかだ。

改めて確認しておきますと、ボリシェヴィキの指導者はレーニンです。ですが、彼は今回記事にした「第二回ソビエト大会」において、これを開催するか、しないかでトロツキーと意見が分かれ、結果的にトロツキーの選択(戦略)が正しかったことが証明されてしまいました。

トロツキーの戦略により、ほとんど流血することなく革命を成功させることができたのです。これ以来、レーニンはトロツキーの事をとても信頼するようになります。

そして、トロツキーは上記演説の中で、

「われわれはすべての希望を、われわれの革命がヨーロッパ革命に道を開くということに賭けている。」

と述べています。
つまり、ロシアが行った革命のモデルを、ロシアだけでなくヨーロッパ全土にまで広げることを提案しているわけですね。

ここまで来ると、私の過去の記事を読んだことがある人の中には、とある言葉が思い浮かぶのではないかと思います。

第三インターナショナル。そう、「コミンテルン」の事です。

トロツキーが演説した内容は、そっくり「コミンテルン」の在り方と同じことを言っています。

現時点ではまだ私自身の「予測」にすぎませんが、次回記事では、この「コミンテルン」結成に向けた経緯に主眼を置いて記事を進めてみたいと思います。


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<継承する記事>
第323回 7月事件と10月革命までの経緯

私自身が勉強しながら記事を進めていますから、内容としては「真相」に踏み込む形ではなく、表面的な経緯をなぞる形となっていますが、もう暫くお付き合いください。

前回の復習です。
ロシア革命に於いては完全に出遅れた感じのボリシェビキとレーニンですが、二月革命の勃発を受け、流刑地や亡命先より帰還。徐々にその影響力の片鱗を見せ始めます。

共産主義革命の在り方としては、元々 第二インターナショナル が目指していた様な非暴力、反戦の姿勢を指示していたはずのレーニンですが、7月事件の失敗で、その責任をすべてボリシェヴィキ指導者たちに押し付けられるような形となり、レーニンはフィンランドに亡命。他の指導者たちは地下に潜伏し、ボリシェヴィキへの勢力は後退へと追い込まれてしまいます。

この時レーニンらを7月事件の主犯に仕立て上げ、首都ペトログラードから追い払ってしまったのが前首相のリヴォフなのか、リヴォフの後をついたケレンスキーなのか、見るサイトによって時系列が異なっていますので私自身ははっきりとはまだ理解できていません。

ただ、リヴォフは7月事件の責任を取って辞任していますので、おそらくボリシェヴィキをペトログラードから追い立てたのはケレンスキー内閣だったのだと思われます。

指導者たちが表舞台から鳴りを潜める中で、ボリシェヴィキそのものは合法的な活動に終始します。
同年(1917年)8月、ボリシェヴィキとは距離を置きながらも歩みをそろえていた社会民主労働党の過激な反戦派であるメジライオンツィ が、8月初めに開催されたボリシェヴィキ党大会を通じてボリシェヴィキに統合されます。

前回、軍事革命委員会結成に於いて中心的役割を演じた人物としてご紹介したレフ=トロツキーはこのメジライオンツィに所属していた人物です。この後、コルニーロフ事件を経て一気に勢力を拡大したボリシェヴィキによって十月革命は引き起こされるわけですが、どうもこの革命を主導したのはこのメジライオンツィに所属する面々であったようです。


十月革命勃発までの経緯

それにしても、調べれば調べるほど頭の中がごちゃごちゃになりそうです。

ロシア革命に勃発する経緯について、様々な記述を見ることができるのですが、私がこれまでやってきた検証方法がどうにも通用しない分野です。

例えば「レーニン」という人物の行動を探るにしても、通常であれば同じ記述が1か所ではなく複数個所に存在し、それらの矛盾点を潰し、整合性を取っていく中である程度の「流れ」が見えてくるのですが、見るサイトによって書いていることがバラバラで、重複している部分が少ないのです。

ですので、「検証」を行う事が難しく、書いてあることが真実なのかどうか、例えば「真実なのかどうかわからないけれども、おそらく真相に近いのではないか」というレベルにまで落とし込むことができていない記述が多くなりますので、あくまでも「そういう説があるんだ」と、現時点では参考程度に留めておいていただけると嬉しく思います。

7月革命に於いてケレンスキー内閣より追い立てられたレーニンはフィンランドにまで逃れていたわけですが、彼はそれまで暴力を否定し、暴力に依らない「社会主義革命」を訴えていたように思えるわけですが、そんな彼がなぜか7月事件以後、一転して暴力によるブルジョワの廃絶を訴えるようになります。

その代表的なものが彼がフィンランドに潜伏している期間に記した「国家と革命」という著書。
この中で、彼は以下のような主張を訴えています。

【国家と革命(Wikiより)】
レーニンにとって、国家は階級支配を維持する意義がある。

このことを示すためにエンゲルスの研究を参照しながら、社会から発生しながらも社会の上位において自らを社会から疎外する権力を国家と考える。

したがって国家とは階級支配の機関であり、階級の衝突を緩和しながら維持する政治秩序を創出するものであり、既存のブルジョア独裁国家は奪取するだけでなく、革命においてプロレタリアートによって強制力により廃絶してプロレタリア独裁国家をつくらねばならない。

同時にレーニンは革命とは選挙に基づいた政権交代ではない暴力革命でなければならないと主張し、ブルジョア国家の一部であるブルジョア民主主義もまた廃絶されなければならない(暴力革命に拘らず選挙などの平和的な手段もありうるとしたエンゲルスやマルクスの側面をレーニンは無視した)。

この主張のために、レーニンは、マルクスが著書でわずかしか触れていない「プロレタリア独裁」という用語を「民主主義の最高形態」として「発見」し、以後の著作で大々的に用いた。

この様に急進的な姿勢へと転換した理由の一つとして、「ロシア革命」という名前のサイト中、「革命の決意」というページ に於いて、以下のような記述がみられます。

【サイト「ロシア革命」より、「革命の決意」】
「七月事件」以降地下に潜ったレーニンは9月13日、「ボリシェヴィキは権力を掌握しなければならない」と題する手紙を潜伏先のフィンランドからボリシェヴィキの党本部にむけ発送した。

「ボリシェヴィキは2つの首都(ペトログラードとモスクワ)のソヴィエトにおいて多数を占めたので、国家権力をその手に握ることが出来るし、また握らなければならない」として臨時政府に対する武装蜂起を呼びかけたのである。

何故急にそんなことを言い出したのか?

実はこの頃、ドイツにて急速に革命的機運が高まりつつあった。

「ロシアの革命によって他国のプロレタリア革命に火を付け、そちらの援助によってロシアでも社会主義社会を実現する」という「世界革命」を指向するレーニンにとって、臨時政府打倒とソヴィエト政権樹立という火花を打ち上げることこそが「世界革命」の合図なのであり、ドイツの情勢を見てもその機は限界まで熟しているというのである(ロシア革命史)。

この記述の中で、

 「ロシアの革命によって他国のプロレタリア革命に火を付け、そちらの援助によってロシアでも社会主義社会を実現する」

という考え方をこの時点でのレーニンが持っていたのかどうかは若干疑ってみているのですが、それでもレーニンが考え方を変えたきっかけとして、当時のドイツに於いて革命的機運が高まってきていた・・・という記述は参考になるように感じます。

この当時のドイツがどのような状況にあったのか、という内容については後日まとめる予定の「なぜナチスドイツは誕生したのか」というカテゴリーに委ねたいと思います。

ですから、今回はレーニンの心情の変化がフィンランド潜伏中のドイツに於ける世情の変化にあった、という前提で話を進めてみたいと思います。

それともう一つ考えられるのは、「第二インターナショナル」の存在。

レーニンは、元々暴力を否定し、反戦を訴えていた第二インターナショナルの面々が、いざ祖国が戦争に巻き込まれるとその姿勢を翻し、祖国防衛へと立場を簡単に変えてしまったことを批判していました。

彼が「暴力」によらない革命を目指していた、と私が記している根拠はここにあります。

ですが、彼が「国家と革命」に於いて記述している内容は、「祖国がいざ戦争に巻き込まれるとその姿勢を翻した第二インターナショナル」ではなく、「もともと暴力を否定し、反戦を訴えていた第二インターナショナル」をどうも批判している様に見えるのです。

彼は第二インターナショナルが「祖国がいざ戦争に巻き込まれるとその姿勢を翻した」ことを批判していた筈なんですが、「第二インターナショナル」を批判するということは、そもそも第二インターナショナルのやり方そのものが間違っていたのではないか・・・とうする発想に至ったのではないでしょうか?

第二インターナショナルがそもそも第一インターナショナルの暴力的な部分を否定し、「暴力」ではなく「話し合い」による改革を訴えていたわけですが、そのやり方を否定するということは、即ち暴力による革命を肯定することになる・・・と。

四月テーゼにおいても彼はメンシェヴィキやボルシェビキの同志であるはずのカーネフやスターリンを批判しました。
その批判する理由が、「プロレタリアート(ソヴィエト)」による革命を実現しながら、「ブルジョワ(臨時政府」)」の政治を肯定してしまったことにありました。

そして7月事件を受けてケレンスキーが首相となり、議会政治そのものを社会主義者たちが支配したにも関わらず、結局ケレンスキーは戦争を肯定し、兵士を含むロシア国民より同盟諸国との同盟関係を優先したわけです。

ですからレーニンは政治そのものをメンシェヴィキやケレンスキー達社会革命党の面々ではなく、ボリシェヴィキの手中に収めることが必要だと考える様になっていったんですね。


さて。この時点でしっくり来ていないのは、コルニーロフの反乱 の後、トロツキーが中心となって軍事革命委員会が結成されるわけですが、この時点で既にレーニンが変装してロシアに戻ってきていて、7月事件を受けて壊滅状態に陥っていたボリシェヴィキを再建した、という記述がみられる中で、同じレーニンが変装して戻ってきたのは10月だ、という記述がみられたり・・・。

どの情報を信じるべきなのか、まだ現時点では確定していません。
また、レーニンが「世界革命」という考え方を持っていて、ロシア革命後、ロシア革命の余波が全世界に広がり、全世界で社会主義革命がおこることを期待していた、という記述も登場します。

これは、後の「第三インターナショナル」、即ち「コミンテルン」の結成にも関わってきますね。
まぁ・・・それにしても時系列が一致しません。


十月革命の勃発
十月革命はユリウス暦10月25日に革命が起きたから十月革命と呼ばれるのであって、現代の暦であるグレゴリオ暦では11月7日に起きた革命です。

十月革命はボリシェヴィキ率いる軍事革命委員会がケレンスキー率いる臨時政府に対して引き起こしたクーデターです。
きっかけとなったのはエストニア自治政府に於いて、ボリシェヴィキの指導者の一人でエストニア人のヤーン・アンヴェルトがエストニアの左派革命勢力を率いて起こした武力蜂起。

これを受けロシア臨時政府がボリシェヴィキ機関紙の印刷所を占拠。つまり武力による報道弾圧を行うわけですが、これに反発してついに軍事革命委員会が武力行動を開始します。

ボリシェヴィキの事前策略のおかげで既にペトログラード内ロシアの兵士たちはボリシェビキ側に付いており、実際にはそれほど血を流すことなくボリシェヴィキはペトログラードの要所を抑え、続いてロシア政府のある冬宮殿を制圧。

冬宮殿

ボリシェヴィキはたった2日でロシア政府を占拠してしまったのです。(ロシア革命)

同じタイミングで「第二回ソビエト大会」が開催されるわけですが・・・。


次回はロシア革命後、ボリシェヴィキがどのようにして政権を掌握するに至るのか。
「ロシア革命後の経緯」について記事にしたいと思います。



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<継承する記事>
第319回 レーニンの四月テーゼと十月革命

前回の記事、タイトルは「レーニンの四月テーゼと十月革命」としていましたが、内容としてはほぼ四月テーゼに関する記事で、十月革命については全く触れていませんでしたね。

今回の記事では、改めまして四月テーゼより、十月革命が勃発するまでの経緯を追いかけてみたいと思います。


前回までの復習ですが、第一次世界大戦の影響下、肝心の生産活動を行うべき人材を兵士ととして戦争に駆り出されたロシア帝国では、食料不足を原因として、首都、ペトログラードを中心にデモが発生。

これを鎮圧するために警官隊がデモ隊に発砲。このことを受けてデモは武装蜂起へと発展。デモの鎮圧にあたるべき兵士が次々と反乱軍側につき、皇帝ニコライ二世は半ば強制的に退陣させられ、遂に帝政ロシアは崩壊。

「残された議会(ドゥーマ)」と「政党であるメンシェビキを中心に作られたペトログラード・ソヴィエト」が帝政後ロシアの主導権を握ることとなりました。

ペトログラード・ソヴィエトを中心となって結成したメンシェヴィキは、後の十月革命で中心的な役割を果たすボリシェヴィキとはまた別の政党で、ボリシェヴィキの中心的なメンバーであるレーニンやスターリンらは流刑地送りにされていたり亡命していたりしていましたので、革命政府の旗振り役とはなれなかったんですね。

ところが、2月革命と帝政ロシアの崩壊を受け、流刑地よりボリシェヴィキの中央委員であるカーネフとスターリンがペトログラードに帰還(1917年4月3日)。

ですが、カーネフやスターリンを含むペトログラード・ソヴィエトは「暴力」による革命を容認しており、この姿勢を亡命先のスイスから帰還していたレーニンは批判し、「四月テーゼ」というものを公表します。

レーニン

【四月テーゼの骨子】
 
・「臨時政府」を「ブルジョワ政府」とみなし、一切支持しないこと
・「祖国防衛」を拒否すること
・「全権力のソヴィエトへの移行」

帝政ロシアの後を引き継いだ臨時政府は、ロシア国民向けにはペトログラード・ソヴィエトの意向を反映した声明を発表するわけですが、第一次世界大戦真っ只中であった当時、同盟関係にあった連合各国にはこれと逆行する声明を送りました。

で、これに反発した労働者や兵士が再びデモを起こし(四月危機)、ペトログラード・ソヴィエトが臨時政府へと入党することになりました。


7月事件

レーニンの打ち出した「四月テーゼ」は、まさにこの臨時政府の意向を先読みしていたかののような内容となっていたわけです。

四月危機は臨時政府の外相と陸海相が辞任することで収束し、5月5日に発足した臨時政府とペトログラード・ソヴィエトの第一次連立政府では4名、ペトログラード・ソヴィエト側の人物が入党するわけですが、だから臨時政府の方針が大幅に変わった、というわけでもなかった様です。

臨時政府では同盟諸国からの要請を受け、ペトログラード・ソヴィエト側の議員であるケレンスキー陸海省は、対独前線に於いて大攻勢を仕掛けます(6月18日)。然し革命をうけ、当然兵士たちの士気は低下しており、ドイツからの反撃を受けることになります。

このことで更に兵士たちの政府に対する不満は募り、「7月3日、ペトログラードの第一機関銃連隊は、ソヴィエトの中央執行委員会に全権力を掌握するよう求めるための武装デモを行うことを決定(Wikiより)」します。

第一機関銃連隊以外の部隊や工場労働者たちも参加し、デモが行われる(7月事件)わけですが、ソヴィエトの中央執行委員会はこれを拒否。デモは拡大するものの、前線より臨時政府やソヴィエト中央の姿勢を指示する部隊が到着し、デモは鎮圧され、失敗に終わります。

ボリシェヴィキはデモ隊の姿勢を支持したことから、デモが起きたことそのものがボリシェヴィキのせいにされ、メンバーであったトロツキーやカーメネフは逮捕され、レーニンは一時的にフィンランドへと逃亡します。


レーニンの変化
レーニンは元々暴力を否定し、反戦を訴えていた 第二インターナショナル の面々がいざ祖国が戦争に巻き込まれるとその姿勢を翻し、祖国防衛へと立場を簡単に変えてしまったことを批判し、このことが「四月テーゼ」の内容にも反映されていました。

つまり、この時点では「反暴力」を訴え、第二インターナショナルが取っていた暴力に依らない、平和的な手段による共産(社会)主義革命を訴えていました。

四月テーゼにある「全権力をソヴィエトへ」という考え方はボリシェヴィキ自身のスローガンとしても採用され、ボリシェヴィキは平和的な手段により権力を臨時政府(ブルジョワ)から奪取しようと考えていました。

ですが、7月事件でボリシェヴィキが壊滅的な状況へと追い込まれたことから、レーニンはこの「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを放棄することを呼びかけるようになります。つまり、これまでの様に平和的な手段によって権力を奪取するのではなく、「武装蜂起」、つまり「暴力」によって臨時政府から政権を奪取することを訴えるようになるのです。

マルクスは、共産主義革命は暴力によってしか実現できないと訴えたわけですが、レーニンも結果的にはこのマルクスの考え方を継承することとなるんですね。


コルニーロフの反乱
一方、第一次連立政権では、首相であったリヴォフが7月事件の責任を取って辞任(7月8日)。

代わりに二月革命後よりドゥーマの一員であった社会革命党のケレンスキーが首相となり、内閣を完全に社会主義者陣営で固めてしまいます(第二次連立内閣:7月24日)。ただしここにボリシェヴィキは含まれません。

この様にして政権の座に就いたケレンスキーですが、実際におこなった政治の内容は第一次連立内閣とそう変わりはなかったらしく、対独戦の失敗や7月事件後のボリシェヴィキ陣営への弾圧を通して旧体制派や革命派からも支持を失い、弱い支持基盤を晒すこととなります。

そして、そんな中旧体制の復活を求めるラーヴル・コルニーロフが軍の最高総司令官の座へと就任し、首相であるケレンスキーとの間で対立が生れます。ケレンスキーも旧体制派の支持を得たいとは考えていましたが、コルニーロフの要求のすべてを受け入れることは出来ませんでした。

そして、コルニーロフはついに反乱を起こし、部下に武力を用いてソヴィエトを解散させることを命じます。
そして政府に対しては全権を再び旧体制派へと委譲することを求めます。

この時政府側に付いたがボリシェビキの面々。
コルニーロフの命を受けてペトログラードに攻め込んだ兵士たちはソヴィエトを指示する人々に説得されて武装解除し、弾の一発も撃つことなくこの反乱は収束したのだそうです。


軍事革命委員会の結成

コルニーロフの反乱を受け、メンシェヴィキはペトログラード・ソヴィエトに対し、「軍事革命委員会」の設置を提案します。

この時点でボリシェヴィキは「全権をソヴィエトへ」というスローガンを放棄し、武装蜂起による権力奪取を行う方針を第六回党大会(7月末~8月当初)に於いて決議しており、またコルニーロフの反乱後、10月10日(ユリウス暦)にボリシェヴィキ中央委員会に於いて賛成多数により「武装蜂起はもはや避けられず、その期は十分に熟した」という宣言を採択しています。

ボリシェヴィキは武装蜂起を行うための戦力を欲しており、メンシェヴィキ側からの「軍事革命委員会設置の提案」は渡りに船でした。

10月12日、メンシェヴィキが提案し、ボリシェヴィキが賛成した軍事革命員会は設置されることとなります。
この軍事革命委員会は、ケレンスキー政権を打倒し、ソヴィエトによる政権を設立するため、武力蜂起を行う為の組織であったわけです。

この時中心的な役割を演じたのがレフ・トロツキーという人物で、彼は「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」との演説を行い、ボリシェヴィキには公然と武装蜂起を行う意思があることを認めてしまいます。

トロツキー

この様な状況に在りましたから、メンシェヴィキは軍事革命委員会には参加せず、軍事革命委員会は大部分をボリシェヴィキが、そのほか社会革命党左派(エスエル左派)、そして無派閥によって構成されることになりました。

ボリシェヴィキはついにペトログラード・ソビエトに於ける「多数派」へと返り咲いたんですね。
トロツキーは武装蜂起を第二回全国ソビエト大会が開催される10月25日に実行することを主張し、軍の各部隊もケレンスキー率いる臨時政府ではなく、ペトログラード・ソヴィエトの指示に従うことを決めます。

さて。この後10月24日、2月革命以降に設立されたエストニア自治政府に於いて「10月革命」の口火は切られます。
次回記事においては、10月革命の経緯と10月革命後のロシアについて記事にしたいと思います。


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第318回 ロシア第一革命以降のレーニン/ボリシェヴィキの指導者

人間の気持ちや感情ほど検証しにくいものはない・・・と、そう感じさせられるのが今回の「ロシア革命」についての検証です。

同一人物が考えている内容でも、これが段々変化していく様子が露骨に見て取れるし、それが元々考えていた事なのか、それとも途中で変説したのか、これを見ることがまた難しい・・・。

ですので、ごくわずかの事を調べるのにもものすごく膨大な時間が必要になってます。なので振り返って見ると記事そのものがとても短くなってますね。このあたり、ご容赦いただければと思います。


レーニンの四月テーゼ

四月テーゼ

前回の記事の復習と、更新すべき情報も含めて二月革命以降の様子をまとめてみます。

二月革命によってニコライ二世が失脚させられ、代わりに当時の国会(ドゥーマ)を構成していたメンバーによって臨時政府が打ち立てれます。

一方革命を起こした側であるボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、社会革命党の三党ですが、二月革命後、この三党によって「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されます。

ボリシェヴィキの主要メンバーが流刑にあっていたり亡命したりしており、この時ボリシェヴィキは中心的な役割を果たすことができず、ペトログラード・ソヴィエトはメンシェヴィキの旗振りによって結成されました。

ペトログラード・ソヴィエトが結成されたのが1917年2月27日。ペトログラード・ソヴィエトはこの時、ペトログラード守備軍に対し、

「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴィエトの命令と決定に反しないかぎりで遂行すべきである」

という命令を発しています。「国会軍事委員会」、すなわち臨時政府のことを一つの政府として承認しているんですね。


一方の臨時政府ですが、3月6日、

「同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発表」

しています。この時点で、臨時政府は戦争を継続することを発表しました。

難しいのはここからで、この政府決定に対し、ペトログラード・ソヴィエトは「全世界の諸国民へ」という声明に於いて、

「われわれは、自己の支配階級の侵略政策にすべての手段をもって対抗するであろう。そしてわれわれは、ヨーロッパの諸国民に、平和のための断乎たる協同行動を呼びかける」
「ロシア人民がツァーリの専制権力を打倒したように、諸君の反専制的体制のクビキを投げすてよ」

という主張を行います。

難しいんですが、その他の記述から想像すると、どうも戦争そのものは容認しながらも、戦争が終結した後の社会に於いて、二月革命において労働者や兵士が結束して帝国主義を崩壊させたようにヨーロッパの諸国民が結束し、専制君主制維持を打倒するための行動を起こすよう呼びかけている様です。

これが3月1日のこと。

同月12日、流刑地よりボリシェヴィキの中央委員であるカーネフとスターリンがペトログラードに帰還します。
15日、彼らはボリシェヴィキ機関紙である「プラウダ」に於いて、以下のような記事を掲載します。

軍隊と軍隊とが対峙しているときに、武器をしまって家路につくよう一方に提案するのは、最もばかげた政策であろう。これは平和政策などではなく、自由人民たちを苛立たせ拒絶させる、奴隷政策だ。

前回の記事 に於いて、レーニンが 第二インターナショナル に所属した社会主義者たちが暴力を否定し、反戦を訴えていながら、いざ第一次世界大戦が勃発すると「祖国擁護」を訴えて反戦の姿勢を翻したことを批判したことを記事にしました。

同じボリシェヴィキの指導者であるカーネフとスターリンが記した記事は、この様なレーニンの考え方と真っ向から対立するものです。

臨時政府による戦争継続の姿勢を容認したペトログラード・ソヴィエトと、更にこれに追随するような記事を掲載したカーネフとスターリン。レーニンがペトログラードに帰国するのは4月3日の事ですが、翌4月4日、レーニンが発表したものが「四月テーゼ」です。


具体的な四月テーゼの話題に進前に、少し時間を戻してペトログラード・ソヴィエトの圧力を受け、臨時政府が発表した「戦争目的についての声明」ついて掲載しておきます。

この声明が発表されたのが3月27日。臨時政府は、以下のような内容の声明を発表します。

「自由ロシアの目的は、他民族を支配することでもなく、彼らからその民族的な財産を奪取することでもなく、外国領土の暴力的奪取でもない。それは、諸民族の自決を基礎とした確固たる平和をうちたてることである。……この原則は、わが同盟国に対して負っている義務を完全に遵守しつつ……臨時政府の外交政策の基礎とされるであろう」(Wikiより)

この当時の戦争は主に他国の領土を侵略するために行われていましたから、この声明では、

・帝政を打倒した臨時政府は、外国の領土や財産を暴力的に侵略する為には戦争は行わないこと

を訴えています。また、「自決」とありますから、議会を通じて民族が統合的に意思決定を行うシステムを基盤とした平和な社会を築くことを目的とします、とも訴えているわけです。

ペトログラード・ソヴィエトの要求をそのまま声明とした形ですね。

臨時政府はこの声明を4月18日、連合国各国政府に発送します。ですが、この声明に「ミリュコフ覚書」なるものが添付されていました。

この内容については、時系列を追いかける形で後程掲載したいと思います。


「現下の革命におけるプロレタリアートの任務」

これが、「四月テーゼ」の正式な名称です。
四月テーゼの中でレーニンは、

 ・「臨時政府」を「ブルジョワ政府」とみなし、一切支持しないこと
 ・「祖国防衛」を拒否すること
 ・「全権力のソヴィエトへの移行」

などを訴えました。

「祖国防衛」の拒否、とはレーニンの訴えた「革命的祖国敗北主義」に基づくものと考えられます。

引用先の第63回の記事 では、この革命的祖国敗北主義を非常に辛辣に書き表しましたが、少なくともこの時点ではまだいうほど末恐ろしいものでもない様に感じます。

彼の後を引き継いだスターリンの政策をみるまでこの考え方に対する評価は先延ばしにしたいと思います。

さて。レーニンが四月テーゼを発表したのは4月4日ですが、同月18日、臨時政府が連合各国政府宛に送った声明に添付されていた覚書には、以下のような内容が記されていました。

「遂行された革命が、共通の同盟した闘争におけるロシアの役割の弱化を招来する、と考える理由はいささかもない。全く逆に……決定的勝利まで世界戦争を遂行しようという全国民的志向は、強まっただけである」

レーニンと当時のペトログラード・ソヴィエトとの間でも「戦争」に対する受け止め方に大きな開きがあったわけですが、この「ミリュコフ覚書」に書かれていた内容は、そんなペトログラード・ソヴィエトの考え方にすら大きく離反するものでした。

「ミリュコフ覚書」の内容が新聞で報じられると、労働者や兵士らの抗議デモを引き起こし(四月危機)、臨時政府のミリュコフ外相とグチコフ陸海相が辞職。そしてペトログラード・ソヴィエトよりもとより法務大臣として入閣していたケレンスキー以外に、メンシェヴィキ・社会革命党より合計4名が臨時政府に入党することとなりました。


ボリシェヴィキでは、四月危機の勃発を受け、レーニンの四月テーゼが党の公式見解となり、「全権力をソヴィエトへ」という言葉がスローガンとなります。


それにしても、ややこしい・・・。
目まぐるしく変化する情勢は、続いて「七月事件」、そして「十月革命」へと移行します。

次回記事ではこの七月事件と十月革命についての記事を作成します。


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第313回 「ウラジミール=レーニン」という人物

前回の記事では、後に10月革命の中心人物となり、ロシア革命を成し遂げてしまう人物、「ウラジミール=レーニン」について、彼の生い立ちをロシア第一革命が起こる直前まで追いかけてみました。

レーニン

記事を革命前後で分けたことには、単に文章が長くなってしまう事以外にもう一つ理由があります。

レーニンは、ロシアに於ける革命を「プロレタリアートによる革命」ではなく、「ブルジョワ」によって成し遂げるべきだと、そう考えたのだということを記事にしました。

そして、元々「マルクス」という人物によれば、「プロレタリアートによる革命」を「共産主義」、「ブルジョワによる革命」を「社会主義」と定義づけていましたから、ブルジョワによる革命を目指したレーニンの革命は、「共産主義革命」ではなく「社会主義革命」であったのだと、そうお伝えしたと思います。


プロレタリアートと農民がブルジョアジー抜きで遂行するブルジョア革命

それにしても解釈が難しい・・・。
何が、と申しますと、これがタイトルにある、「プロレタリアートと農民がブルジョアジー抜きで遂行するブルジョア革命」。

レーニンは元々「ロシアに於ける革命は、プロレタリアートではなくブルジョワに依って成し遂げられるべきだ」と考えていました。
ですが、1905年に勃発した血の日曜日事件 を受け、「レーニン来るるべき革命の性格を「労働者と農民の革命的民主主義独裁」と規定した」とWikiには掲載されています。

そして、その考え方の中で、「レーニンはプロレタリアートと農民がブルジョアジー抜きで遂行するブルジョア革命を構想した」とあるのです。

なんだそれは、と。
ブルジョア革命はブルジョワジー(資産階級)行われるものなんじゃないのか、と。

そこで、同じ記述をWikiではなく、「世界史の窓」に書かれてある「レーニン」のページを参考にしてみると、以下の様に記されていました。

1902年には『何をなすべきか?』を著し、少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党が労働者を指導すべきであると主張した。1903年のロシア社会民主労働党第2回大会に参加し、その主張を展開しボリシェヴィキを指導した。第1次ロシア革命では当面のブルジョア民主主義革命の達成を目指した。

Wikiベースでは「ブルジョワによる」とされている部分が、「少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党」と言い換えられています。

この、「少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党」の事をレーニンは「ブルジョワ」と表現したのでしょうか。
世界史の窓の文章から見ますと、ロシア社会民主労働党の中で、「ボリシェヴィキ」としてブルジョワ民主主義革命を目指した、ということになります。

いや然しそれ、既にブルジョワジーが主導していない時点でブルジョワ革命じゃないだろう、というツッコミが入りそうな曲面ですね。

世界史の窓からの引用は、レーニンの著書である「何をなすべきか」からの引用です。
で、私が前回の記事 で掲載したレーニンの考え方もまた同じ「何をなすべきか」において掲載されている内容を意訳したものです。

レーニンは1916年、つまり第一次世界大戦場勃発した2年後、亡命先にて「帝国主義論」という著書を残しています。
レーニンがこの著書を通じて対立しているのは、元々反戦を訴えながら、第一次世界大戦の勃発を受けて「祖国擁護」へと転じていいった 第二インターナショナルの社会主義者 たち。

リンク先にも掲載しているとおり、ここでいう「社会主義者」とは、共産主義者たちが訴える「暴力による革命」を否定し、暴力の代わりに議会による話し合いでこれを解決しようと考えた人たちのことです。

ですが、暴力を否定し、反戦を訴えたはずのこの社会主義者たちが、いざ第一次世界大戦が勃発し、祖国が戦争に巻き込まれると一転して「祖国擁護」を訴えて祖国に戻り、第二インターナショナルは事実上崩壊してしまいました。

この時記された著書、「帝国主義論」の中で記されていたのは、「資本主義社会が発展し最終段階としていきつくところが『帝国主義』である」ということ。

つまり、レーニンが目指していたのは帝国主義と資本主義社会の打倒だったんですね。
つまり、「帝国主義と資本主義社会」を打倒すること、即ち「ブルジョワ革命」であると考えていたのではないでしょうか。

さて。では、このレーニン率いる「ボリシェヴィキ」がロシア第一革命に於いて何をしたのかというと、第310回の記事 よりの引用になりますが、

『武装蜂起を計画し、労働者を暴力によって従わせ、デモを決行』

します。このデモ隊に対して帝政ロシア政府軍が発砲、1000人以上の死者を出した後、ボリシェヴィキは政府軍に投降。ロシア第一革命は終結することになります。

つまり、レーニンはロシア第一革命に於いて、ブルジョワ民主主義革命を起こすことに失敗した・・・と。


さて。「ロシア第一革命」に続いて起きた革命が「二月革命」。
このとき、レーニンはスイスに亡命しており、二月革命を主導したのは「社会革命党」と「メンシェビキ」。

二月革命に於いてロシア皇帝であるニコライ2世が半ば強制的に退位させられ、後を引き継ぐことがいなかったことから帝政ロシアは崩壊。所謂「帝国主義」を崩壊させることに成功し、ここで無事「ブルジョワ革命」は成し遂げられることとなりました。

さて。ところが、です。
ここで問題となってくるのは帝政ロシアの後を引き継いだ臨時政府と、メンシェヴィキの旗振りで結成されたペトログラード・ソヴィエト。

「ロシア社会民主労働党」より分裂した「ボリシェヴィキ」と「メンシェヴィキ」ですが、この二つの派閥の最大の違いは、ボリシェヴィキの目指していたのは「プロレタリアートと農民がブルジョアジー抜きで遂行するブルジョア革命」。

一方のメンシェヴィキが目指していたのは、「ブルジョワ革命なんだから、やっぱりブルジョワジーの手で実現されるブルジョワ革命」。この違いがこの二つの派閥の考え方の違いです。

メンシェヴィキは、ニコライ二世が去った後のロシアで誕生した、ロシア国会(ドゥーマ)議長らによって結成された臨時政府を「ブルジョワ政党」であると考え、この臨時政府を支持する方針を示します。

これが、レーニンにとっては「社会主義革命を成し遂げず、妥協した姿である」と捉えるんですね。

レーニンに先駆けて同じボリシェヴィキの指導者であるカーメネフとスターリンも帰国するわけですが、レーニンはそんな二人もメンシェヴィキと変わりがない、と訴えます。



4月3日、スイスから帰国したレーニンは、この様な思いを記した「四月テーゼ」なるものを発表します。

次回記事では、この「四月テーゼ」を中心に記事を進めてみます。


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第312回 ロシア革命に於ける二月革命/ロマノフ朝(帝政ロシア)の崩壊

前回の記事でお示ししました様に、所謂「ロシア革命」は、ユリウス暦1917年2月23日にロシアの首都ペトログラードにて発生した、食料配給を求める「デモ」が原因で勃発しました。

2月革命後、「ボリシェヴィキ」「メンシェヴィキ」「社会革命党」の3党によって「ペトログラード・ソヴィエト(労働者・兵士による評議会)」が誕生し、一つの「権力」を保有することとなるわけですが、結成はこの当時多数派であった左派社会主義政党「メンシェヴィキ」の呼びかけに応じて行われました。

ですが、第310回の記事 でもお伝えしました様に、そもそも「メンシェヴィキ」や「ボリシェヴィキ」が誕生したの最大の理由は、後の十月革命で中心的な役割を果たす「ウラジミール=レーニン」がロシア労働党機関紙であった「イスクラ」編集局から分裂し、ボリシェヴィキ中央部「多数派諸委員会ビューロー」を結成したことが原因でした。

この当時「レーニン」率いるボリシェヴィキは「多数派」であったわけですが、「ペトログラード・ソヴィエト」が結成された時点では少数派となっています。

では、「多数派諸委員会ビューロー」を結成した後、「レーニン」率いるボリシェヴィキは、一体どのような変遷をたどったのでしょうか。先ずは「レーニン」にスポットを当て、今回の記事は進めてみたいと思います。


レーニンの生い立ち


レーニン

ロシアの革命家、「ウラジーミル・イリイチ・レーニン」。本名は「ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ」と言います。

第310回の記事でお伝えした様に、彼の兄の名前は「アレクサンドル・ウリヤノフ」。

当時のロシア皇帝であったアレクサンドル3世を暗殺しようとして失敗した人物です。

内容はWikiベースで進めていきます。
レーニンの兄がクーデターに失敗し、絞首刑に処せられたのが1887年。
レーニンもまた同年12月にカザン大学にて学生運動に加わり、暴動を起こして警察に拘束され、大学からも退学処分されることになりました。レーニンは兄と共に「テロリスト兄弟」の烙印を押され、以降秘密警察から監視される日々を送ることとなります。

そんなレーニンの思想に大きな影響を与えたのが「カール・マルクス」。彼が学生運動に参加したのもマルクスによる影響を受けた部分が大きい様です。

記述を読みますと、レーニンという人物は、非常に頭のいい人物であった様ですね。以下、転載です。

レーニンは監視の中で暴動を控えて「資本論」などカール・マルクスの著作を読み耽り、思想研究に没頭して理論面での活動を志し始めた。

3年後、法律学に関する理論を兄の母校サンクトペテルブルク大学の論文審査に提出、高い評価を受けて入学を許可された。国家検定試験でも134人中1位という成績を残す。

1892年、サンクトペテルブルク大学から第一法学士の称号を与えられる。

ちなみにサンクトペテルブルク大学時代にもかつての専攻であった言語に関する成績はトップクラスで、ギリシャ語・ラテン語、ドイツ語、英語、フランス語を習得した。ただフランス語は苦手だったらしく、後年にフランス語での講義を断ったというエピソードが残っている。


前回の記事 で、ロシアがたどった市民革命への道は、他のヨーロッパ各地がたどった市民革命の変遷とは異なる独特な道を進んだことをお示ししましたが、レーニン自身はどっぷりマルクス主義にはまり、所謂「社会活動家」としてもその頭角を現していきます。

・1895年     労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟を結成
・同年12月7日 逮捕・投獄
・1897年     シベリア流刑、エニセイ県ミヌシンスクの近くのシュシェンスコエ村に追放
・1898年7月   社会主義活動家ナデジダ・クルプスカヤと結婚
・1899年4月   『ロシアにおける資本主義の発達』を出版
・1900年     刑期が終了し7月にスイスへ亡命
(スイス滞在中、イタリア社会党時代のベニート・ムッソリーニと面会)
・1900年12月   政治新聞『イスクラ』を創刊
(当時、ロシア社会主義者の中で広まりつつあった「経済主義(政権打倒のための政治闘争より労働者の経済的地位の向上を目指す経済闘争を重視する考え方」を批判したもの)
・1901年12月   「レーニン」という偽名を用いるようになる

さて。その翌年、1902年に彼が記した著書、「何をなすべきか?」に関する記述の中で、少し面白い記述がありましたので、これを少しご紹介しておきます。

先ほど、ロシアがたどった市民革命の道が他のヨーロッパ諸国とは異なる異質なものであることをお伝えしました。
ただ、レーニンはそんな中でもどっぷり「マルクス主義」にはまった、ということもお伝えしたのですが、「何をなすべきか?」の中に於いて、レーニンもまたこの「マルクス主義」に対して独特の考え方を示したようです。

(何をなすべきか?とは)労働者の自然成長的な経済闘争はそれ自体としてはブルジョア・イデオロギーを超えない、と指摘し、社会主義を目指す政治闘争を主張したものである。

彼はその際に「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない」というカウツキーの言葉を引用した。

この考え方は後に外部注入論と呼ばれるようになる。

ちょっとややこしいですね。


外部注入論とは?

「何をなすべきか」の中で、レーニンはそもそも何を主張しようとしていたのでしょう。
第62回の記事 でお伝えしました様に、マルクスは「ゴーダ綱領批判」において、「共産主義」の在り方について、以下の様に定義しています。

・(資本主義から共産主義に移行する)革命の過渡期において、労働者階級による権力の掌握が必要であること。
・これは、プロレタリアート(労働者階級)の独裁によってのみ実現が可能であること。
・プロレタリアには祖国はなく、プロレタリアの利害は一致していること。

加えてその実現が「暴力」によってのみ実現できる、としているわけですが、この部分はいったん頭から外します。

(※以下の内容は、私の個人的な解釈を含みますので、その点はご容赦ください。)

「社会主義」という考え方は、その後のヨーロッパの歴史の中で、様々に姿を変え、例えばマルクスが、その実現は「暴力」によってのみ実現されるとした部分も、後の社会主義者たちの解釈の中で、大きく変化します。

そしてレーニンは、そんな「社会主義」という考え方が、プロレタリアート(労働者)たちの階級闘争の中かから自然発生的に生まれるものではない、と考えたわけですね。

彼の祖国であったロシアに於いても自然発生的に「ナロードニキ」という市民運動は勃発したわけですが、これは所謂「マルクス主義」の影響を受けたものではありません。

マルクス主義は、レーニンらによって事後的にロシア国内に持ち込まれ、ロシアの革命運動に影響を与えていくことになるのです。

マルクスはこのような革命が「プロレタリアートの手によって」実現されるべきだ、と考えました。

ですがレーニンは、「社会主義はプロレタリアート革命の中から自然発生的に生まれるものではない」と主張しているわけです。
ですから、誰かがこの「社会主義」をプロレタリアートたちに教えてあげる必要がある、と考えたのですね。

そしてレーニンは、それが出来るのは知識のない労働者階級である「プロレタリアート」ではなく、資産があり、外部から「社会主義」という思想を学ぶ手段を取ることができる「知識階級」である「ブルジョワジー」だと考えたわけです。

つまり、レーニンの目指す社会主義革命は、「ブルジョワ(資産階級)」による革命。
こうなってくると、レーニンが目指した革命は間違いなく「共産革命」ではなく「社会主義革命」であったことがよくわかります。


レーニン率いるイスクラ派(政治新聞「イスクラ」を創刊したメンバー)は、1903年、1898年3月14日に結党されたものの、弾圧を受けて機能不全に陥っていたロシア社会民主労働党を再建し、第2回党大会を開催します。

ところが、再建されたばかりの同党は、イスクラ派は組織論や指導部の構成をめぐって内部分裂。「ボリシェヴィキ」と「メンシェビキ」の2派閥に分かれます。

このうち「ボリシェヴィキ」を率いたのがウラジミール=レーニンでした。


さて。この後、起きるのが「血の日曜日事件」と「ロシア第一革命」。
このあたりから段々レーニンのスタンスがややこしくなってくるので、一旦記事を分け、続きは次回に委ねることとします。


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第310回 ロシア革命勃発に至る背景/マルクス主義者の台頭

「二月革命」とは言いますが、これは当時ロシアで利用されていた暦、「ユリウス暦」に基づくもの。
私たちが慣れ親しんでいる「グレゴリオ歴」では3月に起きた革命です。

私自身、このブログを通じて「右翼」や「左翼」、「共産主義」や「社会主義」等について学んできたわけですが、今回のこの「ロシア革命」。これを理解するうえで、私が長い間調べて来た内容がどうも役に立つときが来た様です。

「右翼」と「左翼」の違い、又は「共産主義」と「社会主義」の違いについては改めてシリーズ、「「右翼」と「左翼」の違いを分かりやすく検証します。」 でも振り返っていただければ幸いです。


二月革命の経緯

では、改めて「ロシア革命」に於ける「二月革命」について記事にしてみたいと思います。

帝政ロシア=ロマノフ朝がこうもあっさりと崩壊した理由として、

1.ロシア第一革命に於けるマルクス主義者たちの台頭
2.日露戦争に於ける日本に対する敗北
3.第一次世界大戦への参戦により、外資がロシア国内から撤退したこと
4.第一次世界大戦により、本来食料の生産活動を行うための農民が兵士として戦争に駆り出されてしまった事

主にこのような理由があるようです。
1、2については既に第310回の記事 に掲載しましたね?

加えて3,4の理由によって、ロシア国内の食料が供給不足に陥り、物価が5倍、6倍と高騰してしまったんですね。

で、食料の供給を求めてユリウス暦1917年2月23日、グレゴリオ暦3月8日にロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)に於いて発生した「デモ」が「二月革命」のそもそもの発端です。

2月革命

このデモを鎮圧する様皇帝であるニコライ二世に命じられた警官隊がデモに向けて発砲。多数の市民が犠牲となります。

これを受けて一部の兵士が反乱を起こし、ニコライ二世はこれを鎮圧する様更に命令を出すわけですが、反乱を鎮圧するはずの兵士が次々と反乱軍に加わります。

この時のロシアの指示系統として、「ドゥーマ(議会)」に皇帝が指示をし、指示に従ってドゥーマが政策を実行する・・・という形がとられていたわけですが、肝心のこのドゥーマの議長であるロジャンコが皇帝の意に反して臨時委員会を設置し、政権を掌握し、皇帝に退位を迫ります。

このことによりニコライ二世は退位(1917年3月15日)。
彼の位を継承することを弟に拒否され、ロマノフ朝を継承する者が誰も存在しなくなり、ついにロマノフ朝は崩壊します。

一方で第310回の記事 でお伝えした通り、「メンシェビキ」に所属する議員の呼びかけにより、「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されます。


内容そのものは結構端折りましたが、大体こんな感じです。

この後、更に十月革命がおこり、遂に「ソビエト連邦」が誕生するわけですが・・・。


「ロシア革命」と「フランス革命」の違い

調べてみて面白いな、と感じたのは、今回記事の対象としている「ロシア革命」と、市民革命の先駆けともいえる「フランス革命」や、その後ヨーロッパ各地で起きた「市民革命」との違いです。

第50回の記事 でお伝えしましたように、そもそも「フランス革命」とは、当時のフランスに在った身分制度、「アンシャンレジーム」に於いて、「聖職者」及び「貴族」の位を持つ第1、第2身分の位に対して、一般市民で構成される「第3身分」の位の人々が起こした革命です。

また更に、マルクスらが登場した時代には、第三身分が「ブルジョワ(資産階級)」と「プロレタリアート(労働者階級)」に分かれ、マルクスはブルジョワによる革命を「社会主義」、プロレタリアートによる革命を「共産主義」と呼びました。

そしてマルクスは、共産主義社会を実現するためには、プロレタリアートの暴力による改革と、社会主義社会から共産主義に移行するまでの間、プロレタリアートによる「独裁」が必要である、と説きました。

現代では「社会主義」とは「共産主義」に移行する段階に於ける、「プロレタリアートによる独裁」が行われている状況にある、と解釈されており、「共産主義社会を目指す人々」という意味では「社会主義者」と「共産主義者」とはほぼ同等の意味を持っていると考えられます。

一方で、ではそもそも「共産主義」とはどのような社会をいうと、元々「共産主義(コミュニズム)」という言葉を生み出したフランソワ・ノイエ・バブーフによれば、土地の「相続権」や「所有権」を否定した社会のこと。

この考え方の元となったルソーによれば、「自然界において人は平等であり、土地の所有や財産の相続よって身分、階級が生まれ、不平等が発生した」とあり、バブーフは「土地の所有や財産の相続」を否定し、『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』(完全なる平等社会)の実現を目指しました。

バブーフが考えた、『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』を目指す人々のことを「アナーキスト(無政府主義者)」と言います。(第161回の記事 をご参照ください)


フランス革命後のヨーロッパは、フランス革命による市民革命の『成功例』を参考に市民革命を実現していくわけですが、ロシア革命とフランス革命以降の市民革命の違いとして一番大きいのは、元々ロシアには「ブルジョワ」だの「プロレタリアート」だのと言った身分制度に関する認識がなかった言う事。

そして、ロシア人が「マルクス主義」に触れるのは、アレクサンドル2世による「農奴解放令」が発令され、革命的秘密結社、「第一次『土地と自由』」による「一月蜂起」が勃発した後。

更に、「土地と自由」から分派した「人民の意志」が、アレクサンドル2世を暗殺した後であったということです。
つまり、「マルクス主義」の情報がロシア国内に入る以前に、「市民革命」に相当する行為を行っていた、ということになります。

そして、二月革命後に結成された「ペトログラード・ソヴィエト」で副議長を務めたアレクサンドル・ケレンスキーが所属する社会革命党は、マルクス主義に基づいて結成された政党ではなく、マルクス主義がロシアに入ってくる以前からロシア国内に存在した「人民の意志」の流れを引き継ぐ政党でした。

この様に、「ロシア革命」が勃発する様子は、どうもこれまでのヨーロッパに於ける「市民革命」とは異なる傾向がみられます。

「ペトログラード・ソヴィエト」が結成されたのはユリウス暦で3月1日、グレゴリオ暦で3月14日となるわけですが、「ペトログラード・ソヴィエト」は本来少数派であったはずの右派社会主義政党「メンシェビキ」の呼びかけによって結成されました。

元々「多数派」であったはずの左派社会主義政党「ボリシェヴィキ」は、「ペトログラード・ソヴィエト」結成時においては少数派だったのですが、ユリウス暦3月12日(グレゴリオ暦3月25日)、亡命先の東シベリアよりレフ・カーメネフと、後にソビエト連邦2代目書記長となるヨシフ=スターリンが帰国。

更にユリウス暦4月3日(グレゴリオ暦4月16日)、10月革命を主導し、ソビエト連邦初代書記長となるウラジミール=レーニンが帰国します。

カーネメフ・スターリン・レーニンはそろってボリシェヴィキのメンバーでした。


さて。それでは、次回記事において、2月革命が勃発した後の経緯を追いかけながら、この3名が帰国後、どのようにして10月革命が勃発するのか。その経緯を記事にしたいと思います。


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第309回 サラエボ事件はなぜ第一次世界大戦へと発展したのか

第297回の記事 に於きまして、私は日露戦争当時に勃発した「ロシア第一革命」について記事にしました。

ロシア第一革命そのものは、

 「私たちの生活はこんなに苦しいのに、日本と戦争をやってるなんて何事だ!」

といった主張を労働者たちが皇帝に対して行ったところ、デモ隊が警備兵に大量に射殺されてしまった事(血の日曜日事件)が原因で、革命運動がロシア全土に広がったもので、主導者のようなものは存在しなかったのだそうですが、ここに至るまでの流れを見てみますと

1.1861年2月、皇帝アレクサンドル2世により、「農奴解放令」を公布。ロシア国民の中に改革へ向けた意識が高揚される。

2.同年末、革命的秘密結社、「第一次『土地と自由』」が結成される。

3.海外に亡命している革命家たちとも連携し、1863年1月22日、ポーランドに於いて武力蜂起が勃発するが、ロシア国内の指導者が逮捕され、1864年4月11日、鎮圧(一月蜂起)

4.1878年、一月蜂起を起こした人民主義者(ナロードニキ)たちによって「第二次『土地と自由』」が結成されるが、革命を起こす方向性で意見が分かれ、テロリズムを肯定する「人民の意志」派と、それを否定しプロパガンダを重視する「チョールヌイ・ペレジェール(全土地割替)」派とに分裂。

5.1881年3月1日「人民の意志」メンバーによりアレクサンドル2世暗殺

6.1887年3月1日、「人民の意志」メンバーである、レーニンの兄「アレクサンドル・ウリヤノフ」によってアレクサンドル3世の暗殺が計画されるが失敗し、「人民の意志」は壊滅。この頃から、西欧に移住したロシア人たちが「マルクス主義」に触れ、ロシア人の「マルクス主義団体」が結成されるようになる。

7.1898年、キエフのマルクス主義団体が中心となり、「ロシア社会民主党」が結成される。結党宣言を行ったシュトルーベにより、「ロシア社会民主労働党」と党名が改められる。

8.1901年、ナロードニキの流れを組む革命政党、「社会革命党」が結成される。

9.ロシア労働党機関紙「イスクラ」編集局を中心とするグループ「イスクラ派」が分裂し、

 『多数派であるボリシェヴィキ』

  と

 『少数派であるメンシェヴィキ』

に分裂する。

「イスクラ」は多数派であるメンシェヴィキの機関紙となるが、ボリシェヴィキの代表で会ったレーニンは1904年末、ボリシェヴィキ中央部「多数派諸委員会ビューロー」を創設する。

10.1905年1月9日、「血の日曜日」によりロシア第一革命が勃発する

と、この様な流れになります。

そう。ついに登場しましたね。ロシア革命の立役者、「ウラジーミル・レーニン」の名が。

レーニン

まあ、悪名高きソ連を生み出したわけですから、「立役者」との表現はあまり適切ではないかもしれませんが。

ちなみに元々は「ボリシェヴィキ」が「多数派」、「メンシェヴィキ」が「少数派」を意味するのですが、ボリシェヴィキもメンシェヴィキも共に「社会主義」派閥。ですが、後に同じ社会主義の中でも「ボリシェヴィキ」が「左派」、「メンシェヴィキ」が「右派」と変化していくようです。

ロシア第一革命が終結するのは1905年12月です。
この時ボリシェヴィキは武装蜂起を計画し、労働者を暴力によって従わせ、デモを決行させるのですが、デモ隊に向かって帝政ロシア政府軍が砲撃。1000人以上の死者を出した後、ボリシェヴィキは投稿し、ロシア第一革命は終結することとなります。


ロシア第一革命後のロシア

前置きのつもりだったのですが、随分長くなりましたね。
革命に合わせて、ロシアでは各地に「ソヴィエト(労働者・農民・兵士の評議会(理事会))」が結成されます。

ですが、ロシア第一革命の後、社会活動家たちに対する皇帝の締め付けは激しくなり、指導者は投獄されるか、または亡命という選択を迫られました。このことにより、「ソヴィエト」は壊滅させらます。

この時、中心となって活動家たちの弾圧を行ったのが「ピョートル・ストルイピン」という人物。
ロシア第一革命後の内閣で首相を務めていた人物です。

ストルイピン

ですが、彼の取った農村に対する政策がロシア国民の反感を買い、1911年9月18日、彼はユダヤ人青年の手によって暗殺されてしまいます。彼が暗殺された場所こそ、現在のウクライナの首都であるキエフ。

ちなみに、当時のロシアの首都はサンクトペテルブルクでしたが、ロシア第一革命当時、このサンクトペテルブルクで「ソヴィエト」を結成した人物が「レフ・トロツキー」。彼もまたウクライナ人で、家族はユダヤ人。

彼は後のロシア革命で指導者の一人ともなる人物です。


少し話が脱線しました。
ストルイピンの弾圧により鳴りを潜めていた社会活動家たちですが、彼が暗殺されたことにより、少しずつ息を吹き返します。

ストルイピン暗殺の翌年、1912年1月、ロシア社会民主労働党からの独立を目指していたレーニンは、ロシア社会民主労働党から追放されてしまいます。

ここで、ロシア社会民主労働党は「ボリシェヴィキ」と「メンシェヴィキ」の2つの党へと完全に分裂してしまうこととなります。


第一次世界大戦に於けるロシア

政党「ボリシェビキ」誕生の2年後、1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発 します。

改めて第309回の記事 を比較しながら記事を見ていただけると、状況が頭に入りやすいかもしれません。

1912年に第一次バルカン戦争が、1913年に第二次バルカン戦争が勃発するわけですが、バルカン戦争終息後、1914年6月28日に起きた「サラエボ事件」を受けてオーストリアがセルビアに対して宣戦布告。

これを受けて、いち早くセルビア支持を表明し、国内に向けて総動員令を発布したのがロシアでしたね。(7月31日)
そして、そのロシアに対して速攻で宣戦布告したのがドイツ。(8月1日)

Europe1914-jp.png

そんなロシアとドイツとの間で最初に起きた衝突が1914年8月17日から9月2日にかけて継続した「タンネンベルクの戦い」でした。

ロシアはこの戦いに於いてドイツ領プロセインに侵攻を行うわけですが、結果ロシアは敗北し、前線をロシア領内まで後退。
続く第一次マズーリ湖攻勢に於いてロシアは再びプロセインへと軍を勧めますが、ドイツはフランスと対峙する西部戦線より部隊を移動させており、ロシア軍は壊滅。

ドイツよりロシア軍は完全にたたき出されてしまうこととなります。
翌年のゴルリッツ戦線でもロシアは敗北し、ポーランド方面ではワルシャワ、イヴァンゴロドの2つの要塞が陥落し、ロシアは大撤退を迫られます。

この様な情報がロシア国内にも伝わり、ロシア社会民主労働党より分裂したボリシェヴィキ、メンシェビキ、及び社会革命党は、一気にその党勢を拡大します。

戦争が長引くことによってロシア国内の経済も低迷。
議会と皇帝との間の対立構造も深刻となり、宮廷もまた僧侶であるはずのグリゴリー・ラスプーチンによって牛耳られる(1916年12月30日に暗殺される)など、第一次世界大戦当時のロシアはまさしく「混迷」を深めていくこととなりました。

そして、そんな中でついに勃発するのが第一弾の「ロシア革命」である「二月革命」です。

次回記事では、そんな「二月革命」についてまとめてみたいと思います。


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