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<前回の記事 第49回 「日韓合意」を問う

このテーマは、以前のブログでも取り上げたことがあります。
「右側」と「左側」

内容としては、このブログの内容をリライトする形になります。

フランス革命

今更ここに記すまでもないかもしれませんが、抑々「右翼」や「左翼」という言葉の語源は、18世紀。フランス革命に由来します。

フランス革命が発生した背景としては、当時の国王であったルイ16世。その先代、先々代の国王の時代に膨らんだ多額な財政赤字。
加えてルイ16世の時代に行われたアメリカ独立戦争への援助などで、フランスの国家財政が破たんしかかっていたことにあります。

当時のフランスは第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)の3つに身分制度が分けられていました。(アンシャン・レジーム)
平民はすでに重税を課せられていたため、財務長官のテュルゴーという人物が聖職者や貴族に当時与えらえれていた特権を制限することで財政赤字を解消しようとしたのですが、貴族たちの大反発に会い頓挫、失脚します。

後に2度財務長官の座に就いた「ネッケル」という人物が、2度財務長官の座に就くための交換条件として3つの身分の代表者で構成される「三部会」なるものを開催することを国王に求めます。

このとき、議決方法を巡って、第一・第二身分と第三身分の間で対立が起こります。いつまでたっても議会が進まない三部会に愛想をつかした第三身分(平民)は、自分たちで勝手に「国民議会」なるものを作ってしまいます。

最終的に第一・第二身分の国民の中にも現体制を問題視している者がおり、国民議会に参加。
ルイ16世も国民会議を正式に承認し、他の第1・第2身分の議員も王の説得に応じて国民議会に合流します。(国民議会→憲法制定国民議会に名称が変更)

ルイ16世が実行しようとしていたのは特権階級への課税。
国王が憲法改正のために承認した国民会議にも、この「特権階級」である貴族や王族たちが反対し、国王に軍隊の終結を強要。
第三身分出身のジャックネッケル財務長官が罷免され、この事に激情した民衆の怒りは爆発し、「バスティーユ牢獄」を襲撃。
「フランス革命」の勃発です。

危機感を覚えた貴族や聖職たちは自分たちの特権を廃止する「封建的特権」を自発的に放棄します。
そして、その後制定されたのが「フランス人権宣言」。「国民主権」であったり、「自然権」など、現在の民主主義にも通ずる内容が登場します。

この「フランス人権宣言」を基にフランスでは新たに憲法が制定されようとしていたのですが、ここで大きな対立が生まれたのが「国王の拒否権」と「貴族院の開設」です。
当然のことながら、この二つの対立軸に賛同していたのが「王政派」。アンシャン=レジームで「第一・第二」の身分にあった聖職者や貴族たちです。
反対していたのは第三身分にあった平民(立憲派・三頭派・共和派)たち。この時にそれぞれの派閥が着座していた位置が「右翼」や「左翼」という言葉の語源になっています。

王政派が着座していたのは議会の右側。平民たちが着座していたのが議会の左側。
旧体制を維持し、自分たちの権利を守り抜こうとした王政派(保守)と、暴力的な手段に訴え、古い体制を破壊し、自分たちの権利を勝ち取ろうとした平民たち(革新・リベラル)。

これこそがまさに「右翼」「左翼」の語源です。

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<前回の記事 第50回 「右翼」と「左翼」

前回の記事では、「右翼」と「左翼」のタイトルの下、フランス革命時の身分制度が生んだ「右翼」と「左翼」という言葉。
そして、敗戦後日本における米国の占領政策が日本人に植え付けた「右翼」と「左翼」という言葉に対するネガティブなイメージについてお伝えしました。

今回はフランス革命に於いて「右翼」と「左翼」という言葉が登場して以降の、特に「左翼」というカテゴリーの変遷について追いかけてみたいと思います。

「左翼」とフランス革命

「バスティーユ牢獄」の襲撃により勃発した「フランス革命」。
その後、憲法制定国民議会により、「フランス人権宣言」が採択されるわけですが、この人権宣言を国王は承認しようとしませんでした。(「右翼」「左翼」という誕生したのはこのタイミングです)

10月5日、パン不足によりパリ市街地の主婦たちがヴェルサイユまで押し寄せ(ヴェルサイユ行進)、王宮に乱入します。
国王はやむを得ずフランス人権宣言に同意し、フランス人権宣言が成立します。

この「フランス革命」を推進する中心となったのが、「ジャコバン=クラブ」という政治結社です。
元々は1789年4月、当時の第三身分議員で、ブルターニュ地方出身者がベルサイユに作った「ブルトン(ブルターニュ人)=クラブ」がその前身なのだそうです。

同年11月、議会がパリに移動したのに伴ってブルトンクラブもパリの「ジャコバン協会」に移動するのですが、この後この政治結社は「ジャコバンクラブ」と一般に呼称されるようになります。


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<前回の記事 第51回 「左翼」の変遷

前回の記事では、フランス革命における「左翼」の位置づけを追いかけることで、元々単なる「民衆」の代表に過ぎなかった「左翼」が、どのようにして現在のような意味合いに変わってきたのか。その意味合いを追いかけてみました。

「支配する側」と「支配される側」。
特に支配する側が無能であればあるほど、支配される側に不平不満が巻き起こってくることは当然のことだと思います。

ですが、政治システムから支配層を取り除いた途端に、支配される側が暴走する・・・。
その行為は支配する側よりもより残忍な方法である、ということが、このフランス革命からは見て取ることができます。


ジャコバン派のその後

王政が廃止された後、フランスに誕生したのは「共和政」でした。
これまでフランスの意思決定機関であった「立法議会」が解散し、代わりに「国民公会」が招集されます。

この「国民公会」の中に設置されたのが「公安委員会」。公安委員会は、「公共の安全」を守るために設置された機関であり、公安委員会の行為は、「個々の安全よりも常に優先される」行為とされました。
現在の日本の「公共の福祉」と同様の考え方ですね。

公安委員会の行為は、「人民全体にかかわるすべてを安んずる」ための行為であったため、公安委員会の行為は常に正当化されていたのだそうです。
後にこの公安委員会国民公会の中心機関として位置づけられ、公安=政府としての位置づけを有するようになります。

この当時のジャコバン派における最大派閥は「ジロンド派」で、初期の公安委員会の中心人物となった「ジョルジュ・ダントン」という人物は、ジロンド派とは対立する「山岳派」に所属していながら、ジロンド派の主導する内閣の中で、唯一「司法大臣」としての役割を担ったのだそうです。

Danton-Wille.jpg
ジョルジュ・ダントン(Wikiより)

公安委員会の設立にも貢献し、第一次公安委員会の実質的な指導者でもあったそうです。
ダントンは、ジャコバン派の中でも急進的な「山岳派」に所属していたわけですが、どうも対立する立場にあるジロンド派と、和平の方向に推し進めようとしていました。

ところが、この和平交渉がうまくいかず、多数派であったジロンド派は「十二人委員会」という公安委員会の上部組織を設置。
軍兵を貧困層から強制的に徴兵したり、食糧危機に対して何も対策を講じない、など、このジロンド派への反発から「サンキュロット階層」と呼ばれる所謂貧困層(主に手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの無産市民)が反乱を起こし、ダントンはしぶしぶ自分の所属する「山岳派」に協力せざるを得なくなり、ジロンド派を国民公会そのものから追放。( 6月2日の革命)

ついに「ジャコバン派(=山岳派)」による支配体制が成立します。

フランス革命の変遷を見ていると、所謂「右派」が議会から追放される中で、常に大きな力を持っていたのが「サンキュロット層」と呼ばれる階層。

フランス革命そのものの発端となったバスティーユ牢獄の襲撃、フイヤン派を逮捕・処刑することにより議会から追い出す原因となった九月虐殺。そしてジロンド派を追い出した今回の革命。

左派を支持していたのは常にこのサンキュロット層でした。

ダントンは少なくともジロンド派と和解し、革命そのものを終結に向かわせようとしていました。
もちろん無能な支配層にも問題があるのでしょう。ですが、サンキュロット層はこれを暴力によって解決しようとしていたのです。

色々と情報を見ているのですが、当時のフランスの状況はまさしく泥沼。血で血を洗う地獄絵図・・・のような状況にあったのではないかと考えられます。ちょっと、現在のISを彷彿させますね。

そして、そんな「サンキュロット層」に支えられて独裁の座に就いたのが「ジャコバン山岳派」。このころには「モンターニュ派」と呼ばれるようになっていました。

国家を統治するには「財源」が必要です。
財源がなくとも、「資源」が必要です。

フランスは対外的には戦争状態、内部的には財政危機、食料不足で立て直しは本当に大変な状況にあったのでしょう。
ダントンは上位層(右派)と下位層(左派)の取りまとめを行うのに、とても尽力していたのではないでしょうか。

ですが、結果的に右派からも左派からも信任を失い、公安委員会メンバーの座から失脚。
代わりに公安委員会入りを果たしたのがロベスピエールでした。

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<前回の記事 第59回 是清の経済・財政政策②~是清と日露戦争~
<継承する記事 第52回 「左翼」の変遷②

さて、第52回の記事に予告しました、「共産主義と左翼」とのタイトルでの記事作成。タイトル名を変更して、今回はこの「第1インターナショナル」というワードについての記事を作成したいと思います。

この「第1インターナショナル」という言葉。Wikiで調べますと、このように掲載されています。
第1インターナショナル

第一インターナショナルまたは国際労働者協会は、1864年11月1日に、ヨーロッパの労働者、社会主義者が創設した世界初の国際政治結社。


今回のシリーズ「右翼」と「左翼」は元々、

例えば安倍首相を「右翼視」し、「安保法制」だの「改憲」だの「秘密保護法」などという言葉が登場したとき、「また戦争を始める気か」というように考えている人はいないでしょうか。

一方で「左翼」という言葉を耳にするといかがでしょう。
こちらは、おそらく「共産主義」や「社会主義」のイメージが出てくるのではないでしょうか。

ですが、フランス革命によって登場した「右翼」や「左翼」の本来の意味を思い返していただくと、「右翼」とは決して「軍国主義」ではありませんし、「左翼」もまた「共産主義」を意味する言葉ではありません。

では一体なぜそれぞれの言葉に上記のようなイメージが植え付けられたのでしょうか。

という私が提示した疑問に基づいて作成することとなったシリーズです。

シリーズでは、「左翼の変遷」とのタイトルで元々「右翼」「左翼」という名称が生まれる元となったフランス革命に着目し、フランス人権宣言で「左翼」の中心として動いた政治結社「ジャコバン=クラブ」の変遷を追いかけました。

左翼とは、支配される側であった平民たちの集団であり、過激化しやすいこと。そして、「右翼」と「左翼」の対立とは、「階級闘争」であったことをお伝えしてきました。

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<前回の記事 第60回 第1インターナショナル

前回の記事において、ご案内いたしました通り、今回の記事では「フランソワ・ノエル・バブーフ」という人物についての記事を掲載したいと思います。

「共産主義」のルーツ

さて。どのような言葉にも、その言葉が生まれることとなった理由。「語源」というものが存在します。
「共産主義」という言葉。英語では「Communism(コミュニズム)」と記します。

この言葉の語源はラテン語の「communis」。意味合いとしては、「共同の」または「共有の」、「義務をともに果たす」という意味になるのだそうです。

この言葉を、「共同」や「共有」ではなく、「完全な平等」という意味を込めて利用し始めたのが「バブーフ」。
フランソワ・ノエル・バブーフという人物です。

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<前回の記事 第61回 「共産主義」のルーツ

前々回の記事において、「第一インターナショナル」という言葉についての記事を掲載した後、前回の記事からの予告で、今回の記事では「第二インターナショナル」及び「第三インターナショナル(コミンテルン)」という言葉について開設すること掲載しました。

ですが、調査をしていく段階において、もう一つ、「社会主義」という言葉についても一度定義づけておく必要性を感じましたので、今回の記事では、この「社会主義」という言葉についての記事を掲載したいと思います。

「共産主義」と「社会主義」

この二つの言葉。実際その違いについて疑問を持っている人も多いのではないでしょうか。
今回のシリーズにおいても、例えば「第一インタナショナル」という組織は「社会主義者による世界で初めての国際組織」と説明されていますし、第二インターナショナルも「社会主義者による国際組織」であるとされています。
ところが、「第三インターナショナル(コミンテルン)」問う言葉を調べると、これは「共産主義者」による国際組織であると掲載されています。

一方、第一インターナショナルが誕生する前のイギリス、ロンドンにおいては「共産主義者同盟」という共産主義者による国際的秘密結社が形成されていますし、またこの前身である「正義者同盟」はフランスに亡命したドイツ人に追って形成されたドイツ人共産主義結社であるとされてます。

共産主義者同盟の綱領となった「共産党宣言」も、第一インターナショナル(国際労働者協会)の創会宣言もともにカール=マルクスが作成しています。考えてみれば、マルクスもまたドイツ(当時のプロイセン)からの亡命者ですね。

マルクスが記した「共産党宣言」においてマルクスは、この「社会主義」と「共産主義」の違いについて、このように記しています。

「社会主義はブルジョアの運動を意味し、共産主義は労働者の運動を意味した」

そして、この時点でマルクスは、自分自身のことを「共産主義者」称していたようです。(1847年)
ところが、1875年。ドイツに、「ドイツ社会主義労働者党」という政党が誕生し、ここにマルクスも参加したようです。
つまり、この時点でマルクスは「社会主義者」であったことになります。

この政党は、「全ドイツ労働者協会」と「ドイツ社会民主労働党」が合併してできた政党なのですが、この政党の綱領として、「全ドイツ労働者協会」出身派閥者たちが作った「ゴーダ綱領」なのですが、ここでマルクスは痛烈な批判を行います。(ゴーダ綱領批判)

この文書の中では、

・(資本主義から共産主義に移行する)革命の過渡期において、労働者階級による権力の掌握が必要であること。
・これは、プロレタリアート(労働者階級)の独裁によってのみ実現が可能であること。
・プロレタリアには祖国はなく、プロレタリアの利害は一致していること。

などが記述されているのだそうです。
つまり、革命が暴力によってのみ可能なのだ・・・と。

ところが、ゴーダ綱領では穏健派である「ラッサール」という人物によって起草されており、その綱領をマルクスが批判しているということは、この「暴力的な部分」が排除されているということ。
マルクスの意見は採用されることなく、ゴーダ綱領はそのまま「ドイツ社会主義労働者党」の綱領として成立することになります。

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<前回の記事 第62回 「共産主義」と「社会主義」

さて。前回の記事に於きまして、「共産主義」と「社会主義」の違いについてご説明いたしました。
現在において「共産主義」が目指す究極のところは「無政府社会(完全なる平等で、『格差』が存在しないため、争いそのものが起きない社会)」であり、「社会主義」とはその過程である、と解釈されているようです。

また、マルクスが述べたように、「社会主義」とはブルジョワ層から見た平等社会であり、「共産主義」とはプロレタリア層から見た平等社会である、という考え方もできるようです。
マルクスもまた、共産主義を実現する過程においては「プロレタリアによる独裁」が必要であると述べており、つまり「社会主義社会」には「管理者としての政府」が必要であるということを主張しました。

第二インターナショナル

第一インターナショナル(国際労働者協会)において、マルクスは「権威者」として存在した様です。
「権力」を否定しながら「権力者」として第一インターナショナルを牛耳ったマルクス。そして、その権力を否定し、「無政府主義」を訴えたロシア人の「バクーニン」という人物。この両者を中心とする派閥抗争により第一インターナショナルは分裂し、崩壊します。

この時「無政府主義」を訴えたバクーニンらの主張は「アナーキズム」と呼ばれ、彼らのことを「アナキスト」と呼ぶのだそうです。

第一インターナショナルは崩壊しますが、その後も労働者や社会主義者たちによる国際組織を必要とする機運は絶えず、1889年「第二インターナショナル」が誕生します。
ここには「アメリカ」の名前も登場します。

第一インターナショナルが世界初の「労働者の国際組織」であったのに対して、第二インターナショナルは「社会主義者の国際組織」とされています。

この時に訴えられているのが
・フランスにおける社会主義者たちの統一
・8時間労働制の主張
・常備軍批判と民兵制の推進
・普通選挙権と議会への社会主義者の参加
・メーデーを国際労働運動のための休日とする

そして
・労働条件のための立法を要求
・国際的な労働組合運動の組織化

といった内容です。これは現在にも通ずるものであり、また「フランス革命」によって生み出されたものですね。
この内容には一定の評価をすることができると思います。

この第二インターナショナルの中心となったのが前回の記事 で登場した「ドイツ社会主義労働者党」改め「ドイツ社会民主党」。この政党は現在のドイツでも存在しているのだそうです。

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<前回の記事 第63回 第二インターナショナルと第三インターナショナル

さて。前回の記事でご紹介した「コミンテルン」と「労働社会主義インターナショナル」という二つの組織。
今回の記事で、もう少しだけ深めてみようと思います。

「コミンテルン」と「労働社会主義インターナショナル」

第二インターナショナルの壊滅を潔しとせず、不満を持った社会主義者たちが集まって開催された「ツィンマーヴァルト会議」。
このツィンマーヴァルト会議の中でも、さらに「左派」に位置づけられたレーニンたちが誕生させたのが「第三インターナショナル」。通称コミンテルン=共産主義インターナショナル。
一方、ツィンマーヴァルト会議の中で、より穏健なメンバーが中心となって生まれたのが「労働社会主義インターナショナル」。

共産主義と社会主義の間で、明確な違いが生まれたのはこの時点だったのかもしれませんね。
ドイツでも、ロシアでもこの「共産主義者」と「社会主義者」は対立する構造にあり、1928年のコミンテルン総会において、「社会ファシズム論」なるものが明示されたようです。(この時の「社会主義」とは、「社会民主主義」とも表現されています)

「ファシズム」という言葉の定義については後日調査をしてまとめたいと思うのですが、スターリンは「ファシズム」と「社会民主主義」を同一視し、ドイツでもドイツ共産党とドイツ社会民主党が対立。このことが、結果的にドイツファシズム=ナチスの台頭を許すこととなったようです。

その後、コミンテルンもファシズムを危険視して方針転換。「すべての反ファシズム勢力」との協調を謳う(人民戦線戦術)も、その後独ソ不可侵条約を結んだことでこの人民戦線術は崩壊。
しかし元々協定に含まれていなかった「ソ連によるベッサラビアと北ブコヴィナの占領」が行われたことでこの独ソ不可侵条約は破綻。

その後独ソ戦が勃発し、ソ連がイギリスと連合関係を結んだことによりコミンテルンは事実上崩壊しました。
このあたりの歴史はもう少し深めたほうが良いかと思いますので、折を見て新しく記事を作ってみたいと思います。

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<前回の記事 第65回 「消費税収」と「名目民間最終消費支出」
<継承する記事 第64回 「コミンテルン」と「労働社会主義インターナショナル」

さて、今回のシリーズテーマ、「右翼」と「左翼」

元々は、
現在の日本において、「右翼」というと、どちらかといえば軍国主義的者なイメージが、「左翼」というと「共産主義者」、または「社会主義者」というイメージが、いったいなぜ植え付けられたのか、という疑問からスタートしました。

日本における「左翼」

日本における「左翼」の歴史を振り返ると、いわゆる日本の「開国」により、日本人が多く海外へ渡航し始めたことに由来するようです。
振り返ってみると、江戸時代の農民による「一揆」や幕末の「尊王攘夷運動」、そして開国後の「自由民権運動」などは、欧州でいわゆる「プロレタリアート」たちが行った市民革命と近しいものがあるのかもしれません。

また、ペリーが来航し、日本が外敵からの脅威に晒されるまでは、江戸幕府の「封建体制」はうまくいっていたわけですし、欧米人たちが余計な思想さえ持ち込まなければ日本が開国する必要性すらなかったわけです。

佐幕派、討幕派に分かれてすさまじい流血戦を繰り広げる必要もなかったわけですし、果ては日本が「第二次世界大戦」という世界規模の戦争に巻き込まれることすらなかったでしょう。

もっと遡ると、安土桃山、織田信長の時代に、「フランシスコ=ザビエル」が日本に到来し、キリスト教的な思想を日本に持ち込んだ後、秀吉、家康、秀忠、家光の4代にわたってキリスト教を排斥し、「鎖国」体制を完成させなければ、江戸幕府が300年の繁栄を築くことはなかったでしょう。
その思想を国内に招き入れたとたん、佐幕V.S.倒幕という国家を二分する戦争にまで発展したわけです。

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<前回の記事 第66回 日本における「左翼」

前回の記事に於きましては、「日本における左翼」のタイトルのものと、日本という国に「社会主義」という思想が持ち込まれるに至った過程~「共産党」という政権が誕生するに至った過程についてご説明いたしました。

今回の記事では、「日本共産党」が誕生した後~現在に至るまでの歴史を振り返り、

「現在の日本において、「右翼」というと、どちらかといえば軍国主義的者なイメージが、「左翼」というと「共産主義者」、または「社会主義者」というイメージが、いったいなぜ植え付けられたのか」

という元々の疑問に対して総括する形で記事を作成していきたいと思います。

日本の「共産党」

この項目については、よそからわざわざ調査をしてくるより、現在の日本共産党さんが「綱領」として掲載している内容がかなり具体的ですので、ここを参考に進めていきたいと思います。(日本共産党綱領

まあ、正直共産党さんのHPへ直接リンクを張り付けることそのものに若干恐怖心を覚えないわけではありませんが。

成立に至っては、下記の様に掲載されています。
日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなかで、一九二二年七月一五日、科学的社会主義を理論的な基礎とする政党として、創立された。

 当時の日本は、世界の主要な独占資本主義国の一つになってはいたが、国を統治する全権限を天皇が握る専制政治(絶対主義的天皇制)がしかれ、国民から権利と自由を奪うとともに、農村では重い小作料で耕作農民をしめつける半封建的な地主制度が支配し、独占資本主義も労働者の無権利と過酷な搾取を特徴としていた。この体制のもと、日本は、アジアで唯一の帝国主義国として、アジア諸国にたいする侵略と戦争の道を進んでいた。

 党は、この状況を打破して、まず平和で民主的な日本をつくりあげる民主主義革命を実現することを当面の任務とし、ついで社会主義革命に進むという方針のもとに活動した。

「科学的社会主義」、つまり「マルクス主義」のことです。
つまり、結党当初の共産党の中には、少なくとも「プロレタリアート(労働者)による暴力によってのみ革命は成し遂げられ、変革の段階においてはプロレタリアートによる独裁が必要である」という思想があり、このことを現在の共産党も認めている、ということですね。

また一方で、冒頭に「わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ」とありますが、「科学的社会主義」とは元々ドイツの経済学者「マルクス」が考えた思想であり、元々日本の「伝統」の中には存在しなかったものです。伝統的に「変革」を続けていたとしたら、それは「伝統」にはなっていないはずです。

前回も述べましたが、少なくとも米国からペリーが到来するまで、この国に「変革」などという要素は存在しませんでしたし、300年もの間「江戸幕府」の封建体制により安定と安寧が300年近くも保持され続けていた国であったわけです。

また、天皇制に対して、「絶対主義的天皇制」とありますが、明治維新以降の日本は「立憲主義」に基づいた天皇制であり、天皇陛下の立場は「大日本帝国憲法」によって規定されていました。

特に日本共産党が誕生した当時の日本は「議会制民主主義」が採択されていました。
未成熟ではあったかもしれませんが、当時の国外の事例にかんがみても、より民主的であった、と考えられるのではないでしょうか。(少なくとも国内で武力を用いた「革命」が行われたりはしませんでした)

共産党が、これを「絶対君主制」であるとする根拠として、大日本帝国憲法とは、「天皇の命令で国民に押し付けられたもの」であり、第1条として「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」とあること、そして「天皇は神聖にして犯すべからず」とし、「神」の子孫である天皇陛下が、日本を支配する、という構図になっていることを挙げています。
2006年9月9日(土)「しんぶん赤旗」より

このほか、国を統治する権限を天皇陛下がすべてお持ちで、「帝国議会」「国務大臣」「裁判所」という機関が設けられていたものの、陛下を助ける協賛機関にすぎず、その権限は限られていたこと。
軍隊への指揮命令・宣戦、講和、条約等の締結の権限はすべて天皇陛下にあった(誰も口出しをできなかった)こと等が、戦前の日本が「絶対君主制」であった理由として掲載されています。

ただ、色々と調べてみますと、明治~昭和にわたり、三代の天皇陛下が共産党が主張するような「強権」を発動したことはほとんどなかった様です。

例外として、「2.26事件」、そして「終戦の聖断」の二つが挙げられるようです。
特に、この「2.26事件」。この後、どうも当時の日本国政府が少しおかしくなった・・・という記述を見ることができます。

この2.26事件に関しては、後日記事にて少し詳細を掘り下げてみたいと思います。
ともあれ、この「2.26事件」。私自身、過去の記事でも登場させていますね。
第58回 是清の経済・財政政策①

記事中で、私は下記の様に記しています。

「2.26事件により是清が暗殺されたことにより、軍拡の為の資金投与を止めるものが誰も存在しなくなってしまいました。
当時の岡田内閣も崩壊します」と。

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<前回の記事 第67回 日本における「左翼」②

前回までは、「右翼」と「左翼」というタイトルの下、いわゆる「左翼」。共産主義や社会主義に着目して記事を作成してきました。

調べていく中で到達した一人の人物の名称、「北一輝(きたいっき)」という人物。
この人の考え方がとても面白い、と感じたので、少しピックアップして記事を作成したいと思います。

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写真はWikiから拝借しましたので、Wikiへのリンクを張っています。

第67回の記事に於きましては、元々共産党さんの「綱領」を参考に、日本における「共産党」という存在を掘り下げ、その歴史観や現代におけるそのスタンスを認識することを目的としていたのですが、その過程において、「2.26事件」というキーワードが登場し、この2.26事件が一種の「クーデター」であったこと。そして、この事件を引き起こしたのが「皇道派」と呼ばれる、軍隊の中における「右翼」であったということがわかってきました。

つまり、2.26事件が起きるまで、明治憲法下における日本の議会運営は正常に機能していたのに、2.26事件以降、軍隊が政府に対する関与を深めてしまったため、当時の議会が異常な状況になった・・・というのがどうも日本が第二次世界大戦へと突き進んでいく、一つの「要因」となったようです。

ところが、この「皇道派」の起こした事件。この背景を見てみますと、その思想は明らかに「マルクス主義」の影響を受けており、更にこの「皇道派」に対して大きな影響を与えた人物こそ「北一輝」という人物であった、ということです。

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<前回の記事 第122回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~辛亥革命後の中国の近代史年表~

ニース事件、死者84人に フランス襲うテロの連鎖(CNN 2016.07.15)
フランスニーステロ

まず冒頭に、今回のフランス「トラックテロ」において大切な命を失われたすべての皆様に、哀悼の意をささげます。

さて。私がこのニュースで記事を作成しようと考えた理由には、2つの視点があります。

私は、以前にもう一つの「フランスにおけるテロ」について記事を掲載しました。
第40回 フランスの同時多発テロ事件について思うこと

パリで同時多発テロが起きたとき、日本だけでなく、世界のたくさんの国々で沢山の人々が「哀悼の意」を同様にささげたことを記憶しています。
また、今回はニースだけでなく、少し前にチュニジアで、日本人を含む人々がテロの犠牲者となりましたし、先日のトルコにおけるクーデターでは、既に128名の方が命を失っているのだそうです。

ですが、パリにおけるテロ時ほど、マスコミも、ネットも騒いでいないことにどうも違和感を覚えます。

起きた場所が1か所だったから?
犯人が直接ISにかかわりのある人ではなさそうだから?

それとも、「2回目だから」?

勿論、ISを増長させないことを考えると、この様な事件が起きるたびに大騒ぎすることは決して褒められたものでもないと思うのですが、では、あの「パリ同時多発テロ」の時、なぜ世界中の人々はあれほどに大騒ぎしたのか。

私は思います。あの時世界中の人々が大騒ぎした最大の理由は、『IS』というテロ組織に対する「恐怖心」だったのではないか、と。
パリという、先進国の市街地で発生したテロであった、ということ。

このことが世界をテロに対する「恐怖心」に晒させたということ。
チュニジアで起きたテロにしても、今回対象としているこのニースにおけるテロにしても、世界の国民の心の中に、「テロに対する警戒心」が大分備わりつつあるのではないか、と感じます。

不謹慎かもしれませんが、この「IS」という存在を通じて、全世界の人々の心が、それぞれの事情を抱えつつも『一体となる』ことができれば、本当に良いのにな、と感じざるを得ません。

改めまして、今回のニースにおけるテロ、またチュニジアのテロ、トルコのクーデター、そのほか世界各地で不意な事件に巻き込まれてその尊い命を失われたすべての皆様に、心より哀悼の意をささげたいと思います。

【本日のテーマ】

さて。改めて本日テーマとしたいのは、実は私がこのニュースを耳にしたときに感じた『違和感』。
それは、この事件が発生した日が、「フランス革命『記念日』」であったということです。

私が不勉強だっただけなのかもしれませんが、私はこの「記念日」という言葉にものすごい『違和感』を覚えたのです。

私が感じた『違和感』の正体はいったい何だったのか。
改めまして、私が過去に記したシリーズ「右翼」と「左翼」の記事を総括する形で掲載したいと思います。

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私のブログを訪れてくださっているキーワードの中に、「社会主義 共産主義 違い」というキーワードからの検索がよく見られます。

訪問先としては第62回 「共産主義」と「社会主義」 をご訪問くださっているのですが、ではこのページが本当に「共産主義」と「社会主義」という言葉の違いを端的に、きちんと説明できているのかというと、これは必ずしもそうではないと思います。

1848革命

シリーズ共産主義と左翼 の中でも、結局総括しきれていなかった問題ではないかと思っています。

【今回のテーマ】
そこで、今回の記事では、このような過去のシリーズで総括することができていない、「社会主義」と「共産主義」の違いについて、改めてきちんと総括するかたちで記事にしてみたいと思います。

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