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第246回 ABCD包囲網に至る日本とオランダの経緯/日蘭会商⑤

前回の記事 では、小林団長を筆頭とした日蘭会商使節団が、蘭印との間の交渉に行き詰まり、小林団長が事実上罷免された後の団員からの要請に応じ、第二弾として芳澤謙吉氏を団長とした使節団が派遣されたこと。

及び日本の使節団が蘭印との間で行った交渉のいきさつについて、記事にしました。

特に記事後半に掲載した日本側と蘭印側とのやり取りは、1940年11月に斎藤音次氏の後を引き継いだ蘭印総領事、石澤豊氏とオランダのホォーフストラーテン通称局長との間での予備交渉の内容になります。

で、この交渉で蘭印側が態度を硬直化させた姿勢を示すわけですが、その理由として、芳澤団長より蘭印側に対して一般提案提出されたのとほぼ時期を同じくして、日本において松岡外相が行った議会演説。

この内容に対してオランダ政府が態度を硬化させ、これに応じて蘭印政府が日本に対して輸出統制法を公布した、という経緯があったとの記述がみられます。(現時点では情報源が1か所で出所を確認できないため、参考情報にとどめます)

ちなみに松岡外相の議会演説は以下の通り。(抜粋:読みにくいと思いますので、全文に目を通す必要はありません)

右の如き情勢に鑑み、我が政府は既定方針ニ従い、南京ノ国民政府を承認することとし、、昨年十一月三十日、是と基本条約を結んだのであります。

此の条約は善隣友好、経済提携及ビ共同防共ノ三原則を具体化したものでありまして、日華両国はハ相互に其の主権と領土とを尊重しつつ、平等互惠ノ原則に依り、緊密なる経済提携を行い、又両国ハ共同して共産主義を防遏する為め、蒙疆及び華北の一定地域ニ皇軍の駐屯すること等を規定して居ります。

皇國が領土及び戦費の賠價を求めず、又進んで治外法権を撤廃し、租界を返還するの方針を約したことは、東亞民族の道義に依る結合を衷心念願して居る一つの確乎たる表現であり、証左であります。

既に基本条約を締結し、日満華共同宣言も発せられたる以上、我々は一意專心、汪精衞氏を首班とする國民政府を援助し名実共に之を中華民國の中央政府たらしめねばなりませぬ。

斯くて日満華三國を根幹とし、愈々大東亞共栄圏の樹立に向って、万難を排し邁進せんとするの態勢を執り來つたのであります。

次に大東亞共栄圏内の蘭領「インド」、仏領「インド」支那及び「タイ」國等ノ関係を一瞥しまするに、蘭印、仏印等は地理的情勢、其の他の上よりも我が國と緊密不可分の関係にあるべきで、従来之を阻碍し來つた事態は飽くまで之を矯正し、相互の繁栄を促進する為め隣保互助の関係の設定を期せねばなりませぬ。

政府は此の見地よりして、昨年九月初旬特に小林商工大臣を蘭印に派遣致しましたのでありますが、石油購入其の他に関し、重要にして急を要する問題の交渉一段落を告たるを機会に、長く現地に滯在することを許さない事情もありますので、同代表の帰朝を見るに至り、次いで政府は過般其の後任として芳澤元外務大臣を派遣し、既に交渉を再開して居るのであります。

抜粋ではありますが、松岡外相が「蘭印」について言及しているのはこの部分だけですので、ここを差したものだと思われます。

更に抜粋すると、ここ。
大東亞共栄圏内の蘭領「インド」、仏領「インド」支那及び「タイ」國等ノ関係を一瞥しまするに、蘭印、仏印等は地理的情勢、其の他の上よりも我が國と緊密不可分の関係にあるべきで、従来之を阻碍し來つた事態は飽くまで之を矯正し、相互の繁栄を促進する為め隣保互助の関係の設定を期せねばなりませぬ。

松岡外相はつまりオランダ領東インドを、「大東亜共栄圏の一部だ」と表現したわけですね。
この内容にオランダ政府が反発した、という記載は外務省ホームページ でも確認できます。

前回の記事 にて掲載した芳澤団長と蘭印側とのやり取りが、この松岡外相の発言を受けてのことであることを念頭に入れて前回の記事を読むと、大分風通しがよくなります。

時系列だけお示ししておきますと、

1940年7月   先発隊として向井石油代表が蘭印到着
1940年9月中旬 本体である小林使節団が蘭印到着。日蘭会商スタート
1940年9月27日 日独伊三国同盟締結
※小林団長の失言により交渉は一時暗礁に乗り上げるも、後を引き継いだ向井石油代表により石油輸入量について合意が成立する。小林団長、帰国。
1940年11月上旬 石油の新規既契約分について調印
1940年12月28日 芳澤団長が蘭印到着
1941年1月  芳澤団長より蘭印側に一般提案(資源取引以外の内容)が提出される
1941年1月21日 松岡外相による議会演説が行われる
1941年2月17日~3月1日
石澤豊総領事とホォーフストラーテン通商局長との間で予備交渉が行われる

と、この様な経緯になります。引用した資料 は、石油問題研究家である 岩間 敏 氏の文章なのですが、この文章では引用文が松岡外相の議会発言を受けてのものであることが掲載されていませんので、いささか公平な判断を行うことを目的とした資料としては問題がある内容だと思います。

「日本側の発言には正規の外交官にしては夜郎自大的、恫喝的な表現が目立つ」とも記されていますが、これはあくまで代表使節団ではなく、新任の総領事が行った事前交渉のいきさつですしね。

確かに松岡外相の発言内容に行き過ぎた部分があった事は事実ですが、これが蘭印側は、「蘭印を日本「管理」下に置かんとするが如き感あるところ、蘭印としては背後に潜む日本側の動静に対し強い疑惑と不快を感ぜざるを得ず」と受け止めていますが、この時点でまだそこまでの要求を行おうとしていたのかどうかは疑問が残るところです。

勿論、本音の部分ではそうだったのでしょうけど。
また、「仏印及ひび「泰」(タイ)に対する実力行使の気配」ともありますが、仏印に関してはあくまで主権はフランス側にあり、日本軍を駐留させているにすぎないこと。

タイとの間では日本はタイ・仏印間の紛争問題についてその停戦を斡旋し、和平を実現させただけにすぎません。
蘭印が、これらの日本側の行動を「脅威」に感じていたことは事実でしょうが、日本側からすれば、「そんなつもりはない」と言いたくなるのもわからないでもありません。

それともう一つ。日本側の主張にある背景としては、こちらの表。

【蘭印の石油精製所】
蘭印石油精製所

1938年時点での資料にはなっていますが、一日当たり全生産量12万4600バレル中8万1000バレルを精製していたのがバターフセという会社で、オランダとイギリスが共同出資するグループに所属する企業。

4万3500バレルを生産していたのがコロニアルという会社で、スタンダードクループというアメリカの企業グループに所属する企業。

残るはアルゲーメネという企業で、個々が生産する量は一日当たりぜん12万4600バレル中たった100バレル。
つまり、日本側とすると、当時存在した蘭印の現地法人から直接買い受けることができる200万トンを蘭印政府と協定を結び、確約することができたとしても、実際に精製しているのはその大部分が米英の息がかかった企業。

何かあったときに、蘭印と確約した通りに提供し続けるとは限らない。仮に米英が日本への禁輸に踏み切れば、当然蘭印におけるイギリス系、アメリカ系企業がこれに呼応することは想像に難くありません。
先のやり取りの中で、

石油について観みるも、蘭印側は英米に対し大規模企業を許し居る処、右を以て脅威とは認め居らさるにあらすや。

日本人企に対する今次我方要求を認めたる場合に於いても、資本の点より考え一朝一夕に英米の石油事業の如く大発展を遂くる訳にもあさるに付き、蘭印側としては杞憂の必要なし。

とある部分に関しても、この前提条件を頭に入れておけば納得のできる部分です。

つまり、日本側が最終的に蘭印に対して求めていたものは、企業間取引を通じて米英の息がかかった会社から手に入れられるような資源ではなく、米英の影響を受けず、仮に米英との間で開戦状況に陥ったとしても順当に供給を受けられる石油会社、できれば日本直営企業と取引がしたかったのだということが見えてきます。

それが証拠に、蘭印との交渉内容として、日本が閣議決定した内容は以下の通り。
(1) 新鉱区としてボルネオを第一目標として、タラカン島の対岸約5万平方キロと日本のボルネオ石油が試掘中のカリオラン鉱区に隣接する地域とする。

(2) 既設鉱区として、スマトラとジャワの現行鉱業法が施行される前に付与された鉱区で生産中は、もちろん、未開発の油田も対象とする。

(3) 会社の買収として英米系以外の蘭系石油会社を対象とする

とあります。日本としては、もとより蘭印の経済を日本企業がどうこうしようというつもりなど毛頭なく、蘭印において、蘭印政府のお墨付きの下、米英企業並みに、自由に資源開発を行い、日中戦争のみならず、日本本土、およびその後日本の統治下に置いた地域の復興の為の資源を確保することを目的としていたのでしょう。

ちなみに、この石油輸入量に関しては、現地における開発も含め、蘭印は日本側からの要求をほぼ呑む形で合意に至っています。

問題になったのはその他の資源。とりわけ、ゴムとマンガン鉱の回答量が日本側の要求より少なかったことで、最終的には日蘭交渉決裂となります。

この、交渉決裂に至った理由として、第229回以降の記事 で引用させていただいております、royalbloodさんのブログにて服部卓四郎氏の 『大東亜戦争全史』という書籍からの引用として、以下のような文章が紹介されています。(やっと伏線が回収できました)

当日朝、芳沢大使より、尚多少交渉の余地ある旨の電報も到着し、蘭印の現に応諾した条件に基き、一応調印するか否か、若干の論議があつたが、調印しても大なる効果なく、却つて仏印及び泰に日本の弱腰を見透かされる不利ありとして、調印せざることに決論せられた。

誰の言葉として紹介されているのかが不明ですが(おそらく松岡外相)、つまりこのまま調印すれば、後の仏印やタイとの交渉において不利に働くのではないか、という、一種の「プライド」によって調印が見送られたのだということですね。

ただ、この時点で芳澤団長は、一旦交渉は打ち切るものの、まだ蘭印に対して交渉を今後継続していくことで合意しており、この時点で日・蘭印間の信頼関係が途絶えていたわけではありません。

問題になるのはこの後。
日本がアメリカ、ドイツ、ソ連の各大使にあてて発信した電報が、米国政府に傍受され、暗号が解読されてしまった事。

解読された電文こそ、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」。

全文を発信したわけではありませんでしたが、結果日本が南部仏印進駐を行おうとしていることがばれてしまい、これを受けてアメリカが対日禁輸・資産凍結を行い、これに蘭印が追従してしまいます。

元々、「ABCD包囲網」を検証することを目的としてスタートした今回の記述ですが、今回記事にしたABCD包囲網における日蘭の交渉過程を根拠として、「オランダとは交渉ができる関係にあったのであり、オランダとの関係を断ち切ったのは日本である」といった主張を見かけることがあるわけですが、今回の経緯を見れば、この表現が必ずしも正鵠を射たものではないことが分かりますね。

確かに交渉に於いてオランダは態度を硬化させつつあるものの、とても「対日禁輸」等経済制裁を課す関係性にあるようには思えません。

では一体なぜオランダが米英に追従して対日経済制裁を課すに至ったのか。次回記事では、6月末に大本営政府連絡会議決定がなされた「南方施策促進に関する件」及び「対仏印、泰施策要綱」を検証することで、その謎に迫ってみたいと思います。

時系列ごとに事象を整理すると、真実が見えてきますね。


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第240回 日独伊三国同盟の締結と「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」②

時代が「現代」に近づけば近づくほど、私たちが入手できる情報の量も増え、どの情報が本当に正しいことを言っているのか。登場人物も、その所属するグループも数が増え、またより具体性を増します。

またここには計算式で簡単にはじき出すことのできない「感情」の問題もあるので、日本が米英と開戦するに至った経緯が果たして本当はどうであったのか。これを知ることは本当に難しい作業だと感じています。

整理しますと、

1.日中戦争は蒋介石軍が民間人の居住する日本の上海租界を3万の軍で包囲、逃走経路を封鎖した上で銃撃を行ったことにより始まった。(1937年8月12日)

2.蒋介石が上海日米欧共同租界・フランス租界を空爆(1937年8月15日)し、この様子を撮影した映像を「日本の仕業である」として国際連盟に提出したことで日本が欧米から経済制裁を受けることが正当化されてしまった。(1938年10月)

3.日本軍が蒋介石軍との戦闘を繰り広げる中で、英・仏・米は蒋介石軍によって数多くの民間人を虐殺された日本ではなく、戦争を仕掛けた側の蒋介石軍に対する支援を行い続けた。

4.一方、日本は同じ時期に北方にてソ連とも紛争を繰り広げる関係にあった。

5.「対共産」という共通の目的の下、日本はドイツと同盟関係にあったが、ポーランド侵攻をめぐってドイツはソ連と不可侵条約を締結。「アメリカ」という脅威に対抗するため、日独伊蘇の4カ国による同盟を締結する実現性がにわかに現実味を帯び始めた。(1939年8月23日)

6.そんな中、欧州にて第一次世界大戦が勃発。フランスがドイツに敗北(1940年6月17日)したことにより、フランスがフランス領インドシナから蒋介石軍への支援を停止することを約束し、また日本が北部仏印に進駐することに対して承諾を得ることができた。(6月19日)

7.日本が北部仏印進駐を完了させる(1940年9月23日)とほぼ同時期に、日本はドイツ・イタリアとの間で「日独伊三国同盟」を締結する。(1940年9月27日)

8.日本はソ連との間で日ソ中立条約を締結。(1941年4月13日)

9.日本の外相である松岡は、「日独伊蘇」による四国同盟を締結することを想定していたが、ドイツが突如ソ連に侵攻を開始し、松岡の構想はもろくも崩れ去ることになる。(1941年6月22日)

10.御前会議において「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定される。(1941年7月2日)

とここまでが前回までの記事において私が記事に掲載した内容をまとめたものになります。

今回の記事では、このうち7番。日本が北部仏印進駐を完了させた後のフランス領インドシナでの動きから記事にしてみたいと思います。


タイ・フランス領インドシナ紛争

タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発したのは1940年11月23日。

前提条件として、タイは1893年に勃発した仏泰戦争により、

 「仏印領内のメコン川西岸までのフランス保護領ラオス」
 「フランス保護領カンボジア(英語版)のバッタンバン・シエムリアプ両州」

という二つの地域をフランスに割譲させられていた、ということ。ここから話はスタートします。

日本はフランスとの間で話し合いによりフランス領インドシナへの進駐を完了しましたが、フランスは元々武力によってフランス領インドシナを制圧し、統治下に納めていました。

話し合いによってフランスに進駐した日本のことを米英は「侵攻」であると非難しましたが、武力によってこの地域を占領したフランスに対しては何も非難しないという・・・。だったら自分たちが武力によって占領したすべての地域を返還してから言えっていう話です。

話を元に戻します。

フランスがドイツに敗れ、ドイツの傀儡ともいえるヴィシー政権が誕生し、一方で日本が北部仏印進駐を完了した事を受け、前記した通り、1893年に勃発した仏泰戦争によって自国領土を分割させられていたタイは、フランスヴィシー政権に対して、改めて自国領土を返還するよう要求します。

ヴィシー政権はこれを拒否し、タイと仏印との国境付近で小競り合いが頻発するようになります。

タイ
↑こちらが現在のタイです。外務省HPから画像を引っ張ってきました。

タイ仏印紛争
↑こちらはタイと仏印の間で領土問題が発生したエリア。タイ・フランス領インドシナ紛争の後、タイが取り戻す領土です。
色のついているエリアの下側、白い部分が現在のカンボジア。

北部仏印
↑こちらは日本が進駐を行った北部フランス領インドシナ。画像は 世界史カレンダー様サイト より拝借しました。

日本が進駐したエリアはラオスの上2/3辺りまでですから、今回争いが発生したのは「南部フランス領インドシナ」ということになりますね。

1940年11月23日、タイが仏印に対して空爆を行ったことから開戦となります。
両国の紛争を終結させたのが日本。

この時点で、アジア地域で「独立国」と呼べるのはタイと日本の2カ国のみ。一方フランスとは仏印問題に絡んでお互いに協定を結び、少なくとも表面上は「友好国」と呼べる存在でした。

この両国がいつまでも争いを続けることを懸念した日本が停戦を斡旋し、二見甚郷駐タイ公使がタイから公式に受け取った調停依頼文書をフランスに渡し、フランスがこの内容を受諾したことで1941年1月21日、双方は停戦と相成ります。

結果、上地図にある領土を日本はフランスからタイに返還させました。(第二次世界大戦後、ラオスとカンボジアが独立し、この領土はラオス・カンボジア領土となります)


日本とアメリカの関係

では、ここで改めて米国が ルーズベルトの隔離演説 以降、日本に対して行ってきた経済制裁について、順を追ってみてみたいと思います。

1937年(昭和12年)10月5日 ルーズベルトによる「隔離演説」

1939年(昭和14年)7月 日米通商航海条約破棄を通告

1939年(昭和14年)12月 モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を停止するよう通知。

1940年(昭和15年)1月 日米通商航海条約失効

1940年(昭和15年)6月 特殊工作機械等の対日輸出の許可制

1940年(昭和15年)7月 国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)

1940年(昭和15年)7月26日 鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立

1940年(昭和15年)8月 石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制

1940年(昭和15年)同8月 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸

1940年(昭和15年)9月 屑鉄の全面禁輸

1940年(昭和15年)12月 航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制

1941年(昭和16年)6月 石油の輸出許可制

1941年(昭和16年)7月 日本の在米資産凍結令

1941年(昭和16年)8月 石油の対日全面禁輸

経過を見てみますと、1939年7月に行われた米国からの日米通商航海条約破棄の通告は、同年6月より日本と英国との間で、有田・クレーギーによる外交交渉が行われている最中。次第に日本に譲歩するイギリスに対する牽制の意味合いも込められたものでした。

名目は「日本の中国侵略への抗議」でしたが、既に何度も述べていますように、そもそも日本に対して戦争を仕掛けてきたのは中国ですし、特にこの「抗議」を正当化する国際連盟での決議は蒋介石の提出した捏造資料を基に行われた日本に対する非難決議がベースとなっていました。

何より日中戦争は中国内に潜む共産主義勢力からの度重なる残虐な行為と挑発に業を煮やしてのもの。とても「侵略」と呼称できるようなものではありませんでした。

何より本当に「侵略」を行ってきたのは、中国と国境を接してさえいない欧米各国の方であり、自国の存亡を脅かす程の身の危険を感じる状況にないにも関わらず中国やインド、東南アジア等々を支配下に置いてきた自分たちの侵略行為は棚に上げて行われた「抗議」であったことを忘れてはならないと思います。

野村吉三郎外務大臣の度重なる交渉努力にも関わらず、1940年(昭和15年)1月26日、同条約は失効。この結果、日本は自国資源をほぼ全面的にアメリカに対して依存しているにも関わらず、米国との間でその取り決めが何一つない、「無条約状態」となってしまいます。


日本占領下における北支の状況

盧溝橋事件以降、広安門事件に於ける第29軍からの攻撃 を受け、北京への総攻撃を決定、陥落させた日本軍(1937年7月29日)は、1937年12月14日、北京に於いて湯爾和を首相とする「中華民国臨時政府」を設立させます。既に日本と友好関係にあった「冀東防共自治政府」もここに吸収されます。

1940年3月30日、南京に汪兆銘による南京国民政府が設立され、中華民国臨時政府はここに吸収されるわけですが、汪兆銘政権は日本の後ろ盾によって成立した政権であり、米国は汪兆銘政権を非難し、呼応して蒋介石軍に対して2000万ドルの借款供与を行います。

考えてみればこの時点で、日本軍の支援する汪兆銘政権V.S.米英の支援する蒋介石政権という対立構造が出来上がっていたんですね。

フランスがドイツに敗北し、日本と仏印の間で仏印進駐に対する交渉がまとまったのが6月19日。
これを受けて米国は特殊工作機械等の対日輸出を許可制にする、という制裁措置を講じます。

これが実際に公布されるのが7月2日で、このことで日本は

 兵器、弾薬、軍用器具、主要原料26種、化学製品11種、工作機械等

の輸入を「許可制」とされてしまいます。このことによって、日本はこれらの資材を米国から自由に輸入することができなくなってしまいます。

また、「基本国策要綱」が閣議決定(1940年7月26日)され、「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」が大本営決定 されるのが7月27日。

これを受けて航空用燃料や屑鉄等が許可制項目に加えられます。
ここまでくると、資源を完全に米国に依存している日本としては、手足を縛られた状態で胸倉を突き上げられたに等しい状態ですね。

同年9月、日本の北部仏印進駐の完了、および日独伊三国同盟締結を受けて屑鉄の輸出全面停止、となります。
実はこの屑鉄の全面輸出停止、タイと戦争状態にあったフランス領インドシナに対しても同様の制裁が加えられています。

様々なサイト等での記述を読んでいて、「実際に日本が石油の輸出を全面的に停止されたのは日本が南部仏印進駐を行った後だ」という記載を多く見かけましたから、日本があそこまで強硬に南部仏印進駐を行った事に違和感も覚えたのですが、ここまでの制裁の経緯を振り返ると、確かに南部仏印進駐が選択肢に入ったことは理解できなくもありませんね。


次回記事では、ABCD包囲網のもう一つの国、「D=オランダ」についても調査を進めてみたいと思います。


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<継承する記事>
第166回 政策金利と公定歩合の違い/「金利目標」と「量的緩和」

【前回の内容】
記事内容としては前回の記事と同じ内容を取り扱うことになります。

前回の記事に掲載した内容は文字ベースで、しかも読売新聞社が編集した、黒田さんの発言の一部が切り取られた情報をベースに、私なりの解釈を加えて記事にしたのですが、改めて動画ベースで、黒田さんの発言をすべて聞いた上で、本当に私の解釈が適正であったのかどうか。これを書き記す必要はあるなと感じました。

【今回のテーマ】

黒田総裁 会見

今回の記事では、第167回の記事 を受けて、私の解釈と比較しながら、また黒田総裁が度々用いる専門的な表現と、語彙のつかみにくい表現について解釈を加える形で記事を作成できればと考えています。

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<前回の記事 第121回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~中国近代史における孫文の役割-中国共産党の誕生~

前回の記事では、孫文の設立した「広東軍政府」。第119回の記事では、袁世凱没後の中国政府を、正式に継承した北洋政府側から見てみましたが、前回の記事では、同じ時代の中国を、孫文の設立した「広東軍政府」側から見てみました。

【中華民国の地図:Wikiより】
中華民国の地図

【今回の記事のテーマ】
前回の記事では、今回の記事において五四運動後の北洋政府や中国共産党設立に至る経緯等をお伝えすることをお約束していましたが、実際私も一連の経緯を整理しきれていない部分も
ございますので、改めて、辛亥革命から五四運動勃発までの経緯を、「年表」でまとめてみたいと思います。

年表を参考に、気になる部分を改めて振り返るつもりでシリーズ第二次世界大戦 記事をご参照いただければ、幸いです。

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<前回の記事 第54回 甘利特命担当大臣、本当にお疲れさまでした m(_ _)m

前回の記事において、甘利さんの辞任騒動の折、

麻生内閣の時から継続して、まったく変わらないマスコミや野党のこのような「体質」に、改めて怒りを覚えます。
麻生内閣のとき、同じような手段を使って麻生内閣を弱体化させた「手法」について、次回記事にてご紹介したいと思います。

と、このような形で今回の記事へのテーマを託しました。

もう少し丁寧な形で記せばよかったかな、とは思うのですが、少し感情的になってもいましたので、改めて今回の記事で、「麻生内閣」について、もう少し詳しく記すことができればと思います。

「麻生内閣」

覚えておいででしょうか。私はかつて、第19回の記事に置きまして、「麻生太郎・中川昭一コンビの功績」について掲載した事があります。

そもそも麻生内閣の特徴とは、リーダである麻生さんが、自由民主党の総裁として立候補したのは、あのリーマンショックが起きる1週間前。そして総裁として当選したのはリーマンショックの1週間後。

「有時」と「平時」という言葉があります。
「平時」とは、現在のように、確かに海外に目を向ければ日本の国民に生活に大きな影響を与えてもおかしくはないような事態が起きていないわけではありません。
ですが、例えば「リーマンショック」であったり、「東日本大震災」であったり、それを放置してしまえば、国内の経済に対して、二度と立ち直ることができないような、深刻なダメージを与えかねない事件が発生した場合に比べれば、「まったく問題がない」といっても過言ではないかと思います。

このように、仮に何か事件が起きていたとしても、その事件が原因で国民に生活に対して大きな影響を与える可能性が低い状態。もしくは事件そのものが起きていない状態。このような状態にあることを「平時」。
一方でリーマンショックや東日本大震災など、その状況を放置すれば、日本国民の生活そのものに深刻なダメージを及ぼしかねない事件の影響下にある状況を「有時」と呼びます。

現在の安倍内閣は間違いなく「平時」。一方、麻生さんが自民党総裁の座に就いたのは、まさしく「有事」。政権を運営する立場に就任した瞬間に、このような危機的な状況にさらされた政権など、特に戦後日本においてはまずなかったのではないでしょうか。

この状況の中で政権を引き受けたのが麻生さん。かなり特別な状況にあったのだということをご記憶いただきたいと思います。

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<前回の記事 第53回 実質GDPへの疑惑

予告しているテーマに関しては、まだ情報をまとめている最中で、中々記事にはできていない中ではあるのですが・・・



テレビ局報道から持ってきている様ですので、いずれ削除される可能性は否定できませんが、やはり加工をしていない、全編を持ってくるのが一番良いと思いますので、この動画を用います。

昨日よりの報道ですでに周知されている通り、安倍内閣の中心中の中心、甘利明さんが、経済財政政策特命担当大臣、が辞意を表明しました。

正直申しまして、今回の第2次安倍内閣において、特命担当大臣という大任を果たすまで、私の中の甘利さん評はそれほど高くありませんでした。

それは、甘利さんの経済観念に対する疑問があったからです。
これは、私は安倍さんにたいして当初抱いていた感覚と同様のものです。

シリーズ「アベノミクスを問う」の総決算のようにはなりますが、そもそもの「経済政策」には、大枠として二つの考え方があります。

一つが、「財政再建政策」、もう一つが「財政出動政策」です。

前者、財政再建政策の代表が故橋本龍太郎元総理や小泉純一郎元総理。実は第一次安倍内閣もこちらに含まれます。
一方、財政出動政策の代表は麻生太郎さん、そして故小渕恵三さん。第二次安倍内閣はこちらに含まれます。

また、第15回の記事でもご説明しましたが、一見すると「財政出動政策」であるかの様に見える財政政策として、「マネタリズム」という考え方があります。

麻生さんの採用したケインズ政策(是清政策)は、金融政策と同時に財政出動政策をとり、金融緩和政策で日銀が市場に流通する資金の量を増やし、国債を発行することで政府がその資金をいったん市場から吸い上げ、これを再度実体経済に投資する、という方法を取ります。
そのお金を民間企業が利用して給与所得を増やし、消費を起こし、二次的、三次的に資金を流通させ、景気の活性化につなげる方法です。

「トリクルダウン」と揶揄されることもありますが、そもそも「大企業が設けることで、下請けや一般家庭がその恩恵にあずかる」などといった思想とは根本が違います。

一方で「マネタリズム」とは、ケインズ政策に批判的な経済学者たちが考え出した考え方で、日銀に完全に依存した金融緩和政策のみを行い、経済的には緊縮財政政策をとります。

この方法をとると、金融市場にこそ資金が満ち溢れますが、仕事が増えないため、市場にあふれたお金を使う人が誰もいなくなり、より一層デフレが深刻化することになります。これを「流動性の罠」と呼びます。

このように、金融市場にあふれたお金を海外の投資家たちに利用され、リーマンショックの元凶ともなった「サブプライムローン」等のリスクの高い商品に対する投資が行われたのが小泉内閣における経済現象。「円キャリートレード」と呼ばれる経済現象です。

第一次安倍内閣において安倍さんが採用した経済財政政策もこの「マネタリズム」に基づくものです。この考え方を浸透させたのは「竹中平蔵」という人物。私自身は「ユダヤの傀儡」だと思っています。
甘利さんの経済的な思想も、この「マネタリズム」に基づく考え方が当時は多く見られました。

ですので、ケインズ的な「政府がお金を使うことで、民間の景気が活性化し、このことによって税収も増え、政府の財政も潤うことになる」という発想が甘利さん自身にありませんでした。

このことは、第二次安倍内閣において、担当閣僚となった甘利さん自身が国会予算委員会に於いて、実際に認めて発言していました。安倍内閣閣僚において、ケインズ政策の思想を「トリクルダウン」と呼称したのも、私の記憶にある限り甘利さんだけではなかったかと思います。

このころから、私は、甘利さんの中にある、「素直さ」を感じるようになりました。間違っていたら、素直に「間違っていた」と認められる政治家こそ、本当に信頼できる政治家であると思います。


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<前回の記事 第39回 アベノミクスを問う14

「アベノミクスを問う」の続きは少しお休みして、今回はタイトルの通り、先日フランスにて発生した、同時多発テロについて、私の考え方を述べたいと思います。

今回、この意見を掲載しようと思ったのは、私がFacebookにてふと投稿した私見が、マスコミ報道を見ていると、ずいぶん的を射た内容であったことがわかり始めたからです。

以下、引用します。

【差別的だと思われたとしても・・・】

<11月15日 15:43 記>
昨日のフランスで、ISによって引き起こされた悲惨な事件。


私たちの住む「日本」は、単一の民族が形成してきた国家としては、世界最古の国になります。
ですが、それでも本当に単一の民族だけで形成されているのかと言われれば、そうではありません。

特に第二次世界大戦中、日本国の植民地として日本国土となったが、敗戦後、サンフランシスコ講和条約によって日本国籍を離脱することとなった人たち。「平和条約国籍離脱者」と呼ばれる人たちで、「特別永住者」と呼ばれる人たちが日本には日本人と共に暮らしています。

彼ら、彼女らとその子孫の大半は、世代をまたいで日本に居住していながら、日本国籍を取得していません。日本に長年暮らしていることで、当然日本という国に対する愛着もあるでしょうし、日本人に対する親近感も覚えているでしょう。
ですが、彼ら・彼女らには同時に母国に対する愛情があることも事実です。ですので、どうしても時として日本ではなく母国側の利益を優先する選択を取ることがあります。

このことで、戦後70年間の日本が被ってきた不利益も多分に存在します。安倍内閣に入って、特にその「不利益」の部分が露骨に姿を見せるようになりました。

なぜこのようなことが起きるのか。それは、間違いなく日本人と他国籍者の間では「価値観」に相違があるからです。


フランスで起きたあの悲惨な事件。

あのような事件が起きた理由の一つに、フランスという国に、「フランス」という国の価値観とは大きく逸脱する思想を保有していた人が紛れ込んでいたことが挙げられます。

冷たいようですが、私は欧州で際限なく行われているような「移民受け入れ」には反対です。
「日本さえ良ければいいのか」という考え方もあるでしょうが、日本という国をわざわざ危険にさらす必要性などないと思います。


<引用終わり>

フランス同時多発テロ事件について思うこと

上記内容は、Facebookに掲載した内容を加工せず、そのまま貼り付けたものです。
引用した動画はベルギーの現状を訴えるもので、投稿されたのは2011年1月6日。映像が制作されたのは2009年の9月です。

今回の事件の主犯はベルギーの人物だということを含めて、まるで今回の事件を暗示しているかのような動画の内容となっています。

また、私は上記記事を、特に何かの報道の影響を受けたわけでなく、事件が発生した時点で覚えた感覚を、そのまま書き記したものです。直感で、移民の問題であることを感じました。


実際に記事を書き記した理由は、1カ月ほど前、知人と話をしていた時に、彼が日本国政府が移民を受け入れないことに対して、批判的な意見を述べていたことが理由です。

彼からその話題を耳にした瞬間に、私の口からは、「私は、移民受け入れには反対です」という言葉がふっと出てきました。

ドイツをはじめとする欧州諸国で、シリアからの避難民受け入れの話題が、TVで盛んに報道されていた時期です。
この時点で、私はなんとなく予見していたわけです。今回の事件を。

それが、案の定、しかもこれほどに悲惨な形で発生してしまいました。

私は、別に移民を受け入れるなと言っているわけではありません。
受け入れるのならば、それには、よほど慎重でなければならないといっているのです。

「違和感」への「違和感」

また、今回のテロでは、フランスで発生した悲惨な事件に対する哀悼とはまた別の視点で、事件に対する報道や全世界の行動に対して、いくつかのアンチテーゼが突き付けられました。

パリとベイルート、2つのテロが浮き彫りにした偏向に失望感
FBプロフ「フランス国旗化」に対する強い違和感

内容までわざわざ記すことはしません。
突き付けられたアンチテーゼとは、主に二つだと思います。

一つは、「なぜフランスだけ?」という視点。
もう一つは、Facebookにて、プロフィール写真にフランス国旗を重ね合わせて哀悼の意を表明する行為を多くのFacebookユーザーが実行したことに対して、「安直すぎるのではないか」という視点。

特に後者に関しては、さらにこのトリコロール化するための機能が「スパム」であり、個人情報を盗まれるというまことしやかなデマまで広まりました。

もちろん、このような視点を持つことが悪いわけではありません。
人それぞれ。価値観はいくつもありますから、その内容に何か思うことはないわけです。

ですが、このような記事読んで「共感」を覚え、拡散をし、それがまるで自分の意見であるかのように勘違いしてしまっている人があまりにも多かったのではないか、というのがまた私の覚えた違和感です。

事件そのものもそうなのですが、確かにフランスがテロの今日にさらされたことに対して、「じゃあ他の地域でもトロが行われているのに、なんでフランスだけ?」と感じるのはそれはそうでしょう。
引用した記事であれば、特にレバノンの当事者の率直な意見も掲載されていますから、私も共感する部分がないわけではありません。

ですが、これが行き過ぎると「テロを起こす側にもテロを起こす側の価値観、主張があるのだから、(フランスが含まれる)米国側の正当性ばかり報道するのはおかしい。空爆は正当化してよいのか」などという主張までもが報道されるわけです。

いや、それはまた別問題だろ、と。
どんな理由があれ、無差別に人を殺すテロが正当化されるわけはない。空爆を批判したければ、それはそれでまた別の場で行うべきものなんじゃないのか?

あたかも、「空爆を正当化してよいわけがないんだから、テロだけを批判するのはおかしい」ととられかねないような主張を日本人の中にも行う人がいることに、とても違和感を覚えます。

Facebookプロフのトリコロール化にしてもそう。
素直に、「フランスの皆さんに哀悼の意をささげたい」という思いを、なぜ素直にくみ取れないのか?

引用記事の筆者は、「哀悼の意をささげているのに、ザッカーバーグが笑っているのはおかしい」とか。
いやいや、それはあんたの主観だろう、と。で、なんでそんな個人の主観に共感して拡散する日本人がこんなにもいるのだ、と。

ISの目指すもの

これもまた一つのうがった見方なのかもしれませんが、テロ行為を素直に批判できない風潮。
被害者に哀悼の意をささげる人が素直に評価されない風潮。

これこそ、まさにISの思惑通りなんじゃないですかね?

私、このブログで「価値観」という言葉を何度も使用していますが、彼らの価値観と我々日本人の価値観は明らかに違います。
空爆という行為に訴えることのできる国々と、日本との価値観もまた同一ではありません。

価値観の異なる人たちが行う行為を「我々の価値観と異なるから」という理由で、遠く日本で批判しても、何のメリットもないと思います。

我々が考えなければならないのは、結局日本という国を、この国に暮らす同胞たちを、幼い子供も含めていかに守っていくのか。そのためには、時に諸外国と協力することも含めて、どのような方法が良いのかということを真剣に考えることじゃありませんかね?

地理的な事情もあり、仕方のない面もあるのかもしれません。
冷たいように感じるかもしれませんが、移民を積極的に受け入れる決断をしたのは、フランスという国そのものです。
そこに暮らす国民に、何の責任もないのかもしれません。旅行者だっているわけです。

ですが、移民受け入れを行うということは、すなわちそういうことなんじゃないでしょうか。
移民を受け入れるという選択をしたのはフランス政府です。フランス政府として、その前提条件の下で、今回の事件を受けて、今後どのような政策をとっていくべきなのか。

今後の行く末に着目したいものです。

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初めまして。「のんき」です。

ブログ的には、二つ目のブログ。前回のブログを完全に「移転」するという形ではなく、前回のブログも残しながら、改めて新しいブログを作ってみよう、と考えました。

ちなみに、現在も稼働中ではありますが、前回作成していたブログはこちら。

忙しいほうがいい。でも本当は・・・
更新がかなり長い間できていません。(;'∀')

リアル生活が少し忙しくなり、ブログに関心を注ぐことができなくなったことがその理由なのですが、少しだけ時間に余裕が生まれたので、その時間を利用して、改めてブログをスタートしようと考えました。

前回のブログは、最初ボランティア活動を中心に動いていた時代にスタートしたのですが、関心がだんだんと他のことに移り変わった結果、様々な分野の内容が混在してしまい、統一性のないものとなってしまいました。

特に途中から、関心ごとがもっぱら「政治」や「経済」に移ってしまい、ほぼ政治経済系の内容で構成されるようになります。
改めて、ブログをスタートした当時の趣旨ともずれ始めていることから、これをきっかけに「政治経済ネタ」を独立させ、重複する内容も含めて新しくブログをやり直そうと思います。

ある程度記事内容がストックされ、充実したころに、前回のブログからの誘導も行っていこうと思います。 また、私自身経済の専門家でも政治の専門家でも何でもありませんから、あくまでも「個人のんき」としての視点から記事を作成していきます。

目標は、政治や経済に詳しくない人が見てもそこそこ「わかりやすい」と感じられるような、そんな内容を目指しています。

整理しますと、このブログは

〇政治・経済問題を中心に取り上げるブログです。
〇多くの人が「わかりにくい」と感じることを、より「わかりやすい」と感じられるブログとなることを目指しています。

頻繁な記事の更新は難しいかもしれませんが、少しずつ記事を増やし、多くの人に関心を持ってもらえるブログとなることを切に願っております。

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