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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果

歴史北伐蒋介石張作霖関東軍
<継承する記事>
第134回 田中義一内閣と山東出兵/済南事件への対応に見る若槻内閣との違い~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

【前回までの振り返り】

今回掲載する「張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件」とは、日中十五年戦争のきっかけとなる「満州事変」。
日本側から見ると、その伏線ともなる事件です。

前回までの記事では、今回の張作霖爆殺事件が起きるその背景となる中国人の気質。
煽られた反日感情と共産党員による工作が原因となって勃発した「南京事件」と「済南事件」という二つの事件について掲載しました。

キーパーソンとなる人物は「蒋介石」と「馮玉祥」。
蒋介石は元々日本で軍事教育を受けた規律正しい人物で、おそらくこのような残虐な行為を行う人物ではなかったのだと考えられます。
ところが、もう一人の「馮玉祥」という人物は元々北洋政府側の人間であり、ソ連共産党にも傾倒してた様に見受けられます。

後にこの二人は対立することとなるのですが、これらの事件のいきさつから、日本側は蒋介石のことを一貫して信頼していたこともわかります。
日本側にも、一連の騒動は「蒋介石を貶めようとする中国共産党員の仕業である」という認識はあったようですから。

日本としても、いっそのこと蒋介石に中国全土を統一させた方が、日本にとっての国益となるのではないか、とする考えもあったのではないかと考えられます。

一方、北洋政府では張作霖と馮玉祥が対立構造にあったわけですが、北洋政府において日本は張作霖を支援していました。
馮玉祥は、北京政変後、張作霖に対して起こしたクーデターの最中、前線から逃亡し、ソビエトに逃げ込んでいました。

ソ連で(ソ連が支援する)国民党への入党を宣言し、帰国後、自軍を国民党として改編し、蒋介石軍に合流したわけですが、馮玉祥率いる国民党軍に対しては、やはりその背後にある「ソ連」と「共産党勢力」の影響を強く感じ取っていたわけです。

結果、馮玉祥と連携し、張作霖と対峙していた郭松齢(彼は元々奉天派であり、張作霖を裏切った人物です)は、日本から派遣された関東(満州)軍の支援を受けた張作霖に敗れてしまいます。

その後、南京事件の勃発により、欧米は蒋介石軍(国民革命軍)の背後にある共産党勢力=ソ連の存在を感じ取り、次第に張作霖を支援するようになります。このころから、張作霖は日本よりも欧米に追従する様になました。

南京事件を受けて、張作霖軍は日本と欧米からの要請を受け、ソ連大使館を捜索。多数のロシア人や中国人が検挙され、武器やビラが押収されます。このことにより、中ソは国交を断絶。この直後、蒋介石による上海クーデターが勃発しました。

上海クーデター後、蒋介石は馮玉祥をも自軍の勢力下に加え、張作霖はとても蒋介石軍に対抗しうる勢力とはなり得なくなります。張作霖軍は欧米の支持を失い、一方で日本も、蒋介石軍より「満州地域には攻め込まない」との確約を取り、これ以降張作霖を積極的には支援しなくなります。(済南事件後)

1928年6月4日、張作霖は北京を脱出し、自身の元々の本拠地である奉天へと向かいます。

【本日のテーマ】

張作霖爆殺事件はこの後、張作霖が北京から奉天へと逃亡している間に起こります。
この事件を引き起こしたのは関東軍の参謀である、河本大作大佐が中心となって引き起こした・・・というのが定説になっています。

【河本大作:Wikiより】
河本大作

他にも異説はあるのですが、今回の私の記事では、あくまでもこの事件を引き起こしたのは河本大作であり、このことによって起きた様々な人間関係の変遷を下に作成していきます。

河本大作がなぜこのような事件を引き起こしたのか。
一方で張作霖とは旧知の関係であった当時の田中義一首相は、どのような気持ちでこの事件を受け止めたのか。

この後勃発する「満州事変」に向けて、張作霖爆殺事件の歴史的な意義を検証してみたいと思います。

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田中義一蒋介石北伐歴史
<継承する記事>
第133回 上海クーデターはなぜ?/伏線としての南京事件(1927年)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

【前回の振り返り】

前回の記事では、 第132回の記事 で掲載した、蒋介石による上海クーデターの顛末に関連して、なぜ蒋介石は上海クーデターを行ったのか。この視点から記事を作成しました。

原因として、上海クーデターの直前に勃発した南京事件(1927年)と漢口事件に関連性があることをお示ししました。

特に南京事件では、日本人の、蒋介石に対する信頼性を利用し、特に蒋介石に信頼されていた『程潜』という人物の人となりにカモフラージュして、程潜の信頼性の下で、南京市の日本領事館は何の抵抗を示すことなく、領事館の門を開きました。

その瞬間、牙を剥いたのが程潜軍に潜んでいた国民党左派や共産党員たちだったのです。
彼らはまず領事館の歩哨を行っていた日本の西原二等兵曹に対して、銃剣で滅多突きにし、顔面や頭を滅多打ちにする等の暴行を行います。

続いて領事館内の日本人に対して、暴行や掠奪、追剥が行われ、ここに南京市内の軍人ではない民間人がなだれ込み、徹底的な略奪(強奪)を行います。

ですが、このタイミングで日本軍が反撃を行うと、今度は領事館内の職員だけでなく、領事館外の日本の避難民たちにまで危害が及ぶ、として指揮をする立場にあった荒木大尉は軍人たちに徹底的な『無抵抗』を指示します。

その結果、被害は領事館内だけでなく領事館外にまでおよび、暴徒化した中国人(軍人ではないことに注意!)たちによって領事館の職員ではない、一般人までが暴行や虐殺、強姦などの被害にあうこととなります。

そして、その後に及んでも当時の幣原喜重郎外相は、「ここで蒋介石軍に反撃を行えば、蒋介石が敵対する張作霖軍を援護することとなる」として南京に対して不干渉を貫き、また荒木大尉は軍艦から90名の兵士を上陸させるものの、彼らは警備を行うだけで、一切の反撃を行いませんでした。(このタイミングでは日本の避難民たちは軍艦に避難させられています。)

ですが、アメリカ軍やイギリス軍は当然これに対する反撃を行っており、その結果、多数の中国軍人たちは死亡し、事態は収束させられました。

ですが、このことで「日本は何の抵抗を行う気すらない、弱虫だ」というイメージが中国人たちの中に植え付けられ、日本人は後の武漢や蘇州で起きる同様な事件の被害者となるのです。

【本日のテーマ】

本日の記事では、前回テーマとした「南京事件」の翌年に起こった「済南(さいなん)事件」をテーマに記事を進めてみます。

田中義一:Wikiより】
田中義一

今回の記事で話題にするのは、この「田中義一」という日本の第27代内閣総理大臣です。
あの高橋是清を大蔵大臣として採用し、「昭和金融恐慌」の災厄から日本を救った人でもあります。
それでは、後段に移ります。

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蒋介石北伐広東軍政府
<継承する記事>
蒋介石北伐の開始(中山艦事件~上海クーデター)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

(※前段の記事がごちゃごちゃしていて理解しにくい、という方は、前段末の『本日のテーマ』の部分より読み進めてください)
前回の記事では、「中山艦事件」を経て見事中国国民党のNo.1にのぼりつめた蒋介石が、孫文の遺志を引き継ぎ、ついに「北伐」に着手したその足跡をたどってみました。

登場人物が多すぎて、またその舞台も目まぐるしく変遷するので、全体像を把握するためには、本当に時間がかかる時代だと思います。
共産党員と国民党左派たちによって国民党を乗っ取られ、「武漢国民政府」まで樹立されてしまった蒋介石ですが、この後「上海」に攻め込み、上海にいた共産党や左派勢力を一掃してしまいます。

また一方で、北洋政府側では、張作霖相手にクーデターを仕掛けた馮玉祥が数か月で戦場から逃亡し、ソ連に渡ります。
先に述べておきますと、蒋介石と馮玉祥は後々合流します。

前回記事後段冒頭で、私は以下の様に掲載しています。

【前回記事より引用】
今回の記事を記そうとしていろいろ調べていたのですが、つくづく思い知らされたのが、「共産主義」という「思想」に感化された勢力の、その『残虐性』です。

後、過去にまでわたってそのかかわりを見ていたのですが、余りにも目まぐるしく変化する情勢に、正直脳が沸きそうでした。

例えばロシアだって、元々「共産主義」でったわけではありませんし、中国もまたそうです。
蒋介石は、薄々その危険性を感じ取っていたのでしょう。

今回テーマとする「中山艦事件」にしても「上海クーデター」にしても、いまいちその全体像、何が真実であるのかという部分が見えてきにくい事件です。

元々は蒋介石が孫文に代わって行おうとした「北伐」の全体像をこの記事で記そうとしたのですが、これはどうもそれほど容易いものではなさそうです。

蒋介石と馮玉祥との合流に関して、蒋介石がソ連に不信感を抱いた理由の一つとして、ソ連が国民党政府だけでなく、北洋政府に対しても武器の支援を行っていた、ということ。
そのきっかけを作ったのが馮玉祥であり、この時点で「赤(共産勢力)」であったはずの馮玉祥と、共産主義を毛嫌いしているはずの蒋介石が、一体なぜ合流するに至ったのか、という疑問を私はまず抱きました。

蒋と馮が合流するのは今回のテーマの一つでもある「上海クーデター」の後なのですが、Wikiを呼んでいると、以下のような件(くだり)が登場します。

【Wiki(馮玉祥のページ)より】
蒋介石が上海クーデター(四・一二事変)を起こすと、馮玉祥も蒋に与した。

6月には汪兆銘(汪精衛)、蒋介石と相次いで会談し、反共路線への道のりを固めている。

1928年(民国17年)4月からは蒋・閻錫山の軍と協力して張作霖撃破に邁進し、6月の張作霖の爆殺、12月のその子・張学良の易幟へと至って、北伐は勝利に終わった。

現時点では理解の難しい言葉もいくつか登場しますが、ここに登場する一つのキーワード「張作霖の爆殺」という言葉について。

改めて今回のシリーズを作成するに至った目的を振り返ってみたいのですが、

改めて、シリーズ第1回目の記事を見てみますと、ここに、私がシリーズを作成するに至った目的の一つが、以下のようにして掲載されています。

【私がシリーズを作成するに至った目的の一つ】
事件(※盧溝橋事件)が起きたのは1937年7月7日です。
ただ、過去に遡ってみると、「張作霖爆殺事件」で、日本政府から庇護されていた張作霖という人物が、日本の関東軍によって殺害されていたり、同じく関東軍によって鉄道が爆破される、自作自演の「柳条湖事件」が引き起こされていたり、これが「満州事変」の発端となったり・・・。

どうも動画中(※『動画』は シリーズ第1回目の記事 にてご確認ください)では「きれいごと」の様に描かれている部分に、はっきりとは記されていない部分もあるように感じられてなりません。
ちなみに「張作霖爆殺事件」が起きるのは、2.26事件によって是清が暗殺される8年ほど前の話。
1934年には日本国内では「5.15事件」と呼ばれる、暗殺未遂事件も起きています。

このあたりを整理しながら、「第二次世界大戦」に至る日本の系譜を、情報を複合的に見ながらまとめていきたいと思います。

ついにその「張作霖爆破事件」が勃発する場面に至ったわけですが、一般的に日本の「関東軍」が実行したと言われている張作霖爆破事件が、Wiki(馮玉祥のページ)では、あたかも馮と蒋が結託して張作霖爆破を仕掛け、これを実行したかのようにして記されていますね?

ここについての疑問はまだ解消されていないのですが、漸く登場した「張作霖爆破事件」。
まずはここについて、「なぜ日本の関東軍は張作霖を爆破するに至ったのか」という命題から遡ってみることにしました。

つまり、この時点で関東軍は「悪」であったのか、「正義」であったのか。
もし仮に「悪」ではなかった、仮に「悪」であったとしても、そこには何らかの伏線があったのではないか・・・という視点で歴史を遡ってみると、確かにあったのです。

これが、「尼港事件」や「南京事件」、「漢口事件」、「済南事件」等の事件です。
尼港事件に関しては、確かに中国人も加わってはいたものの、主導したのはロシアソ連であり、厳密には異なりますが、他の事件は全て中国人によって引き起こされたものです。

【本日のテーマ】

【南京市】
南京


今回の記事では、「上海クーデターの伏線」をテーマにしていますので、これらの事件のうち「南京事件」とこれに関連して「尼港事件」に関しても記事にできればと思います。

「南京事件」については、同名の事件がそれより10年後の1937年にも勃発しています。これが、中国人による「ねつ造である」と名高い「南京大虐殺」に相当します。

今回の記事はあくまでもその事件とは別の事件であり、南京大虐殺に相当する事件より10年前に勃発した最初の「南京事件」ついての記事です。

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蒋介石北伐孫文広東軍政府
<継承する記事>
第131回 孫文の後継者「蒋介石(しょうかいせき)」~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

前回の記事では、孫文の死後、「孫文の後継者」たる人物として、蒋介石がその実力の下、メキメキとその頭角を現し、他の実力者たちが政治の表舞台から姿を消す中で、ついに蒋介石を上回る実力者が唯一汪兆銘のみとなるその足跡を追いかけてみました。

また、この当時の時代背景として、第124回の記事でお示しした様に、もう一つの歴史の中心舞台である「北京」では、馮玉祥が北京政変の後、自身が平定したはずの北京政府で、張作霖に対して対してクーデターを仕掛けていた、という背景があります。

クーデターを起こしたのは馮玉祥だったのですが、彼は翌年1月には宣戦を離脱しています。
実際に張作霖らと戦ったのは馮玉祥が離脱した後の軍隊(西北陸軍)で、圧倒的に不利な自供に追い込まれながらも同年8月まで戦い抜いています。

問題なのは、離脱した後の馮玉祥がソビエト連邦を訪れており、ここで「ソ連の支援する中国国民党」への入党を宣言しており、ソ連からの支援を取り付けていた、ということ。この時点での馮玉祥は、『赤(共産系)』とみられる立場にあったわけですね。

舞台が目まぐるしく動きますので、中心となる二つの地域をあらかじめ掲載しておきます。

【北京】
565px-China_Beijing.png

【広東省】
広東省

【本日のテーマ】
本日の記事ではまず、孫文が一躍国民政府のトップに躍如するきっかけとなった「中山艦事件」とその後に敢行された「北伐」。
またさらにその後の中国国民党V.S.中国共産党の対立の発端となる「上海クーデター」。
そして最終的に蒋介石による中国統一まで話題を勧められればと考えています。

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北伐蒋介石孫文広東軍政府中国国民党中国共産党
<継承する記事>
第130回 蒋介石という人物(後編)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

それにしても、袁世凱没後の中国って本当にややこしいですね。

前回の記事では、特に第121回の記事と対比させる形で、清朝崩壊後の中国を第121回の記事では孫文の視点から、前回の記事では蒋介石の視点から追いかけてみました。

孫文の視点から見ただけではわからなかった部分が、蒋介石の視点も交えて見ることで、少しずつ風通しがよくなってきた気がします。

また、第124回の記事では、同じ時代とりわけ五四運動以降の中国を、北京政府(北洋政府)側の視点から、追いかけ、最終的に孫文の歴史と北洋政府の歴史が繋がる場面まで掲載しました。

また、第125回の記事では、五四運動がきっかけとなり中国に誕生した中国共産党について掲載しました。

まるでパラレルワールドの様にして展開してきたこれらの歴史が、いよいよ一つにつながる場面まで到達しました。

【国民革命軍を率いる蒋介石:Wikiより】
国民革命軍を率いる蒋介石

【本日のテーマ】
ソ連による影響力がとても大きくなる状況の中で開催された『中国国民党第1回全国代表大会(党大会)』。

「革命」という思想に憑りつかれて中々冷静な判断ができない孫文に対して、時に反発し、政治や軍事の場面から頻繁にフェイドアウトする蒋介石ですが、共産党の勢力が浸透しつつある中国国民党の中で、彼は『黄埔軍官学校』の校長として就任し、その生徒たちとも絶対の信頼関係を築くことになります。

ですが、孫文からどれほどの信頼を得ているとは言っても、彼の立場はまだまだ政治の舞台の中心として活躍できるほどの地位にはありませんでした。

特に孫文亡き後の中国において、一体蒋介石がどのようにして政権の中心にまでのぼりつめ、果ては中国統一を成し遂げるほどの実力者となりえたのか。
今回の記事では、そんな蒋介石のたどった軌跡を追いかけてみます。

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