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この記事のカテゴリー >>アベノミクスを問う


本日(2017年9月18日)の記事は、先日より報道されている安倍首相の衆議院解散決断のニュースを受けての記事になります。

ソースはこちらから。

【産経ニュースより 2017.9.17 07:01】
安倍晋三首相、衆院解散を決断 10・29衆院選が有力
北朝鮮情勢の緊迫化で方針転換 「安保法制の意義問い直す」 創価学会も緊急幹部会


安倍首相(解散報道)

安倍晋三首相は、28日の臨時国会召集から数日以内に衆院を解散する方針を固めた。

11月上旬にトランプ米大統領の来日が予定されていることから、衆院選は10月17日公示-10月29日投開票が有力だが、10月10日公示-10月22日投開票となる可能性もある。

首相は今月18~22日に訪米するため、帰国後に政府・与党で最終調整する構え。

記事事態にもっと詳細も記されているのですが、大切なのはこの部分のみかな、と思いますので、残る詳細はリンク先にてご確認ください。

野党第二党である民進党のゴタゴタ、前原氏が新党首に選ばれたことから、共産党との連携に軋轢が生れた事。
世間で話題になっている都民ファーストの全国版の準備が整っていないこと。私個人的にいえば民進を離脱した面々と若狭氏との連携が報道されていることから、その信頼性に疑惑が生れつつあること。

そして北朝鮮に関する問題を抱え、解散を来年の満期まで見送ると今以上に重大な状況における政治的空白を生みかねないことなど、戦略的な問題と国内外が抱える問題の両方の側面から安倍さんは解散を視野に入れ始めたわけです。

まだはっきりと安倍さん自身が解散を決断したわけではありませんから解散が確定したわけではありませんが、現在の報道内容より、これはほぼ間違いのではないかと考えられます。


改めて問う森友加計問題

さて。ここに至って私の記事のタイトルは「改めて問う森友加計問題」と銘打っています。

私の記事にたどり着いて、かつ信頼していただいていると思える皆さんの考え方からすれば、「もっと大切なことがあるだろう!」とおっしゃりたい方もいらっしゃるかもしれませんが、私がこのタイトルを選んだ理由は明確です。

この森友加計問題を今回の総選挙において「論点にすべきではない」と考えているからです。

もっと言えば、今回の記事内容は、「森友加計問題を総選挙において論点とすべきではない理由」を記すこととなります。

というのも、これらの問題は既に「結果」が出ています。


森友問題の真相

森友学園

森友問題の真相に関しては、 第345回の記事において既に私が検証し、結果を出している通りで、

1.森友に売却した土地は元々土壌にヒ素などの危険物質が含まれる「特別危険地域」であった。

2.この地域から危険性を取り除き、危険物等を撤去するための総額は、もともと森友が要望していた金額の10倍近くかかること

3.算定されており、土壌工事そのものは必要最低限にとどめた。

4.当初の工事にかかった費用は1億3200万円であり、これが森友に売却する時点での土地評価額の基準となった。

5.ところが、実際に売買交渉に入る段階になって、土地の地下より、「新たなるごみ」が発見された。

6.森友側は、新たなるごみが発見されたことを理由に、当初の土地評価額1億3200万円よりも更に値引きすることを要求してきた。

7.財務局側は新たなるごみ撤去にかかる費用を8億4000万円と査定し、撤去後の売却費用として1億3200万円に8億4000万円を上乗せした9億6000万円になることを森友側に伝えた。

8.更にこのごみ撤去は「森友側で行ってもらっても構わないし、その時の撤去額がいくらになろうとも政府側は何も文句は言わない」と伝えた。

9.結果、国は1億3400万円で森友側に売却し、さらにこの後新たなるごみが発見されたとしても、開学が遅れ、森友側に損害が発生したとしても、国側は一切責任を負わない「瑕疵担保責任免責特約」をつけさせた。

10.森友は8億4000万円分のごみを撤去しないまま工事を進め、開学に向けての準備を始めた。

これが「森友問題」のすべてです。どこにも政府側の「瑕疵」など見当たりませんね?


加計問題の真相

加計学園獣医学部

この問題は、実は当初、いわゆる「石破4条件」を加計学園が満たしていないのではないか、とする「疑惑」からスタートしています。

【石破4条件】
①現在の提案主体による既存の獣医師養成でない構想が具体化

②ライフサイエンスなどの獣医師が新たに対応すべき分野における具体的な需要が明らかになること

③既存の大学・学部では対応が困難な場合

④近年の獣医師の需要の動向も考慮しつつ、全国的見地から本年度内に検討

というのも、

 そもそもこの石破4条件のうち③は、獣医学会側からの要望で、「どんな大学が要望してきたとしても、獣医学部の新設を絶対に認めさせないため」の条件としてねじ込まれたはずの条件

であったからです。

このことは、第333回の記事 で私が記している通りで、すべて獣医学会のホームページに詳細に記されています。

そして、第331回の記事 でも掲載しましたように、その後

 文科省内にいた前川元文科省事務次官の所より、次々に「今治市が国家戦略特区に認定された後の文科省と内閣府の間でやり取りされた内容をまとめたメモ書き」

が出てきます。

そしてその内容を元に

 加計学園認定の過程において「総理のご意向があったのではないか」とする議論

が巻き起こっていきました。

ですが、

 これらの内容はすべて今治市が国家戦略特区に認定された後にやり取りされた内容であり、今治市が認定される過程におけるやり取りを示したものではない

こと。そして国家戦略特区構想の特徴として、

「申請主体(今治市)が国家戦略特区構想の条件を満たしているのかどうかを証明するのは申請主体側ではなく、申請された側にある」

ということが閣議決定されていることが前川氏や加戸前愛媛県知事などを招致して行われた「閉会中審査」において次々と明らかにされていきます。

ですから、「石破4条件」に関してもこれ今治市がこれに適合していないというのであれば、いないという証拠を申請された側である「文科省」が行わなければならないことになるわけです。

文科省はその立証責任が文科省ではなく内閣府にあるとしてこの立証責任を果たさず、内閣府からの再三の要請にも応じなかったため、結果として今治市は獣医学部新設特区として認定

されることになりました。

つまり、政府側には何ら瑕疵は存在せず、安倍首相から「お友達」である加計学園理事長に対して何一つ「働きかけ」を行うことができるプロセスが存在しないことが証明されていくわけです。


「政府」から「今治市」へ

このころから、姿を見せるようになるのが今治市大三島で農業経営者だと自称しているとある青年です。

彼は「今治加計獣医学部問題を考える会」の共同代表を務める人物で、今回の加計問題に関する一連の情報を民主党側や自由党に流していた人物です。

政府側で加計学園の疑惑を追及することが難しくなると、疑惑追及の舞台は政府から今治市へとシフトします。

この時、一番大きな問題とされたのが次のニュース。

【週刊朝日(AERA)2017.6.19 20:04より】
今治市がたった一日で即決した96億の補助金 安倍首相が会見でスルーした加計疑惑が再燃

 大学設置認可申請書の締切日にあたる今年3月31日、加計学園が今治市に対し、96億円の補助金申請をし、菅良二・同市長はなんと即日に交付を決定。

 加計学園に対し、通知していたことを示す、公文書を筆者は入手した。

 地元では「96億円は市の歳出の12%に相当するのにずさん過ぎる。あまりに露骨だ」と非難の声が上がっている。

 獣医学部の建設予定地約16.8ヘクタール(評価額36億7500万円)は、今治市から加計学園へ無償譲渡されることが決まっているが、さらに県と市から補助金として大学校舎、施設整備費など192億円の半額、96億円を出すことが決定。

 筆者が入手した<今治市大学立地事業費補助金交付決定通知書>という文書によると、加計学園の加計晃太郎理事長名義で<申請書>が出されたのは、3月31日。そして今治市が<交付決定通知書>を出したのも3月31日。申請にかかる書類が起案されたのも、3月31日だ。

ここで筆者とされるのは、AERAの記者である今西憲之という人物です。

「筆者が入手した」としていますが、実際にこの文書を入手したのは「今治加計獣医学部問題を考える会」の共同代表であるK氏。まあ、すでに名前は知れ渡っていますから、私が伏字にする必要もないでしょうけどね。

彼がこのAERAの記者に渡した・・・というよりネット上で共有した資料です。

抜粋しますと、
「96億円は市の歳出の12%に相当するのにずさん過ぎる。あまりに露骨だ」と非難の声が上がっている。

 獣医学部の建設予定地約16.8ヘクタール(評価額36億7500万円)は、今治市から加計学園へ無償譲渡されることが決まっているが、さらに県と市から補助金として大学校舎、施設整備費など192億円の半額、96億円を出すことが決定。

この部分です。

決定されたスピードがどうだったのか、という問題は置いておくとして、問題としたいのは金額の部分。総額192億円のうち、その半分を今治市と愛媛県が出すことが決定したんですよ、という部分です。


今治市が決定した92億円という補助金の金額は適正だったのか?

この当時議論になっていたのはこの部分です。

特に、千葉県銚子市の千葉科学大学(加計学園系列)において、銚子市がほぼ同額の拠出を行い、結果として銚子市が300億円近い負債を背負うことになった・・・とする事例をあげ、加計学園も同様の道を歩むのではないか、とする論調を所謂「反対派」は用いていました。

私は千葉科学大学の事など調査したこともありませんから、この情報そのものの信ぴょう性も全く把握していませんので、銚子市の事例について言及することは致しませんが、こういった文章を読むと、あたかも今治市が借金をして96億円を捻出し、加計学園側に渡したかのような印象を受けるわけです。


加計学園補助金の「財源」

それでは今治市が加計学園のために捻出したこの「補助金」の「財源」は一体どこから出てきたのでしょうか?

市町村の財政の事ですから、国の財政を調べるほど簡単にはいきません・・・と思っていたのですが、やはり情報通はいるものですね。今回は以下のツイートを参考にしました。

omochikun‏  氏のツイート】
1975年【今治市】
大学誘致を目指す「学園都市構想」を決定
1983年【今治市】
建設予定地を土地造成
1983年〜【今治市】
高等教育施設を誘致する目的で、合併振興基金として40億円を積み立て
2006年頃【今治市】
獣医学部の誘致を始める

コピペ等を使われたのかと思われ、若干誤っている部分はありますが、内容としてはなるほどな、と思わされた内容です。
ポイントとなるのは

「1983年〜【今治市】 高等教育施設を誘致する目的で、合併振興基金として40億円を積み立て」

という部分。このうち、1983年~の部分は、おそらく上の項目である「1983年【今治市】 建設予定地を土地造成」という部分から「1983年【今治市】」という部分をコピペして再利用し、修正し忘れたのではないか、と思われまして、実は年代としては誤りがあるわけですが、ポイントとなるのは実はこの内容です。

ここに、「合併振興基金」という言葉がありますね?この言葉を調べてみますと、今回の「加計問題」の「財源」の全容が見えてきました。


「合併振興基金」という財源

合併振興基金」というのは、1995年以降、特に「2005〜06年」。小泉内閣時代に行われた、いわゆる「平成の大合併」に関連した基金です。

今治市でも「平成の大合併」の際に他の11の町村との間で合併が行われており、12市町村が合併されたのが平成17年(2005年)1月の事。

この時、「平成の大合併による新市町村建設計画の事業費として特例的に起債できる地方債」である「合併特例債」が発行されました。

もちろん「特例債」といっても立派な地方債=借金ですから、当然今治市は貸主に対して返済していく必要があります。
ですが、この「合併特例債」。実は特別なルールが設定されていまして、

 発行そのものは今治市側で行うわけですが、その償還にあたって、その70%を政府が今治市に代わって支払う

というもの。

 ・今治市はこの時発行された40億円の「合併特例債」を積み立てて、
 ・「高等教育施設の誘致を目的」とした「合併振興基金」を創設


しました。2005年の事です。

このうちの70%を政府が負担するわけですから、実質的な今治市の負担分はこのうち12億円。しかも基金として積み立てられていたわけですから、今治市一般会計の簿外で管理されていたわけです。

しかも

 「高等教育施設の誘致を目的」

として。
そして

 この40億円を「財源」として加計学園の誘致は決定

されました。

総額96億円ですから、40億円では足りないじゃないか、という人もいるかと思います。
ですが、この96億円の内1/3である32億円は愛媛県が負担しますので、実際に今治市側が拠出するのはこのうちの64億円分。

そしてこの64億円のうち40億円が合併特例基金より拠出されるわけです。

ですので、今治市一般会計の中から拠出されるのはこのうち24億円

これが10年間に分割されて加計学園に対して拠出されることになります。

ですから、1年あたりの拠出金額は2億4千万円ですね。

そしてこの金額に加えて

 1975年に起草された「学園都市構想」に基づいて、1983年に学園建設のために造成された土地

が加計学園に譲渡されたわけです。


この経緯をどう感じるか。それでもやっぱり96億円という拠出金額は大きいと感じるのか、それは読者の判断に一任する部分です。私は今治市に居住する人間ではありませんから、このことに対して云々できる立場にはありません。

最終的な判断もやはり今治市の方が行うべき部分です。

現在反対派の連中はこの96億円が「適正ではなかった」ことにするため、「不正な方法でK氏が入手した加計学園設計書の初期図面」を元に必死に「デマ」をばらまいています。

例えばこの初期図面では「ワインセラー」が設置されることが掲載されていることから、「獣医学部にワインセラーが設置されるのはおかしい」ということが一時話題になりましたが、実際にはこのワインセラーは30万円程度の「冷蔵庫」に相当するサイズのものであったことが明らかになっていますし、最新の図面では設置そのものが見送られていることも明らかになっています。

また、K氏の試算により、加計学園獣医学部の坪単価が150万円であるとされ、他の事例と比較して「高すぎる」との情報も話題となりましたが、これに対しては加計学園自身が、以下のような回答を行っています。

加計学園坪単価FAX

加計学園の回答によると、K氏の試算では、本来坪単価に含まれないはずの「外構工事費」や「設計管理料」なども含まれているため、実際の坪単価より高くなっていることが指摘されています。「外構」つまり、大学の建物の外にある構造物の事ですね。

また、同じFAX資料において、「P3実験室」の事が記されています。

「P3実験室」とは、「病原体」等の研究を行うための施設で、K氏らはこの施設の気密性が問題であるとし、「簡単に病原体が室外に漏れ出す構造になっており、非常に危険である」としました。

この「P3実験室」の件で象徴的なものは、「陰圧構造」という問題です。

「陰圧構造」と聞くと非常に難しく感じられるかもしれませんが、部屋の中の気圧を部屋の外よりも低くするための構造、と考えていただくとわかりやすいと思います。

空気は気圧の高いところから低いところに流れていきますから、部屋の中の気圧が外よりも低くなっていれば、病原体が室外に流出する危険性は抑えられます。

ところが、K氏は加計学園獣医学部の資料には、この「陰圧構造に関する記述が記されていない」というデマをばらまきました。

K氏とズブズブの関係にある日刊ゲンダイでは、以下のような記事を掲載しています。

【日刊ゲンダイ 2017年8月23日】
加計獣医学部図面から浮上 バイオハザード施設に重大欠陥

 加計学園が愛媛・今治市に建設中の岡山理科大獣医学部。日刊ゲンダイは先週、計52枚に及ぶキャンパスの建築図面を入手した。獣医学部棟最上階の7階大会議室は、ワインセラーやビールディスペンサーを完備した配膳室の真横。さながら“パーティー会場”だが、問題はそれだけではない。図面から浮かび上がるのは、「世界に冠たる先端ライフサイエンス研究」を行う施設としての重大欠陥だ――。

 加計学園が獣医学部新設の目玉としているのが、バイオセーフティーレベル3(BSL3)の研究施設だ。狂犬病や結核菌、鳥インフルエンザなど、人体に感染したら重篤化の恐れのある病原体を扱う実験室で、WHOの指針によると、<実験室は、建物内の交通が制約されていない区域と切り離されなければならない>と定められている。

 つまり、自由に人が行き来できる場所から遮断する必要があるのだが、今治キャンパスの獣医学部棟に設置されるBSL3施設は、研究エリアやディスカッションスペースのすぐ横に造られる予定だ。WHOの指針を完全に逸脱している。

 万が一の感染リスクについて専門家はどう評価するのか。元国立感染症研究所主任研究員の新井秀雄氏は「病原体を取り扱う以上、人為的ミスや機器の故障などによる実験室内の感染発生の確率はゼロとは言えません」と指摘した上でこう続ける。

「いざという時の処置として、他の人に感染が波及しないように設計上の配慮が求められます。しかし図面を見る限り、学生や教職員が行き来する同一フロア内に、BSL3施設が置かれ、管理区域として区別されていません。実験室感染の対応設備として緊急シャワーが設置されていますが、実験室の前室内ではなく、学生が自由に行き来できるオープンスペースの一角に位置している。これは理解不能です。設計図だけを見ても、感染拡大が懸念されます」

■「1週間で感染者が出る」

 通常ならば、実験室内部は病原体の外部飛散を防ぐために「陰圧構造」になっているが、それも確認できないという。

「感染症の研究を知らない人が設計に携わったような印象を受けます」(新井秀雄氏)

 専門家が見れば一目瞭然。シロート同然の設計なのだ。こんな欠陥施設のために評価額36億円の広大な土地を無償で払い下げ、さらに最大96億円という破格の補助金まで支払われるのだ。締めて、約133億円――。おまけに獣医学部内の事故によってパンデミックが起こっても何ら不思議ではないのだから、害悪施設を税金で建てるようなものだ。

「図面を見た国立研究所の安全管理専門委員のひとりは、このまま研究を始めたら『1週間で感染者が出る』と指摘しています。加えて、実験室の吸気や排気がどうなっているのか分からず、配管設備も不明のまま。病原体に触れた廃棄物がきちんと処理されるのか不安です」(「今治加計獣医学部問題を考える会」共同代表の黒川敦彦氏)

 本当に獣医学部を新設したいのなら、学園側のトップである加計孝太郎理事長は市民に対して、感染リスクの予防についてきちんと説明する必要がある。

 それをせずに逃げていては、先端ライフサイエンス研究なんて“夢のまた夢”だ。

対象となる部分にはアンダーラインを引いています。抜粋します。
 通常ならば、実験室内部は病原体の外部飛散を防ぐために「陰圧構造」になっているが、それも確認できないという。

「感染症の研究を知らない人が設計に携わったような印象を受けます」(新井秀雄氏)

ですが、これは完全な「デマ」。

以下の引用元はあくまで素人の方が作成したブログですので、「信ぴょう性が薄いのではないか」といわれるかもしれませんが、掲載されている資料は「本物」ですから、ここに対して異論をはさむ余地はないと思います。

以下略ちゃんの逆襲 ツイッターGOGOよりの資料引用

加計学園実験室

2加計学園実験

上図面に「室圧ダンバー制御フロー系統図」と記されています。要は、この図面がP3実験室の室圧に関して記された図面だということです。

そして、下図面に赤丸で囲った部分で「+10Pa」「-20Pa」「-50Pa」と記されていますね?
プラスであれば「陽圧」、マイナスであれば「陰圧」であることを示しているのだそうです。つまり、「-20Pa」「-50Pa」の2つの数字が「陰圧」になっていることを示している部分。

「-50Pa」となっているのが「P3実験室」の室圧で、「-20Pa」となっているのがエアロック室。「+10Pa」となっているのが室外ということになります。

つまり、この図面こそまさにP3実験室が「陰圧構造」となっていることを示す図面であり、文中で「新井秀雄氏」という人物の言葉を引用する形で、「通常ならば、実験室内部は病原体の外部飛散を防ぐために『陰圧構造』になっているが、それも確認できないという」

文面が全くのデマであることがわかります。

これらの資料の流出元は完全にK氏。彼がすべての資料や情報を流出させています。

民進党、自由党を含む彼らが政府たたきから今治市たたきにシフトチェンジした理由は、すでに政府レベルでは批判する根拠すら見当たらないからです。そして民進党PT(プロジェクトチーム)が政府を批判するために用いていた情報の流出元はすべてK氏。

そしてその情報は軒並み「デマ」です。


今回の総選挙で安倍内閣が争点とすべきこと

今回安倍首相が衆議院の解散を言及するにあたって、前原代表を筆頭に「森友隠し、加計隠し」という言葉をいう民進党議員をTV上でもご覧になったと思います。

ですが、これらの情報は既に政府側に何一つ問題がなかったことが明らかとなっており、これを選挙の争点とすることははっきり言って時間の無駄。政府が国民に訴えなければならないことはそんなことではないはずです。

個人的には、

1.「アベノミクス」とはいったい何なのか。これを今一度国民に分かりやす形で提示すること。

もちろん「成果」も含めてです。しっかり国民が理解し様にかみ砕いて説明すること。

そしてもう一つ、

2.「改憲」

を、そろそろ明確な争点として打ち出すべきなのではないでしょうか。

自民党ではなく、安倍内閣として明確な方向性を示したうえで、どのように改正すべきなのかという具体的な内容を争点にすべきだと思います。

そして次に

3.北朝鮮問題を含む安全保障の問題

この3つを争点にするだけでも十分に解散総選挙を行い、改めて国民に「信を問う」価値が生まれるのではないかと、私はそう思っています。


この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第352回 ドイツ共産党が起こした「三月行動」とコミンテルンの関わり

前回までの記事では、ロシア革命後のロシアで結成された「第三インターナショナル=コミンテルン」が、一番最初に「支援」を行ったとされる「ドイツ革命」の様子を検証してみました。

コミンテルンがドイツ革命に対して行った支援とはいったいどのようなものだったのか。

これを実行したのはコミンテルンが派遣したハンガリー人クン・ベーラ。
クン・ベーラが介入する以前に、コミンテルンはドイツ共産党中央委員会に働きかけ、当時議長を務めていたパウル・レヴィを組織的に失脚させ、ここに指導者としてクン・ベーラを送り込みます。

クン・ベーラはドイツ共産党の新たなる指導部に働きかけ、当時のドイツの首都、ワイマールに隣接する都市「マンスフェルト」で武装蜂起を起こさせます。

マンスフェルトの占領に一時的には成功するものの、たった3日間で国防軍によって鎮圧されてしまう・・・という非常にお粗末な結果に終わりました。

ともあれ、これが初めてコミンテルンが支援した「共産主義革命」の顛末です。

三月行動が失敗した後、三月行動を批判したパウル・レヴィは共産党そのものから除名され、その後コミンテルンは方針転換し、ドイツ共産党は過激な行動を控えるようになった・・・とWikiベースでは記されています。


今回の記事では、改めてロシア国内におけるコミンテルンの動向に着目してみます。

しかしこの時期のロシア、「ロシア」と呼ぶべきか、「ソ連」と呼ぶべきか・・・迷いますね。


第一次世界大戦後のロシア

第347回までの記事 に於きまして、ロシア革命後の「ウクライナ」の歴史についても振り返りました。

年表で振り返りますと、

ウクライナが中央同盟軍との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結させたのが1918年2月9日。

ロシアが中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」に締結したのが1918年3月3日。

中央同盟国が連合国軍に敗北したのが1918年11月13日。

ドイツ共産党が誕生したのが1919年1月1日。

ポーランド・ソビエト戦争が勃発したのが1919年2月。

レーニンがコミンテルンを結成したのが1919年3月。

ドイツ共産党が三月行動を起こしたのが1921年3月

と、こんな感じです。

ドイツ共産党が誕生するまでの間でも、各国で共産党が結成されていましたから、コミンテルン結成が目的としていたのは、これらの地域での共産革命の支援です。

ロシアで起こった事を東欧を中心とした各地で再現しようとしたんですね。
1918年3月3日、ブレスト=リトフスク条約に署名し、世界大戦から手を引いた後、ボリシェビキはその党名を「ロシア共産党」へと改名しました。

3月3日、対外戦争そのものは終結したわけですが、ドイツとの間で締結したブレスト=リトフスク条約によって、ロシアはドイツに対して圧倒的な譲歩を強いられたわけです。

この事から、第347回の記事 でも掲載しました通り、この事でボリシェビキ政権はロシア国内のあらゆる階層から非難の的に晒されることとなります。

その典型的な事例が、これまで連立して内閣を構成していた社会革命党左派の政権からの離脱、及びボリシェヴィキに対する武装蜂起、1918年8月30日のレーニン暗殺未遂事件です。

レーニン暗殺の犯人だとされた社会革命党右派は弾圧の対象とされ、実際には事件とは無関係の512人の政治家や軍人が処刑されました。

ロシア国内は赤軍(共産派)と白軍(反ボリシェヴィキ派)に別れて内戦状態に突入しました。

ロシア内戦

ドイツが連合国軍に敗北すると、連合国軍は白軍に味方し、赤軍との間で干渉戦争に突入します。

ドイツが撤退した後の空白地域に共産党を結成することを目的としてレーニン自身も赤軍を送り込んでいますね。

結果的にロシア内戦では赤軍が勝利するわけですが、この赤軍を組織したのがトロツキー。
・ボリシェヴィキはロシアの人口稠密(過密)地帯を支配しており、1921年には数百万人もの兵士を徴兵により募兵することが可能であった。それに対し白軍の兵力が25万人を超えることはなかった。

・ボリシェヴィキの支配地域にはロシアにおける主要工業地域が含まれており、武器の供給においても圧倒的な有利にあった。

・鉄道の路線も赤軍が支配しており兵士・装備の輸送を効率的に行えた一方で、白軍は互いに分断され、政治的、民族的に見ても統合される可能性はほとんどなかった。

・白軍の司令官は帝政時代の貴族や地主が大半であり、彼らは占領地で旧体制の復活を望み農民から土地を取り上げたため民衆からの支持を失った。(Wikiより)

赤軍の置かれた立場はこのような状況にあったわけですが、更に。
レフ・トロツキーはブレスト=リトウスク条約調印後の1918年に軍事担当の人民委員に任命された。彼は優れた演説家であるだけでなく、赤軍の組織化にも才能を発揮した。

コルニーロフによる反乱の際に暫定政府によって組織化された赤衛軍を基として、徴兵により赤軍を作り上げた。

彼は列車を駆使し各地を回り赤軍の士気を高めることに成功した。彼の取り決めた規律は厳格を極め脱走兵は直ちに射殺された。

軍の忠誠を維持するためにボリシェヴィキの任命する政治将校が設けられるようになった。

トロツキー自身は軍事作戦に直接関与せず、赤軍に参加していた75,000人もの士官たち、その多くは職業軍人が白軍との戦闘を指揮した。(Wikiより)

要はトロツキーは軍を組織する能力も非常に有能であった、ということですね。

こうしてみると、ロシア革命ってトロツキーがいなかったらどうなってたんだろう・・・と思わずにはいられません。
10月革命も、あそこまで穏やかに収束させることができたのはトロツキーのおかげで、若しレーニンだけしか行かなかったら、もっと凄惨な結果になっていたのではないか・・・と思わずにはいられません。

これは、レーニンがそういうものを望んでいた、というより、たぶんそういう方法しか思いつかなかったんじゃないかという想像からです。ドイツ共産党による三月行動において、クン・ベーラが行った革命の様に・・・。

ただ、実際に内戦で行われた戦闘行為は凄惨なものであったようです。
ここもWikiから引用します。
内戦中赤軍と白軍、両軍の手により一家離散を余儀なくされる民間人も珍しくはなかった。

片方の軍が残虐行為を働くと、もう片方もそれに劣らない報復行為に及んだと言われている。

レーニンの下で誕生した秘密警察チェーカーは令状も無く無制限に市民を逮捕できたため、多くの人々が無実の罪を着せられて処刑された。

また、この時取られた経済政策「戦時共産主義」に関しても同様の傾向がみられます。

1920年から1921年にかけて発生した旱魃が事態を更に悪化させた。

レーニンは市場経済廃絶のために飢餓に苦しむ地域に救援の手を差しのべるどころか逆に食料を強制的に徴発し、多くの餓死者を出した。

革命勃発からわずか数年の内に、およそ800万人が死亡したと推定されている。

この800万人という数字は経済政策のみによるものではなく、戦闘行為まで含まれるものと思われます。

この中で発生したのがあの「尼港事件」です。

尼港事件(リンク先最下部)

尼港事件で焼け落ちた日本領事館

内戦そのものは、ポーランド・ソビエト戦争が終結し、ここに投じられていた赤軍が投じられたことで赤軍側の勝利に終わりました。(1920年11月)


内戦終戦後のロシア

内戦により疲弊したロシア経済を救うため、レーニンがとった経済政策が「ネップ」と呼ばれる経済政策です。

戦時共産主義政策では軍隊に武器と食料を回すため、旱魃に襲われた状況の中でも民間から余剰穀物を強制的に徴収し、ロシア全体を飢餓状態に陥れたわけですが、今度はその余剰穀物に「食料税」を課し、税金を納めた後は自由に売買をしてよい、というルールを作ります。商業も一部認められたのだそうです。

資本主義を否定した共産主義ですが、内戦後のロシアではその「資本主義」の制度が導入されたんですね。

レーニンはこれを「国家資本主義」と呼称したのだそうです。

一方でレーニンは子供のころからロシア正教会=宗教の腐敗ぶりを目の当たりにしており、大人になったレーニンは「マルクス主義」を信仰する「無神論者」だったのだそうです。彼はロシア正教会を「反革命の温床」とみなしていたんですね。

1922年3月、教会の財産の接収に反対するデモで死者まで発生したことを受け、レーニンはロシア正教会の弾圧へと突き進みます。以下、Wikiからの引用です。
1922年3月、イヴァノヴォ州シューヤで発生した教会財産接収に反対するデモが暴徒化した。

死者まで招いたこの事態に憤慨し、3月19日にロシア正教会の弾圧を指示。

『これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない』

と厳命した

実際に弾圧された教会はロシア正教会に限らず、イスラム教のモスクまで弾圧の対象となったのだそうです。


さて。レーニンは暗殺未遂の後遺症もあり、この頃から徐々に健康を害していくようになります。

今回の記事は「前半」としてここまでとし、次回の記事は「グルジア問題」と「レーニンの死」、そしてレーニンの死後のロシアについて記事にしてみたいと思います。


この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第351回 ドイツ革命の経緯(ワイマール共和国の誕生)

前回まで記事では、レーニンが提唱し、設立した「第三インターナショナル=コミンテルン」について、ヨーロッパを中心とする世界各地で発足する「共産党」。

その発足後の武装蜂起の支援に関しまして、コミンテルンが初めて具体的な支援を行ったとされる「ドイツ革命」に関しましてそれでは「ドイツ革命」とは何ぞや、という視点でしばし記事を作成しました。

ドイツ革命の流れとしては、
<1.ドイツ第一次世界大戦において元々短期決戦を考えていたが、想定が外れ長期化してしまった。

2.この状況を打開するため、「総力戦体制」が取られ、結果として働き手を奪われたドイツでは極度の食料不足に陥った。

3.戦局の悪化と共に、ドイツ国内において「平和」と「食料」を求める「デモや暴動」が頻発するようになった。

4.ロシアにおける二月革命の成功を受け、ドイツ各地において「ストライキ」が勃発する。

5.1918年10月29日、ドイツ大洋艦隊の水兵達約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、逮捕される。

6.逮捕された水平たちが送られたキール軍港に駐屯していた兵士たちが逮捕された水平たちの釈放を求めて行ったデモ隊に対し、官憲が発砲。デモは一気に武装蜂起へと発展する。

7.11月4日、労働者・兵士レーテが結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧。西部ドイツが一気にレーテの支配下に入る(レーテ蜂起)。レーテ蜂起はドイツ全土に広がり。

8.1918年11月9日、社会民主党員のフィリップ・シャイデマンが議事堂の窓から身を乗り出して独断で共和政の樹立を宣言することによってドイツは共和制へ移行。ヴィルヘルム二世は亡命し、後日退位を表明する。

9.ドイツは「人民委員評議会」と「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」の二重権力構造へと陥る。

10.11月11日、ドイツは連合国との間で休戦協定を結ぶ。

11.1919年2月6日、ワイマールにおいて「ワイマール憲法」が制定され、国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認される。

12.1919年6月28日、ドイツは第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」に調印。

13.1920年3月13日、右派政治家であるヴォルフガング・カップによって、「カップ一揆」と呼ばれるクーデターが勃発。ベルリンが制圧され、新政府樹立。これに対し、ドイツ政府は「ゼネラルストライキ」にて対抗する。

14.ルール地方では労働者・兵士たちが結束して「ルール赤軍」を結成。1920年3月末までにルール地方全土を占領(ルール蜂起:4月6日、政府側軍隊によって壊滅)。

15.社会民主党は信認を失い、中央党・ドイツ民主党・ドイツ人民党の3党が内閣(コンスタンティン・フェーレンバッハ内閣)を結成。(1920年6月2日)

と、この様な流れです。

この後姿を見せるのが「ドイツ共産党」。本日のメインテーマです。

ドイツ共産党発足の経緯

第351回の記事 でもご紹介しましたが、ドイツ共産党は「スパルタクス団」と呼ばれるドイツのマルクス主義者たちが構成する政治集団が母体となって結成されました。

「スパルタクス団」はドイツ社会民主党左派から更に分裂した「グルッペ・インターナツィオナーレ」によって結成されたものです。

当時獄中に捉えられていた「ローザ・ルクセンブルク」という女性の提案によって作成されることとなった非合法の小冊子『スパルタクス書簡』では、グループ全員がペンネームとして「スパルタクス」という名称を用いていたことから、彼女らのグループは「スパルタクスグループ(スパルタクス団)」として知られる事となりました。

ルクセンブルクらが元々所属していた政党は「ドイツ社会民主党」だったわけですが、このドイツ社会民主党の左派がここから分裂して「独立社会民主党」を結成。スパルタクス団もここに合流するのですが、この「独立社会民主党」より更に革命路線を目指す「極左」勢力が結成しのが「ドイツ共産党・スパルタクス団」でした。

1919年1月1日の事です。

1月5日にはスパルタクス団による「スパルタクス団蜂起」なるものも勃発するわけですが、これは元々武装蜂起を意図していたものではなく、「デモ」を呼びかけたものだった事、そして集まったメンバーが想定していた以上に大量に集まってしまった事などから、統率がうまく行かず、政府が結成した義勇兵によってあっという間に鎮圧されてしまいます。

この時行われた義勇軍と武装した労働者たちとの間で武力衝突が起こり、無関係な市民も多数巻き込まれたのだそうです。
Wikiベースの情報ではありますが、この時鎮圧に拘わった義勇兵が後のドイツ政治に対して大きく影響を与えていくこととなるのだそうです。


パウル・レヴィ

スパルタクス団蜂起において、スパルタクス団の指導者であったローザ・ルクセンブルクら多くのドイツ共産党指導者たちは政府義勇軍兵士によって「私刑」の名の下で惨殺されます。

彼女らに代わって共産党を指揮する立場となったのがサブタイトルにある「パウル・レヴィ」という人物です。

パウル・レヴィ

掲載されている情報を読んでいきますと、どうもロシアのレーニンらと親交があったのはこの人物。
彼はどうも極左が集うドイツ共産党の中においても比較的穏やかな人物であったようで、スパルタクス団蜂起そのものにも否定的で、蜂起後、党首に就任した後は同党内の極左派を除名処分にしてしまいます。

この時除名されたメンバーは「ドイツ共産主義労働者党」を結成します。

「広範な層の労働者との連帯」を意図していたのがレヴィ、「直接的な革命」を目指していたのが除名されたドイツ共産主義労働者党のメンバーであった、という構図です。

彼は、イタリア共産党結成をめぐる騒動の中でイタリア共産党結成にコミンテルンの支持するイタリア指導者を支持しなかったことから、ドイツ共産党の中央委員会に置ける投票権を失い、彼の支持者共々中央委員会を退陣することになります。

この時コミンテルンよりドイツに派遣されてきていたのがクン・ベーラというハンガリー人です。

クンベーラ


ドイツ共産党による三月行動とコミンテルン

漸くたどり着きましたね、「三月行動」。

そもそもなぜイタリア共産党結成における絡みでパウル・レヴィはドイツ共産党議長の座を追われることとなったのでしょう。

レヴィがコミンテルンの行動に反対する立場にある人物(ジアチント・メノッティ・セッラティ)の支持を表明したのは、イタリア社会党の党会議に於いての事。コミンテルンは、イタリア社会党を分裂させ、そこからイタリア共産党を誕生させようとしていたわけですが、レヴィはこれに反対していたんですね。

そして、レヴィを組織的に失脚させたのが「コミンテルン」。レヴィが失脚したドイツ共産党を指導したのがコミンテルンより派遣されたクン・ベーラ。彼は、ドイツ共産党に対し、ドイツの「マンスフェルト」という都市で武力蜂起を起こさせます。

マンスフェルト

ちなみにこの当時の首都、「ワイマール」がここ。
ワイマール

実際に3日間、都市を占拠することに成功するのですが、それもたった3日間。その後、あっという間に国防軍によって鎮圧されてしまいます。(1921年3月:三月行動)


しょぼっ・・・と思われた方もいらっしゃるかもしれません。私もそう思います。

多分、当時のコミンテルンの皆さんもそう思ったのでしょう。同年6月に開催された第三回コミンテルン世界大会においてクン・ベーラは痛烈に批判され、後にスターリンの下で「大粛清」に巻き込まれ、銃殺されることとなります。

この時はまだレーニンは健在な時代。
パウル・レヴィはこの三月行動をパンフレットにおいて大批判するわけですが、この事が理由で彼はドイツ共産党を除名されてしまいます。

ですが、レーニンやトロツキーは、実は彼の行った批判に対し、賛同する意思を示していました。レーニンは彼に書簡を送り、
「規律違反」による除名を受け入れ、除名された後もKPDに親しく接し、階級闘争に際しては誠実な方法で同党と共闘すれば、復党に尽力する

ことを約束します。

ですが、レヴィはこれを受け容れず、レーニンからもそっぽを向かれてしまうこととなります。


さて。ですが、よく考えていただきたいのです。レーニンやトロツキーの行った「ロシア革命」は、私の事前の予想を大きく裏切り、非常に平和的に、誰一人死者を出すことなく、非常にあっさりと成し遂げられてしまいましたね?

これはトロツキーの機転によるものが大きかったわけですが、ではクン・ベーラが始動した「三月行動」はどうであったでしょうか?

実はクンベーラはハンガリー革命の指導者。ハンガリー革命では12万の軍隊が武力衝突していますから、死傷者の数も推して知るべしです。こう考えると、レーニンやトロツキーがレヴィに賛同したのも何となく理解できますよね。

さて。「コミンテルン」をめぐる今回のシリーズ、次は再び舞台を「ロシア」に戻したいと思います。


この記事のカテゴリー >>日本の税収の見方


税収に関しましては、実は毎月発表されていまして、今年度に入ってからも既に4月分、5月分、6月分と公表されています。

項目は複数あるわけですが、私の記事ではこの中でも特に「所得税」「法人税」「消費税」の3つの税収を追いかけています。

これらの税金にはそれぞれ申告期限に関するルールがありまして、
【所得税の申告期限】
源泉徴収分 毎月翌10日

 納期の特例を受けている場合(平成28年度の場合)
 1月~6月分・・・7月11日 7月~12月分・・・1月20日

確定申告分 3月15日

 予定納税 第1期・・・8月1日 第2期・・・11月30日


【法人税の申告期限】
事業年度終了の日の翌月から2か月以内


【消費税の申告期限】
前年度の申告額が

①・48万円以下・・・確定申告1回
②・~400万円・・・中間申告1回、確定申告1回
③・~4800万円・・・中間申告3回、確定申告1回
④・4800万円超・・・中間申告11回、確定申告1回

※申告日の翌月からの2カ月以内

となっています。

「消費税」の「中間申告」は、これを行うことが義務付けられているわけですが、例えば②の場合、1年間の納税額を2回に分けて納税してください、というものです。

ですが、実際に1年間の納税額がいくらになるか、など分かりませんから、「昨年度の納税額を参考」することになってます。
つまり、昨年度のトータルでの納税額を2分割、4部活、12分割して納税するわけです。

嘗ての記事で私はこの理屈を知らないまま記事を作成していたので、年間の消費納税予想額を大幅に外してしまい、結果的に誤った情報をばらまいてしまった・・・という苦い思い出があります。

また、消費税や法人税は、前年度余分に納税した納税額が「還付」という形で納税者に返還されますので、消費税と法人税は-~スタートします。

以上の内容を踏まえると、先ず「所得税」の内、「確定申告分」は年1回、予定納税を合わせても3回しか納税される機会がありません。

「法人税」もまた各事業所ごとの申告月1回分しか納税される機会がありませんし、消費税に至っては昨年度の実績が反映されることになりますので、はっきりと言えば各年度3月~5月を迎えるまでの納税額は正確性を欠くことになります。

ただ、それでも特に「消費税」に関して考えますと、ここに「昨年度の税収」が反映されるわけですから、一昨年と昨年を比較して、実際の納税額がどうであったのか・・・ということを参考にすることが可能になります。

正確ではないかもしれませんが、一昨年の「消費」と昨年の「消費」を比較する一つの指標になるのではないか、と私は考えています。今年度の経済指標としては弱いかもしれませんが、私の「娯楽」にぜひお付き合いください。


2017(平成29)年度7月分税収

2017年7月度税収
PDFダウンロードはこちら

昨年度まではWeb画面上+PDFデータで掲載されていたのですが、今年度からはPDFデータ+エクセルデータに変更されていますので、こんな白黒画面となっています。

【2017(平成29)年度7月分税収】※(  )内は前年同月比です。
所得税全体 7月分 3.7兆(102.8%) 累計 5.6兆(104.9%)

 源泉分 7月分 3.22兆(103.1%) 累計 5.15兆(105.5%)
 申告分 7月分 0.48兆(100.9%) 累計 0.46兆(98.9%)

法人税 7月分 △0.013兆(-%) 累計 △0.013兆(-%)

消費税 7月分 1,75兆(105.2%) 累計 1,39兆(95.7%)

一般会計全体 7月分 6.169兆(103.4%) 累計 9,.057兆(104.0%)


【法人税評】

法人税収はまだマイナスをつけていますが、それでもマイナス幅は前年度を下回っていますので、トータルに対する影響は前年度よりも少なくなります。


【所得税評】

また、「所得税」「法人税」「消費税」の中で唯一今年度の「現状」を表している数字が「所得税『源泉分』」です。

勿論ここも「納期の特例を受けている場合」という例外こそあるものの、基本的には今年度の給与所得者全体に対して、実際に支払われた「給与」にかけられた税金ですから、「現状」を表しているという状況に変わりはありません。

そして、その「所得税『源泉分』」の「前年同月比」が7月分で103.1%、累計で105.5%となっています。絶好調ですね。

ちなみにこの「所得税『源泉分』」ですが、昨年度は通年で前年同月比-98.1%と振るわなかった部分でもあります。
日本国民全体に支払われた給与総額が前年割れしたことを示す数字になります。

この部分が4月~7月までの累計で前年同月比105.5%でしたよ、ということです。ちなみに昨年は一昨年と比較すると96.9%。
では一昨年はどうであったのか、と申しますと、累計で4.37兆円。今年度は一昨年と比較して1.02%増加しています。

昨年が振るわなかった分、一昨年の数字をも上回って今年度が実績を上げていることは、やっぱりうれしいですね。


【消費税評】

さて。これが本命ともいえる「消費税」の評価です。
すでにお伝えしています通り、この数字は「昨年度の納税額」を参照して行われている納税額です。

つまり、この数字を見ると、一昨年と昨年の「消費」をリアルに比較することができます。

6月まではこの額がマイナスであり、つまり「納税額」を「還付額」が上回る状態にあったわけですが、7月からはようやくプラスに転じています。

そして、その「7月単月」での消費納税額が前年同月比105.2%だったわけです。この数字が何を表しているのかと申しますと、飽くまで参考値ではあるものの、「一昨年の納税額を昨年の納税額が上回っている」ことを意味します。

勿論7月納税ですから、冒頭にお示しした一覧表で考えますと、昨年の納税額が4800万円を超えていた事業者に限られるわけではありますが。

ちなみに6月分までがマイナスでしたから、消費納税額の7月単月分を7月までの累計が下回るという逆現現象が起きています。
累計では95.7%ですが、これは前年度納税額に対する還付分の影響が大きいと思いますので、現時点ではこの値を深めて考えることに意味はありません。


【一般会計税収評】
さて。それでは最後に一般会計税収全体に対する評価を行ってみたいと思います。

7月分が全体として調子が良かったものですから、一般会計税収トータルでも7月単月での前年同月比はなんと106.1%増となっています。累計でも103.4%増。

ちなみにこの数字、前年度決算ベースで見てみますと、前年同月比98.5%、0.816兆円の前年度割れとなっています。
これを前年度7月の数字で見てみますと、7月単月が5.819兆円、7月迄累計が8.767兆円。

今年度は7月分が6.169兆、一昨年比106.01% 累計 9,.057兆、一昨年比103.3%となっています。

今年度の特徴は、やはり「所得税『源泉分』」が累計ベースで前年度を105.5%と大幅に、更に一昨年も102.1%と上回っている部分にあるのではないでしょうか。

消費税率が5%から8%に引き上げられたのが2014年度(平成26年度)の事。

昨年度(2016年度)の消費税収や所得税収が一昨年度(2015年度)を下回ったことから、「消費増税の影響」を指摘する声もありましたが、今年度の実績を見るとどうもそうではなさそうだ、という様子が見えてきます。

今年度の実績も既に4か月目。「所得税『源泉分』」ですが、実は6月分は単月で前年同月比112.3%、5月分が111.0%となっており、この現象がどうも今月単独の現象ではないらしいということことが分かります。

昨年度の実績が反映されている「消費税収」等、今年度の実績とは呼べない部分も含まれたデータではありますが、「2017(平成29)年度7月分税収」。

中々幸先の良い出足ではないでしょうか?


この記事のカテゴリー >>「物価」の見方


本日は2017年9月5日で、公表されたのは先月末ですので、少し期間が経過していますが、ほんの少しだけですが、状況が変化していますので、記事にしてみたいと思います。

おなじみになったかと思いますが、私が「消費者物価指数」を見る際のルールを改めて掲載しておきます。
・海外需要の影響を受けやすい「エネルギー」の物価は除外する必要がある

・天候によって、「需要」とは関係のない指標が出る「生鮮食品」の物価は除外する必要がある

・海外の水準と比較するために設定された、実際には存在しない数字である「持家の帰属家賃」は除外する必要がある。

不明な文言等ございましたら、同シリーズの過去の記事 をご参照ください。

それでは、改めまして2017年7月度の消費者物価指数を掲載したいと思います。

平成29年(2017年)度7月の消費者物価指数

【消費者物価指数(総合)の前年同月比】※( )内は2017年6月の前年同月比です。
総合(ウェイト:10000)
0.4(0.4)

生鮮食品を除く総合(ウェイト:9586)
0.5 (0.4)

持家の帰属家賃を除く総合(ウェイト:8501)
0.6(0.5)

持家の帰属家賃及び生鮮食品を除く総合(ウェイト:8087)
0.6(0.5)

生鮮食品及びエネルギーを除く総合(ウェイト:8802)
0.1 (0.0)

この中で、私が最重要視すべきだと考えている情報は「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」です。
これと同様に、「持家の帰属家賃を除く総合」もまた重要視しています。

「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」と「生鮮食品を除く総合」を比較した時、前年同月比で0.4%の差が生まれていますが、この0.4%の違いがエネルギー物価の変動を意味しています。

私、6月度の記事は作成しませんでしたが、その先月も含めて、「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」が3月に初めて-0.1%を付けて以来、前年同月比がずっと横ばい(0.0%)を続けていましたので、ここがわずかでもプラスに転じていることは、 久しぶりに安心できる材料が登場したということだと思います。

【消費者物価指数(10大費目別)の前年同月比】※( )内は2017年6月の前年同月比です。

食料 ウェイト:2623
0.6(0.8)

 生鮮食品 ウェイト:414
 -1.1(0.5)
 生鮮食品を除く食料 ウェイト:2209
  0.9(0.9)

住居 ウェイト:2087
-0.2(-0.2)

 持家の帰属家賃を除く住居 ウェイト:589
  -0.1(0.0)

光熱・水道 ウェイト:745
4.3 (3.5)

家具・家事用品 ウェイト:348
-0.4(-0.8)

被服及び履物 ウェイト:412
0.0(0.2)

保健医療 ウェイト:430
0.1(0.0)

交通・通信 ウェイト:1476
0.1(-0.1)

教育 ウェイト:316
0.4(0.4)

教養娯楽 ウェイト:989
0.0(-0.1)

諸雑費 ウェイト:574
0.1(-0.1)

このうち、「エネルギー物価」を含むのが「光熱・水道」、「交通・通信」の2費目ですので、ここを分解してみます。
光熱・水道 ウェイト:745
4.3 (3.5)

 電気代 ウェイト:356
 6.1(4.9)
 ガス代 ウェイト:181
 1.4(0.1)
 他の光熱 ウェイト:41
 21.2(23.0)
 上下水道料 ウェイト:167
 0.6(0.4)

交通・通信 ウェイト:1476
0.1(-0.1)

 交通 ウェイト:224
 0.0(-0.3)
 自動車等関係費 ウェイト:836
 1.5(1.4)
 通信 ウェイト:416
 -2.8(-3.1)

「その他光熱費」は「灯油」の事ですので、灯油の物価が特に大きく上昇していることが分かります。

また「電気代」に関してましても「電力自由化」や「原油価格の下落」の関係で3月まで22カ月間連続で前年を割り続けていたのですが、4月より上昇に転じ、7月は前年同期比6.1%にまで上昇していますね。

「交通・通信」の中ではやはり「通信」の分野が下落を続けており、うぃとも小さくはありませんので、物価全体の足を引っ張っている様子がうかがえます。

一方で「交通・通信」分野の中でエネルギー価格が含まれているのは「自動車等関係費」ですから、ここをもう少し砕いてみます。
自動車等関係費 ウェイト:836
1.5(1.4)

 自動車 ウェイト:199
 0.3(0.3)

  軽乗用車 ウェイト:40
  -0.9(-0.1)
  小型乗用車A ウェイト:55
  0.7(0.4)
  小型乗用車B ウェイト:5
  0.7(0.7)
  普通乗用車A ウェイト:80
  0.5(0.5)
  普通乗用車B ウェイト:20
  1.3(-0.2)

 自転車 ウェイト:9
 2.0(2.3)
 自動車等維持 ウェイト:628
 1.9(1.8)

  ガソリン ウェイト:206
  6.3(6.1)

ガソリンの物価上昇幅はさすがに大きくなっていますが、これ以外にも「自動車」が全体で0.3%上昇。
特に「軽乗用車」のみ物価が下落する中で、他の費目(Aは国産、Bは外国産)は全て上昇しています。

「自動車等維持費」は費目数が多いのでガソリン以外は割愛しましたが、「自賠責保険料(▲6.5%)」や「レンタカー代(▲2.1%)」が大きく前年割れしている以外は目立って物価が下落している費目はありません。

家具・家事用品に起きた変化

私のブログではおなじみかもしれませんが、この「家具・家事用品」の分野。長らく物価の足を引っ張り続けてきた分野なのですが、実は少し変が起きています。

【消費者物価指数(家具・家庭用品)の前年同月比】※( )内は2017年6月の前年同月比です。
エアコン

家具・家事用品 ウェイト:348
-0.4(-0.8)

 家庭用耐久財(ウェイト:111)
 0.0(-1.0)

  家事用耐久財(ウェイト:57)
  -3.0(-5.1)

   電子レンジ(ウェイト:4)
   -14.9(-13.7)

   電気炊飯器(ウェイト:11)
   2.6(-1.6)

   ガステーブル(ウェイト:3)
   6.3(6.5)

   電気冷蔵庫(ウェイト:16)
   -10.5(-10.9)

   電気掃除機(ウェイト:9)
   3.8(10.3)

   電気洗濯機(全自動洗濯機)(ウェイト:7)
   1.5(-14.8)

   電気洗濯機(洗濯乾燥機)(ウェイト:7)
   -2.5(-2.7)

   冷暖房用器具(ウェイト:37)
   2.9(3.3)

    ルームエアコン(ウェイト:30)
    3.3(3.8)

    温風ヒーター(4)
    -1.1(-1.1)

    空気清浄機(3)
    4.5(5.1)

  一般家具(18)
  2.8(1.8)

   整理だんす(5)
   1.7(2.3)

   食堂セット(9)
   3.2(1.9)

   食器戸棚(4)
   1.0(-0.1)

足を引っ張っていたのは「家庭用耐久財」の内「家事用耐久財」です。もちろん7月度も▲3.0%ですから、決して「改善した」わけではありません。ですが、「家庭用耐久財」全体で見るとついに前年同月比が0%まで回復したわけです。

2月に一度0.6%を付けていますから、それ以来ということになります。

特にその影響が大きかったのは「全自動洗濯機」の1.5%、そして「ルームエアコン」の3.8%だったのではないでしょうか。
ルームエアコンに関しては6月も3.8%と大きく改善しており、継続的に物価が下落し続ける状況から回復しつつある状況が伺えます。

またそれ以上に大きいのは「一般家具」の2.8%かもしれません。一般家具の物価上昇率は比較的優秀で、これで9カ月連続の物価上昇となります。

第348回の記事 で2017年度4-6月期のGDPについて記事を記しましたが、私たち一般国民の景気状況を見る上で最も大切なのが「家計最終消費支出」という項目です。

この項目を構成しているのが今回のきじで取り上げた「消費者物価指数」。
4-6期GDPは巷の予想を大きく上回り、大幅な上昇幅を記録したわけですが、ニュース等の解説を見ていると、季節ものの動きが鈍く、第二四半期(7-9月期)は第1四半期程の上昇を期待することは出来ないのではないか、とする報道を見かけましたが、「ルームエアコン」は季節ものの中でも代表的なアイテムです。

この様な動きを見ていると、やはり第二四半期のGDPにも大いに注目したいですね。


この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第350回 ドイツ革命の経緯(レーテ蜂起)

前回の記事では、今回のカテゴリーに関連して、レーニンたちが結成した「コミンテルン」が初めてその影響を与えるに至った「ドイツ」。

ここで勃発した「ドイツ革命」について、主にその「前半」ともいえる部分を掲載しました。

今回の記事では、ここから更にドイツ皇帝/プロセイン国王であったヴィルヘルム二世の退位と「ワイマール共和国」まで話題を進められればと思います。

ヴィルヘルム二世の退位

ヴィルヘルム2世
今回のカテゴリーの目的の中の一つに、「共産党」という組織に内在する残虐性を追いかけることも含まれているわけですが、彼らの行う「市民革命」の中には、「帝国主義」から「共和制」への移行という目的も含まれています。

ですから、「ドイツ革命」においても、この「帝政崩壊」というものが一つの課題になるのかと思い、あえてピックアップしてみました。

キール軍港から始まるレーテ蜂起によって、一部都市では既に皇帝を退位させ、共和制の敷かれた年もあるわけですが、ドイツ全体でもやはり同様の事が起こります。

ほんと、ロシア革命とよく似ているのですが、ドイツの帝政が崩壊する過程においても、やはりロシアと同じように労働者や市民がパンを求めてデモを起こします。

ただ、このタイミングで支配層側はこれまでの様に群衆に向けて発砲するようなことはせず、首相であったマックスマックス大公子がヴィルヘルム二世に退位を迫るなどし、暴力に依らない方法がとられています。

血気にはやる民衆側の勢いが収まることはなかったのですが、結果的に社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトのそばにいた社会民主党員のフィリップ・シャイデマンが議事堂の窓から身を乗り出して独断で共和政の樹立を宣言することによって共和制への移行が成し遂げられました。(1918年11月9日)

ドイツ共和制宣言

同じ日にヴィルヘルム二世は亡命し、後日退位を表明。

11月10日には社会民主党、独立社会民主党(USPD)、民主党からなる仮政府、「人民委員評議会」が結成されたわけだけど、労働者や兵士たちが結成した「レーテ」はこれを承認しながら、「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」なるものを選任し、ここにドイツの最高権力を与え、二重権力構造が生まれる・・・と。

このあたりもロシア革命とそっくりですね。


今回は「ドイツ」について調査することが目的ではなく、ここにコミンテルンがどうかかわっていくのか、ということを探ることが目的ですので、少し端折ります。

この様な状況の中で、第一次世界大戦に関してドイツは連合国との間で休戦協定を結びます。(11月11日)

しかし・・・これまで中国やロシア、またはヨーロッパにおける市民革命の様子をずっと見て来たからかもしれませんが、どうもドイツの革命の様子は、非常におとなしいですね。

この後、ドイツのマルクス主義者たちの政治集団である「スパルタクス団」が「ドイツ共産党(KPD)」を結成。
同じスパルタクス団による「一月闘争(スパルタクス団蜂起)」なども勃発し、実際に射撃戦なども行われるわけですが、結構あさりと鎮圧されてしまいます。

11月19日には国民議会選挙が実施され、社会民主党が第一党を獲得。2月6日、ワイマールという都市で国会が召集され、国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認されます。

この時制定された憲法が「ワイマール憲法」。当時世界で最も民主的である、とされた憲法ですね。
「大統領の権限の強い共和制、ドイツ帝国諸邦を基にした州(ラント)による連邦制、基本的人権の尊重が定められた」とされています。

「ドイツ帝国」が崩壊した後、「ワイマール憲法」の下で成立した共和制国家の事を、「通称」ワイマール共和国、と呼ぶのですね。
正式名称は「ドイツ国」であると。

非常にあっさりと出来上がってしまいます。

1919年6月28日、ドイツは第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」に調印します。
この時ドイツが調印させられた内容が以下の通りです。

ラインラントへの連合軍駐屯、陸軍は10万人を上限とするなどの軍備の制限、植民地とエルザス=ロートリンゲン、上シュレージエンなどの割譲、ザール地方の国際連盟による管理化、ダンツィヒ(現・グダニスク)の自由都市化などの領土削減が行われた。

また経済面でも連合国側の管理機関がドイツに設置される事になり、飛行機の開発・民間航空も禁止された。そして戦争責任はドイツにあることが定められた。中でもドイツを苦しめる事になるのが、多額となると見られる賠償金であった。この条約はドイツ国民に屈辱を与え、ヴァイマル政府に対する反感の元となった。

経済的な側面でいうと、多額の賠償金や産業の停滞が原因で政府の税収が減り、これをドイツ政府は「紙幣の増刷」という方法で対応したため、市場は次第に「インフレ」に見舞われるようになります。

物資やサービスが不足する中で紙幣増刷を行えば、当然そうなりますね。

この事から、左派勢力によるストライキや暴動が頻発するようになり、レーテ蜂起において帝政が崩壊した都市バイエルンでは、更にバイエルン州政府が共産党によって倒され、「バイエルン・レーテ共和国」が発足。(バイエルン革命:1919年4月6日)

しかしすぐさまワイマール共和国政府派遣された軍隊等によって壊滅させられ、たった1カ月で崩壊。

で、この時崩壊前に共産党によって人質に取られた人々が虐殺され、更に崩壊後、バイエルン占領軍によってレーテ共和国に拘わった人々への虐殺行為がいたるところで行われたのだそうですよ。


本論とは少し外れるのですが、レーテ共和国が崩壊した後のバイエルンでは、「右傾化」が進んでいきます。
「右傾化」って、要は国家主義者たちの事ですね。共産主義は最終的には「国家」そのものを否定しているわけですが、国家主義者たちは「国」や「民族」としてのプライドやほこりを大切にしていたのでしょうか。

そして、そんな混乱の中、「バイエルン」という土地で生まれたのが「国家社会主義ドイツ労働者党」=「ナチス」でした。
こうしてみると、彼らが「共産主義者」を否定するようになった経緯も何となく見えてきますね。

まあ、この話題は後に掲載する予定の「ドイツ」に関するカテゴリーで掘ってみたいと思います。


カップ一揆


カップ一揆

1920年3月13日には、ヴェルサイユ条約締結に反対した右派政治家であるヴォルフガング・カップによって、「カップ一揆」と呼ばれるクーデターが勃発。ベルリンが制圧され、新政府樹立が宣言されます。

ところが、これに対してドイツ政府がとった方法は、「ゼネラルストライキ」。
つまり、労働者が結束して「働かない」ことを呼びかけました。カップは「右派政治家」ですから、政府の呼びかけに応じたのは「左派」であったということです。この結束力に驚かされますね。

そういえば、ドイツに「ハイパーインフレ」を引き起こす原因となったのは、「ルール占領」。フランスおよびベルギーによってドイツの生産拠点であったルール地方を占領されたこと。この時もドイツ政府は労働者たちにストライキを呼びかけ、代わりに紙幣をばらまいたことが「ハイパーインフレ」を引き起こすこととなります。


ルール蜂起

「ルール占領」が行われるのは1920年12月26日の事なのですが、それ以前に同じルール地方で、カップ一揆におけるゼネストに参加した労働者立による「ルール蜂起」という事件も起きています。

右派政治家であるカップが起こした「カップ一揆」を受け、今度はドイツ左派政党が結束し、共産党、独立社民党、社民党が共同声明の中で「プロレタリア独裁による政治権力の実現」を目標とすることを宣言します。

これを受けてルール地方では労働者・兵士たちが結束して「ルール赤軍」を結成。1920年3月末までにルール地方全土を占領してしまいます。

これに対し、共和国側は軍隊を派兵し、4月6日にはルール赤軍中枢であるドルトムントに到着し、ルール赤軍を壊滅させました。


これらの混乱を通じ、ワイマール政府において中心的な役割を果たしてきたドイツ社会民主党はやがて国民からの信認を失いはじめます。

選挙によって大きく議席を失い、社会民主党に代わって中央党・ドイツ民主党・ドイツ人民党の3党が内閣を結成することになります。

さて。このような中で1921年3月。ついにドイツ共産党が姿を見せることになります。


次回記事では、ドイツ共産党が起こした「三月行動」とコミンテルンの関わり合いについて記事にしてみたいと思います。


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<継承する記事>
第349回 第三インターナショナル=コミンテルンの発足

前回の記事では、レーニンやトロツキーが発足させた「第三インターナショナル」=「コミンテルン」は、一体どのような組織だったのか、何を目指そうとしていたのか。これを途中まで記し、「ドイツ革命」を通じてその過程を検証することをお約束し、記事を終えました。

今回の記事では、第一次世界大戦末期に勃発した「ドイツ革命」の経緯と、革命においてコミンテルンがどのようにかかわったのか。
そして「コミンテルン」そのものの思想の変動についても記事にしたいとおもます。


「共産主義」と「社会主義」

「共産主義」と「左翼」 のカテゴリーの中で幾度も触れてきたテーマでもあります。

第161回の記事 の中で、この問題について私の中では一つの決着をつけたつもりではいたのですが、どうもこの「共産主義者」と「社会主義者」についての違いがより明確となったのは今回シリーズ化している「ロシア革命」の時機だったのではないか・・・ということが見えてきました。

第161回の記事 に於きまして、私は「共産主義」と「社会主義」の違いについて、以下のような方法で定義づけを行いました。
① ブルジョワによる運動が「社会主義」であり、プロレタリアートによる運動が「共産主義」である。
② 平和的に「完全平等主義」を実現するのが社会主義であり、これを暴力によって実現するのが「共産主義」である。
③ 「社会主義社会」とは、「資本主義」から「共産主義」へと移行する途中の「プロレタリアートによる独裁」がおこなれている社会である

ここには、とあるSNSにおいて、実際に共産党に所属し、ここで共産主義についてきちんと学んだ方とお話をする中で教えていただいた事が含まれています。③に記した内容がまさしくそれです。

しかし、今回のカテゴリーを記していく中で、どうも「共産主義」と「社会主義」という区分けについて、見えてきたのは、「レーニン」が目指した社会の在り方こそ本当の「共産主義」であり、10月革命が勃発する以前、社会革命党やメンシェヴィキ、そしてスターリンらが妥協しようとした社会は、本当の共産主義ではなかったのではないのか?

レーニンが主導して立ち上げたコミンテルンが目指したものは「世界革命」であったこと。ところが、これを引き継いだはずのスターリンが目指したのは「一国社会主義」というものでした。


「世界革命」の「前提」

ロシアの革命家たちが自分たちの革命の成功にこだわった、その背景にあったものとして、ここにはどうもマルクスの「予言」が原因としてあったようです。

【「共産党宣言」におけるマルクスの予言】
1882年に書かれた『共産党宣言』のロシア語版序文では、マルクスとエンゲルスは「ロシアはヨーロッパの革命的活動の前衛となっている」という認識を示し、「ロシア革命が西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命の合図となり、その結果、両者がたがいにおぎないあう」可能性に言及した。(Wikiより)

そして、この予言の通りロシア革命は見事に成功しました。

そして、マルクスと共に共産主義革命の勃発を予測したエンゲルスは、次の様にも述べていました。
<共産主義革命は、けっしてただ一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで、同時におこる革命となるであろう。

〔中略〕それは、世界の他の国々にも同じようにいちじるしい反作用をおよぼし、それらの国々のこれまでの発展様式をまったく一変させ、非常に促進させるだろう。それは一つの世界革命であり、したがって世界的な地盤でおこるだろう。

マルクスたちの予言通りに共産主義革命が勃発するのだとしたら、ロシア革命が成功したのだから、これがきっかけとなり、西ヨーロッパを皮切りに、世界中で共産主義革命=「世界革命」が半ば自発的に勃発する、とレーニンやトロツキーは考えたわけです。

そう期待したわけですね。そして、革命を成功させたロシアがその手本になろうとしたのです。
その最初の第一手となったのが「ドイツ革命」でした。


「ドイツ革命」とは?

Wikiの表記を引用してざっくりと解説しますと、「ドイツ革命」とは以下のようなものを差します。

第一次世界大戦末期に、1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起と、その帰結として皇帝ヴィルヘルム2世が廃位され、ドイツ帝国が打倒された革命である。ドイツでは11月革命とも言う。

この様な蜂起が勃発した最大の理由は、

・元々短期決戦を想定していたドイツの想定が敗れ、フランス軍との戦闘においてその戦線は長期化してしまった事。
・膠着状態を打開するため、あらゆる人員、物資を戦争遂行に動員する体制=「総力戦体制」に移行したこと。

この2つです。この結果、ドイツの経済は停滞し、「国民に多大な窮乏と辛苦を強いる」事となり、「戦局の悪化とともに軍部への反発や戦争に反対する気運の高まりを招き、平和とパンをもとめるデモや暴動が頻発」することになります。

ロシア二月革命 が勃発した理由とまったく同じ理由ですね。

考えてみれば、この当時ヨーロッパまで出張に来ていた「岡村寧次(おかむらやすじ)」、「永田鉄山(ながたてつざん)」、「小畑敏四郎(おばたとしろう)」に東条英機を加えた4名は、この様なドイツやロシアの状況を見て、日本陸軍の現状に危機感を覚え、軍部の人臣を刷新し、軍全体で総力戦が挑める体制を築く必要性を実感する(バーデン・バーデンの密約) わけですね。

ふ~む・・・。

まあ、あくまでも余談です。ただ、当時のドイツにしろロシアにしろ、自国がどうであろうとそこには「敵国」が存在するわけですから、ここに軍部の人臣を刷新する必要性を実感した、ということはそうおかしなことではないのかもしれませんね。


ドイツ革命の経過

デモや暴動が頻発した、という部分だけでなく、これが武力蜂起へと転化するあたりも、ロシア二月革命によく似ています。

1917年3月、ロシアにおいて勃発した二月革命と、革命が成功し帝政が崩壊したことに、ドイツの労働者たちは刺激され、ドイツ各地にてストライキが勃発しました。

これが武装蜂起へと転化するきっかけとなったのは、1918年10月29日、ドイツ大洋艦隊の水兵達約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、サボタージュを行った事が原因でした。

彼らは逮捕され、キール軍港へと送られるのですが、このキールに駐屯していた水兵たちが、仲間の釈放を求めてデモを行います。

【キール軍港】
キール軍港


これに対し、官憲が発砲したことから、デモは一気に武装蜂起へと発展。

11月4日、労働者・兵士レーテ(ソビエトやラーダの様なもの)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧しました。
後に政府が派遣した部隊により反乱は一時鎮圧されるのですが、この武装蜂起は反乱を起こした兵士たちによって、西部ドイツが一気にレーテの支配下にはいります。

【レーテ蜂起】
レーテ蜂起


ドイツの都市バイエルンでは、バイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、君主制が廃止されるなどし、この運動はほぼすべての主要都市に波及。ほぼすべての主要都市で「レーテ」が結成されます。(レーテ蜂起)

勿論この話には続きがあるわけですが、私の時間が少しなくなってきましたので、続きは次回記事に委ね、今回はここで一旦終了いたします。


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<継承する記事>
第347回 ウクライナとロシア、それぞれのブレスト=リトフスク条約

しかしこの記事・・・一体どこから手を付ければよいのかということに、いささか悩まされる部分があります。

そもそも、「コミンテルン」が発足した理由は「第二インターナショナル」の失敗が最大の理由です。

第319回の記事 にて、私はレーニンの唱えた「革命的敗北主義」について言及しましたが、この「革命的敗北主義」という言葉が初めて登場するのが、1915年9月、反戦派が集合してスイスにて開催された「ツィンメルワルト会議」という名前の国際会議です。

第一次世界大戦が勃発したのが1914年6月の事ですから、ここでいう「反戦」とは、第一次世界大戦に対して用いられたものになります。

場所はスイス。レーニン亡命中に開催されたものです。

どうもレーニンの「革命的敗北主義」とは、そもそも「第二インターナショナル」が1912年、自ら作成した「バーゼル宣言」に記されていた文言に由来するものであるようです。

【バーゼル宣言より抜粋】
 「戦争が勃発するおそれがあるので、加盟諸国の労働者階級とその議会代表者は、インタナショナル事務局の総括的活動に支持されながら、彼らに最も有効とおもわれる手段を適用することによって戦争の勃発を防止することに、全力をつくすべき義務がある。

それらの手段は、階級闘争が激化し一般的政治情勢が激化するに応じて当然変化するものである。

 それでもなお戦争が起こった場合には、すみやかな終結のためにつくし、戦争によってひきおこされた経済上および政治上の危機を、国民を揺りうごかすのに利用し、そのことによって資本主義的階級支配の排除を促進することに全力をあげてつとめることが、義務である」。

後段の「それでもなお」以下の文章は、まさしくレーニンの「革命的祖国敗北主義」そのものではないでしょうか?

つまり、

「戦争を勃発させない様、努力する中においても尚戦争が勃発してしまった場合、危機感によって国民を扇動し、支配者層を排除するために全力を尽くす事が必要だ」

とバーゼル宣言には記されているわけです。そしてレーニンの主張する「革命的祖国敗北主義」とはまさしくこの事です。
第二インターナショナルはそう宣言しているにも関わらず、各国の社会主義政党は戦争の勃発に伴って「祖国防衛主義」に走り、その思想を投げ出してしまった事をレーニンは批判しました。

そして、これを受けて開催されたのが「ツィンメルワルト会議」です。もう一度「国際主義」を復活させるために行われたわけですが、同会議においても、その手段として「平和的な手段を用いる」ことを主張した「右派」と、「革命的な手段を用いる」ことを主張した「左派」に分かれてしまいます。

「国際主義」とは、「社会階級・国家・搾取のない世界」を目指し、それを実現するために、国籍を問わずすべての労働者を組織し、各国の国境に止まらず、国際革命を目的とする考え方です。(Wikiより)

この時、「左派」の中心にいたのがレーニンであり、彼がこの時に主張した枠組みこそ「第三インターナショナル」でした。

ロシア革命においてもレーニンはメンシェヴィキや社会革命党、同じボリシェヴィキの仲間であるカーネフやスターリンに対して、彼らの取った方法が「日和見主義」であると批判していたわけですが、「第三インターナショナル」とは、これまでの第二インターナショナルが否定してきた「排外主義」と共に、この「日和見主義」との断絶も主張したもの。

レーニンが「四月テーゼ」にて謳った内容こそ「第三インターナショナル」が目指すべき姿であったと考えることができます。

【四月テーゼの骨子】
・「臨時政府」を「ブルジョワ政府」とみなし、一切支持しないこと
・「祖国防衛」を拒否すること
・「全権力のソヴィエトへの移行」

レーニンが臨時政府を「ブルジョワ政府」とみなした理由は、臨時政府が他の帝国主義・資本主義国家と連携し、排外的な戦争を継続する意思を有していた為でしたね。


「第三インターナショナル」の実現に向けた動き

レーニンがこの「第三インターナショナル」の実現を具体的に動かし始めるのはロシア革命が成功した後の事。

1918年12月、イギリス労働党が第二インターナショナルの再建を目指して会議を呼びかけた事に対抗して、外務人民委員であったゲオルギー・チチェーリンに対して第三インターナショナル設立の準備に入る様指示を出します。

1919年3月にモスクワで開催された会議において、「第三インターナショナル」の創設が議決されます。「コミンテルン」の結成です。
合計54の代議士が参加し、このうち国外からは5名の参加がありました。

レーニン


「コミンテルン」への加盟条件

さて。いざ「コミンテルン」が結成されますと、レーニンが否定した「日和見主義」的な社会主義者まで含めて、様々な団体が関心を示すようになりました。

ですが、これはレーニンの目指すものであはありませんから、コミンテルンへ加盟するための21の条件を作成します。

21か条全てを掲載しているサイトが見当たりませんので、今回はWikiに掲載されています、4条件のみ掲載しておきます。

・内乱へ向けての非合法的機構の設置(第3条)
・党内における「軍事的規律に近い鉄の規律」(第12条)
・社会民主主義的綱領の改定(第15条)、党名の共産党への変更(第17条)
・コミンテルンに反対する党員の除名(第21条)



「コミンテルン」が行った事

それでは、この「コミンテルン」という組織は、一体どのような事を行っていたのでしょうか。

今回の記事では、「レーニン」がその代表者であった時代のコミンテルンについて掲載します。

ロシア革命の後、ヨーロッパでは様々な共産主義国家、及び共産党が誕生しました。

1918年1月 – アルゼンチン共産党結成
     2月 – クバーニ人民共和国独立宣言
     8月 - フィンランド共産党結成
     11月 - オーストリア共産党
         ギリシャ共産党(1924年まで社会主義労働者党)
         ハンガリー共産党結成
     12月 - ラトビア社会主義ソビエト共和国成立
          ポーランド共産党(1925年まで共産主義労働者党)
          ドイツ共産党結成

そして、翌1919年3月にコミンテルンが発足します。
コミンテルンが主に行ったのは、その後の武装蜂起の支援。

この時、「ドイツ革命」の支援を行った様子が登場しますので、次回記事ではこの「ドイツ革命」の様子を記事にしてみたいと思います。

一応、私の予定ではこの「ドイツ」という国にも単独でスポットを当て、なぜナチスドイツが誕生したのかというところまで含めてカテゴリーを作成する予定ではいるのですが、これに先駆けてこの「ドイツ革命」のみピンポイントで取り扱ってみたいと思います。


この記事のカテゴリー >>GDPの見方


第一四半期ですので、4月~6月期GDP速報になります。
ニュースではこんな感じですね。関心がある方は全文目を通してみてください。

GDP、年4.0%増=11年ぶり6期連続プラス-内需堅調で・4~6月期 (共同通信社記事より)
 内閣府が14日発表した2017年4~6月期の国内総生産(GDP、季節調整済み)速報値は、物価変動の影響を除いた実質で前期比1.0%増、この成長ペースが1年続くと仮定した年率換算では4.0%増だった。

 個人消費や民間の設備投資など国内需要が堅調で、輸出の落ち込みを補い、11年ぶりに6四半期連続のプラス成長となった。年率の伸びは15年1~3月期(4.8%増)以来の大きさ。

 物価変動の影響を反映し、生活実感に近い名目GDPは前期比1.1%増、年率4.6%増。16年後半以降の輸出主導型の経済成長が内需主導型に切り替わりつつある。

 茂木敏充経済再生担当相は記者会見で、「良い数字だが、消費はまだ力強さに欠ける」と指摘した。景気の先行きについては「緩やかに回復していくことが期待される」と語り、安倍政権が掲げる「人づくり革命」や生産性向上などの重点課題に取り組むことで、内需主導の持続的な成長を目指す考えを示した。

 実質GDPを項目別に見ると、個人消費は前期比0.9%増と6期連続のプラス。雇用・所得環境の改善から飲食・サービスが好調で、買い替え需要などで自動車販売やエアコン、冷蔵庫も伸びた。

 設備投資は2.4%増。人手不足を背景に、建設業や小売業などで省力化投資が伸びた。住宅投資は戸建て、貸家ともに底堅く1.5%増。公共投資は、16年度第2次補正予算の執行が本格化したことに伴い5.1%増。伸び率は第2次、第3次安倍政権を通じ最大の13年7~9月期(5.0%増)を上回った。

 輸出は0.5%減と4期ぶりのマイナス。統計上は輸出に分類される訪日外国人の消費は増えたが、アジア向けのスマートフォン関連部品の需要一服などが響いた。輸入は原油・天然ガスの価格上昇から1.4%増えた。

 実質GDPの増減にどれだけ影響したかを示す寄与度は内需がプラス1.3%。一方、外需はマイナス0.3%で、6期ぶりのマイナスだった。(2017/08/14-11:46)

内閣府

要約すると、2017年度第一四半期GDPの内、季節調整を行った実質GDPの前月比が1%上昇し、これを年率換算すると4%の上昇率になりますよ、ということになります。

ただ、私のブログにおいて、GDPに関連する記事では繰り返しお伝えしています通り、そもそも

 ・「名目GDP」そのものがサンプルデータを用いて人為的に作成されたデータであること
 ・「実質GDP」はこの数字を更にサンプルデータを用いて人為的に作成した「持家に帰属する家賃を除く消費者物価指数」で割ったものであること
 ・この実質GDPを更に人為的に作成した公式に当てはめて計算した数字が「季節調整系列」であること。
 ・更に「年率換算」は前述した方法によって算出された「季節調整系列前月比」が「仮に4半期連続で継続したとしたらいくらになるのか」というありえない予測に基づいて算出されたフィクションの数字であるということ

以上の様な理由により、「季節調整系列」という数字も、「年率換算」という数字も私自身は全く信用していません。

一つ目の、「名目値」に関するバイアスだけは解消することができないけれども、他のバイアスに関しては解消することが可能である、「名目原系列、前年同期比」を検証することが一番大切なことだと私は考えています。

ということで、私のGDP速報は、この「名目原系列、前年同月比」を中心に記事を進めてみたいと思います。


2017年度GDP第一四半期第一次速報統計結果

【2017年度GDP第一四半期第一次速報(前年同期比)】
名目GDP
全体 134.556 兆円(1.6%)

 民間最終消費支出  75.012 兆円(1.9%)
 家計最終消費支出 73.095 兆円(1.8%)
  除く持家の帰属家賃  60.613 兆円(2.2%)

 民間住宅 4.185 兆円(7.3%)
 民間企業設備 19.407 兆円(6.4%)

実質GDP
全体  129.498 兆円(2.0%)

 民間最終消費支出 73.808 兆円(1.8%)
 家計最終消費支出  71.948 兆円(1.8%)
  除く持家の帰属家賃  58.674 兆円(2.0%)

 民間住宅  3.935 兆円(5.6%)
 民間企業設備 19.070 兆円(5.8%)

実質を合わせて掲載しているのは、確かにその信憑性に関しては疑問があるものの、それでも一つの指標にはなるということと、名目と実質の数字を用いることでそれぞれの項目における「物価上昇率」を見ることが出来るからです。

項目としては、基本的に日本区全体の「GDP」をまずは掲載しているのですが、続いて家計最終消費支出者、つまり民間人と民間企業を合算した「消費支出」、続いて「家計」の最終消費支出、ここから更に「持家に帰属する家賃」を除いた消費支出を掲載しています。

続いて掲載している「民間住宅」は民間人が住宅におこなった投資金額(購入額)、民間企業設備は民間企業が行った設備投資費の事です。

安倍内閣が目指している経済社会とは、政府支出におんぶにだっこ、何時まで経っても民間で稼ぐことのできないような社会ではなく、民間が政府の力に頼らずとも、自ら自力で回転していけるような社会です。

この情報をきちんと吸い上げて統計化しているのが上記枠内のデータです。


2017年度GDP第一四半期第一次速報への評価

ニュース記事でも書かれているのですが、今回のGDP評として一番大きいのはやはり「内需」の拡大です。

特に注意してみるべき箇所は民間最終消費支出の内、「持ち家の帰属家賃を除く家計最終消費支出」の動向です。

これも何度も言っている様に、「持ち家の帰属家賃」とは、「もし今住んでいる持ち家が借家だった場合、家賃はいくらになるのか」という非常に意味の解らないフィクションの数字ですから、本来GDPには加えるべきではない数字です。

この数字が名目で前年同期比2.2%、実質で2.0%、物価上昇率0.2%という形で上昇しています。これは非常に理想的な形ですね。

また一方で、「企業設備投資費」に関しても前年同期比で名目が6.4%、実質が5.8%、0.6%の物価上昇率を記録しており、これは完全に「デフレから脱却した」と言っても問題がないような状況となっています。

政府日銀が目指している部下上昇率は2.0%ですから、まだまだじゃないか、という声も聞こえてきそうですが、私としてはその物価上昇率には無理があると考えており、やはり麻生内閣時代の名目3%、実質2%、1%の物価上昇率を目指す事こそ一番理想的な経済成長ではないかと考えています。

2%の物価上昇率というのは、どちらかというと安倍内閣誕生時に安倍さんの周辺を取り巻いていたマネタリストたちの非現実的な妄想が招いた政策の弊害だと私は考えています。


もう一つの視点(輸出入GDP)

ただ、ではアベノミクスはついに成功したのか、と単純に考えるのは実は時期尚早だと思います。

いや、アベノミクスは十分成功していると私は思っているのですが、今回の数字をぬか喜びしてよい数字なのかどうか、という点で1点だけ注意してみておくべき点がある、ということを申し上げたいのです。

それは、「輸入額」の事です。
重ねて輸出額も掲載します。

【2017年度GDP第一四半期第一次速報(輸出入GDP統計)】
2016年度輸入額 19.655 兆円
2017年度輸入額  22.178 兆円
輸入額前年度差額(前年同期比) 2.523 兆円(12.8%)

2016年度輸出額 20.890 兆円
2017年度輸出額 23.038 兆円
輸出額前年度差額(前年同期比) 2.148 兆円(10.3%)

額、率とも輸入が輸出を上回っていますので、輸出入GDPはGDP全体を縮小させる要因として働いています。

ですが、それは輸出入全体にいえることであって、消費支出を初めとする各項目の数字の中には輸出入GDPの内「輸入額」が含まれているわけです。

昨年の記事を読み返していただくとわかると思いますが、2016年度は原油価格が前年同月を大幅に下回る状況にありましたから、原油額が大半を占める「輸入額」は消費支出等各項目を前年に対して下落させる要因として働いていました。

ところが、今年度2017年度は原油価格が前年度を上回っていますので、これが今度は各項目を上昇させる要因として働いています。

勿論、輸入額増加額2.5兆円の内、その全てが原油額というわけではありませんし、今月輸入した原油額がそのまま今月の消費者物価に反映されるのかというと、そういうわけでもありません。

ですが、例えば持家に帰属する家賃を除く家計最終消費支出は前年同期と比較して1.3兆円増えたわけですが、これがそのまま内需に起因する上昇額となるわけではない、ということです。


これらの要素を踏まえて統計データを見る必要はあるわけですが、少なくとも今年度第一四半期のGDPデータは、私たちの想像を上回るほど上昇しました。

またGDP全体で見ますと、輸入額が輸出額を上回っており、GDPに対してはネガティブに作用しているにも関わらず、名目GDP全体は1.6%の上昇率を記録しています。

繰り返しますが、「輸入額」が「輸出額」を上回っていますので、名目GDPの上昇幅は明らかに「原油額の上昇幅を差し引いた内需」に起因するものです。

この事をポジティブな要素としてきちんと受け止めることが大切です。

ポジティブな情報は、「期待インフレ率」として作用し、経済を成長させる大きな起爆剤となりますからね。


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<継承する記事>
第346回 ウクライナ・ソビエト戦争の経過とヨーロッパ諸国の干渉

前回の記事では、ロシア戦争後のウクライナについて、一通りその経過を収束することができましたので、一旦ウクライナについては記事を終了させる予定だったのですが、改めて記事を読み返していて、今回テーマとする「ブレスト=リトフスク条約」について回収ができていないと感じましたので、コミンテルンの記事に入る前にいったんこの「ブレスト=リトフスク条約」について記事を記しておきます。


ブレスト=リトフスク条約
こちらの画像は、ロシアと中央同盟国が締結した「ブレスト=リトフスク条約」です。

第342回の記事 にて「ロシアと中央同盟国のブレスト=リトフスク条約」を、前回の記事 で「ウクライナと中央同盟国のブレスト=リトフスク条約」をそれぞれ記事にしました。

時系列から申しますと、ウクライナが締結したブレスト=リトフスク条約が1918年2月9日、ロシアが締結したブレスト=リトフスク条約が同年3月3日の事ですから、ウクライナの方が先に締結したことになります。


ブレスト=リトフスク条約とは?

では、そもそもこの「ブレスト=リトフスク条約」とは何なのか。

今更言うまでもないかもしれませんが、「ブレスト=リトフスク条約」とは、ウクライナ、ロシアがそれぞれ別途中央同盟国との間で締結した「講和条約」です。

前回の記事で記しました通り、ウクライナが締結した「ブレスト=リトフスク条約」は、当時ロシアが元東ウクライナの首都であったハルキウに建国し、ここを拠点として領地を拡大するロシア赤軍との戦闘で敗北を続け、1918年2月8日に首都キエフを占領された翌日、ロシア赤軍を打倒するために選択した講和条約。

このことによってウクライナは独墺と同盟関係を築くことに成功し同年4月末日までにウクライナはウクライナ人民共和国(ソビエト)の領土をほぼ全て奪い返すことに成功しました。


ロシアと中央同盟国との和平交渉の経緯

一方、ロシアが中央同盟国との間でブレスト=リトフスク条約を締結するのはウクライナから約1カ月遅れた1918年3月3日の事。ウクライナでは中央ラーダ軍とボリシェビキ軍間での内戦真っ只中であったことが分かります。

では、ロシアが中央同盟国との間で締結した「ブレスト=リトフスク条約」とは、一体どのような条約であったのでしょうか。


和平交渉をスタートさせたのはウクライナよりもロシアの方が先でした。

10月革命によってボリシェビキ軍が臨時政府軍を打倒し、新政権を打ち立てる中で、臨時政府がロシアを代表する正式な政府であると認識し、臨時政府が統括するロシア領内での自治を宣言していたウクライナが、臨時政府の崩壊に伴って正式にロシアからの独立を宣言したのが1917年11月20日の事。

このままではロシアと対立構造にあるドイツがウクライナに介入することは避けられない状況の中でロシアは1917年12月22日、中央同盟国との間で和平交渉をスタートさせます。

しかし、ロシア側が「賠償金や領土併合なしの和平」を和平交渉の条件として提示したことから、この交渉はすぐに暗礁に乗り上げています。ボリシェヴィキ派ウクライナ人民共和国が出来るのはその3日後。

12月25日にロシア側からウクライナ側に最後通牒が突きつけられ、ウクライナとロシアは戦争状態に突入します。


ウクライナと中央同盟国との交渉の経緯

一方、ウクライナ側が中央同盟国との和平交渉に乗り出したのは翌年1918年1月1日の事。中央同盟国側からすると、ロシアと並行する形で同時にウクライナとも和平交渉を進めるわけです。

これに対し、ロシア側(トロツキー)らからの妨害工作が入るわけですが、ウクライナは豊富な穀倉地であり、ウクライナの穀物を魅力に感じたドイツは、ロシアよりウクライナを和平交渉の相手として選択します。

その結果、1918年2月9日ウクライナ中央ラーダ政府と中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」が締結されます。

同条約では、100万トンの穀物を提供することを見返りに、中央同盟国がウクライナに軍事協力を行うことが約束されました。


ボリシェヴィキ政権の誤算

ウクライナと中央同盟国との間で条約が締結されたことを受けて翌2月10日、トロツキーは中央同盟国との交渉を打ち切ります。

ボリシェヴィキ政権の誤算としては、この時点で既にボリシェヴィキ側はウクライナ領土の大半を手中に収めており、ウクライナの事を舐めてかかっていた部分がありました。そして、ドイツをはじめとする中央同盟国内部にもロシア革命の考え方に賛同する労働者や農民、兵士たちがいることから、彼らが武装蜂起を起こすことにも期待していたわけです。

ですが、ウクライナが中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結してしまった事から、この計算が大きく狂ってしまいました。レーニンは慌ててウクライナに対する懐柔策を講じるわけですが、結果的に中央ラーダ軍は息を吹き返し、自分たちが占領していた領土の大半が逆に奪い返され、ボリシェビキ軍はロシア領土内へと追い返されてしまうことになります。


さて。そもそもウクライナがロシア赤軍に劣勢を強いられていた最大の理由は中央ラーダ軍がロシア赤軍に対して武力が劣っていたわけではなく、赤軍がウクライナに対して仕掛けた情報戦(プロパガンダ戦略)によって内部崩壊させられたことが原因です。

つまり、10月革命によって政権を奪取したばかりのボリシェビキ軍の戦力は「その程度」の戦力でした。

第一次世界大戦において英仏を筆頭とする連合軍を相手にする独墺軍にとって、ロシア赤軍の軍力などまさに赤子の手をひねるようなもの。ウクライナ領土を経て、独墺軍が破竹の勢いでロシア領土にまで攻め入る状況にありました。


ロシアが締結した「ブレスト=リトフスク条約」

ロシアは元々「賠償金や領土併合なしの和平」を条件として中央同盟国との間での和平交渉に臨んでいました。

ですが、この様な状況に陥りますと、もうそうは言っていられません。

ロシア赤軍最高総司令官は1918年2月19日、全軍に武装蜂起をする様指令を出し、直ちにドイツ軍との間で和平交渉に入る様命令を出します。

条約が締結されたのは3月3日の事。ロシアはこの条約によって第一次世界大戦戦線から正式に離脱。

そして「フィンランド」、「エストニア」、「ラトヴィア」、「リトアニア」、「ポーランド」、「ウクライナ」及び、トルコとの国境付近の「アルダハン」、「カルス」、「バトゥミ」に対するすべての権利を放棄させられます。

ロシアが放棄した地域

上図の赤色で示された地域ですね。これらの地域はドイツに割譲され、そのほとんどが独立を果たすこととなります。

ウクライナは4月29日、ヘーチマンの政変によって中央ラーダ軍が解散させられ、政治体制も共和制から君主制へと移行。
国名も「ウクライナ人民共和国」から「ウクライナ国」へと変更されます。

6月12日、ロシアはついにウクライナ国との間で休戦協定を結ぶこととなり、この事を受けてロシア内戦は一時休戦状態となりました。

また更に8月27日、ブレスト=リトフスク条約には追加条項が加えられ、ロシアは条約相手国に対して多額の賠償金を支払わされることとなりました。

条約への妥結後、レーニンは首都をペトログラードからモスクワへと遷都しました。


これでブレスト=リトフスク条約に関する点はほぼ回収できましたね。

この語、1918年11月13日、中央同盟国は連合国側に敗北し、ブレスト=リトフスク条約は効力を失い、ロシア=ウクライナは再び交戦状態へと突入することになります。

一方この条約に調印したことでボリシェヴィキ政権は国内のあらゆる階層から非難の的に晒されることとなりました。
この事でロシア赤軍(ボリシェヴィキ側)と白軍(反ボリシェヴィキ側)との対立が激しくなり、ロシア国内でも内乱状態に突入することになります。

第一次世界大戦終結後、連合軍側が白軍側についてこの内乱に介入したことから、ロシア国内この後2年間に及ぶ内戦状態が継続することになりました。


さて。改めまして、次回こそ「コミンテルン」に関連した記事を作成したいと思います。


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