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<継承する記事>
第347回 ウクライナとロシア、それぞれのブレスト=リトフスク条約

しかしこの記事・・・一体どこから手を付ければよいのかということに、いささか悩まされる部分があります。

そもそも、「コミンテルン」が発足した理由は「第二インターナショナル」の失敗が最大の理由です。

第319回の記事 にて、私はレーニンの唱えた「革命的敗北主義」について言及しましたが、この「革命的敗北主義」という言葉が初めて登場するのが、1915年9月、反戦派が集合してスイスにて開催された「ツィンメルワルト会議」という名前の国際会議です。

第一次世界大戦が勃発したのが1914年6月の事ですから、ここでいう「反戦」とは、第一次世界大戦に対して用いられたものになります。

場所はスイス。レーニン亡命中に開催されたものです。

どうもレーニンの「革命的敗北主義」とは、そもそも「第二インターナショナル」が1912年、自ら作成した「バーゼル宣言」に記されていた文言に由来するものであるようです。

【バーゼル宣言より抜粋】
 「戦争が勃発するおそれがあるので、加盟諸国の労働者階級とその議会代表者は、インタナショナル事務局の総括的活動に支持されながら、彼らに最も有効とおもわれる手段を適用することによって戦争の勃発を防止することに、全力をつくすべき義務がある。

それらの手段は、階級闘争が激化し一般的政治情勢が激化するに応じて当然変化するものである。

 それでもなお戦争が起こった場合には、すみやかな終結のためにつくし、戦争によってひきおこされた経済上および政治上の危機を、国民を揺りうごかすのに利用し、そのことによって資本主義的階級支配の排除を促進することに全力をあげてつとめることが、義務である」。

後段の「それでもなお」以下の文章は、まさしくレーニンの「革命的祖国敗北主義」そのものではないでしょうか?

つまり、

「戦争を勃発させない様、努力する中においても尚戦争が勃発してしまった場合、危機感によって国民を扇動し、支配者層を排除するために全力を尽くす事が必要だ」

とバーゼル宣言には記されているわけです。そしてレーニンの主張する「革命的祖国敗北主義」とはまさしくこの事です。
第二インターナショナルはそう宣言しているにも関わらず、各国の社会主義政党は戦争の勃発に伴って「祖国防衛主義」に走り、その思想を投げ出してしまった事をレーニンは批判しました。

そして、これを受けて開催されたのが「ツィンメルワルト会議」です。もう一度「国際主義」を復活させるために行われたわけですが、同会議においても、その手段として「平和的な手段を用いる」ことを主張した「右派」と、「革命的な手段を用いる」ことを主張した「左派」に分かれてしまいます。

「国際主義」とは、「社会階級・国家・搾取のない世界」を目指し、それを実現するために、国籍を問わずすべての労働者を組織し、各国の国境に止まらず、国際革命を目的とする考え方です。(Wikiより)

この時、「左派」の中心にいたのがレーニンであり、彼がこの時に主張した枠組みこそ「第三インターナショナル」でした。

ロシア革命においてもレーニンはメンシェヴィキや社会革命党、同じボリシェヴィキの仲間であるカーネフやスターリンに対して、彼らの取った方法が「日和見主義」であると批判していたわけですが、「第三インターナショナル」とは、これまでの第二インターナショナルが否定してきた「排外主義」と共に、この「日和見主義」との断絶も主張したもの。

レーニンが「四月テーゼ」にて謳った内容こそ「第三インターナショナル」が目指すべき姿であったと考えることができます。

【四月テーゼの骨子】
・「臨時政府」を「ブルジョワ政府」とみなし、一切支持しないこと
・「祖国防衛」を拒否すること
・「全権力のソヴィエトへの移行」

レーニンが臨時政府を「ブルジョワ政府」とみなした理由は、臨時政府が他の帝国主義・資本主義国家と連携し、排外的な戦争を継続する意思を有していた為でしたね。


「第三インターナショナル」の実現に向けた動き

レーニンがこの「第三インターナショナル」の実現を具体的に動かし始めるのはロシア革命が成功した後の事。

1918年12月、イギリス労働党が第二インターナショナルの再建を目指して会議を呼びかけた事に対抗して、外務人民委員であったゲオルギー・チチェーリンに対して第三インターナショナル設立の準備に入る様指示を出します。

1919年3月にモスクワで開催された会議において、「第三インターナショナル」の創設が議決されます。「コミンテルン」の結成です。
合計54の代議士が参加し、このうち国外からは5名の参加がありました。

レーニン


「コミンテルン」への加盟条件

さて。いざ「コミンテルン」が結成されますと、レーニンが否定した「日和見主義」的な社会主義者まで含めて、様々な団体が関心を示すようになりました。

ですが、これはレーニンの目指すものであはありませんから、コミンテルンへ加盟するための21の条件を作成します。

21か条全てを掲載しているサイトが見当たりませんので、今回はWikiに掲載されています、4条件のみ掲載しておきます。

・内乱へ向けての非合法的機構の設置(第3条)
・党内における「軍事的規律に近い鉄の規律」(第12条)
・社会民主主義的綱領の改定(第15条)、党名の共産党への変更(第17条)
・コミンテルンに反対する党員の除名(第21条)



「コミンテルン」が行った事

それでは、この「コミンテルン」という組織は、一体どのような事を行っていたのでしょうか。

今回の記事では、「レーニン」がその代表者であった時代のコミンテルンについて掲載します。

ロシア革命の後、ヨーロッパでは様々な共産主義国家、及び共産党が誕生しました。

1918年1月 – アルゼンチン共産党結成
     2月 – クバーニ人民共和国独立宣言
     8月 - フィンランド共産党結成
     11月 - オーストリア共産党
         ギリシャ共産党(1924年まで社会主義労働者党)
         ハンガリー共産党結成
     12月 - ラトビア社会主義ソビエト共和国成立
          ポーランド共産党(1925年まで共産主義労働者党)
          ドイツ共産党結成

そして、翌1919年3月にコミンテルンが発足します。
コミンテルンが主に行ったのは、その後の武装蜂起の支援。

この時、「ドイツ革命」の支援を行った様子が登場しますので、次回記事ではこの「ドイツ革命」の様子を記事にしてみたいと思います。

一応、私の予定ではこの「ドイツ」という国にも単独でスポットを当て、なぜナチスドイツが誕生したのかというところまで含めてカテゴリーを作成する予定ではいるのですが、これに先駆けてこの「ドイツ革命」のみピンポイントで取り扱ってみたいと思います。


この記事のカテゴリー >>GDPの見方


第一四半期ですので、4月~6月期GDP速報になります。
ニュースではこんな感じですね。関心がある方は全文目を通してみてください。

GDP、年4.0%増=11年ぶり6期連続プラス-内需堅調で・4~6月期 (共同通信社記事より)
 内閣府が14日発表した2017年4~6月期の国内総生産(GDP、季節調整済み)速報値は、物価変動の影響を除いた実質で前期比1.0%増、この成長ペースが1年続くと仮定した年率換算では4.0%増だった。

 個人消費や民間の設備投資など国内需要が堅調で、輸出の落ち込みを補い、11年ぶりに6四半期連続のプラス成長となった。年率の伸びは15年1~3月期(4.8%増)以来の大きさ。

 物価変動の影響を反映し、生活実感に近い名目GDPは前期比1.1%増、年率4.6%増。16年後半以降の輸出主導型の経済成長が内需主導型に切り替わりつつある。

 茂木敏充経済再生担当相は記者会見で、「良い数字だが、消費はまだ力強さに欠ける」と指摘した。景気の先行きについては「緩やかに回復していくことが期待される」と語り、安倍政権が掲げる「人づくり革命」や生産性向上などの重点課題に取り組むことで、内需主導の持続的な成長を目指す考えを示した。

 実質GDPを項目別に見ると、個人消費は前期比0.9%増と6期連続のプラス。雇用・所得環境の改善から飲食・サービスが好調で、買い替え需要などで自動車販売やエアコン、冷蔵庫も伸びた。

 設備投資は2.4%増。人手不足を背景に、建設業や小売業などで省力化投資が伸びた。住宅投資は戸建て、貸家ともに底堅く1.5%増。公共投資は、16年度第2次補正予算の執行が本格化したことに伴い5.1%増。伸び率は第2次、第3次安倍政権を通じ最大の13年7~9月期(5.0%増)を上回った。

 輸出は0.5%減と4期ぶりのマイナス。統計上は輸出に分類される訪日外国人の消費は増えたが、アジア向けのスマートフォン関連部品の需要一服などが響いた。輸入は原油・天然ガスの価格上昇から1.4%増えた。

 実質GDPの増減にどれだけ影響したかを示す寄与度は内需がプラス1.3%。一方、外需はマイナス0.3%で、6期ぶりのマイナスだった。(2017/08/14-11:46)

内閣府

要約すると、2017年度第一四半期GDPの内、季節調整を行った実質GDPの前月比が1%上昇し、これを年率換算すると4%の上昇率になりますよ、ということになります。

ただ、私のブログにおいて、GDPに関連する記事では繰り返しお伝えしています通り、そもそも

 ・「名目GDP」そのものがサンプルデータを用いて人為的に作成されたデータであること
 ・「実質GDP」はこの数字を更にサンプルデータを用いて人為的に作成した「持家に帰属する家賃を除く消費者物価指数」で割ったものであること
 ・この実質GDPを更に人為的に作成した公式に当てはめて計算した数字が「季節調整系列」であること。
 ・更に「年率換算」は前述した方法によって算出された「季節調整系列前月比」が「仮に4半期連続で継続したとしたらいくらになるのか」というありえない予測に基づいて算出されたフィクションの数字であるということ

以上の様な理由により、「季節調整系列」という数字も、「年率換算」という数字も私自身は全く信用していません。

一つ目の、「名目値」に関するバイアスだけは解消することができないけれども、他のバイアスに関しては解消することが可能である、「名目原系列、前年同期比」を検証することが一番大切なことだと私は考えています。

ということで、私のGDP速報は、この「名目原系列、前年同月比」を中心に記事を進めてみたいと思います。


2017年度GDP第一四半期第一次速報統計結果

【2017年度GDP第一四半期第一次速報(前年同期比)】
名目GDP
全体 134.556 兆円(1.6%)

 民間最終消費支出  75.012 兆円(1.9%)
 家計最終消費支出 73.095 兆円(1.8%)
  除く持家の帰属家賃  60.613 兆円(2.2%)

 民間住宅 4.185 兆円(7.3%)
 民間企業設備 19.407 兆円(6.4%)

実質GDP
全体  129.498 兆円(2.0%)

 民間最終消費支出 73.808 兆円(1.8%)
 家計最終消費支出  71.948 兆円(1.8%)
  除く持家の帰属家賃  58.674 兆円(2.0%)

 民間住宅  3.935 兆円(5.6%)
 民間企業設備 19.070 兆円(5.8%)

実質を合わせて掲載しているのは、確かにその信憑性に関しては疑問があるものの、それでも一つの指標にはなるということと、名目と実質の数字を用いることでそれぞれの項目における「物価上昇率」を見ることが出来るからです。

項目としては、基本的に日本区全体の「GDP」をまずは掲載しているのですが、続いて家計最終消費支出者、つまり民間人と民間企業を合算した「消費支出」、続いて「家計」の最終消費支出、ここから更に「持家に帰属する家賃」を除いた消費支出を掲載しています。

続いて掲載している「民間住宅」は民間人が住宅におこなった投資金額(購入額)、民間企業設備は民間企業が行った設備投資費の事です。

安倍内閣が目指している経済社会とは、政府支出におんぶにだっこ、何時まで経っても民間で稼ぐことのできないような社会ではなく、民間が政府の力に頼らずとも、自ら自力で回転していけるような社会です。

この情報をきちんと吸い上げて統計化しているのが上記枠内のデータです。


2017年度GDP第一四半期第一次速報への評価

ニュース記事でも書かれているのですが、今回のGDP評として一番大きいのはやはり「内需」の拡大です。

特に注意してみるべき箇所は民間最終消費支出の内、「持ち家の帰属家賃を除く家計最終消費支出」の動向です。

これも何度も言っている様に、「持ち家の帰属家賃」とは、「もし今住んでいる持ち家が借家だった場合、家賃はいくらになるのか」という非常に意味の解らないフィクションの数字ですから、本来GDPには加えるべきではない数字です。

この数字が名目で前年同期比2.2%、実質で2.0%、物価上昇率0.2%という形で上昇しています。これは非常に理想的な形ですね。

また一方で、「企業設備投資費」に関しても前年同期比で名目が6.4%、実質が5.8%、0.6%の物価上昇率を記録しており、これは完全に「デフレから脱却した」と言っても問題がないような状況となっています。

政府日銀が目指している部下上昇率は2.0%ですから、まだまだじゃないか、という声も聞こえてきそうですが、私としてはその物価上昇率には無理があると考えており、やはり麻生内閣時代の名目3%、実質2%、1%の物価上昇率を目指す事こそ一番理想的な経済成長ではないかと考えています。

2%の物価上昇率というのは、どちらかというと安倍内閣誕生時に安倍さんの周辺を取り巻いていたマネタリストたちの非現実的な妄想が招いた政策の弊害だと私は考えています。


もう一つの視点(輸出入GDP)

ただ、ではアベノミクスはついに成功したのか、と単純に考えるのは実は時期尚早だと思います。

いや、アベノミクスは十分成功していると私は思っているのですが、今回の数字をぬか喜びしてよい数字なのかどうか、という点で1点だけ注意してみておくべき点がある、ということを申し上げたいのです。

それは、「輸入額」の事です。
重ねて輸出額も掲載します。

【2017年度GDP第一四半期第一次速報(輸出入GDP統計)】
2016年度輸入額 19.655 兆円
2017年度輸入額  22.178 兆円
輸入額前年度差額(前年同期比) 2.523 兆円(12.8%)

2016年度輸出額 20.890 兆円
2017年度輸出額 23.038 兆円
輸出額前年度差額(前年同期比) 2.148 兆円(10.3%)

額、率とも輸入が輸出を上回っていますので、輸出入GDPはGDP全体を縮小させる要因として働いています。

ですが、それは輸出入全体にいえることであって、消費支出を初めとする各項目の数字の中には輸出入GDPの内「輸入額」が含まれているわけです。

昨年の記事を読み返していただくとわかると思いますが、2016年度は原油価格が前年同月を大幅に下回る状況にありましたから、原油額が大半を占める「輸入額」は消費支出等各項目を前年に対して下落させる要因として働いていました。

ところが、今年度2017年度は原油価格が前年度を上回っていますので、これが今度は各項目を上昇させる要因として働いています。

勿論、輸入額増加額2.5兆円の内、その全てが原油額というわけではありませんし、今月輸入した原油額がそのまま今月の消費者物価に反映されるのかというと、そういうわけでもありません。

ですが、例えば持家に帰属する家賃を除く家計最終消費支出は前年同期と比較して1.3兆円増えたわけですが、これがそのまま内需に起因する上昇額となるわけではない、ということです。


これらの要素を踏まえて統計データを見る必要はあるわけですが、少なくとも今年度第一四半期のGDPデータは、私たちの想像を上回るほど上昇しました。

またGDP全体で見ますと、輸入額が輸出額を上回っており、GDPに対してはネガティブに作用しているにも関わらず、名目GDP全体は1.6%の上昇率を記録しています。

繰り返しますが、「輸入額」が「輸出額」を上回っていますので、名目GDPの上昇幅は明らかに「原油額の上昇幅を差し引いた内需」に起因するものです。

この事をポジティブな要素としてきちんと受け止めることが大切です。

ポジティブな情報は、「期待インフレ率」として作用し、経済を成長させる大きな起爆剤となりますからね。


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第346回 ウクライナ・ソビエト戦争の経過とヨーロッパ諸国の干渉

前回の記事では、ロシア戦争後のウクライナについて、一通りその経過を収束することができましたので、一旦ウクライナについては記事を終了させる予定だったのですが、改めて記事を読み返していて、今回テーマとする「ブレスト=リトフスク条約」について回収ができていないと感じましたので、コミンテルンの記事に入る前にいったんこの「ブレスト=リトフスク条約」について記事を記しておきます。


ブレスト=リトフスク条約
こちらの画像は、ロシアと中央同盟国が締結した「ブレスト=リトフスク条約」です。

第342回の記事 にて「ロシアと中央同盟国のブレスト=リトフスク条約」を、前回の記事 で「ウクライナと中央同盟国のブレスト=リトフスク条約」をそれぞれ記事にしました。

時系列から申しますと、ウクライナが締結したブレスト=リトフスク条約が1918年2月9日、ロシアが締結したブレスト=リトフスク条約が同年3月3日の事ですから、ウクライナの方が先に締結したことになります。


ブレスト=リトフスク条約とは?

では、そもそもこの「ブレスト=リトフスク条約」とは何なのか。

今更言うまでもないかもしれませんが、「ブレスト=リトフスク条約」とは、ウクライナ、ロシアがそれぞれ別途中央同盟国との間で締結した「講和条約」です。

前回の記事で記しました通り、ウクライナが締結した「ブレスト=リトフスク条約」は、当時ロシアが元東ウクライナの首都であったハルキウに建国し、ここを拠点として領地を拡大するロシア赤軍との戦闘で敗北を続け、1918年2月8日に首都キエフを占領された翌日、ロシア赤軍を打倒するために選択した講和条約。

このことによってウクライナは独墺と同盟関係を築くことに成功し同年4月末日までにウクライナはウクライナ人民共和国(ソビエト)の領土をほぼ全て奪い返すことに成功しました。


ロシアと中央同盟国との和平交渉の経緯

一方、ロシアが中央同盟国との間でブレスト=リトフスク条約を締結するのはウクライナから約1カ月遅れた1918年3月3日の事。ウクライナでは中央ラーダ軍とボリシェビキ軍間での内戦真っ只中であったことが分かります。

では、ロシアが中央同盟国との間で締結した「ブレスト=リトフスク条約」とは、一体どのような条約であったのでしょうか。


和平交渉をスタートさせたのはウクライナよりもロシアの方が先でした。

10月革命によってボリシェビキ軍が臨時政府軍を打倒し、新政権を打ち立てる中で、臨時政府がロシアを代表する正式な政府であると認識し、臨時政府が統括するロシア領内での自治を宣言していたウクライナが、臨時政府の崩壊に伴って正式にロシアからの独立を宣言したのが1917年11月20日の事。

このままではロシアと対立構造にあるドイツがウクライナに介入することは避けられない状況の中でロシアは1917年12月22日、中央同盟国との間で和平交渉をスタートさせます。

しかし、ロシア側が「賠償金や領土併合なしの和平」を和平交渉の条件として提示したことから、この交渉はすぐに暗礁に乗り上げています。ボリシェヴィキ派ウクライナ人民共和国が出来るのはその3日後。

12月25日にロシア側からウクライナ側に最後通牒が突きつけられ、ウクライナとロシアは戦争状態に突入します。


ウクライナと中央同盟国との交渉の経緯

一方、ウクライナ側が中央同盟国との和平交渉に乗り出したのは翌年1918年1月1日の事。中央同盟国側からすると、ロシアと並行する形で同時にウクライナとも和平交渉を進めるわけです。

これに対し、ロシア側(トロツキー)らからの妨害工作が入るわけですが、ウクライナは豊富な穀倉地であり、ウクライナの穀物を魅力に感じたドイツは、ロシアよりウクライナを和平交渉の相手として選択します。

その結果、1918年2月9日ウクライナ中央ラーダ政府と中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」が締結されます。

同条約では、100万トンの穀物を提供することを見返りに、中央同盟国がウクライナに軍事協力を行うことが約束されました。


ボリシェヴィキ政権の誤算

ウクライナと中央同盟国との間で条約が締結されたことを受けて翌2月10日、トロツキーは中央同盟国との交渉を打ち切ります。

ボリシェヴィキ政権の誤算としては、この時点で既にボリシェヴィキ側はウクライナ領土の大半を手中に収めており、ウクライナの事を舐めてかかっていた部分がありました。そして、ドイツをはじめとする中央同盟国内部にもロシア革命の考え方に賛同する労働者や農民、兵士たちがいることから、彼らが武装蜂起を起こすことにも期待していたわけです。

ですが、ウクライナが中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結してしまった事から、この計算が大きく狂ってしまいました。レーニンは慌ててウクライナに対する懐柔策を講じるわけですが、結果的に中央ラーダ軍は息を吹き返し、自分たちが占領していた領土の大半が逆に奪い返され、ボリシェビキ軍はロシア領土内へと追い返されてしまうことになります。


さて。そもそもウクライナがロシア赤軍に劣勢を強いられていた最大の理由は中央ラーダ軍がロシア赤軍に対して武力が劣っていたわけではなく、赤軍がウクライナに対して仕掛けた情報戦(プロパガンダ戦略)によって内部崩壊させられたことが原因です。

つまり、10月革命によって政権を奪取したばかりのボリシェビキ軍の戦力は「その程度」の戦力でした。

第一次世界大戦において英仏を筆頭とする連合軍を相手にする独墺軍にとって、ロシア赤軍の軍力などまさに赤子の手をひねるようなもの。ウクライナ領土を経て、独墺軍が破竹の勢いでロシア領土にまで攻め入る状況にありました。


ロシアが締結した「ブレスト=リトフスク条約」

ロシアは元々「賠償金や領土併合なしの和平」を条件として中央同盟国との間での和平交渉に臨んでいました。

ですが、この様な状況に陥りますと、もうそうは言っていられません。

ロシア赤軍最高総司令官は1918年2月19日、全軍に武装蜂起をする様指令を出し、直ちにドイツ軍との間で和平交渉に入る様命令を出します。

条約が締結されたのは3月3日の事。ロシアはこの条約によって第一次世界大戦戦線から正式に離脱。

そして「フィンランド」、「エストニア」、「ラトヴィア」、「リトアニア」、「ポーランド」、「ウクライナ」及び、トルコとの国境付近の「アルダハン」、「カルス」、「バトゥミ」に対するすべての権利を放棄させられます。

ロシアが放棄した地域

上図の赤色で示された地域ですね。これらの地域はドイツに割譲され、そのほとんどが独立を果たすこととなります。

ウクライナは4月29日、ヘーチマンの政変によって中央ラーダ軍が解散させられ、政治体制も共和制から君主制へと移行。
国名も「ウクライナ人民共和国」から「ウクライナ国」へと変更されます。

6月12日、ロシアはついにウクライナ国との間で休戦協定を結ぶこととなり、この事を受けてロシア内戦は一時休戦状態となりました。

また更に8月27日、ブレスト=リトフスク条約には追加条項が加えられ、ロシアは条約相手国に対して多額の賠償金を支払わされることとなりました。

条約への妥結後、レーニンは首都をペトログラードからモスクワへと遷都しました。


これでブレスト=リトフスク条約に関する点はほぼ回収できましたね。

この語、1918年11月13日、中央同盟国は連合国側に敗北し、ブレスト=リトフスク条約は効力を失い、ロシア=ウクライナは再び交戦状態へと突入することになります。

一方この条約に調印したことでボリシェヴィキ政権は国内のあらゆる階層から非難の的に晒されることとなりました。
この事でロシア赤軍(ボリシェヴィキ側)と白軍(反ボリシェヴィキ側)との対立が激しくなり、ロシア国内でも内乱状態に突入することになります。

第一次世界大戦終結後、連合軍側が白軍側についてこの内乱に介入したことから、ロシア国内この後2年間に及ぶ内戦状態が継続することになりました。


さて。改めまして、次回こそ「コミンテルン」に関連した記事を作成したいと思います。


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第344回 ロシア革命時のウクライナ/ウクライナ・ソビエト戦争勃発

ウクライナ1918

前回の記事を軽くおさらいします。

前回の記事は、ロシア帝国領土となった後、ロシア帝国に於いて勃発した「二月革命」。これによって独立の機運が盛り上がったウクライナが、十月革命が勃発するまで、ニコライ政権に続いて誕生した「臨時政府」を正式な政府であると認め、「臨時政府が統治するロシア」に対して、「ロシア連邦内の自治地域である」という宣言を勝手に行ってしまった第一次ウニヴェルサール期。

その後第一次世界大戦の影響下、ドイツ軍がウクライナを占領してまいかねない状況の中で慌てて臨時政府がウクライナの自治権を認めた「第二次ウニヴェルサール期」、十月革命に於いて臨時政府がボリシェビキ政権に敗れた後、ついに「ウクライナ人民共和国の創設」を宣言した第三次ウニヴェルサール期。

これに対抗してボリシェビキ政権がウクライナ政府=中央ラーダに工作員を送り込み、中央ラーダを乗っ取ろうとするもののこれに失敗。

これを受けて中央ラーダに対して最後通牒を突きつけ、これを拒否されるや否やその翌日、もう一つの「ウクライナ人民共和国」を元々東ウクライナの首都であった都市、「ハルキウ」に建国します。

ハルキウは元々ウクライナ人ではなく、ロシア人やロシア人が多く居住していた地域で、ボリシェビキもこの地域には浸透しやすかったんですね。

前回の記事ではこの国の名を「ウクライナ・ソビエト共和国」と記しましたが、実際にこの名称で呼ばれるようになるのは1918年3月19日の事。この時、ウクライナ人民共和国以外に存在していたいくつかの「ソビエト共和国」を、統合し、「ウクライナ・ソビエト共和国」と呼称するようになります。

前回の記事ではここまでお伝えしました。今回はこれ以降。ロシア・ウクライナ戦争がどのようにして進んでいくのか。また第一次世界大戦の収束に伴ってこの戦争にはウクライナでもロシアでもない、第三国が関わるようになるわけですが、この過程について記事にしたいと思います。


「ウクライナ・ソビエト戦争」の経緯

ただ、この「ウクライナ・ソビエト戦争」。具体的に情報が掲載されている資料がWikiしかありませんので、この情報をベースに進めていくことになります。

1.実際に進行が開始するのは翌年、1918年1月の事で1月9日以降、カテリノスラウ、アレクサンドロフスク、コノトープ、フルーヒウと次々とボリシェビキ軍が占領。

2.一方でウクライナ中央ラーダ政府は1月22日、ロシアからの完全な独立を宣言します。(第四次ウニヴェルサール)

ウクライナとボリシェビキ軍の戦力は拮抗していた様なのですが、ボリシェビキ軍はウクライナに対して情報戦を仕掛け、このことによって中央ラーダ軍を内部から崩壊させていくような戦い方をしていたようです。

3.1月28日、ウクライナの首都、キエフにてボリシェビキ軍スパイが武力蜂起を起こし、翌29日には「クルーティの戦い」が勃発し、ウクライナの300人の青年隊が4千人のボリシェビキ軍に敗北。

4.2月8日にはボリシェビキ軍によりキエフが占領されてしまいます。中央ラーダ軍はジトームィルまで撤退します。

地図でいえば、ウクライナ領の中央にある●、「Kiev」がキエフ、その西側の●、「Zhitomir」がジトームィルです。

この時、ボリシェビキ軍(そのほぼすべてがロシア人)は、元々ウクライナ人を見下す傾向が強く、レーニンたちが「ロシア革命」を起こして勝ち取ったはずのソビエト政府だったのですが、ウクライナ人にとってその振る舞いは「帝政ロシア時代のロシア」を思い起こさせるものとなったのだとか。

キエフを占領したムラヴィヨーフという人物が率いるボリシェビキ軍=赤軍は占領下におけるキエフで、約2週間のうちにウクライナ人を無差別に逮捕・処刑し、約2000人のウクライナ人を殺害したのだそうです。フランス革命時代のロベスピエールを彷彿させますね。

この事で、ウクライナ人の反ボリシェビキ感情はマックスに到達します。


ウクライナ・ドイツ間での「ブレスト=リトフスク条約」の締結

5.2月9日、中央ラーダは独墺との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結。食糧100万トンと引き換えに独墺軍の軍事的協力を得ることに成功します。

この段階、つまり1918年2月9日の段階から、元々「ウクライナとロシア」の戦いであったはずの「内戦」にドイツとオーストリアが参戦します。

ここでは「独墺と条約を締結した」と記しましたが、実際に締結した相手は「中央同盟国」。

もともと第一次世界大戦は「英仏露」の「三国協商」と「独墺伊」の「三国同盟」の戦いから始まったわけですが、ロシアはロシア革命により三国協商より離脱。一方イタリアは途中で三国協商側に寝返り、三国同盟から離脱。

独墺はオスマン帝国、ブルガリア王国と共に「中央同盟国」を形成する状態にありました。

6.ウクライナ中央ラーダからの要請を受け、独墺はウクライナへ45万の軍隊を派遣。独墺の支援を受けた中央ラーダは破竹の勢いで領土を回復していきます。

7.1918年3月、ロシアは首都をペトログラードからモスクワへ遷都。

8.ウクライナ領土にあったソビエト共和国を全て「ウクライナ・ソビエト共和国」として結集するもそのほぼ全てが中央ラーダ軍に奪い返され、ウクライナ・ソビエト共和国はロシア領土内に逃げ込むことになります。

9.4月末日までに中央ラーダはウクライナ領のほぼ全てを奪い返します。


ヘーチマンの政変

さて。この段階で「ウクライナ」は「独墺」と同盟関係にあるわけですが、ウクライナ領土内に派遣されたドイツ軍。このドイツ軍の胎動が実に横柄なもので、ウクライナ領土内の農民から膨大な食料が徴発されるなどし、これまでボリシェビキに向けられていた反発心が、今度はドイツ軍をウクライナに招き入れた中央ラーダに対して向けられることになります。

10.1918年4月29日、ウクライナ・コサックの氏族であるパウロー・スコロパードシクィイがキエフ・サーカス劇場にて行われていた農民大会にて、ヘーチマンに選出される。(ヘーチマンの政変)。中央ラーダは解散させられ、国号は「ウクライナ国」と改められる

まるでロシアで起きた10月革命を彷彿させるようなクーデターがウクライナでも勃発します。

中央ラーダの「ラーダ」は議会を意味しますから、所謂「共和制」を目指す政権です。ところがヘーチマンの政変によって誕生割いた政権は「ヘーチマン(コサックのボス)」が存在しますので、ウクライナ国がは「君主制国家」でありました。

ボリシェビキが政権を握ったロシアとは違って、ウクライナでは君主国家へと再び時代が逆戻りした形となったわけですね。


中央ラーダ軍の復活

1918年11月1日 西ウクライナ人民共和国が独立を宣言

1918年11月11日 ドイツが連合国に敗北

ウクライナ国ができたのは4月末であったわけですが、同年11月、ドイツが連合国に敗北してしまったことでドイツ軍はウクライナから撤退してしまいます。

これをまたとない機会ととらえた中央ラーダ軍の残党が再び結集し、「ディレクトーリヤ」という組織を作ります。
12月14日 撤退するドイツ軍と協定を結んだ上でキエフを再び占領。ウクライナ国ヘーチマン、スコロパードシクィイは亡命し、ウクライナ国は消滅。ウクライナ人民共和国が復活

1919年1月6日 ウクライナ・ソビエト共和国は「ウクライナ労農臨時政府」を立ち上げ、「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」に国号を変更する

3月10日 ウクライナ社会主義ソビエト共和国は独立を宣言し、ロシア共和国と軍事同盟を結ぶ

ややこしすぎる・・・

この時点でウクライナは「西ウクライナ人民共和国」「ウクライナ人民共和国」「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」の3つ存在する状態となります。

ちなみに「西ウクライナ人民共和国」は地図でいうと西側の黄色の部分。「GALICIA(ガリツィア)」と書いている部分があると思うのですが、このあたりで独立した国家です。で、同エリアに●で、「Lvov-Lemberg(リヴィウ)」と書いている都市がありますが、ここが西ウクライナの首都。

元々この地域に住んでいる住民の6割はウクライナ人だったのだそうですが、そのほとんどが農民で農村部に住んでいて、首都であるリヴィウにはウクライナ人ではなく、ポーランド人やユダヤ人によって支配されていたのだそうです。

ですから、西ウクライナ人民共和国が独立を宣言した時点で西ウクライナとポーランドとは交戦状態に陥ります。

一方のウクライナ人民共和国では、国家こそ復活したものの、ディレクトーリヤ政府は「ボリシェヴィキ・ソビエト政府の軍隊(赤軍)」や「南ロシア軍(白軍、白衛軍)」、「ウクライナ革命反乱軍(黒軍)」と交戦状態に陥ります。「ボリシェヴィキ・ソビエト政府」が「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」の事ですね。

西ウクライナとウクライナ共和国は双方がそんな状態にありましたから、1919年1月22日、両国は正式に統一宣言を行います。


ポーランド・ソビエト戦争

1919年2月14日 ポーランド・ソビエト戦争勃発

ドイツ軍が撤退した後、レーニンはロシアが撤退した地域に各地域の共産主義勢力と連携すること、ドイツ、及びオーストリアの革命勢力を支援することを目的として赤軍を派遣することを命じます。(1918年11月)

「ドイツ軍が撤退した地域」に該当するのが「ポーランド」でした。
ドイツの敗戦後、ドイツとソ連から領土を割譲される形で「ポーランド」が復活します。

第一次世界大戦当時、ポーランドはドイツとソ連によって割譲されており、更にソ連領ポーランドとウクライナが国境を接する形にありました。

一方のポーランドは、フランスからの支援を受ける形で1919年2月、軍の再編成を行います。ここに攻め込んできたのがソ連の赤軍でした。(ポーランド・ソビエト戦争の勃発)

この様な状況の中で、1919年7月17日、ポーランドはガリツィア地域を占領し、西ウクライナ人民共和国は崩壊し、残党がウクライナ人民共和国へと逃げ込むことになります。

ウクライナ人民共和国ディレクトーリヤ軍と西ウクライナ人民共和国軍は共闘し、ボリシェビキ赤軍と一進一退の攻防を広げるのですが、1919年10月ウクライナでチフスが流行し、ウクライナ軍は兵士の7割を失います。

これを受け、ウクライナ軍はウクライナ人にとって宿敵であったはずのポーランドへ亡命することとなります。

ディレクトーリヤ軍を率いるシモン・ペトリューラにとって最も憎む相手こそボリシェヴィキ軍。ペトリューラはポーランドに対し、自分たちを唯一のウクライナを代表する唯一の政府として認める事を条件として、ポーランドと同盟を結びます。

ところが、一方の西ウクライナ人民共和国軍はボリシェビキよりもむしろポーランドを最大の宿敵として認識していた為、ペトリューラとは袂を分かち、ポーランドではなくロシア赤軍と合同することとなります。

然し、結果的にディレクトーリヤ軍とポーランド軍はロシア赤軍に敗北し、ポーランドはこの戦争を収束させるよう西欧諸国より圧力をかけられ、ディレクトーリヤ軍ではなくウクライナ社会主義ソビエト共和国を正式なウクライナ政権であるとして承認し、西ウクライナ人民共和国を自国領土として併合しました。

それまで「ウクライナ人民共和国」であったはずの領土は「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」の領土として併合されることとなりました。


ウクライナ人民共和国政府はその後も亡命し続け、中心人物であるペトリューラはソ連のスパイに暗殺されるものの、亡命政府そのものは第二次世界大戦後も存在し続け、現在は「ウクライナ共和国」として無事独立を果たすことに成功しています。


しかし、それにしても、「東欧」ってものすごく複雑ですね。

次回記事では、いよいよ「コミンテルン」が発足する経緯について迫ってみたいと思います。

この記事のカテゴリー >>森友学園問題


さて。今回は久しぶりにこの「森友学園問題」を取り扱ってみたいと思います。

というのも、だれが流出させたのか、そもそもその出所がどこだったのかはさっぱりわかりませんがFNNが独自データとして、森友問題に関する「新たなる音声データ」を入手し、これを巧みに編集して報道したからです。


これについて、同じFNN、フジテレビのワイドショーである「バイキング」でも取り上げられていましたので、こちらの動画もご紹介しておきます。


フジテレビがこれらの番組を作成した目的としては、「財務省側、佐川理財局長(当時)」が国会で以下のような発言を行っていることが理由です。

新たなる音声データ0
佐川理財局長
「価格につきまして、こちらが提示したこともございませんし、先方からいくらで買いたいといった希望があったこともございません」

これは、バイキング動画内より抜粋しました。
動画では、籠池夫妻と財務省側、池田国有財産統括官とのやり取りで構成されています。

冒頭で池田国有財産統括官が、土地を森友学園側にリースする段階で、当初より存在が確認されていたゴミ撤去費用1億3200万円をベースに森友側と交渉していることから、「池田統括官は金額を提示しているじゃないか」というのが先ず番組側の主張。

そしてもう一点。この金額をベースで話をしていることから、

「最初からこの金額で売りつけることを目的としているじゃないか、8億2000万円という値引き額はこの金額ありきだったんじゃないか、辻褄を合わせることを目的として、土地評価額の9億5000万円から1億3200万円を差し引いただけじゃないか」

という主張を行っています。
ですが、私は改めてこの動画を見てみて、まったく逆の印象を覚えました。

ピンと来たのはこの土地は元々価格が付かないような二束三文の屑土地だったんじゃないか・・・と。


新たなる音声データの内容

勿論、この動画はフジテレビ側にとって都合の良い部分のみを切り取って都合よくつなげていますので、これを情報ソースとして提示するのは、一見すると適正な方法ではない様に感じてしまいますが、実は今回の動画に関しては全く逆。

フジテレビ側の編集と番組構成、及びその主張がいかに出鱈目なものであるのかということを、この動画そのものが証明してしj待っているのです。

それでは、大切な部分を抜粋する形で籠池夫妻と池田国有財産統括官とのやり取りを文字起こししてみます。

【籠池夫妻と池田国有財産統括官とのやり取り】
池田国有財産統括官
「先ず一転、お詫びの点はですね。地下埋設物の撤去工事に関しては、きちっと森友学園理事長・復縁等に情報が伝わっていなかった点は、われわれも反省点としてありまして、今後の対応については大阪航空局よりご説明いただこうと思っています。」

<中略(籠池氏の恫喝)>

大阪航空局 
「今回出て来た産業廃棄物というものは、国の方に瑕疵(かし)があるということが判断されますので、その撤去に就いては国の方でやりたいなと思っておりまして」

<中略(籠池妻の恫喝。損害賠償の要求:学校の開校が遅れること等を理由に)>

池田国有財産統括官
「我々が見込んでいる額よりも(撤去費が)少なくても我々は何も言わない」

池田国有財産統括官
「理事長のおっしゃる0円に近いというのがどういう風にお考えになられているのか、売り払い価格というのが0円ということなのかと私は思いますけど、私ども、以前から申し上げているのは有益費の1億3000万という数字を国費として払っているので、その分金額ぐらいは少なくともの売り払い価格は出てくるかと。そこは何とかご理解いただきたい」

籠池氏
「(売却価格は)1億3000万が云々というものよりもぐ~んと下げていかなあかんよ」

池田国有財産統括
「理事長がおっしゃる0円という金額までわたしはできるだけ努力する作業を今やっています。
だけど、1億3000万円を下回ることはない」

ここから、フジテレビ側の主張が続きます。

新たなる音声データ1

「結局最初のごみ撤去費用1億3200万円を上回る1億3400万円で契約が成立」

新たなる音声データ2

「これまで国側は、国有地の鑑定価格からゴミの撤去費用(8億2000万円)を差し引いて土地の売却価格を算出したと説明していた」

新たなる音声データ3

「今回の音声データは、最初から1億3000万円の売却価格ありきで新たなるゴミ撤去費用を算出したことを疑わせる内容」

このあと明らかな印象操作としか考えられない籠池氏の口から出まかせを「さらなる音声データ」として紹介した後、コメンテーターや司会者との間でのやり取りが繰り広げられます。


「新たなる音声データ」から読み取れること

さて。私はこの音声データを、朝起きた時に付けたテレビ番組で初めて耳にしました。

で、聴いた瞬間に頭に思い浮かんだ疑問が、冒頭に述べた、

「これ、この土地は元々値段もつかないような二束三文の屑土地だったんじゃ・・・」

という疑問です。まず冒頭、池田国有財産統括官が述べている、
「先ず一転、お詫びの点はですね。地下埋設物の撤去工事に関しては、きちっと森友学園理事長・復縁等に情報が伝わっていなかった点は、われわれも反省点としてありまして、今後の対応については大阪航空局よりご説明いただこうと思っています。」


という内容について。これは、2016年3月の時点で「新たに発見されたゴミ」について、当初財務省側では把握できておらず、この事を籠池夫妻に謝罪している場面です。

これについては大阪航空局より

「今回出て来た産業廃棄物というものは、国の方に瑕疵(かし)があるということが判断されますので、その撤去に就いては国の方でやりたい」


と述べています。ところが、この次に池田国有財産統括官が発言する場面では、

「我々が見込んでいる額よりも(撤去費が)少なくても我々は何も言わない」

という内容に変わっており、これは即ち大阪航空局より説明があった後、籠池夫妻とのやり取りの中で、財務省側から「撤去は別に森友側でやっていただいても問題はない」との提案がなされたのではないかと推察されます。

これに対して更に

「実際にかかる工事費が財務省側の見積りより少なかったとしても財務省側は別に文句は言いませんよ」

と付け加えているわけで す。


さて。ここまで記述した段階で、読者の方のご意見としては2つのご意見に分かれているのではないでしょうか?

一つ目は、私が感じた疑問と同様の疑問。
二つ目は、フジテレビが編集している様に、「え!それじゃ森友側のぼろもうけじゃん!」
とする短絡的な発想です。


「新たなるゴミ」が発見された時点での「土地評価額」は一体いくらだったのか

このサブタイルについて、池田統括官は以下の様に述べています。
「理事長のおっしゃる0円に近いというのがどういう風にお考えになられているのか、売り払い価格というのが0円ということなのかと私は思いますけど、私ども、以前から申し上げているのは有益費の1億3000万という数字を国費として払っているので、その分金額ぐらいは少なくともの売り払い価格は出てくるかと。そこは何とかご理解いただきたい」

<中略>

「理事長がおっしゃる0円という金額までわたしはできるだけ努力する作業を今やっています。
だけど、1億3000万円を下回ることはない」

つまり、この時点で、ごみ撤去工事を行う前の土地の価格は0円でも問題はないが、1億3200万円かけて撤去工事を行ったんだから、撤去工事費用1億3200万円の土地の価値がこの土地には生まれている、とこの様に池田統括官は言っているわけです。

そう。暗に池田統括官は、ごみ撤去工事を行う前の土地価格は「0円でも問題はない」としているわけです。

全く先入観を持たない状況でこの情報を見ると、

「えっ? 0円の土地って、一体どんな屑土地なの?」

と、普通であればこうなるはずです。実際、フジテレビ側もこの「0円」という土地価格が「おかしい」とは一言も言っていません。
フジテレビ側は、この土地が「1億3400万円で売却されたこと」を問題とし、その前提条件となった「1億3200万円」という「価格ありきだったんじゃないか」と言っているわけです。

そして売却時点で査定されていされている土地評価額「9億5000万円」を引き合いに出し、「この9億5000万円から1億3200万円を差し引いた金額を『新たなるゴミ撤去費用見積もり』としたのであったのではないか」

としているわけです。

ですが、よく考えてみてください。そもそも森友側に売却した「1億3400万円」という数字は、「もともと0円と評価しても差し支えなかった土地に、国費を投じて行ったゴミ撤去及び整備費用1億2000万円」がベースになっています。

つまり、

「土地評価額は元々0円であった土地に、1億3200万円の費用をかけて整備した結果、1億3200万円という土地価格が生れた」

ことをこの経緯は示しているのです。


8億2000万円という値引き金額は適正であったのか?

それでは、改めて考えてみましょう。そもそもこの値引き価格8億2000万円という数字は、母体となる土地売却価格9億5000万円という数字があって初めて出てくるものです。

上記録音テープが、一体いつ録音されたのか、それは私には分かりません。ですが、一つ言えることは、録音テープにおいて池田統括官は、
私ども、以前から申し上げているのは有益費の1億3000万という数字を国費として払っているので、その分金額ぐらいは少なくともの売り払い価格は出てくる

とこの様に述べており、池田統括官のこの言葉より、国側は学園側に、この土地の売買価格がどんなに安く見積もっても、工事費として支払った1億3200万円を下回ることがない、ということを、実際に売買交渉に入る以前から伝えていたのではないか、ということです。

「やっぱり価格ありきだったんじゃないか」という声が聞こえてきそうですが、私が言いたいのはそういうことではありません。

森友側が政府側に土地購入の申し入れを行ったのは3月24日。新たなるゴミが発見されたのは3月11日ですから、森友が購入申し入れを行う前から「新たなるゴミ」は既に発見されていました。

この事から透けて見えてくるのは、籠池夫妻はこの「新たなるゴミ」を政府側に対する「値引き交渉を行うための材料」として提示したのではないかということです。

繰り返しになりますが、政府側は元々籠池夫妻に対して「この土地の売買価格はどんなに安く見積もっても1億3200万円は下りませんよ」と伝えていたわけです。

これに対して籠池夫妻は「これまで発見されていなかった新たなるゴミが発見されたんだから、値段を下げるのが当然でしょ?」と言っているわけです。逆に言えば、「新たなるゴミ」がみつかったことで「値引き交渉が出来る」と踏んで学園側は国側に対して土地の購入を申請しました。

NHKニュース からの情報にはなりますが、上記リンクサイトによりますと、森友が土地購入の申し入れを行った6日後、財務局は大阪航空局にゴミの撤去見積もりを依頼。この金額8億1900万円が確定したのが4月14日である、とされています。

リンク先ではこの8億1900万円を「値引き額」と記していますが、土地評価額が決まるのが5月30日ですから、この時点ではあくまでも「ごみ撤去費用」であり、「値引き額」ではありません。

今回ご紹介した録音テープが、果たしてこのごみ撤去費用が確定する前に行われたやり取りなのか、それとも確定した後に行われたやり取りなのか、これは私には分かりません。ですが、上記録音テープの中には、明らかに不自然な内容が報道されています。

大阪航空局 
「今回出て来た産業廃棄物というものは、国の方に瑕疵(かし)があるということが判断されますので、その撤去に就いては国の方でやりたいなと思っておりまして」

<中略(籠池妻の恫喝。損害賠償の要求:学校の開校が遅れること等を理由に)>

池田国有財産統括官
「我々が見込んでいる額よりも(撤去費が)少なくても我々は何も言わない」

文字で見るとわかりにくいのですが、番組的には大阪航空局の発言には、前後の流れが一切含まれておらず、番組のナレーションとナレーションに挟まれる価値で、この部分だけピンポイントで切り取られて入れ込まれている様にも感じるのです。

既に述べていますように、大阪航空局側のセリフでは工事を国で行うことが提案されていますが、池田統括官のセリフになると、いつの間にか工事を森友が行う、という内容になっています。

これまでの流れから考えると、仮にこのやり取りが工事費の見積もりが行われた後に行われたやり取りであると仮定すると、航空局の発言と池田統括官のセリフとの間に、以下のようなやり取りがなされていたのではないかと推察されるのです。
大阪航空局 
「今回出て来た産業廃棄物というものは、国の方に瑕疵(かし)があるということが判断されますので、その撤去に就いては国の方でやりたいなと思っておりまして」

籠池氏
「もちろんそれはそちら側で負担していただけるんでしょ?」

大阪航空局 
「いえ。こちら側で工事をさせていただきますと、その金額が土地取得金額に上乗せされることになります。」

籠池氏
「それはおかしいでしょう。工事には一体どのくらいの金額がかかるんですか」

大阪航空局 
「こちら側の見積もりでは8億1900万円になります」

籠池氏
「本当にそんなにかかるんですか?」

池田統括官
「これまでの事例を参考にしますと、このくらいの金額になります」

籠池氏
「もっと安くならないんですか。そんなんだったらこっちでやりますよ!」

池田統括官
「勿論、そうしていただいても問題はありません。その場合、我々が見込んでいる額よりも(撤去費が)少なくても我々は何も言わない」

あくまでもこれは私の推測であり、言うなれば「フィクション」です。

ですが、当初元々0円であった土地に、1億3200万円の工事を行った結果、1億3200万円の価値がつくのであれば、実際にいくらかかるのかは知りませんが、新たなるゴミ撤去にそれ相応の金額がかかるのであれば、新たなるゴミを撤去した後、その撤去にかかった費用がそのまま「土地評価額」に加算されるはずです。

勿論、この撤去費用の中には、実際に確認できるゴミの撤去費用以外に、仮に建築が遅れた場合の損害賠償費用や仮にこれまで発見されていない場所にもゴミが埋設されていた場合の撤去費用まで全て含まれた「瑕疵担保免責特約」が含まれていますから、その全てが実際にかかる「ごみ撤去費用」ではないのかもしれませんが。

そして、その免責特約まで含めた土地撤去費用を元々の評価額である1億3200万に加算した金額9億5100万円をこの土地の「評価額」とした・・・というのが最終的な土地評価額が決定した「真相」であったのではないか・・・という事を今回の音声データ報道内容より推察いたしました。


さて。それでは改めて森友学園における値引き金額「8億2000万円」は適正だったのでしょうか?
それとも安倍首相に「忖度」して値引きをしすぎていたのでしょうか?

結論から申しますと、今回の値引き金額など、別に何円でもよかったんじゃないか、というのが私の結論です。

そもそもこの8億2000万円という数字は、森友側が「新たなるゴミ」を発見などせず、仮に発見していたとしても現在そうしている様に撤去そのものを行わず、埋設されたまま工事を行っていれば出てくることのなかった金額です。森友が購入した「1億3200万円」という数字がそのままこの土地の評価金額となっていたのではないでしょうか?

もし仮に、森友側が自分たちが値引き交渉に使おうとした「新たなるゴミ」を土地購入後正式に撤去し、政府側見積もりを大幅に下回る金額でゴミの撤去をできた場合、きちんと整備までして売却した場合、その売買金額が仮に政府側が見積もった9億5000万円という金額通りに売却できたとすれば、その工事費と売却金額との差額は、確かに森友側の利益になります。

ですが、現在の様にその撤去すら行わず、放置したままの状態なのであれば、その価値は何時まで経っても1億3200万円という金額のままです。

政府はびた一文損はしていませんし、森友側は撤去工事を行っていない以上、この土地取得をめぐって何一つ利益を得てはいないのです。

そして、これは推測の域を出ませんが、8億2000万円という値引き金額は、別に「1億3200万円ありき」で算出されたものではなく、飽くまで瑕疵担保免責まで含めて正当に見積もられた結果、その金額が1億3200万円という現時点での土地の価値に加算され、「値引き金額」ではなく「土地評価額」の方が事後的に算出されたのではないかと推察されるわけです。

その上で8億2000万円という数字は、別に8億2000万円である必要はなく、別に7億円であろうが5億円であろうが、政府としては全く問題はなかった。

仮に7億円であれば土地評価額が8億5000万円に、5億であれば6億5000万円になっていた・・・という、ただそれだけの事だったのではないかと考えられます。

ただ一つ言えることは、池田統括官は、「新たなるゴミ」が出てきても、森友の要請に一切応じず、逆にその撤去費用を現在の土地評価額に加算する形で収束させた、極めて優秀な方であった、ということ。

寧ろマスコミが報じるべきなのは、この点なのではないかと私は思います。
(※記事作成に数日かかりましたので、一部動画が既に削除されていますが、飽くまでこの動画を元に作成した記事ですので、削除後の動画画面も私の記事では削除せず、そのまま残しておきます。)

この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第343回 ロシア革命の財源はどこから?/ユダヤ陰謀論の正体

さて。今回はソビエト連邦が誕生する経緯に於いて私が関心を持った4つのテーマの内2つ目。「ウクライナ」にスポットを当ててみたいと思います。


「ウクライナ」についての復習

今回のシリーズ の冒頭では、「ロシア」に焦点を当てる前に、「ロシア」が誕生する原点となった国家である「ウクライナ」についての記事を作成しました。

とはいえ、当時のウクライナの名称は「ウクライナ」ではなく、「キエフ=ルーシ公国」。現在のウクライナの首都、「キエフ」を中心に存在した国家です。キエフ公国がモンゴルに滅ぼされた後、モンゴルの支配下に於いてこのキエフ公国を継承した「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」がウクライナのルーツです。

「ロシア」はキエフ大公より土地を分割された「ウラジーミル・スーズダリ公」が、後に「モスクワ公」となり、これがロシアの源流となります。

「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」はその後分裂し、「ハールィチ公国」はポーランドに、「ヴォルィーニ公国」はリトアニアに、それぞれ分割して統治されることとなりました。

元々敵対する関係にあったポーランドとリトアニアですが、共通の脅威であったドイツ騎士団に対抗するため、同盟関係を結び、やがて両国を一人の元首が束ねる「ポーランド・リトアニア共和国」となります。

「ハールィチ公国」はポーランドに、「ヴォルィーニ公国」はリトアニアにそれぞれ分割統治されていたわけですから、両国が合併し、一つの国家となったことで「ウクライナ」は再び一つ国家における領土として束ねられることとなります。実際には統合される3年前、ウクライナそのものがリトアニアからポーランドへと移り、「ウクライナ」というポーランドの一地域となります。

そして、そんな「ポーランド・リトアニア共和国」に出現したのが「ボフダン・フメリニツキー」。ウクライナ・コサックの指導者です。ウクライナ・コサックは元々「キエフ=ルーシ」の士族・豪族の流れ者集団で、ウクライナの一地域に拠点を構えていました。

ウクライナがポーランドの一地域となった折、同地域の「登録コサック」、即ち公的な軍事組織として認められたコサック軍には、他のポーランドの貴族と同等の権利が認められました。

フメリニツキーが率いていた「ウクライナ・コサック」とは、このポーランドの一地域となった「ウクライナ」のコサック軍であったものと考えられます。

ただ、この「ウクライナ・コサック」が与えられていた権利は限定的で、しばしば共和国に対する反乱を起こしていました。

その代表的な反乱がフメリニツキーの起こした「フメリニツキーの反乱」と呼ばれるもので、フメリニツキーは反乱の結果、ポーランド政府に勝利し、「ザポロージャのコサック軍(ヘーチマン国家)」という名前の国家を打ち立てます。この時ウクライナ人たちは初めて自分たちの事を「ウクライナ人」であると認識しました。

この後、フメリニツキーは自国をロシアの保護下に置くことを求め、ヘーチマン国家はロシアの保護下に置かれることとなるのですが、フメリニツキーの死後、ウクライナ=ロシア戦争が勃発するなどし、ウクライナは内戦状態へ。

その後、「右岸ウクライナ」がポーランド=リトアニア政府に、「左岸ウクライナ」がロシアに、それぞれ分割統治されることとなります。右岸ウクライナはポーランド=リトアニアにより自治権を失うのですが、左岸ウクライナはロシアにより自治権をみとめられ、保護国として存在し続けます。

所が、後に左岸ウクライナはロシアに対して独立戦争を仕掛け、失敗。その後左岸ウクライナもまた自治権を失うことになります。

その後、ポーランドそのものがロシア・プロセイン・オーストリアの三国で分割されることとなり、「ポーランド=リトアニア共和国」をのものが事実上消滅。右岸ウクライナまで含めてウクライナはロシア領となります。


ロシア革命と第一次世界大戦の経緯

さて。それでは時間軸を再びロシア革命へと戻します。

ここでもう一つおさらいなのですが、ロシア革命(10月革命)が起きたのは現代の暦で1917年11月7日。第一次世界大戦の真っ只中です。

では、改めて「第一次世界大戦」がどのような戦争であったのかというと、「英仏露」の「三国協商」と「独墺伊」の「三国同盟」の戦い。これに他の諸外国が絡んだ形で行われていた戦争です。

三国同盟対三国協商

上図を見るとわかると思いますが、三国同盟を英仏とロシアとで挟撃している構図です。

ところが、第一次世界大戦への参戦で、肝心の労働力であった農民たちが兵士として戦線に駆り出され、ロシアは極端な食糧不足に陥ります。で、食料の供給を求めて主婦たちが起こしたデモをきっかけに勃発したのが「二月革命」。二月革命の勃発により、ニコライ二世が失脚し、帝政ロシアが崩壊。

その後のロシアはニコライ政権下でドゥーマ(議会)をになっていた面々によって結成された「臨時政府」と、メンシェヴィキの旗振りによって結成された「ペトログラード・ソビエト」との二重権力構造となるわけですが、ペトログラード・ソヴィエトは臨時政府を「ブルジョワジー」であると考え、彼らの目指す「ブルジョワ革命」が臨時政府によって行われたと判断し、ペトログラード・ソビエトは臨時政府を指示する方針を示しました。

その後も臨時政府はニコライ政権下、第一次世界大戦に参戦する姿勢を改めず、4月危機、7月事件を経て左派政権である社会革命党の党首であるケレンスキー内閣が結成されるも、状況は変わらず。そしてついに10月革命が勃発し、ケレンスキーは失脚。ボリシェビキが政権の座に就くこととなったわけです。(ロシア革命の完成)


「帝国主義」の象徴である第一次世界大戦への参戦に反発してボリシェビキ政権が誕生したわけですから、この時点でロシアは第一次世界大戦から脱退することになります。

ですが、ドイツからすればそうは問屋が卸しません。これまでロシアとは対立する状況にあったわけですから、このままではロシアは一気に独墺によって攻め込まれることとなります。これを防ぐために、ボリシェビキ政権との間で講和条約を締結する以外に方法はない・・・ということになりますね。

この様な発想からロシアと中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)との間で締結されたのが「ブレスト=リトフスク条約」。この条約の締結によってロシアは第一次世界大戦から脱退します。


ロシア革命とウクライナ

さて。それでは改めて「ロシア革命とウクライナ」について考えてみます。

二月革命の勃発により、帝政ロシアは崩壊したわけですが、当時ロシア領にあったウクライナでも、二月革命の成功はウクライナ独立の機運を盛り立てることとなりました。この機運を受けて、1917年3月、ウクライナの各勢力間の関係を調整する政治的中枢機関として設立されたのが「ウクライナ中央ラーダ」。

「中央ラーダ」の「ラーダ」とは、ロシアでいう「ソビエト」とほぼ同義です。

ヘーチマン国家時代のウクライナもそうなんですが、どうもこのウクライナ人、自分たちの力で結束しよう、という思いがそれほど強く内容で「中央ラーダ」もこの例にもれず、せっかく独立や自治を志して結成されたのに、その方針として「「ロシア連邦」の枠内で共和国全土を治める方針」を定めます。

つまり、ウクライナとして完全に独立することはせず、ニコライ政権に続いて誕生した臨時政府にウクライナの命運を委ね「臨時政府の統治するロシアの一部として、ウクライナに自治を認めてください」という・・・まあ随分都合の良い方針を定めたわけです。まるでどっかの朝鮮半島を見ている様です。

で、この方針を以て中央ラーダの代表団はロシアベラルーシを訪れ、「自分たちに自治権を与えてください」とお願いするわけですが、当然断られます。

これもまた当然の事で、ウクライナは自分たちが戦争状態にある独墺とロシアとの干渉地域に当たるわけです。そこに自治権を認める事は、ロシア自身の命運を左右する結果ともなりかねませんから。

で、断られたウクライナはなんと、6月23日、「ウクライナはロシア連邦領内の自治地域である」と勝手に宣言してしまいます。(第1次ウニヴェルサール期)

ところが、一方のロシアでは、臨時政府に於いて陸海相の座に就いたケレンスキーが、ドイツに対する徹底抗戦を訴えるわけですが、二月革命により第一次世界大戦継続に対するモチベーションがダダ下がりのロシアの前線は完全に崩壊し、ペトログラードでは兵士らによるデモ(7月事件)が勃発し、8月には「コルニーロフの反乱」が勃発。

最前線であるウクライナが、いずれドイツに占領されてしまいかねない状況に陥ります。そこで、慌てて臨時政府は中央ラーダが設置されているキエフに使者を送り、地域を限定して、にはなるものの、ウクライナに対して「自治」を認める事を伝達します。

このことによって、ウクライナはロシアに併合されて以来、初めて正式な形での「自治権」を有することになりました。(第2次ウニヴェルサール期)


ウクライナ・ソビエト戦争の勃発

さて。ここまで見ていただいているとわかると思いますが、ウクライナ「中央ラーダ」は、明らかにニコライ政権の後を引き継いだ「臨時政府」を相手に交渉を行っています。この時点ではまだボリシェビキ政権は誕生していないわけですから、当然と言えば当然なのですが、中央ラーダは明らかに「臨時政府派」なのです。

ところが、その「臨時政府」がボリシェビキの起こしたクーデターによって崩壊。中央ラーダはこのことによって「盟主」を失ってしまいます。中央ラーダは、ボリシェビキの行為を「暴力的である」として非難します。

自分たちが仕えてきた臨時政府が崩壊したわけですが、だからと言って臨時政府を崩壊させたボリシェビキにホイホイと仕えるわけにはいきません。

朝鮮の場合は日清戦争で清国が日本に敗れた後、今度は日本に尻尾を振り、日本が三国干渉で旗色が悪いと見るや、今度はロシアに対して尻尾を振るという非常に情けない態度を取り、最終的には日本の手によって強制的に中国から独立させられてしまったわけですが、ウクライナは違いましたね。

ロシア臨時政府がボリシェビキに敗れ、崩壊するとウクライナはついに「ウクライナ人民共和国の創設」を宣言し、完全にロシアからの独立を宣言するのです。(第3次ウニヴェルサール期)

形式上は、あくまでも「ロシア臨時政府が統治するロシア領内での独立」を意味するわけですが、その、肝心の臨時政府が存在しないわけですから、これが事実上の「独立宣言」となりました。

これを受け、「英仏露三国協商」を構成していた英と仏は、早急にウクライナを国家として承認します。

この段階ではまだボリシェビキ政権は臨時政府から政権を奪取したばかりで、ドイツとは対立する構造にあります。ウクライナはそんなロシアから独立を宣言したわけです。

一方、ボリシェビキ政権は英仏と同盟関係にあった臨時政府に対するクーデターを仕掛け、これを成功させたわけですから、英仏とはまた対立する構造が出来上がります。何しろ、これを成功させたレーニンやトロツキーは、「反帝国主義」を掲げる共産主義者ですからね。

また、英仏は当然独墺と戦争状態にあるわけですから、ウクライナに独墺側につかれるわけにもいきませんから、英仏がウクライナの国家承認を急いだのも理解できます。

また、一方のボリシェビキ政権も、ウクライナに勝手に独立されるわけにはいきませんから、ボリシェビキ政権は先ず中央ラーダにスパイを送り込み、中央ラーダを乗っ取ろうとしますが、失敗。

そこで、ボリシェビキ政権はウクライナ中央ラーダに対し、「ウクライナでソビエト軍、ボリシェヴィキ軍の行動の自由を保障すること」を条件に中央ラーダが運営するウクライナ人民共和国の設立を認めるとした交換条件を突きつけます。

勿論これは中央ラーダにとって飲めるものではありませんから、ボリシェビキ政権から中央ラーダに対する「最後通牒」となります。当然中央ラーダはこれを拒否し、ボリシェヴィキはウクライナへ軍事侵攻を行うことを決定(1917年12月25日)。翌26日、ボリシェヴィキは、ウクライナのロシア側の地域、「ハルキウ」という地域にもう一つのウクライナ人民共和国、「ウクライナ・ソヴィエト共和国」を樹立します。

「ウクライナ・ソビエト戦争」の勃発です。

ウクライナ1918

こちらの図で、右上の濃い紫色のエリアがロシア・ソビエトで、その西側の薄紫色のエリアが「ウクライナ・ソヴィエト共和国」です。
この地域には元々「ボリシェヴィキ派」のウクライナ人が多くいた地域でもあったようです。


次回記事では、ウクライナ・ソビエト戦争の経過と、これに絡む諸外国の様子なども記事にできればと思います。


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<継承する記事>
第342回 ソビエト連邦誕生までの経緯を復習する

さて。今回のシリーズに於きまして、前回の記事で私の関心のある4つのテーマを掲載しました。

 1.ボリシェヴィキの活動資金について。

 2.ウクライナについて。

 3.「ロシア内戦」の経過とソビエト連邦が成立するまでの経緯。

 4.「コミンテルン」発足に至る経緯。

この4つのテーマの内、今回は1つ目、「ボリシェヴィキ」の活動資金について、記事にしてみたいと思います。

シリーズ冒頭の記事 に於きまして、元ソ連外交官の講演 について記した記事を参考に、また続く第293回の記事 では「そもそもロシア帝国が崩壊し、共産化したのは『ロシア人とユダヤ人との対立』の結果である、という結論」を導き出すために作成するものである、ということにも言及しました。

ただ、現時点ではこの仮説を裏付けることの出来る明確な根拠のある情報には出会っていません。
しかし、今回の記事は少しこの「裏付け」ともなるかもしれない要素を含んでいます。


アメリカンインターナショナルコミュニケーション

そもそも私がなぜ「ボリシェヴィキの活動資金について」関心を持ったのか。

言われてみれば確かに疑問を持つべき部分ではあるのですが、「ロシア革命」と「ソ連の誕生」を調べていて、ロシア革命に於いて、レーニンとトロツキーが率いた「ボリシェヴィキ」に対して資金援助を行った投資会社があったらしい、という情報に出会いました。

この投資会社の名前がサブタイトルに記した「アメリカンインターナショナルコーポレーション」略して「AIC」という名前の会社です。

調べてみるのですが、どうもこのAICについては客観的に調査することの出来る情報に巡り合いません。

ただ、客観的な情報として、このAICの社長が「フランク・A・バンダーリップ」という人物であり、彼の名前で調べると、彼が創設した会社として「American International Corporation」とう名称が登場し、またWikiベースではありますが、AICが設立された年として1915年という年号も出てきますので、少なくともボリシェヴィキに資金援助が出来る時期に「アメリカンインターナショナルコーポレーション」という会社が存在していた、ということだけは裏付けることが出来るかと思います。

私が関心を持ったのは、飽くまでWikiベースではありますが、AICへの出資者として、「ジョン・モルガン」、「ロックフェラー」、「ジェームズ・スティルマン」という3人の名前が挙がっているところです。

とくに「モルガン」や「ロックフェラー」という名前は、シリーズ中では 第297回の記事 で若干触れていますが、日露戦争に於いて、資金を求めた高橋是清が融資を求めた相手としてご紹介した「ロスチャイルド」と共に、現在でもアメリカの中央銀行であるFRBに対して出資をしている、「国際金融機関」につながる名前です。

そして、所謂「ユダヤ陰謀論」を唱えたがる人たちの中では必ず登場する名前でもあります。

「AIC」とは、そんなモルガンやロックフェラーらが出資してアメリカのニューヨークに設立した投資会社なんですね。

これに関連して、冒頭に触れた 元ソ連外交官の講演 について触れたブログでは、以下のような記述がみられます。

この10月革命はユダヤ人による革命であった。これは疑いの余地がない。いうまでもなく、革命を指導した者のほとんどがユダヤ人だからである。10月革命の前に、トロツキーをリーダーとする70人のユダヤ人グループが、ニューヨークからやって来ていた。アメリカのユダヤ人資本家ヤコブ・シフは、このトロツキーのグループを支援していた。

そのときロシアは、ドイツとの戦争の真っ最中であった。第一次世界大戦である。ドイツの方面からも、レーニンのグループがロシアに入った。このグループもまた、ほとんどがユダヤ人だった。10月革命は、アメリカとドイツの金によってユダヤ人が実行した革命であった。

少し回りくどく記されていますね。

Wikiにてトロツキーの動向を見てみますと、トロツキーは 

ロシア第一革命 が勃発した後、ロシアに帰国し、「サンクトペテルブルク・ソビエト」の指導者となる
・12月、逮捕されてシベリアへ終身流刑にされるものの、護送中に脱走、ウィーンへと亡命
・第一次世界大戦勃発後、スイス、フランスへと居住地を移すものの、1915年、フランスを追放されスペイン経由でニューヨークに映る

とあります。つまり、この時トロツキーはモルガンやロックフェラー等の国際金融機関とのコネクションを作り、二月革命 の勃発を受けてロシアに舞い戻ってたわけです。

ちなみに元ソ連外交官の講演中に登場する「ヤコブ・シフ」とは、日露戦争勃発に於いて、ロスチャイルドが高橋是清に紹介したアメリカの銀行家でもあります。

元ソ連外交官である「アレキサンドル・イワノフ」氏やユダヤ陰謀論者の考え方では、トロツキーがユダヤ人であり、モルガンやロックフェラーらもまたユダヤ人であることから、「ユダヤ人であるトロツキーをAICが資金援助してロシア革命を成功させた」という印象を持たせている印象を受けます。

一方でこちらの記事 等ではこれをユダヤ人の復讐劇とはせず、「ウォール街の銀行からによるビジネス」であったとする主張もあります。

ただ、私の考え方としては、ロスチャイルドがヤコブ=シフを是清に紹介した理由の一つとして、ロシアにおけるユダヤ人の迫害=ポグロムが行われていたことがあったことを考えると、投資家たちの中に「ロシア人に対する復讐心」の様なものがあったのではないか、とする考え方もできなくはないかな、と思います。

ただ、レーニンやトロツキーが「ユダヤ人」としてのイデオロギーでロシア革命(10月革命)を実施した、という考え方はちょっと無理があるのではないか、と思いますね。


「シオンの議定書」

シオンの議定書

さて、このサブタイトル。実は「ボリシェヴィキの活動資金」というテーマとは直接関係はないのですが、本タイトルとしてあげました、もう一つのテーマ、「ユダヤ陰謀論の正体」。こちらにかかってくる情報になります。

「ユダヤ陰謀論」って何? って思う人もいるかもしれませんね。

簡単に言うと、ユダヤ人には「選民思想」という考え方があり、ユダヤ人こそが神に選ばれた民族で、世界の終末に於いて、ユダヤ人だけが救われる・・・といった考え方があることが基本ベースになっていて、ここから「ユダヤ人が裏社会を支配している」といった考え方にもつながっています。

で、今回ご紹介するこの「シオンの議定書」なのですが、どうもこの「シオンの議定書」こそがこの「ユダヤ陰謀論」の発端になっているのではないか・・・という考えに私自身がたどり着いたわけです。

Wikiベースではありますが、そもそもこの「シオンの議定書」は「1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン二十四人の長老」による決議文であるという体裁をとっている」と記されています。

そしてその決議分が「1902年にロシア人の反ユダヤ主義者により捏造された」ものであると記されています。

この「シオンの議定書」は、まだニコライ二世が健全で、「皇帝」として存在していた時代に、ニコライ二世に対して献上するために作成されたもので、「帝政ロシアに対する不満をユダヤ人に向けさせるために作成されたもの」なのだそうです。

内容としては『マキャベリとモンテスキューの地獄での対話』という書物があり、これがマキャベリ という政治思想家とナポレオン三世の「地獄対話」を収録したもの。

ナポレオン3世の「非民主的政策と世界征服への欲望」を揶揄する様な内容になっているのだそうですが、この書物で、「ナポレオン3世」と記されている部分を全て「ユダヤ人」と置き換えている文章を大幅に加筆されたもの、なのだそうです。

Wikiの内容から判断すると、この書物を改ざんした人物がオフラーナ在パリ部長のピョートル・ラチコフスキーという人物で、元となった書物が発見されたのが彼が家宅捜索を行ったエリ・ド・シオンといいう人物の家。

で、ラチコフスキーが改ざんした文書に「セルゲイ・ニルス」という人物が序文を付け加えたもの。これがニコライ二世に献上される予定だったのだそうです。

で、この書物をロシア第一革命当時に

『諸悪の根源——ヨーロッパ、とりわけロシアの社会の現在の無秩序の原因は奈辺にあるのか? フリーメーソン世界連合の新旧議定書よりの抜粋』

とのタイトルでその完全版を収録した冊子が発行されました。で、この文書がロシア革命当時、日本を含めた全世界に広まります。


ただ、元ネタが『マキャベリとモンテスキューの地獄での対話』であり、これと比較した内容をイギリスの新聞「タイムズ」が報道し、ねつ造されたものであることを暴露。

一気にその熱は冷めていくわけですが・・・ねぇ。日本の陰謀論者の皆さん。


タイムズが暴露するのが1921年の事なのですが、その数年前。日本が「シベリア出兵」をした折、多くの「白軍兵士」がこの書物を保有しており、日本人はこの書物に触れることになります。

陸軍のロシア語教官であった樋口艶之助という人物がこの書籍を翻訳し、日本で出版。
また、安江仙弘という人物もシベリア出兵からの帰国後、包荒子というペンネームで『世界革命之裏面』という書物を出版し、書物内で議定書を紹介します。

これ以外にも複数の日本人が議定書を翻訳し日本で出版するわけですが、先ほどご紹介した安江仙弘や同じく議定書を翻訳した経験のある犬塚惟重という人物は、逆に「日ユ同祖論」、つまり「日本とユダヤ人は実は祖先が同じであり、同朋である」という主張を展開し、ドイツ人の虐待からユダヤ人を救出。ユダヤ資本を満州に招き入れようとします。

「『マッソン結社の陰謀』および『シオン議定書』と題するパンフレット」が教育界にも配布されるなどし、これが日本国内における「陰謀論」の元祖となるわけですね。


非常にぶっちゃけた表現をすると、ユダヤ陰謀論の原型となった「シオンの議定書」とは、大川隆法が霊と対話する形式で発効した書籍の様なものを更に改ざんして作成されたもの・・・だったわけですね。

これを100%と信頼するとすれば、青木理や菅野完らが発行している「日本会議本」の様なもので、フィクション要素満載の情報であった・・・ということになりますね。ふ~む。。。

私も一時期この「ユダヤ陰謀論」に染まっていた時期もありましたし、この情報に出会うまで、「そういう話があっておおかしくはないよな」と、半ば信じていた部分もありましたが、まぁ、一気に目が覚めた気がします。


私がこの記事を作成しようと考えたことには、一つの理由があります。

現在、ネット上で「陰謀論」を唱える人を見かけませんか?
私が記した「ユダヤ陰謀論」だけではありません。散々野党連中が盛り立てている「加計・森友」問題にしても、「あれは安倍首相の陰謀だ!」という雰囲気を覚えませんか?

「日本会議秘密結社説」もまた同様です。

そして、この様な主張を唱える人たちの支持層を追いかけていくと、九分九厘たどり着くのが「小沢一郎」という人物です。

私、別に小沢一郎そのものがそんな陰謀論者であるだとかそういうことを言いたいわけではありません。ですが、小沢一郎の支持層にはそういった「陰謀論者」が多いことは間違いのない事実なんです。

「この人の主張、正しいかもしれないけど、なんだかおかしいな・・・」と感じたとき。試しに鎌をかけてみてください。「あなたの支持している政治家は誰ですか?」と。

恐らくかなりの確率で「小沢一郎」の名が出てきます。
あなたはマスコミによって世論誘導されていませんか?

↑こちらは私がかつて作成していたブログの1ページです。「根拠」となる情報となるかどうかは受け止める方次第だと思います。
作成したのは2012年9月の事ですから、5年近く昔の記事です。

日にちは随分と経過していますが、現在でもSNS等で討論したり情報を閲覧したりする中で、当時と同様な「違和感」を覚えることは、未だにあります。

「共産党」は非常にわかりやすいですから、警戒もしやすいと思います。ですが、「小沢一郎の影響」は一見すると正しくも見えてしまいます。例えば「加計問題」に於いて、愛媛県今治市で活動しているとある団体があります。

一見すると正しく見える情報ですが、よくよく確認すると違和感を覚える。そんな情報です。

彼らは「共産党」に影響を受けているわけではありません。小沢一郎なのです。

もしこの記事を読んでいただいている方で、お近くに「小沢一郎側の主張」を述べる人に出会ったら要注意です。

彼らは「他人の主張」を簡単に取り込んで、あたかも自分自身の主張であったかのようにして手のひらを返してくるケースも多々、あります。もしお知り合いの方が取り込まれそうになっているな・・・と気づかれたときはきちんとした情報を相手の方に与え、取り込まれてしまわない様、未然に対処されることを私はお勧めします。


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<継承する記事>
第341回 本シリーズを作成するに至った経緯

前回は「本シリーズを作成するに至った経緯」とのタイトルで記事を作成し、私の本シリーズに対する思いを語りました。

第324回 の記事に於いて、ロシア革命の本丸である「10月革命」が非常に平和裏に成し遂げられる様子を記し、第334回の記事 では10月革命を成功させたトロツキーの考え方について、10月革命に合わせる形で行われた「第二回ソビエト大会」。ここでトロツキーの行った演説を参考に記事を作成しました。

ここまでの経緯を見てみると、レーニンやトロツキーが中心となって起こした「10月革命」そのものは、決して世に言われる悪名高い共産主義国家としてのソビエト連邦を誕生させることを目的としたものではないのではないか、と感じられます。

後程詳細に記事にする予定ではいますが、この後、私たちの知る「ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)」が誕生するまでの経緯を年表形式でまとめます。

1917年11月7日(旧暦10月25日)
 ボリシェヴィキにより臨時政府ケレンスキー内閣倒壊(10月革命:ロシア内戦勃発)

1917年11月9日
 ソビエト・ロシア共和国誕生

1918年3月3日
 ドイツとの間でブレスト=リトフスク条約締結(ロシア内戦、一時休戦状態に)

1918年7月19日
 ロシア共和国憲法制定(ロシア社会主義連邦ソビエト共和国に改名)

1922年11月
 内戦終結

1922年12月30日
 第1回ソビエト連邦全連邦ソビエト大会
 ロシア連邦共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア社会主義ソビエト共和国、ザカフカース連邦の4カ国が加盟した「ソビエト社会主義共和国連邦」が樹立

この年表を作る中で、少し見えてきたことがあります。


ロシア内戦とシベリア出兵

私がこの記事を作成するに至った理由の一つとして、特に「共産党」が介在した様々な事件に関して、その残虐性や異常性がみられることがあり、これは中国だけでなく、「ロシア」に関しても同様の事が言えます。

ロシアが介在した事件の残虐性を示す事件として、私は二つの事件を過去に記事にしました。

 黒竜江(アムール川)事件(リンク先最下部)
 尼港事件(リンク先最下部)

アムール川事件に於いて殺害された清国人は2万5千人、尼港事件に於いて殺害されたロシア人・日本人は合わせて6000人(内日本人730名)に上ります。

さて、ここで改めて思い出していただきたいのですが、「ロシア革命(10月革命)」が起きた時点において、全世界は未だ「第一次世界大戦」の最中でした。

大戦そのものは1918年11月11日、ドイツが降伏したことにより終結するわけですが、同時期にロシアは内戦状態にありました。
この内戦はボリシェヴィキを中心とした革命支持者「赤軍」と反革命派「白軍」との間で行われます。

前述した「尼港事件」とは、そんなロシア内戦の真っ只中、1920年にロシアの「ニコラエフスク」という地域で勃発した大虐殺事件です。

詳細はまた後日記事に委ねる予定ですが、「ロシア内戦」に対して、英・仏・日・米の4カ国は白軍に味方する形で「対ソ干渉戦争」を仕掛けます。

ヨーロッパ側から攻めたのが英仏で、アジア側から攻めたのが日米でした。

この時日米が派兵した先が「シベリア」。モンゴルの支配下で「シビル=ハン国」と呼ばれた地域です。

シベリア

これが、世にいう「シベリア出兵」です。

この時日本が相手にしていたのは、日本の駐留に反対していた「抗日パルチザン」という連中。「パルチザン」とは「非正規的な武装勢力」の事を云うわけですが、要はゲリラ部隊です。

日本はこのゲリラ部隊が潜伏すると考えられる村々を攻めたわけですが、この時日本軍がパルチザンをかくまう村民に対して行った行為を象徴する事件として、「イヴァノフカ事件」と呼ばれる事件があります。

現地駐留軍がパルチザンをかくまったという理由で老若男女問わず銃によって殺害し、小屋の中に押し込めたまま焼き殺してしまう・・・と言った残虐な行為が行われたのだそうです。

参考になる記事として、私に近いスタンスから記された方の記事として、「陽月秘話」というサイト様記事がありましたので、合わせてご紹介しておきます。

シベリア出兵とイワノフカ事件

記事の引用になりますが、日本側としてはあくまでも

「日本軍は村民から武器の押収やゲリラと見られる人物の処刑を行っていたところ、思わぬゲリラの反撃を受けて一個大隊が全滅するという被害を受けました」

とあり、この報復として「イヴァノフカ事件」は行われたわけですが、引用元の記事にも掲載されているとおり、「尼港事件」と「イヴァノフカ事件」との間に、その規模とやり方の面で大きな違いこそありますが、同様の事を日本軍も行っていた、という点でご紹介しておくべき内容だと感じましたので、私の記事でもご紹介しておきます。


ここに登場した「パルチザン」とは飽くまで「非正規武装集団」であり、レーニンやトロツキーの管理下にある舞台ではありません。「尼港事件」が勃発した時点で、確かに「赤軍」を名乗ってこそいますが、この時のロシアはまだ完全には共産化しておらず、また内戦状態にあり、「共産党」としての統治機能が十分にいきわたっている、とは到底考えられません。

そうすると、どうも「共産主義」という政治システムそのものより、どうもこの様な地域に居住していた居住民の生活習慣にその原因はあるのではないか・・・とも考えられるように感じます。


さて、この時点で私の中にはいくつかの調べておきたいことがあります。

一つ目は「ボリシェヴィキの活動資金」について。

もう一つは、カテゴリーの冒頭でスポットを宛てていた「ウクライナ」について。

3つ目が今回の記事で掲載した「ロシア内戦」の経過とソビエト連邦が成立するまでの経緯。

そして4つ目が「コミンテルン」発足に至る経緯です。
次回以降の記事に於きまして、これら4つのテーマをできれば一つずつ補完していきたいと思います。


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<継承する記事>
第334回 ロシア革命後の経緯

私がこのシリーズを作成する理由

このブログでは、特にPC版ではあえて私が記事を作成した日にちを掲載していません。
これは、私自身が作成した記事が「時代の変化」によって意味合いが変わるような内容にはしたくないと考えていることにその最大の理由があります。

シリーズとしては 「ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯」 という名称で、親シリーズとしては 「なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか」 という名称のシリーズの下に配置しています。

ブログ全体を見てくださっている方にはもうご存知とは思いますが、ブログそのものは現在の安倍内閣の政策内容を中心に「政治」そのものと「経済」を中心に記事を作成しています。

同じ親カテゴリーの配下に掲載している「十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」 というシリーズの延長線上に 「ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯」 という名称のカテゴリーを作成しているわけですが、実はこれらのシリーズを作成する決断に至った理由は、私が既に作成している「政治」や「経済」に関連した記事。これに説得力を持たせるためには日本の歴史を私自身が理解する必要がある、と考えたからです。

国債の問題 にしても 年金の問題 にしても、実は多くの人が「理解したつもり」になっている情報とその本当の姿の間に大きなギャップが存在し、私が時々呼ばれて開催する勉強会等でもこれらの話をするとほとんどの方の中の「価値観」が音を立てて崩壊してしまいます。

今現在自分が持っている「常識」が実は大きな偏見によって作り上げられた大きな「非常識」の塊であることをまずは理解することからすべてはスタートします。

ではなぜこのような誤った情報ばかりが流布され、正しい情報を知る機会に私たちは恵まれないのか。その情報を発信する中心にいるのが「マスコミ」です。「マスコミ」という媒体を利用して誤った情報を流布させ、日本人に、「ひょっとすると日本はこのままでは崩壊してしまうのではないか。日本はもう終わりなのではないか」という本当は何の根拠のない、誤った危機感を抱かせてしまう。

これは、そうすることで何等かの利益を手にすることができる人が確かに存在するからです。では、そういった「利益」を手にしようとしている存在はいったい何者なのか。

実は、この様な誤った情報とセットで流出されている情報に目を向けると、なんとなくその正体が見えてきます。
その情報とは、所謂「自虐史観」というものです。

「自虐史観」と「日本という社会構造への危機感」をセットにして情報を流出させることで日本人の精神的構造やその支柱を弱体化させてしまう存在。

彼らは言います。

  「嘗ての日本は悪であった」と。

だから私たちはその迷惑をかけた相手に対して謝罪し、その謝罪する相手に対してある一定の利益を享受させなければならない。

そう主張する人たちは、実は日本人の利益ではなく、日本人以外の人たちの利益を優先させようとする人たちです。

ですがそうではなく、日本の将来を楽観し、現在の日本の経済状況を正確に把握しようと努める人たちの多くは逆の主張を行います。

 「あの時代の日本人は素晴らしかった」

と。

シリーズ 十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 を作成し始めたころの私には、日本は本当に「悪かった」のか、それともそうではなかったのか。これに対して明確な裏付けを以て主張する知識を有していませんでしたから、この様な知識を有する人たちとの間では、議論に参加することすらできませんでした。

ですが、ここを明確にしなければ日本の将来が恰も絶望的であるかのように情報を流布する人たちを説得することは不可能だと私は直感しました。だからこそシリーズ 十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 を作成し、現在は ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 というシリーズを作成しているのです。

ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 というシリーズに関しては、ひとまずソビエト連邦が誕生する経緯までは把握することができたわけですが、そもそもの目的は、であればなぜ赤化した「ソビエト」という国や、そこから影響を受けて誕生した中国共産党がなぜあそこまで残虐な集団へと変質したのか。

ここを探ることにその目的はありますから、シリーズとしてはもうしばらく記事を続けていこうと思います。


「コミンテルン」誕生に至る経緯

前回の記事 では、レフ=トロツキーが中心となって結成した「軍事革命委員会」が、同じ「左派」であったはずのケレンスキー率いる臨時政府内閣に対して、引き起こした「10月革命=ロシア革命」。これが一体どのような形態の中、どのような考え方に基づいて行われたのか、これをまさに革命が引き起こされる真っ只中で行われた第二回ソビエト大会に於けるトロツキーの演説と、第二回ソビエト大会の開催やクーデターの実行をめぐって行われたトロツキーとレーニンとの間でのやり取りを中心に記事にしました。

これは非常に意外な事ではありましたが、その結果としてクーデターはほとんど血を流す事なく、非常に平和裏に実行されました。
これは私の予想を大きく裏切る結果・・・ではあったわけですが、事実は事実として受け止めたいと思います。

となると、どこに問題があったのかと考えた場合ロシア革命が見事成功し、ボリシェヴィキ=ソビエトが政権を握ることとなった、その後の歴史の流れの中でこれが見いだせるのではないか、ということです。

前回の記事では、そのポイントとしてトロツキーの発言内容に着目し、その発言内容がまさしく「コミンテルン」を彷彿させるものであったことから、次はその「コミンテルン」発足に至る経緯を追求することとしました。

「コミンテルン」そのものに関しては私、 第63回の記事 で少しその過程を掲載しています。

ただ、当時の私は今回ほどはロシア革命の経緯に関しての知識がありませんでしたから、今回はもう少し深く記事を作成することができるような感じはしています。

冒頭にすこしテーマからそれる内容を掲載しましたので、記事を分けまして改めて次回記事に於いて「ソビエト連邦の誕生からコミンテルン発足に至る経緯」についての記事を作成したいと思います。


この記事のカテゴリー >>加計学園問題


<継承する記事>
第339回 青山さん質疑-加戸守行前愛媛県知事と前川氏/国会閉会中審査

前回記事を記してより大分時間が経過してしまいましたので、少しタイムリーな話題ではなくなってしまいましたが、改めて2017年7月10日に行われた閉会中審査で行われました、青山繁晴さんの質疑を通じまして、加戸前愛媛県知事の証言を踏まえて前川氏の発言の矛盾すする部分について記事にできればと思います。

また、同テーマに於いて先日この加計問題に関して私と反対の立場の意見を持つ方とSNS上で、とはいえ議論を行うことができましたので、その内容も踏まえて記事にしたいと思います。

今治城
今治城


加計学園に決まった経緯は強引であったのか?

私と議論した方は、きちんと私と反対側の立場から私と同じように、主にネットを通じて情報を集めていらっしゃった様ですから、逆に言えば「加計学園誘致に於いて問題があった」とする立場の方のご意見としてはとても参考になったと感じています。

議論は先ず、先方の「加計学園に決まった経緯が強引であった」とする記述に対して私が意見したところからスタートしました。

この件に関しまして、これは青山さんに対する証言ではなく、公明党の里見隆治参院議に対する証言で、加戸前愛媛県知事は以下のようなご発言をなされています。

後程ピックアップして掲載しますが、まずは里見議員の質問に対する加戸前愛媛県知事の最初の証言の部分を全文掲載したいと思います。
「獣医学部誘致に至ります間に、いくつかのことがございました。まず1つは、私が知事に着任しましたときに、今治市は新都市開発構想がありましたけれども、神棚に上がったままで動いていませんでした。私の最初の仕事として、今治市とタイアップして、新都市整備事業に取り組みまして。2つの地区がございまして、1つは商業産業地域、1つの地区は学園都市構想地域。今治に若者の街で学園都市ができないかということがありました。そして、これは地元大学の誘致などもございまして、話も進みかけましたが、話がポシャりまして、結局土地だけがあって、学園都市構想が宙に浮いた状態でありました。

 もう一つは私が知事に着任早々、鳥インフルエンザの問題、あるいはアメリカでの狂牛病の問題、(知事の)終わりの時期には口蹄疫の問題等々で、愛媛県で公務員獣医師、産業担当獣医師の数の少なさ、確保の困難さ、そして獣医大学部の偏在等々の状況。そしてアメリカの適切な対応などを見ながら、日本も遅れているなと思っていたときに、ちょうどたまたま加計学園が今治の新都市への進出という構想を持ってこられたので、渡りに船と、この獣医学部構想で取り組んでいただいて。単に獣医学部ということでなくて、アメリカに見習って、先端サイエンスなり、あるいは感染症対策なり全てが国際水準に負けないような新たな分野に取り組む獣医学部として、国際的にも恥ずかしくない拠点にもしたい。

 そして、国際的に通用する獣医師をということで、今申し上げましたとおり、新都市開発と若者の街、そして今治が国際的な獣医師の育成ということで飛躍できるのではないか。そして、愛媛の問題も含め、あらゆる一石二鳥、一石三鳥の思いでチャレンジをしようと決心をしたわけでありますけども。

 それが、堅い堅い岩盤規制に阻まれながらいろいろ勉強しつつ、あそこもだめか、これもだめかといいながら、しかし、日本の少なくとも私が見る限り、獣医学部は10年以前と今日まで変化しておりません。

 アメリカに、あるいはイギリス、ヨーロッパに10年遅れていると私は思います。10年の後れを取り戻す大切な時期だと、そんな思いできょう、参上させていただいたわけでありまして、そのことがらはそんな意味での地方再生、東京一極集中ではなくて、地方も頑張るんで地方も国際的拠点になり得るんだよと。そういうもののモデルケースとして、愛媛県の、今治の夢を託している事業であって、『加計ありき』と言いますけど、12年前から声をかけてくれたのは加計学園だけであります。

 私の方からも東京の有力な私学に声をかけました。来ていただけませんかと。けんもほろろでした。結局、愛媛県にとっては12年間加計ありきでまいりました。いまさら、1、2年の間で加計ありきではないのです。それは愛媛県の思いがこの加計学園の獣医学部に詰まっているからでもあります」

ピックアップしますと、加戸知事は「加計学園に決まった経緯」について、以下の様に掲載しています。

そういうもののモデルケースとして、愛媛県の、今治の夢を託している事業であって、『加計ありき』と言いますけど、12年前から声をかけてくれたのは加計学園だけであります。

 私の方からも東京の有力な私学に声をかけました。来ていただけませんかと。けんもほろろでした。結局、愛媛県にとっては12年間加計ありきでまいりました。いまさら、1、2年の間で加計ありきではないのです。

獣医学部新設校として、今治市が加計学園に決めたのは実に12年前の事であり、加戸愛媛県前知事の呼びかけに答えたのは唯一「加計学園だけであった」と証言しています。

この事を受け、私は「加計学園に決まった経緯が強引だ」とするには無理があるのではないか、と問いかけました。

これに対し、

今治の都市学園構想自体は昔からあり、今治市の経済発展のために高等教育施設をつくる、というところから始まったもので、最初から獣医学部が必要でずっと探していたのではない。

何か大学をつくるのに何がいいかというところで加計学園側から獣医学部を新設する提案があり、当時今治の県議会議員が加戸前知事に「獣医学部が良いのでは?」と話を持ちかけた様だ。

加戸前知事が12年間獣医学部を切望していたという証言に違和感を覚える

という趣旨のお答えをいただきました。

このお答えに対しては私としては2点の疑問があって、まずはその情報を一体どこから手に入れたのかということ。
もう一つはたとえそうであったとしても、今治市が誘致する大学を加計学園に決めた、という経緯は12年前に行われたものであり、だから「加計学園に決まった経緯は強引であった」ことにはならないのではないか、という疑問です。

最初のこの情報を一体どこから手に入れたのか、という内容に関しては、産経ニュースに掲載されている以下の愛媛県前知事インタビューを示していただきました。

愛媛県前知事インタビュー(産経ニュース)
 平成11年に知事に就任したとき、愛媛県今治市は都市再開発の構想が十何年も眠っていたままだった。知事に就任してすぐに旧建設省と住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)に要請し、12年から事業が始まった。

 今治市の構想は2地区あった。そのうち1地区は都市学園構想で高等教育機関を引っ張ってきて学生の街にしようというものだった。地元の松山大学が手を挙げて進めたが、経営学部の設置構想もできた段階で学内の左翼グループ教官の猛反対にあい、潰されてしまった。

 構想が宙に浮いたところで、今治市選出の本宮勇県議が「加計学園が大学を進出してもいいというが、今の天下の状況をみていたら獣医学なんかはどうでしょうか」という話を持ってきたから、飛びついたんだ。

 少子高齢化に悩む今治市にとってみれば、若者が来て、街が活性化すればよかった。ただ、愛媛県は学園都市よりも獣医学部が欲しかった。獣医師が欲しい、感染症対策をやってもらいたい、という思いだった。

 私の知事時代には鳥インフルエンザが発生し、米国では狂牛病が発生した。22年には口蹄(こうてい)疫が発生したが、獣医師が足りず大わらわだった。

 調べると、県庁への志望者が不足しているゆえに公務員獣医師を採用できない。そのため、鳥インフルエンザや狂牛病やらで獣医師が手いっぱいなのに人手が足りないのだ。

 しかも、愛媛県だけでなく、四国4県すべてがそうだった。定年の人にも定年延長して残ってもらって、悲鳴をあげている状態だ。農家が牛や豚が病気になったら頼りにする家畜衛生試験所の技師も獣医師だが、そこも人が埋まらない。

 調べてみたらなんてことはない。獣医学部の入学定員は、神奈川県以東が8割、岐阜県以西が2割となっている。私立大学のほとんどは東京にあり、圧倒的なシェアを持っている。

 だから、こっちで獣医学部を作るものなら、学生を奪われることになるから、「俺たちの縄張りを荒らされる」と反発するわけだ。

 国立大学はかなり充実した教育をしているが、1つの大学でも30人程度しか養成していない。獣医師不足を解消するには、獣医師をもって来る、しかも私立大をもって来るしかないとなった。

 加計学園の話が来て、四国4県の知事が連名で「四国に獣医学部を作ってくれ」「認可してくれ」と動いたわけだ。

文章が長くなりますので、前半部分のみを掲載します。

この記述の内、

今治市の構想は2地区あった。そのうち1地区は都市学園構想で高等教育機関を引っ張ってきて学生の街にしようというものだった。地元の松山大学が手を挙げて進めたが、経営学部の設置構想もできた段階で学内の左翼グループ教官の猛反対にあい、潰されてしまった。

構想が宙に浮いたところで、今治市選出の本宮勇県議が「加計学園が大学を進出してもいいというが、今の天下の状況をみていたら獣医学なんかはどうでしょうか」という話を持ってきたから、飛びついたんだ。

という部分を取り出して、「この話は加計学園側から持ち込まれたものであり、『加戸前知事が12年間獣医学部を切望していたという証言に違和感を覚える』とおっしゃっているわけです。

ですが、先ほど掲載した産経ニュースの内容では、以下の様に記事が続いています。
 少子高齢化に悩む今治市にとってみれば、若者が来て、街が活性化すればよかった。ただ、愛媛県は学園都市よりも獣医学部が欲しかった。獣医師が欲しい、感染症対策をやってもらいたい、という思いだった。

 私の知事時代には鳥インフルエンザが発生し、米国では狂牛病が発生した。22年には口蹄(こうてい)疫が発生したが、獣医師が足りず大わらわだった。

 調べると、県庁への志望者が不足しているゆえに公務員獣医師を採用できない。そのため、鳥インフルエンザや狂牛病やらで獣医師が手いっぱいなのに人手が足りないのだ。

 しかも、愛媛県だけでなく、四国4県すべてがそうだった。定年の人にも定年延長して残ってもらって、悲鳴をあげている状態だ。農家が牛や豚が病気になったら頼りにする家畜衛生試験所の技師も獣医師だが、そこも人が埋まらない。

確かに話を持ち込んだ「提案主体」は加計学園であったのかもしれませんが、現実問題として愛媛県をはじめとする四国4県では公務員獣医師が足りず、人手不足に陥っているという現状があった、ということを加戸さんはおっしゃっているわけです。

高齢化が進む「今治市」としては大学を市に誘致する目的として、「獣医学部かどうか」ということではなく、「大学が出来ることによって若者が今治市にやってきて、街が活性化すること」が目的であったわけですが、愛媛県としては今治市に大学ができて今治市が活性化するかどうかということよりも「獣医学部が新設されて『公務員獣医師』が充足されること」の方を求めていたわけです。

今治市のニーズと愛媛県のニーズが一致し、指導したのが「加計学園誘致」というプロジェクトでした。

この経緯だけ考えても今治市が国家戦略特区に認定され、その後加計学園が今治市に獣医学部を新設する事業者として決定するまでの経緯が「強引である」とする主張が「プロジェクト全体を見ず、一側面だけを見た意見」であるのかということが分かります。


「岩盤規制に穴をあけた」とされていることは
加計問題を正当化するための印象操作なのか?


上記内容について、私は、「獣医学部の新設・定員増を認めない」という文部科学省ないのルール(告示)に問題がある、ということをお示しした上で 第333回の記事 で掲載した獣医学部ホームページに掲載されてある内容を中心に

・「石破4条件」の内3つ目の条件が獣医学部によって無理やり加えられたものであり、そもそも「石破4条件」は獣医学部側にとってみれば、「今治市を国家戦略特区に認定させないための条件」であったこと。
・「広域的に獣医師系養成大学等の存在しない地域 に限り」という内閣府側の条件に対して、獣医学部はむしろ「今治市が特区として認定されるためのハードルが引き下げられたと感じており、加計に引き続いて京都産業大学までもが認定されるのではないか、という危機感を覚えていたということ。
・「広域的に獣医師系養成大学等の存在しない地域 に限り」という条件が付けられたことを受けて獣医学部は焦って「認定校は最低でも1校にすること」を内閣府に認めさせたということ。

をお示ししました。ところが、これに対して相手からは

「文部科学省や日本獣医師会が獣医学部の新設に反対していたのを国家戦略特区で穴を開けたとされていることに正論のような印象を与えていることに疑問がもたれている」

という回答が返ってきます。これに対して私は

「獣医学会の反対や文部科学省の規制により、昭和年41年以来約51年間にわたり、1校たりとも獣医学部の新設が認められてこなかった現状が正常である、と考えてるのか」

と問いかけます。


前川発言の最大の矛盾点

実は、私が相手の方に問いかけた質問とほぼ同じ内容の質問を青山さんは前川氏に対して投げかけています。
以下、引用します。

【青山氏質疑】
 文科省は、先ほど前川参考人がおっしゃった告示、これを西暦2003年に最初に、この件について出しております。

 で、この告示というのが、実は今日の部屋にいらっしゃる方はご存知であっても、一般国民は非常になじみが薄いものであって、法律でも政令でも省令でもなくて、いわば役所が出す、一種の、ま、命令というのは言いすぎかもしれませんけれども、相当な力を持ってるものを、役所が実は出すことができると。

 そういうものが存在してること自体、実はマスメディア、僕は元記者なので、えー、この告示のチェックまで正直やったことないです。ということは国民の方々がこの告示の実態に触れるのは、関係者になった時だけですね。

 で、したがって、この告示にまず注目せざるをえないんですけれども、その告示によって、これまさしく前川参考人がおっしゃったとおり、獣医師などの大学新設を事実上差し止める、告示が、2003年に出されました。

 えー、これは公平のために言っておくと、獣医師だけではなくて、お医者さま、歯医者さま、獣医師の方々、そして船員の方々、この4種についてですけれども、そういう差し止めが行われたわけです。で、この、ごめんなさい、2003年の告示の前からこういう姿勢だったですけれども、告示で改めて確認したということですから、そのために獣医師の大学、学部は、半世紀の間、実に新設されていないわけです。

 これに対して、いま加戸参考人がおっしゃった通り、愛媛県と今治市が共同で獣医学部を誘致し、加計学園だけがこれに応じたのが、告示の3年後の2007年です。ですからさっき加戸参考人は、10年の苦闘と。苦闘というお言葉ではありませんでしたけどもそういう趣旨でおっしゃったのは非常に正確な、時系列をおっしゃってます。

 その後8年間にわたって、加計学園だけではなくて、ここにいらっしゃるまさしく加戸さん、当時の愛媛県知事ら自治体の働きかけがあって、では、新しい需要があることなど、4つの条件を満たせば、国家戦略特区の中に獣医師の学校をつくって良しと、いう閣議決定がなされた。これが、一昨年の、2015年の6月30日です。

 で、この前年には、この国家戦略特区の基本方針がやはり閣議決定されていて、だから、どんな方も読むことができます。その中に、こういう趣旨があります。えー、これは先ほど、山本大臣(地方創生担当大臣)がおっしゃったことでもあると思いますけれども、あ、答弁は必要ないですが、えー、ある省庁が規制の緩和を困難とする場合には、その正当な理由を説明するのを義務とすると。

 これを、ま、難しい言葉だと、挙証責任と言ってるわけですけれども、そういう趣旨が盛り込まれました。そのために先ほど申しました4条件に基づいて文科省は、新しい需要が獣医師にあるのかないのか、2015年度末、えー、つまり、去年の3月31日までに説明する責任が実質的に生まれました。

 ところが文科省は、年度末までにそれができなかった。で、それを見てなのか、そこで新たに京都産業大学が名乗りを上げました。つまりちょうどその頃、2016年の3月です。

 しかし政府、この場合は安倍政権は、これをもって文科省のいわば敗北とはせずに、半年延ばして、2016年9月16日に、国家戦略特区ワーキンググループのヒアリングを行いました。この席で、文科省の課長補佐の方は、こうおっしゃった。

『新しい需要があるかないかという挙証責任は、大学、(これ言葉補ってますけど)、大学や学部を新設したいという側にある』と。

 これちょっと言葉を補いましたけども、要するに文科省にないってことをおっしゃったわけです。

 えー、ところがワーキンググループ側に、今日たとえば衆議院で、参考人でいらっしゃった原(英史)さんなどが、

『いや、文科省にある』と。

原さんの言葉、正確に言うと、逆さまになってると。

 むしろ挙証責任があるのは文科省の方なのに、逆さまに言ってるってことをおっしゃって(議場ざわ)、この、議事録を、どなたでも読めますから議事録を見ていただくと、このあとに文科省の反論は一切ないんです。ね。で、したがって、議論はそこで決着してしまっている。

 で、なぜ挙証責任が文科省にあるかといえば、これは大学や学部新設の許認可はすべて文科省が握っているからです。文科省も、それが分かっているから反論しなくて、いわばそれで決着してるわけです。もう一回申します。これ僕の推測とか、勝手な組み立てで申してるんじゃなくて、こういうものを、メディアも読み込んでいけば、本当は分かることです。

ちょっとごちゃごちゃしてわかりにくいかもしれませんが、記している内容は、前回の記事 で山本幸三地方創生担当大臣の発言を受けて、私がご説明した様な内容です。

例えば、「石破4条件」の3つ目、

「既存の大学・学部では対応が困難な場合」

という内容について、これまでは

 「既存の大学・学部では対応が困難」であることを申請する側が立証

する必要があったわけですが、「国家戦略特区」という仕組みの中では、

 「既存の大学・学部で対応することが可能」であることを、申請される側、今回であれば文部科学省が行わなければならない

ことを青山さんは説明しているわけです。これ以外にもたくさんの事を青山さんは前川氏に対して問いかけているわけですが、その内容も含めて青山さんは前川氏に対して、

 この経緯について、前川参考人にお尋ねします。ちょっと失礼な、物言いになることは許して下さい。そもそもこういった経緯について、現職の時に、こうやって国会にお出でになるような時の前に、詳細にご存知だったでしょうか

と問いかけます。これ(挙証責任に関する部分のみピックアップします)に対して、前川氏は以下の様に回答します。

【前川証言】
 日本再興戦略改訂2015でですね、えー、平成27年の6月に閣議決定された4条件てのがございます。

 これはやはり閣議決定でございますから、閣議決定である以上、政府部内にあるものは、何省であれ、何府であれですね、あるいは、特区諮問会議であれですね、これは内閣の一員として守らなければならないものだと思っています。で、この閣議決定の中でですね、4つの条件があるわけでありまして、文部科学省としてはこの4つの条件をやはり満たす必要があるということをずっと、ま、こだわったわけでありまして。

 えー、その第一は、現在の提案主体による、既存の獣医師養成でない構想が具体化すること。で、これは今治市からそういう構想が出てくるということを想定していたわけであります。で、今治市から確かに何らかの物は出てまいりました。これに対して文部科学省側は何と言ったか。

 あの、ワーキンググループの、おー、議事録をお読みいただければ分かりますけれども、文部科学省はそのひとつひとつにつきましてですね、えー、これは、既存の大学でできている、すでに取り組まれていることであると、ということを言っとります。で、それに対して、何ら反応はなかったわけであります。

 ですから、この、文部科学省としてはですね、この4条件に照らして、えー、この、今治市から出てきた提案は、この条件を満たすものではないと、いうことを主張はしておるわけでありますけれども、そこから先の議論になっていないわけであります。

 そこからあとは、もう、とにかく、決めると。4条件は満たしたと。誰かが決めてしまったと。ま、そういうことでありましてですね。文部科学省として、その、ワーキンググループで、満たしていないという主張はしていることは、お読みになれば分かります。

 で、これをもって、その、挙証責任うんぬんと言われるのはおかしい話でございますが、あの、まず、その政府内での議論のなかで、どちらが先に、その必要性を述べるかと。

 これは確かに、議論の順番として挙証責任をまずどちらに負わせるかということあるかもしれませんが、その結果としてですね、内閣府が勝った、文科省が負けた、だから国民に対しては、これをやるんだと説明すると。これでは国民に対する説明にはなりません。

 この挙証責任の在処(ありか)ということと、国民に対する説明責任とはまったく別物でありまして、国民に対する説明責任はやはり、政府一体として負わなければならないわけでありまして、えー、挙証責任があって、その議論に負けたから、文部科学省が説明するんだと、こういう議論にはならないはずであります

わかりますでしょうか?
「前川証言」の最大の矛盾点は、実はここにあるのです。

矛盾点というより、前川氏が「国家戦略特区」という仕組みそのものをまったく理解できていない、もしくは理解できていて完全に理解できていない振りをしているわけです。

冒頭で前川氏は、
「日本再興戦略改訂2015でですね、えー、平成27年の6月に閣議決定された4条件てのがございます」

と発言しています。これは、即ち「石破4条件」の事です。

この「石破4条件」について、前川氏は以下の様に発言しています。
これはやはり閣議決定でございますから、閣議決定である以上、政府部内にあるものは、何省であれ、何府であれですね、あるいは、特区諮問会議であれですね、これは内閣の一員として守らなければならないものだと思っています。

で、この閣議決定の中でですね、4つの条件があるわけでありまして、文部科学省としてはこの4つの条件をやはり満たす必要があるということをずっと、ま、こだわったわけでありまして。

賢明な方はもうお分かりですよね?

前川氏はこの「石破4条件」について、

「閣議決定である以上、政府部内にあるものは、何省であれ、何府であれですね、あるいは、特区諮問会議であれですね、これは内閣の一員として守らなければならない」

と発言しています。ですが、違いますね?
今回の「国家戦略特区」という仕組みにおいて、閣議決定された「石破4条件」とは、「内閣の一員として守らなければならないもの」ではなく、「担当する省庁が『その条件に適合しないことを証明しなければならない条件』」です。

第三条件である「既存の大学・学部では対応が困難な場合」という条件であれば、文科省側が「既存の大学・学部では対応が困難ではない」ということを証明する必要があるわけです。

いくら文科省側が「違う」と言い張ろうが、青山さんが述べている通り、その事実は既に「閣議決定」されており、議事録にも残されています。そして、図らずも前川氏が述べているとおり、そのことは閣議決定されたわけですから、「政府部内にあるものは、何省であれ、何府であれ」「内閣の一員として守らなければならない」のです。

前川さん、自分自身でおっしゃっていますね?
ものすごく矛盾した発言を自分自身で行っていることを前川氏は気づいていないわけです。もしくは気づいていてあえて気づいていないふりをしているのか。

この事を念頭に置いて「前川証言」をご一読いただくと、前川氏がいかにめちゃくちゃな事を言っているのかということをとてもよくご理解いただけると思います。

加計学園問題が、本来は全く問題がないはずなのに「問題であることにしたい」皆様方からは、この前提条件がごっそり欠落しています。私が議論した相手の方も然り。もちろん「マスコミ」も含めてです。

本当に議論しなければならないのは、この「国家戦略特区」における「挙証責任」という認定方法を前川氏の言う通り「行政がゆがめられた」と考えるのか、それとも加戸前愛媛県知事の言う通り「歪められた行政が正された」と考えるのか。すべてはこの一点に集約されるのです。

また、この発言の前に前川氏は以下の様にも発言しています。
私が、まあ、現職で文部科学省で仕事をしてるなかでもですね、見えない部分がたくさんございました。

どうして30年4月開学が、大前提なのかですね。ここについては、合理的な説明はどこにもございませんでして、結局は官邸の最高レベルが言っていること、あるいは総理のご意向であるというような説明しかなかったと、いうようなことがございまして、これはあの、内閣府の方で、ご説明いただかなければならない部分だろうと思いますけれども、文部科学省からはあずかり知らない部分はたくさんございますので、私が承知していないことは多々ございます。

曲がりなりにも前川氏は文部科学省の「事務次官」であった男です。

「事務次官」とは、ではどのような役職なのか。「朝日新聞掲載キーワード」によりますと、その役職は

 「1府11省の官僚(事務方)の最高ポスト」

とされています。つまり前川は「文部科学省」という省庁の官僚における頂点に位置していた人物なのです。
その、文部科学官僚のトップにいるはずの前川が、「私が承知していないことは多々ございます」ではあまりに情けなさすぎるのではないでしょうか?

「官邸の最高レベルが言っていること、あるいは総理のご意向である」という文言は、所謂「前川文書」に登場する文言ですが、既に私が 第331回の記事 でも述べていますように、これは全て文部科学省が「挙証責任」を期日までに果たせなかったことから今治市が国家戦略特区として認定された後の話。

総理のご意向はただ1点。

「今治市が国家戦略特区に認定された時点から最短の期間で今治市に国家戦略特区としての機能を持たせてほしい」

という、ただその1点のみです。


この後、相手の方の話題は「国家戦略特区を担う大学として加計学園が本当にふさわしいのか、今治市の未来を託す相手として本当に加計学園でいいのか」と言った話題へとシフトしていきます。

ここで考えなければならないのは、今治市に「獣医学部」としての機能を持たせたいのは今治市ではなく愛媛県であるということ。
今治市が加計学園に求めているのは国家戦略特区としての加計学園ではなく、今治市に若者を呼び寄せ、今治市に活気を取り戻させるための役割だということです。

加計学園が誘致される先は「イオン今治新都市」と呼ばれる、今年オープンしたばかりの大型の商業施設に隣接する地域です。
私としては、仮にイオンに隣接する地域に加計学園を誘致することに成功したとしても、それだけで今治市を活性化させることができると考えるのであれば、それはあまりに虫が良すぎる話だと思います。

せっかく加計学園を誘致するわけですから、その効果を今治市全体に波及させるのは加計学園ではなく、今治市や今治市に居住する今治市民の役割なのではないでしょうか?

安倍内閣の経済政策は、「頑張った人が報われる」ことを前提としています。今治市も、加戸前愛媛県知事も、「頑張った」んです。
だからこそこれに政府として最大限報いようとしたのが今回の「加計騒動」の正体です。

文句を言うことは簡単です。ですが、文句を言うだけでは何も建設的な結果は生まれません。
それよりも相手の事を受け入れ、受け入れた上で相手の考え方をもっとよくする提案を行う。

特に地方を発展させるために求められているのはそんな国民の在り方なのではないでしょうか?


しかし考えてみれば、「地方創生担当大臣」を務めていたはずの石破氏が、実は自分自身が担当するはずの「国家戦略特区」の考え方を全く理解できていないという・・・

これは前川氏以上に情けない話だと思いますね。

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